夏の梅の子ども*   作:マイロ

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二つに分けた加筆修正版の続きです。


うそだー。

 近くの、ごそごそ、かちゃかちゃという物音。

 しかし真っ暗な視界。

 

 

 

 また目が見えなくなったのか、悲観に暮れたが、おもむろに足音が近づき、自分の目元にある何かを、ひっぺがえされ、やっと目元に濡れたハンカチを置かれていて、瞼を閉じて射たままだったと気づく。重みを失った瞼を開ければ、ひっぺがえした人が見えた。

 

「――え、先生? なんでおとうさんは? どうしてここにいるの?」

 

 予想していなかった顔に、矢継ぎ早に質問する口は止まらなかった。

 

 髪の毛が少し乱れた神西が、白髪を撫でつけながら、微笑む。

 

「作之助殿もいますよ、ここに運びました」

「……先生、いつ来たの?」

 

 なんだか、頭が妙に鈍い。

 意識が途切れる直前にはいなかった人物が最初に目に入るのは変な気分だった。

 状況を把握しようにも寝ころんだままの視界には焦げた天井と神西しか映らないので、上半身を起きこそうとした。

 

 しかし、それを神西にとめられた。

 

 手袋に包まれた指がつっと夏梅のあばらの間に置かれ、起き上がりかけた拍子に割ときつめに圧迫された。夏梅は一瞬自分の鼓動が乱れるのを、相手の指先の部分で感じた。

 華麗に寝台へ舞い戻った夏梅は、柔らかな枕に後頭部を沈めながら、ちいさくえずいた。

 

 ひどい、散々だ。

 

 

「はい御免なさい、坊ちゃん。まずは指の手当てをしなくては」

「ゆび?」

 

 なんのことだ。いぶかしんで自分の手を見ると、右手の指が何本か無くなっていた、「うええぇい……ぎぎ」

 

 まったくもって気づかなかった。

 

 これは酷い。見てられない。

 神西はなんてことなさそうに、骨と肉と神経が丸見えの焦げた断面があらわな夏梅の手を取る。

 

「すぐに終わりますので、気分がすぐれないようでしたら、そうですね……あちらを向いていてください」

 

 夏梅は神西が示した方向ではない方を向いて、そこに父を見つけた。

 ……神西、なんてやつだ。わるいやつだ。ぷりぷりしながら、夏梅は頬が緩んだ。

 

 よかった、いた、とほっとして……そしてぎょっとして声をあげる。

 

「おとうさん、まだ寝てる!!!まだ!!!」

 

 まだ寝るの!? いつ起きるのか。夏梅が起きるのを待っているのが、横浜での日常だった。それなのに、ここに来てから夏梅は父が眠っているのを眺めるのがほとんどになっている気がする。

 

 これはもう先生に言いつけるレベルだ。もうなんなんだ、病気? 病気なのか?  

 …………そうなのだろうか?

 夏梅は神西の上着をつい、とつかんだ。

 

「……先生、おとうさん病気じゃない?」

「病気ではありません。安心してください、ちょっとした副作用ですよ」

「そっか!……………それって平気なの?」

 

 なんだか、物々しい単語が聞こえた気がした。

 なんぞ『副作用』とは……?

 表情をくもらせたまま尋ねる夏梅に対して、神西はひげの生えた顎に指を遣って思案するように言う。

 

「いえ――どうでしょう。先ほどの作之助殿の言動は少々不可解な部分もありました。これは薬の副作用と言っていいのか。できるだけ安全を考え、後に引きずらないものを選んではいるのですが」

「まって、何言ってるの、分からない」

「わからなくてもよいのです。そのように話しました」

 

 あれっと首を傾げた。ふつうは、だ。

 

「わからなくちゃ意味ないよね、せんせい」

「そうでもありません」

 

 むっとして半身を起こす。「動かれなさいますな」という注意は耳を素通りし、ぎょっと硬直する羽目になる。

 

「かわりに運んでくれてありがとうっていうべき? でもなんで床? あと、この緑のマフラーの人、さっきよりひどくない? どうしたの?」

 

 膝をつく神西の脇に、大きく膨れた黒い鞄。その同じ床には、ボロボロになっているマフラーの男の人がのびている。……この人はけがをさせられすぎでは?

