夏の梅の子ども*   作:マイロ

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空蝉と老医

 どこからか衣擦れの音が聞こえた気がして、目が覚めた。

 目を開くと、施工した時に付いたのだろう、人の手形のついた天井が見えた。

 

 

「……知らない天井だ」

 

 だが何処かは判っている。――ここは、妻の実家の客間に当たる和室だ。

 隣には起き抜けの布団があり、掛布が、そこで眠っていた者の形を残して、むなしく空洞を作っている。……蝉の抜け殻か何かのようだ。そして、そろそろ、そういった季節だ。

 

「夏梅のやつ、随分と早起きじゃないか」

 

 寝付きは良かったように思うので、枕が変わって眠れなかったという事態ではないだろう。

 夏梅を探しに行かなくては、と身を起こす。

 朝食の時間になれば、屋敷の誰かが呼びに来るからだ。

 

 隣の布団へ手を伸ばして、躊躇した。

 

 その空洞を潰してしまうのは惜しい気もした。

 それは空蝉を壊すことへの躊躇に似ていた。

 

 ただ、物質というわけではなく、そこに温かな命が存在していたという残滓を読み取ってしまうからだろうか。

 

「………なんだ?」

 

 降ろしかけた手のひらは、下の敷布に触れる前に、何かに当たった。

 掛布をめくると、そこには手首から肘ほどの大きさの、精巧にできた黒髪を持つ人形が丁寧に寝かしつけられていた。まるで、その布団で寝ていた主の代わりのように。これは――

 

「夏梅のものか?」

 

 夏梅に人形遊びをさせるという考えが思い浮かばず、絵本や積み木を与えていた自分の子育て内容には、大いに反省する余地があるかもしれない。

 十を幾つか超えたくらいのまだまだ子どもといった容貌は、一見すれば、小学生の高学年くらいだ。しかし、内面は、三歳児。人形で遊びたい年頃なのやも。

 

「……しかしこれは」

 

 聊か、精巧につくられ過ぎているような。

 細部まで見ずとも、その手の込みようは、まるで生きている少女をそのまま小さくしたような完成度の高さだった。これが最近の子どもの人形遊びの流行なのだろうか?

 

「この、顔は」

 

 その面差しには見覚えがありすぎた。――黒髪を持つその人形の造形は、夏梅の顔立ちに似ていた。陶器で出来ている肌に、仏像の玉眼のようにはめこまれている暗色の石が、満天の星を映す夏の海辺のように輝いていた。それは夏梅のものよりもずっと生気に満ちている。……無機物である人形に劣る生気のなさというのはどうしたことだろう。

 

 

「誰に似たんだかな……」

 

 手元で人形を動かしてみると、きらきらというよりはぎらぎらと光を反射する人形の瞳は、静謐な仏の玉眼に例えるには輝きが過ぎている。人であれば、生を余すところなく謳歌してやる、というような野心すら感じられる。

 

 この物質である人形から、そのように感じてしまう。

 物質が生を得ようと考えるはずはない。だが、もしそういう思念を持ったのなら、その瞬間、その物質は命を得たということになってしまうのだろうか。

 

 

「いのちか……」

 

 

 死んだ瞬間を知らない自分は、とぎれとぎれの記憶の延長上に生きているようにしか感じられない。確かに、『死んだ』という場面は抜け落ちていて、だいたいは空白を挟んでの前後の自分がいる。何が変わったか、何が無くなったか、判らない。

 

 何度も死んだという実感すらない。自分にとって、生は今も昔も続いている。

 さて、と目を人形に落とす。

 

 夏梅の持ち物にこんなものはなかったはずだ。この家の誰かからもらったのだろうか。

 

 当人に聞けばよいだろうが、この広い屋敷のどこにいるのか。

 ここは自分の『妻』の実家であり、自由に行動することがはばかられる場所だ。

 探しに行くより、夏梅がここへ戻ってくるのを待つのが良いのかもしれないが、どこかで迷っているかもしれない。この屋敷は広いのに、まだ増築を続けているらしかった。

 

