夏の梅の子ども*   作:マイロ

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きらいすきじゃない

 車掌の控室に、煤に汚れたトランクを一つ足元に置いた夏梅は、窓から身を乗り出すようにして、借りた双眼鏡をかざし、遠方を確認する。

 

 春野と谷崎妹は車で逃げているらしかった。それは青い車で。

 今は、ブドウの木によって空中に押し上げられていた。

 金髪碧眼の青年と長髪の黒髪の男。

 

 

 そこへ助けに来たのは、谷崎兄と国木田だ。

 

 

 

 一分だけ蒸気機関車が止まるようにしている、という。

 運転室へ引っ込んでしまった運転手がそう教えてくれた。

 そこへ江戸川からの連絡が来て、びっくりするやら、驚くやら。……いや、どちらも同じか。

 

 

 双眼鏡から見ると、首のなかから木が生えている敵が見えた。ちょっとぞっとしない光景で、夏梅がその場にいないことに安心するくらいだ。隣にいる黒髪の長髪の男も、首の角度が怖い。

 そんな異色で不気味な相手と対峙しているが、どんな敵であろうと、あの二人ならば大丈夫だろう。

 

 それより、木々の間からやってくる二人へ手を振る。

 雑木林の、滑りやすい斜面から降りてくる、二人に外傷はないようだった。

 

「春野さーん! ナオミさーん!」

 

 二人は夏梅に気付いて声をあげる。

 一瞬で喜色に変わる表情に、ここにいるのが自分で申し訳なく思った。

 ただ、ちょうど居合わせて、連絡が来たのでこうして出迎えれただけなのだから贅沢も言えないのだが。 

 

「夏梅さん! 来てくれたんですのね」

「まあ、夏梅くん! 良かった、わ…きゃあっ……」

「春野さん、どうなさったの…!?」

 

 歩きにくそうな格好の春野が突然立ち止まり、地面に座り込む。

 そして、足を止めて振り返った谷崎妹もまた、動きを止めた。

 

「なに、どうしたの――?」

 

 そのとき、谷崎妹の体が宙に浮いた。

 いや、先ほど双眼鏡で見た異能力を鑑みれば、植物によって捕らえられているとみるべきだ。

 

 扉を隔てた先から、石炭車で石炭を炉に入れて働く気のいい従事者が夏梅に呼びかけてくる。

 

「坊主、そろそろ出るぞ、しっかり座っとけよー」

 

 車掌の控室に荷物ごと置かせてもらっている夏梅を、気にかけてくれるのは、きっと駅員がお願いしてくれたからだけではないだろう。

 親切な人柄で、訳ありそうな子どもを気にしてくれる善い人だ。

 

 しかし、今は時間がない。

 

「――うん! ありがとう」

 

 夏梅は返事だけよくして、車掌の控室から身を乗り出していたところから、窓枠に足をかけた。息を整える。渇きかけていた額の汗。そこに張り付く髪を鬱陶しく払うと、すぐに飛び降りた。

 

「夏梅さん、いけませんわ!」

 

 谷崎妹は夏梅が、戦闘向きの異能力でないことを知っているのだろう。

 

 重い靴でなんとか斜面を駆け上がると、地面から木の根が絡みついていた。

 そして、夏梅の足も枝に取られて、宙づりになる。

 

「夏梅くん!」

 

 春野の悲鳴を背に、夏梅は腹筋でもって宙づり状態から、靴裏まで手が届くように上体を起こす。そして、靴裏に仕込んである小型ナイフを枝に突き立てる。後は、ナイフの柄が折れないように、半円を描くように突き立てた部分を中心として重心を移動させる。すると、枝は切断される。しかし、やはり小型ナイフでは刃先がゆがんでしまっていた。地面に着地して、すぐにとらわれている二人へ駆け寄ろうとしたが、すぐに二人を捕らえていた枝が退いた。

 不思議に思っている暇はない。

 おそらく上にいる谷崎兄と国木田がなんとかしたのだろう。

 

「はやく、列車に乗って。ナオミさんは先に行ってて! 春野さんは僕が連れていくから」

「わかりましたわ」

 

