沢山の声が散り散りになる……。そうして硬い靴音が
夏梅は引き裂かれるように霧散した声たちの悲鳴、その残響に鳥肌を立たせながら、呼びかけた。
「ねえ、先生でしょ」
靴音が止んでしまうと、何もわからなくなる。
気配を読めと、祖父は言ったけれども、その『気配』という言葉が今一つよくわからなかった。
「神西先生――なんでこんなことするの?」
靴音の主は、「そうですねえ」と呑気な雰囲気で云う。
聞き馴染んだ、神西の声だった。
でもなんでと混乱する夏梅を、靴音の主はさらなる混乱の渦に叩き落した。
「まず注釈を入れさせていただきますと、老医――神西清は既に死んでいるのですよ」
その声は、夏梅の聞き知った神西のものだった。
ところで、この声は何を言っているのだろう?
「――え? 先生はここにいるでしょう?」
硬い靴音が間近にまでやって来る。覆いかぶさるように見えない圧が近づき、夏梅の両耳を通って腕が回される。髪をいじられているのかと思えば、それは夏梅の両眼を覆う布の結び目をほどく動作だった。
「坊ちゃんにとっては、最初から最後まで私が神西でしたね」
目を開くと、白い照明の強さにギュッと目を閉じ顔を伏せる。ゆっくりと目を開くと、膝の上に落ちる黒い帯が目に入る。……これがあったから、何も見えていなかった。
神西がいつもしている白い手袋を外すと、そのまま素手を見せてくる。
「なに」
「ふむ。此れでは判りませんか。では――」
神西が、耳の付け根の辺りに指先を引っかけていた。白い肌なので黒い爪が妙に目立った。そしてめりめりと言わせて、白い髭が生えた肌を引きはがした――その下にもまた、皮膚があった。下から出てきたのは、つるりとした肌で、目許の皺がなんともちぐはぐに見えた。
「ここまで来たら、全部取りましょうかね」
目許の皮膚も引きはがし、出てきたのは皺のない滑らかな表面だった。
なんだか、玉ねぎみたいだなと思った。
「……先生ってそれなりにお爺さんかと思ってた」
「初老の医者ではありましたよ、神西清はね」
じゃあ、と夏梅は見上げた。
「先生は誰? なんなの?」
「なんだと思いますか?」
夏梅は考えた。見たところ、父とは年もそう変わらない気がした。三、四歳くらい年上だろうか。そのくらいだろう。赤い目が夏梅を見返してくる。……質問に質問を返してはいけないといったのは、どこの誰だっただろうか。神西ではなかったかなと夏梅は思うのだ。
「先生は、先生だよ」
夏梅は、むくれて顔をそらした。
すると、神西は、肩を震わせた。
「笑いたいなら笑えばいいと思うよ」
「いえ、これは失礼をば」
咳払いをした神西は――やっぱり夏梅にとっては神西は神西だった――酷薄な眼差しで夏梅を眺めて微笑した。
「とても好い返答が得られたのでね。私が何者か、というと」
笑いを抑えた神西が、肩をすくめた。
その拍子に、下がった肩口から照明の光が目にかかって、夏梅は顔をしかめた。
「――実は、私にも判らないのですよ」
「え、わからないの?」
目を丸く仕掛けて光が目に突き刺さり、顔を歪めた夏梅は、胡乱げに聞き返す。
だって、この神西が判らなかったことなんて、夏梅は一度も知らないのだ。
「私には記憶がないのです。作之助殿のように」
「先生も、死んじゃったの? それでお母さんに生き返らせられた? お父さんみたいに?」
「さあ――判らないのです」
ただ、何か大切な記憶を失くしてしまった気がするのですと神西は――今まで神西として振る舞っていた男の人は迷子のように俯いていた。
これは大変に困った事態だった。判らないことは中村家では最終的に行きつく先が神西となるほど頼りにされている。性格がちょっと油断ならなかったりするけれども、頭は頗る優れていて何でもかんでも知っている。夏梅だって、父に聞いて分からなさそうなこと、父に聞いたら拙そうなことは、神西に相談していた。その神西が、判らないというのだ。
「ええと――……」