 敷かれている布団を畳み、隣の夏梅の分の布団も片付ける。

 その上に、そこで眠っていた――夏梅によく似た人形も乗せておく。

 

 

 荷物を探り、手早く着替えてから外に出ると、心臓が一瞬縮む思いがした。

 別に、幽霊ではない。

 軒下に座って庭を眺める、この屋敷の主の姿が見えたからだ。

 

 

 

「やあ。お早う。善く休めたかね、作之助君」

 

 

 和服の袖に腕を突っ込んだ七十半ばのその人物は、義父であり中村正直(まさなお)という。中村家では“真一郎”という名を代々の当主が襲名する。義父は先々代の当主だ。実子はいるが、随分と破天荒な性格だったらしく、家に縛り付けられるのは嫌だと瀬戸を飛び出しいったっきりだという。代わりに盟友であった福沢家で実父を亡くした和枝が養女として迎えられた。先代は、夏梅の母で“真一郎”の名を継いだがすぐに返上し、夏梅が成人した暁には、夏梅が中村家の当主になる――というちょっとした背景があったりする。

 そのため、義父には、夏梅とも妻とも実際の血縁関係はない。

 つながりの希薄な者同士も、一つの家族のくくりの中に迎え入れ、そのように気にかけ養育する姿勢は、昔の武士の家制度につながる気質に似ている。

 

 布団を片付け終わった部屋へ座布団を出して向かい合う。

 久しぶりに正座をして、頭を下げつつ思う、義父との向き合い方の手引書はないものか。それを教本に、相対する前に三遍通りは読み込んで、会話に臨みたいものだった。

 

「お早うございます。善く眠れました」

 

 実際、死んだ鯖のようによく眠れた。

 あの深い暗闇の底から再び起き上がれたことに自分でも驚くほどだ。

 目尻と頬の陰影を深くして、義父は頷いた。

 

「それは善かった」

 

 私は首を振った。

 

「よく眠り過ぎて、夏梅が起きるのに気付きませんでした」

「なに、気にするな。ここは君たちの家なのだから。それに、あの時分の子どもは元気が有り余っているものだからな」

 

 身体が変化してから、夏梅は一気に活発になった。その変化について行けなかったのは、自分のほうだった。父親として失格だ。夏梅にとっては片親しかいないのだから、もっとしっかりしなくてはならないのに。

 すると、義父が苦笑を浮かべた。

 

「君はまだ若い。若い頃に子を持てば、やってやれることの幅は間違いなく多くなる。だがだからといって、できないことを気にし過ぎるものでもないぞ」

 

 その言葉に内心首を傾げた。

 私が周りの同僚と比べても浅学非才の身であることは理解している。

 だからこそ、できないこととできることの区別はきちんとついていると思っていたのだが。

 

「はい。以後気をつけます」

「………相変わらず生真面目な人だな、君は。和枝とはまったく正反対だ」

 

「和枝…さんは、とても、優等生だった気が、します」

 

 確か、義父の前では「さん」付けで読んでいた気がする。

 一言発するだけでも、神経がギリギリと張り詰められて悲鳴をあげているようだ。

 

「うむ…………まあ、儂はあの子の父親だからな。身内のひいき目で、悪い娘ではなかったと思っておる……おるが…」

「はい」

 

 義父はこうして今も亡き義娘を想っているのだ。

 その想いに、自然と視線が自分の膝に落ちる。

 

「――いや、なに。こうして思い出を話せる相手がいることは儂にとって幸運だ、君がいてくれてよかったぞ、作之助君。さて――」

 

 和装を体の一部のように着こなした老年男性は、いつの間にか立ち上がっていた。

 

 座布団の上に座っていた自分は自然、見上げる形になっていた。油断といえるだろうか。格上で目上の相手と場を共にするという緊張は常に身を包んでいた。自分は自ずと気を張っていた筈だった。それでも、気が付けば一つの動作は終わっていた。

 