 先ほどはうつ伏せに倒れていたので気づかなかったが、顔面青あざだらけだ。

 

 父とこのマフラーの男の人は、一緒に倒れて眠っていた。だから、父がこの人をこんな目に合わせたと考えられるかもしれないが、父の得物は主に銃だ。対してマフラーの男の人は、打撲傷がほとんどだ。

 

 だから、おそらくきっとこんな状態にしたのであろう、神西が、今ここでなんと夏梅に説明するのか。無意識に身構えつつ言葉を待った。

 

「こちらへ戻ってくる際に、起きてしまいましてね、少々絡まれてしまいまして」

「……ふーん。そういえば、先生その鞄さっきもってなかったよね?」

 

 絡まれたから、どうしたのかをあいまいにしたままの医者。

 それをわざわざ突くのは、面倒だった。きっと聞いても楽しくないことだ。

 そろりとマフラーの人から目をそらした夏梅は、次に目についたものについて尋ねた。

 

「これは治療器具が入っているのです。さきほど他の乗客の治療をしましてね」

「ふーん……みんな寝てるの?」

 

 さっき別れる前には、懐やらポケットやらの中から聴診器やペンライトを取り出して父を診察していたが、鞄の中に、他の道具を持ってきていたのか。やけに大きく硬いものが入っているらしいと、中身の角が張り出しいる窮屈そうな黒鞄を一瞥してそらす。

 

 怪我人はみな最後尾車両に避難しているはずなので、神西は先頭車両から、最後尾車両に再び戻ったらしい。だが、肝心の患者はまだ寝ているのだろうか。父やマフラーの人の様子を見るに、眠っていそうではあるが。

 

「ええ、みなさん寝る時間ですからね」

「……なんだか、そうみたい。ぼくも寝てた方がいいかな?」

 

 寝る列車はほんとに“寝る”列車だったようだ。

 思ってたより、寝る時間が多いなあと肩をすくめた。

 

 昼間からみんなで一斉に寝るというのは、それはそれで面白いかも。

 仲間外れで寝られない子は面白くないだろうけれど。

 

「作之助殿が起きられたら、退屈してしまいますから、起きていて差し上げてください」

 

 夏梅の頭は、みんなで寝るのがこの旅の楽しみ方なのだという考えにたどり着いて、もはや父を起こそうとは考えなくなった。むしろ、このまま眠ったままの方が正しいのでは、と思いつく。

 

「きっと疲れてるだろうから寝てた方がいいのかも」

 

 父の方をみて、朝からぼうっとしてたなあと思い返す。

 探偵社では『愉しんできなよ』と言って送り出してくれた人の顔が思い浮かんだ。――ああ、そういえば。

 

「あのね、先生、おとうさんさ、横浜で、えっと。……たぶん昔の知り合いだったんだと思うんだけど」

 

 上手い説明が苦手な夏梅の、とぎれとぎれの言葉を先回りしたように、神西が当てる。

 

「作之助の記憶にない方ですか」

 

「うん……たぶん、仲が良くて、友達だったんだと思う」

 

「自壊の回避行動でしょうか」

「そう、みたい。首のところを掴んで、怒鳴ってた」

「作之助殿らしからぬ行動ですね。分かりました。瀬戸に着きましたら、そのことも注意して観察してみましょう」

「うん……」

 

 襟首をつかまれていたのは、太宰だった。

 何の話をしていたのか、解らなかった。聞き取れなかった。

 でも、普段仲が良く見えるふたりが、そんな風になっているのをみて、夏梅はショックだった。

 

 哀しいと思った。

 

 父が昔、母と夏梅のことを忘れてしまった際に、母にしていたときもそうだった。

 

 失った記憶に関係する人がその空白部分に触れると、その相手自体を排除しようと動くのだという。

 

 父が悪いのではないと母は言った。

 ただ、ないものを直視し過ぎると、自分が崩壊してしまうのだと。

 自分の根底を揺るがすものを、消し去ろうと動いてしまうのだと。

 

 夏梅はかなしいと思った。

 忘れられてしまった人はかなしい。忘れてしまった人を見るとかなしい。

 きっとしあわせだったこともあったのに、それを忘れてしまったら、その人にとってはないのと同じで、かなしい。

 