困っているのはそれだけが理由ではない。何と言葉を掛ければいいのか、夏梅には解らなかった。なぜなら夏梅は、記憶がなくても、なくなっても、傍に居ようという覚悟はあっても、記憶を取り戻させようという考えは微塵も持っていなかった。それは諦めかもしれないし、子としての想いであるのかもしれない。――そう、それはきっと『優しい』と――『心配し過ぎの病気』といわれるような気持ちであって。
「わからないから、思い出したい?」
長くけぶるような白い睫毛がゆっくりと瞬いた。
赤い双眸がのぞくと、まるで血が滲み出てくるように見えた。
「そうですね。それが私の“救い”であった気がするのです」
「すくい?」
「魂の解放でしょうかね」
「待って、もっと難しくなってるりょ」
僅かばかり噛んでしまったけれど、父と違って神西は一応できる大人として見て見ぬ振りで流してくれる。ので問題ない…………問題ないったら問題ない。
夏梅は神西と『救う』という言葉の意味をすり合わせた。
なるほど、と得心のいった夏梅を前にして、神西は思い出したように零す。
「そういえば、作之助殿がおっしゃられた言葉がありましたね」
「どんなこと?」
「人は自分を救済する為に生きている。死ぬ間際にそれが分かるだろう、と。もしかしたら忘れてらっしゃるかもしれませんが」
「お父さんがそんなこと云ってたんだ……? なんだからしくない言葉だけど」
実際に死んだ人がそれを言ったと思うと、夏梅はちょっと空恐ろしくなった。
それで父は救われたのだろうか、と考えてしまうではないか。
「私は私を救済するためのあがこうと思うのです」
「でも先生は、いままで僕たちのことを助けてくれてるよね?」
偽悪的に振る舞うそぶりを見せたが、それすらも取り払って神西を装う男は、ため息をついた。
手持無沙汰に、白い髪をひと房取ると編み始めた。手慣れている。父と同じかそれ以上には。
「失くした記憶を取り戻すという点において、作之助殿の診療はそうでなくてもとても有意義でした。特殊な事例でしたが、きっと私のこの状態も同じぐらいには特殊でしょう。幸いなことに、私はやろうと思えば、何でもできた。研究はもちろんの事、医療も。神西清は、優れた医者でしたが、それは主に人格の面においてです。私は技術面で秀でていましたから、老医の後釜として中村家へと受け入れられました。……この変装は、まあ、理由はあるのですがまた今度ということで」
夏梅は黙り込んだ。沈黙が流れて少ししたころ。
時計が遠くで鳴る。ゴーン、ゴーンと幾度めかの鐘がなり終わるころ、照明がどこかで一つ点いた。目を凝らすと、暗闇の中で母の遺作が一点浮かび上がっていた。それは蒐集家たちと学芸員と探偵社とでかき集めた母の遺作のうちの一つに違いなかった。慌てて周りを見回すと、他にも何点か照明に照らし出されて、細部も露わに浮かび上がっている。これは絵画蔵に納めておいたはずの絵画だった。顔が強張り、硬直した状態でその絵を凝視していると、その絵の額は、天井から降りた黒い紐とつながっているようだった。
焦げつくような匂いがどこからか漂ってくる。……夏梅はとうとう、後回しにしていたことを聞くことにした。
「先生、何してるの? お父さんの、検査じゃないよね?」
「髪を編んでいます。――あと一寸です」
気を張っていた夏梅は深いため息をついた。
「………そっちじゃないよ」
「判っておりますとも。――そろそろ好いかと思いまして」
夏梅はうつむきながら、「……何が」と尋ねた。
「坊ちゃんも、作之助殿も、振り返ってほしいのですよ。忘却された記憶を」
「……記憶は戻ってこないんだよ、だってお母さんが『死相』と一緒に
「ええ、そうですとも」
神西は頷き、出来上がった編み込みを、耳の後ろに回している。夏梅は、だからもう戻らないのだと言おうとしたが、神西が手袋をはめていない指で音を鳴らすと、照明と共に、夏梅の前にもう一人現れ、思わず目を奪われる。
それは、三脚の物が多いなか四つの脚を持つ
神西が、夏梅の肩に手を置いて、共に大鏡を覗き込みながら微笑した。