 染みついた習性から、危機感が身を占めたが、表に出たものといえばほとんどない。

 

「ついて来なさい、作之助君。場所を変えよう。――久方ぶりに戻ってきた婿殿と、したい()と見せたい()があるのだ」

 

 

 入り婿に拒否権はない。それは他に選択肢がないということで、悩まなくて済む。

 つまり一言いえばよいだけだ。

 

「――はい」

 

 

 自分は頷いた。

 

 ご隠居が障子を引いて廊下へ出るのを、一拍おいてから追った。

 中村のご隠居の背中を二、三歩後ろでついて行く。少し視線を上げれば、足袋をはいた足が、そして落ち着いた色合いの和装をきっちりと着こなすご隠居の後ろ姿が見えた。

 

 面と向かってはしげしげとは見られない御仁だ。後ろからであればそっと目を向けることができた。背は頭一つ分くらい低いけれども、隙のない歩みが武人を彷彿とさせる――事実その通りなのだが。

 

 

 和風造りの家屋は、時代ごとに増築されているらしく直線的な廊下の曲がり角を幾度も経ていく。必要のために新たに継ぎ足された渡しの廊下の板が真新しかったり、古い木目に切り変わったりしている。そういったものを見ていると、徐々に方向感覚に自信が持てなくなってくる。 

 

 角を物音なく曲がったご隠居の背を追っていると、

 

 

 

『…から……は……し……つ……』

 

 

 

 柏などの草木の葉の揺らぎに雑じって背後から聞こえた。

 

 

 

『……た……も…』

 

 

 振り返ると、細く切り取られた、縁側の景色が見えた。そちらは外だったか。風がゆったりと流れ込んでくる。それほど大きな声でなくとも、途切れ途切れの声が聞こえてくるのはそういった関係だろう。

 

 瞬きを止めて目を凝らすと、そこに腰掛けているのだろう、夏梅の足がぱたぱたと揺れている。

 

 見える縁側の先の庭に伸びる、小さな子供の影が幾つか。

 近所の子どもと話でもしているのだろう。

 

 

「――作之助君、どうかしたのかね」

 

 

 ご隠居が立ち止まって振り返っていた。そちらへ目を戻すと、さらに二、三歩の間隔が大分開いていることに気づいた。

 

「いえ。何でもありません」

 

 そうかね、とご隠居は和装の袖に両手を入れていたのを、片方だけ取り出して顎をさすった。その目がちら、と自身の肩を越えていくのが判った。ご隠居の目にも夏梅の姿が垣間見えたことだろう。明らかに目じりが緩むのが判って、この人にとっての夏梅は孫なのだということを改めて実感する。

 他者が他者を慈しむ心。そういったつながりに関われている自分が、その一端を担っているという自分が、かつての灰色の暗殺者であった少年時代の記憶とはあまりにもかけ離れているというのに、不思議となじみがないとは感じないのだ。

 

 

「まあ、今は儂の用事に付き合ってもらおうかね」

 

「はい」

 

 頷いた。足を止めさせてしまったのはこちらであるけれども、もともとそのつもりだったのだから当然だ。

 

 もう一度、夏梅のほうを見遣る。夏梅は本当にこちらに気づかないようで、横顔をぴくりとも動かさず、足をぶらつかせていた。物憂げにも見えるが、きっと何も考えていない。何の拍子か、夏梅がぶらつかせていた足を大きく蹴り上げる動作をしていた。

 

 ご隠居が歩みを再開する。先導者の板張りの床のきしむ音に促されて、それについて行く。

 

 再び先導し出したご隠居に案内されたのは、特に変わったところの見当たらない和室だった。座布団を引き出したのに恐縮して、促されるままそこに座った。ご隠居は、上座に腰を下ろすでもなく、隣の障子を引いて続いている隣室へと姿を消す。

 

 その間に、頭の中でここまでの道筋を組み立てて、描きだしていく。すると、ここは玄関に近く、比較的新しく増築された北の区画だと分かった。夏梅が、地元の子どもたちとの外見年齢的なくびきを取り払った交流を育んでいた縁側は、日当たりのよさから見当をつけていたが、やはり南側だった。