 太宰は、忘れられてしまった人だ。

 部屋の隅の荷物の上に乗っている麦わら帽子を眺めながら、なんだかずいぶん昔のことのように感じられる今朝のことを思い出す。

 

 父が忘れた人たちは、みんな父に優しい。

 夏梅はそのようにできるだろうか。たとえば、父が夏梅のことを忘れてしまったとして。

 

「――ところで、坊ちゃん」

 

 手当が終わった指をふって、なに、と首を横に倒すと、神西は、ちょっと黙ってから、にこりと作り物の笑顔を浮かべた。

 嫌な予感がする。

 

「え、なに」

「実は、この列車――」

 

 神西は声を潜めた。

 列車が竹林に入ったのか、窓の外が暗くなる。なんて空気を読む列車だろう。

 薄暗くなった室内で、神西の声がやけにおどろおどろしく響いた――ように夏梅には感じられた。

 

「どうやら出るらしいのです」

 

「でる? 何が?」

「お化けが」

 

 夏梅は神西の顔を見た。

 そして平坦な口調で返した。

 

「嘘だー」

「ばれましたね」

 

「え、ばらすのはやすぎる?」

 

「坊ちゃんの顔色が良くありませんでしたので、冗談でもと思いまして」

「せめてそれらしいじょうだんにしてよ」

 

 竹林を抜け、外はキラキラと光を反射する池が見えた。

 

 夏梅は呆れてしまって、寝台の上で膝を抱えた。

 目の前でにこやかな笑みを浮かべてもなおこの医者の印象が寒々しいのは、きっと心が冷たいのが表れたからでは、と三歳児は悪意なく純真に考えた。

 

「冗談のつもりでしたが、しかし」

 

「しかし?」

 

 首を傾げた。

 

「しかし、あながち間違いでもないかもしれません」

「何が?」

 

「作之助殿が、妙なことを言っていたのですよ」

 

 神西が顎に手を遣って思案するように言う。

 妙なこと? 最近、父が変なのは通常になってきていたが、そのなかでもあっと思い出すことがあった。

 

「そういえば、おとうさん、ここのところぼうっとしてたり、ひとりごと言ってることが増えたかも」

 

「ほう――では、出たのかもしれません」

「なにが?」

 

亡霊(、、)です」

 

 今度は夏梅はうそだーとは言えなかった。

 信じたからではない。論理が飛躍し過ぎたからだ。

 

「へえー……」

 

 話が通じない人は、自分よりも多くの情報を知っているからだと夏梅は思う。夏梅が知らなくて、その人が知っている情報があるから、話が理解できなくなるのだと。

 

 神西のこの場合は、言い忘れたのか、隠したのか、伏せたのか、意地悪したのか、知らないけれども。

 

「これは福沢殿からの情報なのですが、坊ちゃんの通っている学校で、不登校になっている生徒が少しずつ増えているそうですね」

 

 そんな話は聞いたことがなかった。しかもそれがなぜ大叔父の口から出るのだろう。

 

「その生徒たちは、あるクラスがほとんどで、みな女子生徒とのことです」

「女の子だけ?」

 

 あるクラスというのは、少なくとも夏梅のところではない。

 学年が違えば、夏梅の耳に入ってこなくとも不思議はないが。

 

「そうです。そしてみな言ったそうですよ、『影が追ってくる』『幽霊だ』と」

 

「おかあさんのときと似てるみたいだね。……でもほんとに話聞いたことないけどな」

 

「その女子生徒たちは、家にこもりきりだそうで、学校へは情報が行きにくいのでしょう。仲の良い友人とも連絡を取っていないようですし。ちなみに、この情報はその学校に通う子どもを持つ警察官からだそうです」

 

 あれ、とひとりの男子生徒の顔がひらめく。

 

「でも、それがどうつながるの?」

 

「さきほど、作之助殿が妙なことを口にしていました。この男が倒れ、床に付しているというのに、作之助殿はそれには目もくれず、『その男から離れろ』と誰もいない宙(、、、、、、)を見据えたまま話しかけていました」

 

 夏梅は生唾を飲み込んだ。

 ここで神西の口から発覚する、まさかの父の奇妙な言動である。

 

