低くなり始めた太陽が、赤くなる前に。
立ち止まった太宰を振り返る。逆光の中にあるその人の顔を見て、夏梅はなんと云えばいいものか解らず、口を開け閉めしたあとに結局、言葉ではなく肺にたまった息を吐きだす。
「――やっぱり、これは僕がもつよ。僕のお母さんの物だから」
夏梅は数歩先に歩いていた分を戻り、太宰の手から旅行鞄を取った。
そうして太宰の隣からまた歩き出す。
太宰の足元から続いている影の先を踏み越える前に、夏梅は振り返った。
「来ないんですか?」
ここから先へは。
❂❂❂ ❂❂❂
探偵社には現在、一人の行方不明者がいる。夏梅が彼女を見かけたのは、夏梅と数か月違いで新人の中島と共に、探偵社員として依頼を受けに行った初日のこと。夏梅が何度かお世話になったこともある判事へのちょっとしたお遣いの筈だった。
「新しく入った、鏡花お姉さん、大丈夫かな。酷いことになってないといいけど」
「心配か?」
そりゃあだって女の子だよ、と夏梅は振り返る。
父の肩が見えるより先に、頭を固定される。
夏梅は欠伸をこらえる。好物のカレーを食べた後の時間は、とても眠くなる。
「動くな。うまく拭けないだろう」
父が夏梅の頭を両手で支えるようにして、向きを戻してくる。
そして濡れている夏梅の髪をタオルで拭き続ける。
あの日の初依頼は上手くいかなかったため、新人の二人を迎えに、国木田と宮沢が二人を迎えに行ったのだ。
そこまで思い返して、あれ?と夏梅は首をかしげる。
「次はドライヤーなんだ。熱い思いをしたくなかったら、大人しく動かないことだ」
「ねえお父さん」
「なんだ?」
「なんで、あの日、依頼がうまくいかなかった敦お兄さんと鏡花お姉さんを、国木田さんと賢治くんのふたりで迎えに行ったのかな? 別に一人でもよかったんじゃない? そもそも、迎えに行く必要あったのかなって」
父は少し黙って、「ああ……あの日か」と頷く。
ドライヤーのコンセントを入れながら、再び夏梅の後ろに膝をつく。
「さあな。それは夏梅の方が知っているんじゃないか? 俺は、乱歩さんと商店街で駄菓子を買っていたからな」
「駄菓子ってあの酸っぱい昆布のこと?」
「他にも色々、たくさんだ」
へえ、と夏梅は頷くと、父がドライヤーの電源を入れた。
「だが、中島たちはポートマフィアとギルドとか言う外国の異能集団に襲われた。独歩たちが加勢さえできていなかったなら、命を落とした者がいるかもしれない」
国木田と宮沢の二人が行ったことで、結果的には最悪の結果にはならなかったかもしれないということだろう。
だが、夏梅はそのことに関しても、引っかかることがあるのだ。
夏梅は薄く目を開けて、ちょっと考え込み、あのね、と大きめの声を出す。
なんだ、と父も大きめの声で応える。
「国木田さんと賢治くんが行ったのはね、たしか、太宰さんが二人で行ってっていったからだったんだ」
「そうなのか」
「でも、すぐには行かなくてね、太宰さんと話をしてたのかも。僕は大叔父さんに、依頼の人が怒っちゃったって言いに行ってたからわからないけど、たぶんそう。大叔父さんはそのあと出掛けるみたいで、僕が見送りに行ったら、その時に国木田さんたちがエレベーターに乗るところだったんだ。だからエレベーターに乗ったのは、その三人だった」
それで、おそらく、大叔父である福沢は夏梅が依頼失敗の内容を伝えるよりも前に、別の誰かと話していた。夏梅が社長室に入ると既に、書斎の机の上には湯呑が二つ置かれていたからだ。
夏梅はそれが、太宰の物だったのではないかと思っている。
「なんだか、皆、隠してることがある気がしない?」
「だとしたら、夏梅はどうする?」
父は動じていない様子だった。
夏梅は――どうするのだろう。
夏梅は自然界のドキュメンタリー番組を流す、つけっぱなしのテレビへと顔をしかめた。
「なんで隠すのか教えてほしいって思う」
「教えられた後はどうする」
「うーん……そうだったんだーって納得する?」
父が再び問う前に、夏梅は自分で考えた。納得した後は――?