 ゆがんでしまった使い捨ての小型ナイフを地面に捨てて、座り込んでいる春野へ手を貸して立たせる。すると、既に出発の汽笛を鳴らす電車。「急いで」と声を掛けつつ走った。先に最後尾へと飛び乗った谷崎妹に続いて、夏梅は、手すりを掴む、

 

「春野さん、前に跳んで」

「っ はい!」

 

 夏梅は、腕の力で、宙に跳んだ春野の体を一気にデッキへ引き上げた。

 

「あり、がとうございます。夏梅くん」

「どう、いたしまして」

 

 夏梅は息の乱れをごまかしつつ、にこりと疲労の濃い顔に笑顔を浮かべた。

 

「夏梅さん、とてもお疲れのようですわ。私たちのために」

「本当だわ、早く中で休んでください。社長も心配されるわ」

「ああ、これは違うんです」

「? 違うんですの?」

 

 目を丸くする谷崎妹。その顔を見て、先ほどまで緊張は随分と強張っていたものだったのだなと気づく。それに気づいたら、説明しようとした諸々の事情についての口を閉じた。束の間ではあるが、今だけは余計な心配をかけまいと、いろいろ飲み込んで、首を振り、ほほ笑んだ。

 

「……はい。えっと、ここも危ないので、移動しましょう」

「そうね。いつまた、あの木の根が出てくるか気が気じゃないもの」

「そっちはきっと、もう大丈夫だとは思うんです、国木田さんと潤お兄さんがきっと何とかしてくれてるはずですから」

「ああ、さすが兄様ですわ!」

 

 はーとを周りに散らす元気も戻ってきたらしい谷崎妹につられて、春野も顔色が良くなる。夏梅は提案をする。

 

「あの――、車掌の控室があるんです。そちらに行かせてもらおう…ましょう。話はしている…いますので」

「本当に? 良かった、ちょっとゆっくりと深呼吸したいところだったんです」

 

 夏梅は表情が戻ってきた二人を見て、目を細めた。

 

「じゃあ、僕が案内しますから、行こう…えっと行きましょうか。次の駅で、探偵社の誰かが待っているそうなので、心配ないです」

 

「楽に話してくださいな、夏梅さん。とても頼もしいですわ。さっきは、助けに来てくれてありがとうございます」

「………うーん。何もできなかったけどね」

 

 眉を下げて力なく笑いながら、夏梅は小声で返す。

 

「そんなことありませんわ。ほっとしましたもの。気を張っていたのが緩んでしまいましたわ」

「そうですよ。とても安心したんです、私たち。やっぱり男の子がいてくれると心強く感じるものなのね」

 

 ふたりが口々に言うものだから、少し慌てた。

 

「でも、また誰かが追ってくるかもしれないから、あんまり気を緩めないでね」

「はい」

「わかりましたわ」

 

 それぞれ頷いたが、いまいち顔に緊張が見られないので、ううと前を向きなおした。

 すると、前からやってくる子どもがいた。

 夏梅はその子を避けて、身をかわした。

 夏梅の動きを見て、谷崎妹と春野も通路の端に寄った。

 

「じゃ、こっちです」

 

 先導している夏梅や、それに続くふたりは、通路の真ん中で立ち止まり、振り返る子どもに気付くことはなく、次の車両に移っていった、「……あーあ」

 

 

 

 車掌の控室の扉を開けて入る。横になれるような、繋がった座席に、トイレと流しがついている四角い小部屋だ。壁の隅には、夏梅の荷物であるトランクが置かれている。

 ふたりに席に座るように促した。慣れない逃走にすっかり参ってしまったようで、お互い倒れ込むように肩をくっつけた。

 

「お疲れさまです。次の駅までゆっくりできますよ。ふたりとも無事でよかったです」

 

 ほんとうに、と二人は顔を見合わせて微苦笑し、ちょっと目を閉じた。

 その間、夏梅は周囲を警戒した。 

 窓の外でも、敵が追ってくる様子はない。

 

 寝息が聞こえて正面を向くと、ふたりは眠ってしまっていた。

 次の駅まではすぐだが。肩をすくめた。休ませてあげよう。

 ふたりは普段こういったことは慣れていないはずなのだ。

 

 

 追手が来ない、ということは上手く上の二人がやってくれたのだろう。

 それはあの木を操る異能力者たちだけに限った話だが。

 なんとなく、ここで終わるという感じはしなくて、自然表情が険しくなる。

 