「ここでいう『その男』とはこの梶井でしょうね。では、作之助殿はいったい誰に――いや、何に(、、)話しかけていたのでしょう?」

 

 不可思議な点を挙げていく神西の口調に、夏梅はしばらく黙り込んだ。

 

 長い沈黙の末、ぼそりと零した。

 

 

「なんか、こわい」

 

 神西は小首をひねって、微笑んだ、「私は楽しくなってきました」

 

 窓の外はきらきらと若葉が光を反射していて、新緑豊かな山の風景だ。

 暖かな日差しが差し込む初夏の窓辺で腕をさすりながら、この医者とは友達になれないな、と夏梅は思いました。

 

✣✣✣ ✣✣✣

 

 

 常駐している家が長年追い続けている事件に進捗が見られたということで足を延ばして横浜へ行き、春野という事務員を介して、情報の共有を行った。その帰りに、瀬戸へ里帰りしに行くふたりの親子に、影ながら同行することにした。

 

 この事件というより、とある少女が与えた影響の行く末を見届けたい。それが男の行動理由だった。

 男は医者だが、研究者でもあった。

 とある少女は死ぬ前に、こういったのだ、『わたしを識りたいのなら』と自分の子どもを指さして。

 

 

 了承は得ている。問題はない。そう何も。

 

 さて、不安定な状態の織田作を観察するのか、それとも仮眠を取らせた後の経過を観察するか。どちらも興味深かく、しかし時間も機会も限られていた。自分で選べないのなら運に任せてしまえばいい。

 

 人ごみに紛れながら、織田作が自動販売機で購入したジュースを盗み見て、同じものを購入。そして、ボトルに小さく穴をあけ、溶かした粉末を注射器で混入させる。透明なテープで小さな針あとを塞げば、まあよく観察しなければばれない程度の代物ができる。

 

 あとはどうにかしてこの睡眠薬入りの飲み物と取り換えるだけ。

 

 持ち前の手先の器用さ――あるいは手癖の悪さ――で、飲みかけのジュースを掏る。直に手で持っている織田作に対して、隙があるのはリュックの脇のポケットに入れている息子の方だった。

 

 歩みにそれとなく合わせて抜き取る。できたのはそこまでで、あとは不自然だが、落としたと言って渡すのが間違いがない。しかし、さすがに自分で渡すのを避けるため周囲を見合わす。

 できるだけ警戒心を与えないような者がいい。

 

 すると同じ車両に並んでいた、小さな女の子がひとりぽつんと立っているのを発見する。父親らしき男は、荷物を乗務員に手渡しながら、肩からパソコンのバックを提げ、片手で電話をしていた。そして母親らしき女は、きょろきょろとして周囲を見渡し、すぐ隣の女たちの集団を見つけると手を振っていた。車両内に入った後は、きっとそちらへ合流するのだろう。両親がそれぞれ娘から目をそらしたときに、何気なく近づき、女の子へ、落とし物で代わりに届けてくれないかと頼む。女の子は、不思議そうな顔をしていたが、善良な性質なのだろう、夏梅へと声をかけに行ってくれた。仕込みは上々。

 

 子である夏梅の方の飲み物に仕込んでおいた眠り薬を飲んだのは、果たして織田作のほうだった。

 どうしてそうなったのか、なかなか経緯が気になる。

 

 普通であれば、息子の方が飲む確率が高いというのに。

 

 それを予測して、広告メールの最後のところに『Dより』とわざわざ打ったのだ。

 それはドクターの『D』だ。

 前もってメールで同乗することを知らせておいた息子のほうには必要のないもので、それは織田作向けに与えた手掛かりだった。まあ、そのメールに気づかないかもしれないが。そうしたときには、無言電話をかけ、同じ番号の履歴に注目させるつもりだった。

 

 息子である夏梅の方が展望車へ向かうのが見えたから、それも必要がなかったことだが。

 

 

 

 

 

 息子が展望デッキへ続く扉を開ける前に、声をかける。

 夏梅を連れて、喫茶処へ誘導する。そうして展望デッキの柵に括りつけておいた、ガスマスクと手袋と分厚い外套が入った黒い診察鞄を見られるのはしっかり防いだ。

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