夏の梅の子ども*   作:マイロ

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うそうそついた?

 戻ってきた敦が見たのは哭きすがる、夏梅の姿だった。

 

「お願いだから、先生」

 

 柔らかな髪のかかるその額には、硬い鈍色の銃口が突き付けられていた。

 

 

 

✣✣✣ ✣✣✣

 

 

 

 いつもはちょろちょろと歩き回っている子がいない居間(リビング)は、生き物が息絶えた水槽の中のように寂れてみえた。静かなキッチンで熱い珈琲を淹れる。自分とは別の気配のない空間は、頭の思考を鈍らせ、眼球がぼんやりと立ち昇る湯気を追う。

 

 何となくその気になれなくて、淹れたての珈琲を食卓に置いたまま、身支度を進める。今回は強敵だということが判っている。能力についても、別途、情報を得たので、対策は十全にするつもりでいる。順当にいけば、戦闘系異能力者である、宮沢賢治や新しく入ってきた中島敦が突入に適しているだろうが、作戦立案を担当する江戸川と太宰によって選ばれたのは何故か自分だった。……臨機応変というのが重視されたようだが、あの才気ある二人の後輩たちよりも――苦し紛れにも――強いて挙げた利点といえば踏んだ場数の多さぐらいのものだろう。

 

 両肩に吊具(ハーネス)を通し、左右にある拳銃嚢(ホルスター)に8ミリの拳銃を二挺とも仕舞い、薄い外套を羽織り、居間を振り返る。生者が減った部屋はとても静かだったが――……敷布(シーツ)を頭から被ったような長い黒髪は透過した光によって揺らめく、華奢な()はやはりそこに佇んでいた。

 

「今日は、あまり喋らないんだな。……心配なのか」

 

 ――半透明の長い黒髪が宙を泳ぐ。それをしばらく見守る。

 

 窓は締め切り、風などない筈なのに、それは揺らめいている。ここが浅瀬の海中のようにも感じられる。音が遠く、しかし仄かな光が海面から揺らぎながら差し込んでくるような、五感の幾つかが機能しなくなった異空間。

 

「………俺はそう思っているが」

 

 今や自分の頭で考えて行動するようになった。

 それを妨げるのはいかがの物かとも思う。悩ましき葛藤だ。

 

「ああ、判った。………***くれるのは助かる」

 

 日除けのカーテンから洩れる淡い光に滑らかな髪を揺らめかせた影は、空気に融けた。

 影の行き先を想い、やっと私は少し冷めてしまった珈琲カップに指を掛けた。

 

 

 カップの中の珈琲が、半分になる頃、携帯電話が鳴った。

 相手は同僚の太宰だった。段取りの細々とした連絡事項を伝えてくる。それを記憶しながら、いつもの癖で我が子の座る席へと目を向け、そこが空席であることに気付き、太宰への返答が少し遅れた。

 

『大丈夫かい、織田作』

「ああ、何も問題ない」

 

 夏梅の救出には、信頼する友人と新鋭の後輩が行くことになっている。

 自分は信頼し、そして割り当てられた役目を熟すだけだ。しかし、これだけはと、友人へと万感の思いを込めて言葉をかけた。

 

「そちらは頼んだ、太宰」

『了解した。……ねえ、織田作。きみは本当に善かったのかい。絵の、夏梅くんの方に行かなくて』

「中島は大した男だ。お前が連れて来ただけはある。俺が行くよりよほど頼りになるだろう」

 

 首に巻いた鎖編みの髪の編み目を指で数えながら応えると、太宰は小さく笑い声を立てたあと、すっかり声音を様変わりさせて云った、「それは本気で言っているのかい、織田作」

 

 

 

 

 

✣✣✣ ✣✣✣

 

 

 

 (あなが)ち冗談でもなさそうに聞こえる太宰の言葉を流しながら、敦は夏梅のほうを確かめた。小さな背中だ。縛り付けられて動けないその子どもは、首を捻ってこちらを見ようとしていたが、やがて目の前にある大鏡に映る姿で充分だと気づいたのか、無理に体を戻そうはしなくなった。

 幼い両手が後ろ手に縛られているのが見えた。磔のように縄がその子の体の自由を奪っていた。

 痛々しい姿だった。ずっと一人でこんなところにいたのか――と思いかけて、ふと気になることを思い出し尋ねてみることにした。

 

「そういえば、夏梅君。さっき、誰かと言い争うような声が聞こえてこっちだと判ったんだけど、ここに誰かいたの?」

「………うん、いたよ」

 

 大鏡の前で、子どもは床の一点を注視するように首を垂れていた。その姿からは身体的にも精神的にも疲労がたまっていることを感じ取らせた。早くなんとかしないとと顎を引いた敦の鼻に、何かが焦げつく匂いが届く。すぐに顔をしかめた敦の隣から、太宰が重ねて子どもに尋ねた。

 

「君の知っている人だったかい?」

「……どうかな」

 

 太宰の質問には、子どもは言葉を濁した。

 窓もない暗闇だ。視界がとにかく悪く、相手の人相までは分からなくてもおかしくはない。しかし、判らないのならばそう答えればいいはずだ。子どもの物言いは、何か心当たりはありそうな感じに聞こえた。ただ単に、知り合いに似ていても自信がないだけかもしれないが。

 しかし、事態は少し複雑なようだった。

 

「ずっと知っていると思ってた人が、実は知らない人だったかもって、さっきわかったんだ」

「それは混乱してしまうね」

「ちょっとね……でも、先生は先生だから」

 

「先生ねえ……」

 