 今は、気を遣う人たちは寝入ってしまっているので、表情を取り繕う必要もなかった。考えながら、しかし周囲に気を配りながら、流しで手を洗った。先ほど使った小型ナイフで、手のひらを少し切ってしまっていた。

 

(もっと巧くならないとなあ……)

 

 指をはじいて水気を飛ばしながら、トランクの上に腰かけた。その煤に汚れた表面をそっと濡れていない手の甲で撫でた。

 

 これを守るのに、苦労した。もし、前回の寝台列車での異能力による体の修復がなければもっと苦戦していただろう。

 その際は、大叔父の異能力の下での最初の発動だったせいか、過不足のない身体の変貌だった。

 今まででは、急な成長のために、筋肉量が生命活動ギリギリしか備わっていなかったり、脂肪が薄かったりと、日常生活においても不調をきたす体になったものだが。今回はしっかりと健常な肉体での回復が見込めていた。瀬戸でそれが判明したものだから、新しい武術の三つや四つ仕込まれたが。

 

(まあ――なんでも、やっとくものなんだなあ)

 

 手のひらは、肉刺ができていたが、ここ最近は事務仕事ばかりしていたため、それも薄くなっていた。父の検診中に、夏梅は道場で頭がおかしくなるくらい、同じ組手や刃物の使い方を仕込まれていた。寝る際に目を閉じれば、刃の白い軌跡が幾重にも瞼の裏に浮かび上がるほどだった。

 

 蒸気機関車の煙突から音が鳴る。

 

「おーい坊主、そろそろ着くぞー」

 

 石炭車から大きな声がかかる。

 すると、目の前の二人がびくりと目を覚まして、周りを見回す。

 夏梅は苦笑して、大丈夫と身振り(ジェスチャー)で伝える。

 

「はーい。ありがとう、おじさん! お仕事頑張ってね」

「おうよー! 坊主ありがとよっ」

「こちらこそー」

 

 石炭車では、物音が聞こえにくいため、大声で話すらしく、夏梅はそれを乗った時に知っていたから大丈夫だったけれども、何も知らない二人にとっては驚きだっただろう。

 

「ここで降りますから、準備してくださいね」

 

「ええ。――もう、私たちったら、安心しちゃってつい寝てしまったのね」

「まだまだ気は抜けませんわ。といっても、私も眠ってしまったのですけれど」

 

 自分の頭を小突く春野と小さく笑う谷崎妹に、申し訳なく眉を下げた。

 

「駅では、太宰さんと敦お兄さんが待っているそうですから、合流したら、すぐにまた潤お兄さんとも社長とも会えます。そのときにまたゆっくりしてくださいね」

 

 トランクは車掌室に置かせてもらったまま、外へ出ようと扉に手をかけたところで、止まる。腕をあげて、二人をかばう。

 

「だれ?」

 

 扉は動かない。

 ふたりへ後ろへ下がるように、腕を後ろに下げた。夏梅も一歩下がる。

 

「そこにいるのは判ってるんだよ。誰?」

 

 再度誰何すると、ゆっくりと扉が開いた。そこには人形を腕に抱いた子どもがいた。夏梅よりも年下くらいだろうか。

 

「こんにちは」

「こんにちは。きみ、さっきの子……? どうしてここに?」

 

 怪訝そうに夏梅は聞く。

 

「珍しいところに行くんだなと思って気になって着いてきたんだ」

 

 後ろで、谷崎妹が息を詰める音が聞こえた。

 なんだか壊れた人形のような子だなと感じた。

 ちょっとでも間違って触れたら、いや――間違ってなくても何かしたとたんに、破裂する水風船のような危うい雰囲気を感じた。

 

「へえ。……そう、なんだ」

 

 にこりと夏梅は微笑んだ。首をかしげて、続ける。

 腕はふたりをかばうように上げたままだ。

 

「あのね。ぼくたち、ちょっと外に出たいんだけど、そこ避けてもらってもいい?」

「うーん………うん、いいよ」

 

 子どもは横にずれてくれた。

 

「ありがとう」

 