「だからこそ、和枝お嬢さんは描いて遺されたんでしょう? あの絵を」
夏梅は弾けるように顔をあげた。あの、と神西は言った。でもそれがなぜだか随分と近くの絵のことを云っているように感じられたのだ。
妙な動悸がしてきて、落ち着こうと思っても落ち着けない。
「ねえ! 待ってよ、言わないで。ねえ、違うよね? 持ってきてないよね? だって、溝地さんのリストには載ってなかったよ? だって、違うよね? お父さんたちが集めて来たものの中にも、僕たちが集めて来たものの中にもなかったよ? 嘘ついてないかってぼくちゃんと他の人がいなくなった時にだって探しててなかったんだから! 違うでしょ? 持ってきてないでしょう? ないんだよね? 無いんだよね、ここには!」
夏梅が悲鳴をあげると、神西は、一歩身を引いた。
どこからか、足音が聞こえて来た。ばたばたとこの会話をこの空間を踏み荒らすような足音が。
「ここにある和枝お嬢さんの絵には、綿混の布を縒りあげた紐に廃油を吹き付け、熱感知式の発火装置につなげてあります。個々の照明は白光で発熱量は多くはありませんが、
神西の口から特務課という言葉が出てきたことにも驚いた。
けれども、それ以上に、夏梅にとって聞き逃せないことがあった。胸騒ぎがした。
「……三十五個?」
「夏梅坊ちゃんの照明を入れていますよ」
「お母さんの、絵は……三十三枚だけだよね」
母の絵がここに一点あるだけでも、その他の絵画まで神西の手に落ちたのだと夏梅は悟った。
しかし、それでも三十四個の照明の筈だった。
夏梅の懸念に、神西はにこりと微笑んだ。
暗い尖った爪が示す方向は、夏梅から遠い場所。
「――もう一点持ってきました」
そこは未だに暗くてどこか分からない。
「……な、にを?」
夏梅の声はしわがれていて、我ながら老人のようだと思った。
指さしていた手を唇に持ってきた神西は、若い男の人の声でうっそりとわらう。
「お三人の、家族の肖像ですよ」
時計が再びなる。時間ですね、それでは、と神西はくるりと背を向け、羽織っていた白衣もが翻る。鉄板を踵に打ちつけた靴が、硬い音を響かせる。照明が点く音がして、また一つ光が増える。
遠くから近づいてくる慌ただしい音。バタン、バタンと扉が開け閉めされる音が、徐々に大きくなってくる。――ねえ、と夏梅は遠ざかる神西の背に呼びかけた。
「その絵も、燃やしちゃうの?」
「お二人して顔を背けるのならば、それも善いことでは?」
白衣を着ているというのに、照明の下を離れると神西の姿は驚くほど闇に融けこみ、肉眼でとらえる輪郭があいまいになった。声だけが夏梅の耳に届く。
「
やめてよ……と夏梅は呻いた。
夏梅が悪いのだろうか。
ふと、ポケットのなかに入れたままだったメモ紙を思い出す。
“そのうそをまもりたいか”
「ぼくは――」
バタン、と扉が開かれる。そこだってあまり明るくはないようで、緑色のぼんやりとした光があるだけだった。おそらく非常口の誘導灯の光ではないかと思われた。
扉をあけ放つその人は、斜めに前髪を切った白髪の少年だった、「夏梅くん!」
「あ、つしお兄さん、来ちゃだめだよ! じらいがあるって!」
夏梅の言葉に、中島は扉から踏み出しかけた足を止めた。
その後ろから、顔を出した人物に、夏梅は目を丸くし――そして舌の上の苦味を覚えた。
「太宰、さん……」
きゅうと眉が勝手にひそめられるのが判った。
緊張を抑え込むために、夏梅は唾液を嚥下した。
「随分趣味の好い誘拐犯だね、これは」
「うえ……これが趣味いいの?」
夏梅はドン引きした。
太宰の隣で、中島も引いていた。
「………うーん、判ってるとおも、わないけど、冗談だからね?」
「それも実は……冗談だったり?」
中島の言葉に夏梅も心底同じように抱いた疑問だった。
その二人の後ろから、他に人がやってこないのを確認すると、夏梅は顔を歪めた。
父がいるのと太宰がいるのと、どちらがより悪いのか、夏梅には解らなかった。