夏梅は何を求めて、この問いを始めたのか。
「理由を知らされていないのは、その時ではないからだ。俺はそう思っている」
「……お父さんも、分からないの? 気にならない?」
「お前もよく俺に隠し事をしているだろう」
父の渇いた瞳が見えて、ちょっと目をそらした。
動くな、と位置を正される。
「今回の事だけではないが、おおよそ見当はつく。俺の記憶の穴が原因だろう」
諦めたような口調に聞こえるが、それはきっと夏梅自身の心境によるもので、父はそんなに何も感じてはいないのだろう。もともと執着の薄い性質だから、あるものがあることを受け入れはするが、無くなったとしてもきっとそれほど抵抗することなく受け入れるのだろう。
柔らかな髪が頬に着く頃に、ドライヤーの電源は切れた。すると家のなかがこの上なく静かに感じた。
温風で、乾燥した目を擦りながら、ゆっくりと瞬いて、口を開く。
「つまり、お父さんが関わったことがある人が今、何か関係があって、皆で隠してるってこと?」
「さてな。ただ、今回、講堂を襲ってきたポートマフィアとかいう組織の男は『なんで生きている』と口にしていたから、昔、何がしかの関係はあったのかもしれないな」
「知り合いならさ、襲うのやめてくれないのかな?」
他力本願になるがそう思ってしまう。
だって、死に易かった父を生き返らせる人はもういないのだ。
それに、父は悪いことをする人間ではないので、酷いことをしないでほしいと思う。
父が危ない目に合うたびに、夏梅の心臓は潰れてしまいそうになるのだ。
「友人であれば違ったかもしれないが、敵同士だったなら、相手も辞める道理はないだろう」
「あー、そっか」
斃したと思った相手が、実は生きていたということになったら、驚きはするだろうし、もう一度しっかりと念入りに斃さなくてはと思うのかもしれない。……なんだか、周りに父の死を望まれているような気がして、悲しくなった。
「パパ――お母さんは、生きていてほしいと思ったから、お父さんを生き返らせたんだよ」
父が髪の毛を梳いてくる。
「……そうだろうか」
「そうだよ。じゃなきゃ、何度も何度も死んじゃうのに、生き返らせてないよ」
母はそんなの面倒くさいと思う人だ。父は覚えていないだろうが。
夏梅の髪を梳く手が止まった。
「そんなに俺は死んでいたのか?」
「何回、お母さんに生き返らせてもらってたか聞きたい?」
父は長い沈黙のあと、首を振った。
「いや、聞くのは――今はやめておく」
「それがいいかもね」
夏梅は立ち上がった。
夜のニュースでは、倉庫で火災が発生したということが放送されていた。
見覚えのある倉庫が黒焦げになっている。荷物の移動が間に合ってよかったとため息をつくとともに、テレビを眺めていると、画面の端に、メモ紙がアナウンサーの服についていることに気付く。しばらくアナウンサーは気づかずレポートを進めていたが、カメラマンに指摘されたのか、マイクを持つ袖のところについていた、四つ角に赤い梅のあるメモ帳を取っててでくしゃりと握りつぶしていた。
時間にして一分も経たないだろうが、夏梅にとってはもっとずっと長い時間に感じた。
「夏梅、布団を敷いた。テレビを消して寝る準備をしろ」
足音が近づいてくる。
「夏梅? どうした」
父が顔を覗き込んでくる。
「………どうしよう……」
喉が引きつった。うっと声が喉から洩れた。
「おかあさんの絵………」
❂❂❂ ❂❂❂
その駅の近くには、住民から親しまれている最寄りの郵便局がある。こじんまりと小さく、建物は年季が入っているが、日々掃除を欠かさず清潔さを保っていることが分かる。それはたとえば、建物の外においてある植木鉢の回りを掃いた模様であったり、窓を拭いたのが乾いた水垢であったりだ。
段差を乗り越えて、夏梅は中に入る。郵便局の入り口前の小さな段差には、夏梅の背が低いため、身の丈より少し低いぐらいの旅行鞄を持ち上げるのがちょっと大変だった。その時、後ろから太宰が助けてくれたので、助かった。
「これを郵送するのだね」
「うん……まあね」
もっと深く訊くかと思ったのに、太宰はそれ以上尋ねはしなかった。
柔らかな斜陽の光が、光鳥の窓から郵便局のなかの陰影を淡く照らし出している。
「こんにちは。荷物を送りたいんです」
白い襟のきっちりとした居住まいで窓口に控えている受付令嬢の一人が笑顔で立ち上がる。
黒髪を赤いリボンでくくった、若い女性だ。
「こんにちは。荷物ってその
「ううん。空っぽです」
「貸してもらえるかしら」
夏梅は頷いた。窓口の近くまで引いて行くと、窓口の受付嬢が身を乗り出して荷物を受け付け台の上に引き上げた。
「ほんと、思ったより軽いわね。でもこの大きさだとちょっとお値段が高くなっちゃうの。勿論距離も関係してくるけどね。宛先の住所は書けるかしら?」
頷くと、受付嬢がにこりと微笑んで、用紙を手渡してきた。
「じゃあ、ここに書いてくれる? 私は隣で重さを測って料金を出すから、分からないことがあったら何でも聞いてね」
「ありがとう、お姉さん」
前もって調べておいた住所をスマホで出し、渡された黒いペンと紙に、記入していく。
事務仕事でもやったことのある作業だったので、受付の人に聞くこともなくすべて埋める。
書ききると、受付嬢も料金を教えてくれる。
「ここは私に譲ってもらおう」
え、と慌てた夏梅がセオリー通りに断る前に、太宰は片目をつぶって見せた、「今日、君がついてくれたこと一通りへのお礼だ。ささやかだがね、今回の催しには個人的に協力したかったのだよ」と断りずらいことを言う。
様子を見守っていた受付嬢へは、不意打ちで輝かしい笑顔を向ける。笑みを向けられた受付嬢は「……はい」と頬を染めながら言う。お代を払うだけなんだよね?と呆然としている間に、太宰が払うことに決まったようだった。邪魔をしないように一、二歩下がった。
財布からお金を取り出して受付嬢に払う太宰を後ろから眺める。
なんとなく外の景色が気になって窓へと目を遣ると、そこにはいつの間にかメモ紙が貼り付けてあった。ちょっと肩が跳ねる。近づくと、それは無地の四つ角に赤い梅が描かれているもので、夏梅が探偵社で普段使っているものと同じだった。
そこに書かれている内容を見て、夏梅はすぐにそれをはぎ取ってポケットのなかに入れた。
「ありがとうございました。またお越しください」
受付嬢の声がやけに遠くで聞こえた。