 夏梅はそういって、横を通り抜けようとした。すると、子どもがちょっと体をずらしてきて、夏梅は避けたが、後ろにいた春野には当たってしまっていた。

 

「あっごめなんさい。大丈夫?」

 

 子どもは口元を弓なりにしていった、「だいじょうぶですよ」

 

 なんだか、善くない気がする。

 

「春野さん、ナオミさん、先に行っててください」

「――ええ、行きますわよ、春野さん」

「え? あ、はい。本当にごめんなさいね」

 

 谷崎妹に連れられて春野が駅のホームへ降りるのを見送って、夏梅が子どもを振り返る。

 

「ごめんね。あと、この先は乗客は入っちゃいけないところだから、戻った方がいいよ」

「ここで降りるんだね」

「え……? うん。まあ、そうだけど」

 

 光を吸い込んだような目が夏梅を見た。

 それを見返しながら、首を傾げた。

 

「僕もここを降りるんだ」

 

 へえ、そうなんだ、と夏梅は返したが、なんだか舌が苦く絡まるような嫌な心地がした。

 

 

 列車を降りて、後ろから着いてくるのを背中で感じ取りながら、夏梅は前を向いた。

 

「敦お兄さん! ……と、太宰さんは?」

「太宰さんはちょっとトイレに」

「……へえ」

 

 仕方がないとはいえ、半眼になる。

 

「あれ、後ろの子は誰?」

「え? ――ああ、えっと、この子は」

 

 その瞬間、肌を濡れた魚で撫でられたような不愉快な感覚がした。――同時に、振り上げられた、獣化した白い腕と、春野の間に入った。半ば、春野の背を付き飛ばすようにして割り込む。掌底に傾きを加えて受け流した。

 

「下がってて」

 

 春野と谷崎妹へ向けて言葉をかけつつ、崩れた体勢の中島の胴体が、立て直す前に地面へと完全に倒れ込ませようとした。瞬きの刹那でその方法を瞼の裏に思い描く。その通りに自分の体を動かしていく。地面に着くのが一点だけにするため、片足を崩し、両腕を頭上にひとまとめにして、胴体を同時に地面に着くようにさせた。

 かはっと、夏梅の体の下――中島の口から肺の中の息が吐きだされる音がした。

 

「敦お兄さん、あぶないよっ……ねえ、どうしたの? 敦お兄さん?」

 

 暴れようとする中島の体の関節を押さえるようにして、膝と肘を置いて行く。目を見れば、焦点が合っていないことには簡単に気づけた。

 

「敦さん! いったいどうなさったの?」

「あなたも危な……ねえ、ナオミさん! さっきの子どもがどこにも」

「え、そんな、さっきまでそこに。もしかして、あの子、敦さんの様子がおかしいのに、何か関係が?」

 

 ありそう、と気持ちの中で同意したせいだろうか。腕が緩んで、関節を押さえるひじの角度が甘くなった。それもほんのちょっとだけだったのに、瞬間夏梅は、地面に背中がくっついていて、首を絞められていた。驚異の怪力だった。

 

「な、あ……」

 

 悲鳴をあげて、ふたりが近寄って来ようとするのを、首を振って止めた。

 ここには、中島のほかにもうひとりいるはずだ。

 

 夏梅は意を決して、自分の首と中島の手との間に、指を入れる。首の骨を、唾液を飲み下す要領で動かし、そこに指を入れる。知識と知っていたわけではない。ただ、それしか考えつかなかったからそうしたが、想像以上の痛みに、目がかすんだ。

 ほんとうは目線でふたりに、太宰を探しだして、逃げるように伝えようとしたが、指を入れる瞬間の苦痛に、力が抜けた。

 

「やめるんだ、敦くん! よく見…」

 

 声が聞こえた。薄く目を開けると、太宰の顔があった。

 なんだ、ちゃんといるではないか。

 指を差し込んで気道を確保するように動かす。少し楽になったと思って、顔の筋肉がほんの少し緩んだ。

 

「あ……夏梅――!」

 

 声が聞こえた。呼び捨てなんて、その人にされたことはなかったのに。その人は、戻ってきた視野の端から、どたばたと本当に取り乱したように駆けてきて、夏梅の首を押さえる腕と中島の肩に手をかけた。

 

「よく、見るんだ。敦くん」

 