 

 

「君に来てもらったのは、他でもない。――和枝の絵画(、、)のことだ」

「和枝…さんの」

 

 夏梅の母は、絵の才能に秀でていた。学生時代の頃から、それは顕著であったが、地元にいる間は、閉鎖的な地のため、周りに広く知られることはなかった。それが、あるきっかけで横浜の女学校へと転校した際、そこに赴任していた美術教師の目に留まり、瞬く間にその筋では知られるようになったらしい。

 

「実は和枝が死んでからも、ちょくちょく個展を横浜で開きたいという話が諸方から来ていてな」

 

「横浜で」

 

「そう。ちょうど作之助君も横浜にいる。夏梅にも、あの子の母親の絵を見せたいと思ったのだ。きちんとした展覧会で、描かれたものを見、そこに来る人々を見、和枝が――あの子の母親がどんな人間だったのかを自分の目で見てほしい。あの子の少ない母の記憶を少しでも増やしてやりたいのだ」

 

 自分は諦めたことを、この人は考えていた。

 失ったものはかえらない。だから、見ないようにした。

 前を向いていかなければと。

 

「儂は、作之助君。君にも見てほしいのだよ」

 

 振り返ってもいいのだと言われた気がした。

 

「だが、その前に見てほしいものがある」

 

 戻ってきたご隠居は、何かを抱えていた。布をかぶせられたそれは、四角い形をしているということくらいしか分からなかった。

 

「なに、ちょっとした確認だよ」

 

 姿勢を正した。腕に抱えているものと何か関係があるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

「まだ――早かったようだな」

 

 

 

 天井が見えた。赤い梅の花が広がっている。

 青い空が見えた。そこは廃墟で、煙が立ち上り、いや違う――黄金の瞳がこちらを見ていた。

 

 後頭部が畳の感触と、鈍い痺れが相まって、自分が何を見ているのかどんな体勢なのか違和感を抱いた。眉をしかめると、ぬっと手が視界を遮る。義父の顔が見えた。逆光でその表情は暗くて見えない。

 

「事を急ぎ過ぎていたようだ。投げ飛ばしてすまなかった、電話をするから、神西に診てもらいなさい」

 

 その手を掴むと、引っ張り上げられた。

 その手は力強く、何もわからないうちに立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 障子を閉めた音で、我に返る。

 

『神西の方を訪ねていきなさい』

 

 義父はそういって、自分に退室を促した。

 そうだ、行かなければ。首に巻き付けていた鎖編みの髪に触れようと手をあげると、小刻みに震え、指先がひどく冷たくなっていることに気付いた。

 

「あ、何を――」

 

 何を見せられたのだったろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 両手で顔を覆ったが、その拍子に首に巻いた鎖編みの髪が喉を絞めつけて咳き込んだ。

 頭の中から――何者かの愉し気な笑い声が聞こえてきた、気がした。

 

 

 

 

✣✣✣ ✣✣✣

 

 

 

 この屋敷でもっとも(かよ)った場所は、いくら増築を続けていたとしても、だいたいの方向さえわかれば、たどり着くことができた。夜勤明けの朝日はいやだと東を厭い、白昼の光は標本に悪いと言って南を避け、夏の夕日は目に悪いと言って西を嫌い、最終的に光の届きにくいじめじめとした北東の一角に、この屋敷に駐在する老医は診療室を構えていた。

 

「お仕事を中断させてしまい、申し訳ありません、神西先生。織田です」

「おや、こんにちは、作之助殿。今日も、良いお日柄ですね」

 

 老医は口元に穏やかな微笑を浮かべて、こちらを振り向いた。

 窓枠から空を見ると、晴れ渡る空に、大きな入道雲が見えた。もう空は夏だった。

 

「はい。雨も降らず、善い天気です」

 

 目許の皺を刻んで笑み、しばらくして「……変わりませんねえ」と何かにしみじみ感じ入ったように呟く。そのまま首を少々傾ける。

 