 中島が我に返ったように腕を解いた。夏梅は、指を入れておいたおかげで、せき込みもせずに、普通に地面に足をついた。

 

「なんで、こんな、ただ、助けようとして……ああ、僕はっ」

 

 足元で、膝をつく中島へ、夏梅はかがんだ。

 

「大丈夫だよ、敦お兄さん」

「そんなつもりじゃ…ごめん、ごめん、夏梅くん…僕は、いちゃいけなかったんだ」

 

 太宰は離れて、どこからか見つけた人形を手にし、異能力を発動させていた。

 おそらくそれを媒介にして、中島に幻覚か何かを見せていたか、操っていたかしたのだろう。

 

「…………」

 

 中島が、夏梅の膝に頭をつけて蹲った。

 

「僕は、誰かを傷つけてしまう、僕は、僕は……いちゃいけない存在なんだ」

「そんなことないよ。お兄さんは、助けようと思ってたんだよね。ちゃんとわかってるよ」

 

 操られたにせよ、幻覚を見せられたにせよ、中島が人を傷つけるためにその力を振るうことはないことを知っている。だから、夏梅は、首を絞められている最中でも、即座に対処ができていた。きっと中島が操られていると思ったから。

 

「ちゃんと、しってるよ」

 

 探偵社には、そういう人が集まっていると夏梅は思うから。

 

「大丈夫だよ」

 

 それでもなかなか立たない中島だった。まるで、自分の中の何かの声が夏梅よりもずっと言葉をかけ続けているように。その言葉しか耳に入ってこないかのように。

 

「お兄さん?」

 

 年上の少年の、その真っ白な頭を撫でながら、夏梅はにっこりと笑った。

 丸い頭を抱きしめると、なんだか木綿の布に抱かれているような心地になった。

 震えが、止まった。

 

「大丈夫だよ。生きている限り、取り返しなんてたくさんつくんだよ。それに僕は、こうしてへっちゃらだしね」

「夏梅くん……僕は」

 

 痛いと叫んでいるような目をして中島は顔をあげた。

 

「っ 君の首がっ」

「首? あーあとついてるかな。まあ、少ししたらなくなるんじゃない?」

 

 明日になれば晴れるよと天気の話でもするように口にした。

 女の子でもないし、男児である夏梅が気にすることでもない。

 肩をすくめていう。

 

「ほら立って」

「あ、ありがとう。あの――春野さん、ごめんなさい」

「いいえ。私は夏梅くんがかばってくれたので無事でしたし」

 

 夏梅がかばって、のところでうっとまた痛そうな目を夏梅に向けてくる中島を見て、春野はふんわりと微笑む。

 

「その夏梅くんが、大丈夫というんです。大丈夫ですよ」

 

 中島が顔をあげて、その目の端に涙を浮かべた。口がへの字に曲がる。

 夏梅はほっこりとした気分になり、中島から太宰へ視線をスライドさせて、腹の底が冷たく凍った。

 口元で微笑んだ、「太宰さん」

 

「何か、」

 

 ぱん、と頬を平手で張った。

 

 

「そっち、トイレじゃなかったでしょ。――なにやってたの?」

 

 顔を張られた状態の太宰を観もせずに、夏梅は自分の赤くなった手のひらを握った。

 

「単独行動は、善くないと思うよ、こんな時だしね。何のための双人(バディ)かわかんないよ。中島のお兄さんをひとりにして、さっきの子どもかな?――が異能力者で、見抜けなかった僕も悪いけど、ここに僕がいたのも偶然だった。それで、僕がいなかったら、春野さんかナオミさんが怪我をしたかもしれない」

 

 中島が開きかけた口を固めて、息をのむ。そして俯き、自分の上で見る。

 春野と谷崎妹は、おろおろしていた。

 

「僕はそう簡単に死なないからいいよ。でも、太宰さんのさっきの行動、判断、思考……」

 

 そんなことを意に介せず夏梅は、赤みが引かない右手を宙に振った。

 

「僕はそういうの、嫌いだな」

 

 滅多に、『嫌い』という単語を使わない夏梅が、はっきりと口にした。

 自分への驚きもない。ただ、ただ冷たく静かな感情が夏梅を形作るものとなっていた。

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