「それで――ご気分は如何です」

 

 光を反射する眼鏡のつるを指で支えてかけなおす。

 その手には手首まである手袋をはめていた。

 

「体調は特に問題はありません」

「……そちらのことではないのですがね」

 

 そちらのことではない、とは……。

 医師が気にかけるのは身体の不調の有無だろうと思っての返答だったが。体調のことではないらしい。

 

「まあ、体に不便がないのは良いことです」

 

「――記憶のことでしょうか」

 

 思い当たるのは一つだった。

 

 中村家に常駐する老医神西は、精神科医の面もある。横浜の福沢の邸宅から彼女の実家である瀬戸へと越したのも、そういった利便性があってのことだった。あの時分、神西にはよく世話になっていた。

 だから、てっきり記憶障害についてかと思った。

 

「それも違いますが……いえ。まあ、違わなくはないかもしれません。こうして会話で来ているということは、意識があるということで、思考があるということ。思考されたうえでの行動は、あなたがあなたであることを規定する。今のあなたを動かすのは紛れもなくあなた自身ということです。ならば」

 

 座っていた回る椅子の背もたれを支えに立ち上がると、神西は眼鏡を外してじっとこちらを見てきた。

 

「ふむ――まあ、心配のし過ぎでしたかね」

「何かご心配事がお在りなのですか?」

 

 医者という職についていれば、頭を悩ませる事も多いのだろう。人間同士で争う戦場ではなく、病を敵として常に戦っているようなものだ。比べることでもないだろうが、数多ある生業のなかでも最も崇高な職のひとつであるだろう。

 

 自分が過去、神西に何度も救われているように、また誰かのために頭を悩ませているのかもしれない。――いえ、と彼は首を横に振った。

 

「経った今、ひとつは解消されました。作之助殿とのこうした会話のお蔭でね。ありがとうございます」

「お役にたてたのなら佳かったです」

 

 内心ではまたも首を捻っていた。この短い間に、私の何がこの老医の問題を解いたのだろう。頭のいい人間の考えることは分からない。……そういえばこの医者は、老医とはいうが、妙に声が若々しい。もっとも、目じりの皺や、慌てたところなどを見たことがない、落ち着いた物腰は経て来た長い歳月を感じさせるのだが。

 

「自我の乖離はどうしましょうか。……和枝君の遺物を持っている間は、精神が落ち着くという今までのデータでしたが。横浜での生活は、福沢殿の異能力の制御の下で安定している。しかし、忘却部分の記憶に触れてくる対象が多いようですね。――さて」

 

「作之助殿。人形は気に入ってくださいましたか?」

 

「にんぎょう?」

 

 思い当るのはちょうど一つあった。

 今朝の人形は、夏梅の物ではなかったらしい。

 

 

 

「あの人形の髪は、和枝君のものを使っているのですよ」

 

 

 

 

 

 

 

 一拍おく。

 

 

 

 

 

 

 

 二拍置いて。

 

 

 

 

 

 

 目が眩む。

 

 

 

 

 それは、それが、それで。だから。そうだ……。

 

 

 

 

 

「――ああそれなら」

 

 何かが自分の体を使って何を口走ろうとしていた。

 開きかけた唇に、手袋に包まれたひとさし指が触れた。

 

「――嘘です」

 

 老医はにっこりと微笑み、そして再び言った、「嘘です」

 老医の言葉に、自分の中から何かがあふれて来ようとしたのが、硬直する。立ち止まる。つま先はいつの間にか、出口を向いていた。それに気づいて驚く。

 

 今、どこへ行こうとしていたのだろう。

 

 

 足がすくんで呆然としている自分を、老医は椅子に脚を組んで座り、腕を組みながら診ていた。

 作之助殿、と彼は目を細めた。

 

 

「あなた***に、***ますね?」

 

 

 どこからか蝉の鳴く声が聞こえたような気がした。

 そうだ――そろそろ、そんな季節だった。

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