 俯く夏梅に、顎に指をあてて意味深に呟く太宰らは、敦を置いて何か深刻な話をしているようだった。

 着いていけなかった敦はとりあえず自分にできる状況把握をと、辺りを見回し、照明(スポットライト)によって暗闇にぽつぽつと浮かび上がる、三脚の台に乗せられた絵画を順にみていく。それらは、夏梅が縛り付けられているものよりも遥かに小さな台座だった。よく見れば、夏梅の縛られている台座は他の物と違い、四つの脚があった。まさかとは思う。半信半疑で尋ねてみた。

 

「夏梅君、その、台座って」

「――ああ、これ? 絵を乗せるもので、画架(イーゼル)っていうんだよ」

「そうなんだ………」

 

 画家の子どもらしい一面に、時が時ならば素直に感心しただろう。

 両足をそれぞれの脚に括り付けられている。やはり本来の用途は絵を立てかける台座だった。

 

「今はなんでかぼくが座らされてるけどね」

「そんな感じになってるのに、夏梅君って冷静だね。あ、でも、ここから見るとまるで――」

 

 夏梅の目の前にある鏡を正面から見ることができる位置に敦たちはいた。そのため、画架に縛り付けられている夏梅は、暗闇に浮かぶ絵画に囲まれた中央に縛り付けられた子供という一枚の作品のようにも、それを眺めている観客のようにも見え――しかしそれを口にするのは何となく不吉に感じられて敦は言葉を途切れさせた。命のない絵に、今の状況で似ているというのは不謹慎にも思えたからだ。

 

 黙り込んでしまった自分に首をかしげる子ども。敦は慌てて首を振った。

 視線をずらせば、灯りのように浮かび上がる絵画に目が行く。

 

「あ、と……ここの絵はもしかして」

「お母さんの、描いた絵だよ」

 

 夏梅は頷いたが、その声にいつものような弾みがないように感じられた。ずっと一人で閉じ込められていたのだ、敦も状況は異なれど、一人独房の中で閉じ込められた経験があるため、その心中を思いやって自然と口も重くなった。代わりにというのか、敦を探偵社に引き入れた張本人でもある太宰がその子に話しかけていた。

 

「さっきの話にちょっと戻らせてほしいんだけど、その人に何を言われたんだい? どんな話をしてたのか教えてもらいたいのだけれど」

「ここには地雷が仕掛けられていること、動かないで絵を見てってこと。……それと」

 

「それと?」

 

 太宰とともに敦はその言葉の続きを待った。気のせいかと思われた焦げ臭いにおいが、再び鼻をつく。しかし燃えているというよりは、匂いが強い。上のほうからだ。天井に何か燃えるものでもあるのか。不純物の混じった油の匂いも漂ってくる。

 それにしても夏梅の言葉の内容は、先ほどまでここにいた誘拐犯に、動かず絵を見ろと指示されたということなのだとは思うのだが、そこに何か理由があるのだろうか。

 

「それと、ここの照明全部が点いたら、『発火装置』で絵に繋がってる黒い紐に火がついて燃え移っちゃうよってことを教えてもらったかな」

 

 太宰は子どもの言葉にうなずいた。

 

「そうか。矢張(やは)り、絵を台無しにすることが目的ではないのだね」

「――え?」

 

 太宰の言葉に、敦は思わず目を丸くして見上げた。

 静かな眼が敦を見下してくる。見守られているような気がして、敦は勇気を出して自分の考えを太宰に言ってみることにした。

 

「あの、太宰さん、犯人は絵を燃やすような装置を作ってるんですよね? じゃあ、絵を燃やすことが目的では?」

「そうであったなら、こんな仕掛けを作らなくても燐寸(マッチ)一本で充分事足りるさ。……夏梅くんを誘拐する必要も拘束する必要もない」

 

 確かにそうだった。夏梅に害をなそうとするのなら、既に夏梅は死んでいただろうし、今もこうして縄と地雷とで身動きを奪った他は目立った外傷は見受けられない。しかし身代金すら要求していないため、一般の誘拐とも違っている。

 

「どうして夏梅君は攫われたんでしょう? 地雷まで仕掛けて逃げられないようにして……」

 

「そうだねえ……」

 

 太宰は、縛られている夏梅のほうを向いた。夏梅は俯いている。ほぼ背中を向けられている状態なので、照明に照らされた白い項も露わになっていた。太宰は薄い眼差しで何かを見通すようにその小さな背中へと視線を遣っていた。

 

「まア――まずは、この状況は打開した後に考えよう。地雷が敷かれていて、照明がすべて(、、、)点灯したら、あの黒い布を導火線として火が付き燃える。夏梅くんの画架(イーゼル)にはつながっていないことを見ると、夏梅くんに害を及ぼすつもりはないのだろう」

 

 地雷を周囲に仕掛けられているのに、危害を加えるつもりがないだなんて言えるのだろうか。

 それに絵画に火がついてしまえば、煙に巻かれて呼吸困難で死んでしまう可能性だってある。

 

「問題は、このすべての照明という点だが」

「……三十()個の照明が点いたら、燃えちゃうんだって」

 

 唐突に出て来た三十四という数字。その数字を口のなかで繰り返し、何を指示しているのだろうと考えていると、隣の太宰はすぐに把握したようだった。

 

「成程。三十三点の絵画と、きみの真上の照明というわけか」

 

 敦がいない間に進められていたという夏梅の母親の遺作の回収。そこに参加できなかったので、そこを思いつくのは敦一人では無理だっただろう。――或いは仮に、三十()個であったのなら、未だ軍警察に捕らわれたままの泉鏡花のことが思い浮かんだだろう。

 

 首を振り、目の前のことに集中する。

 

 太宰の解説から状況を飲み込んだ敦は、先ほどから項垂れたままぴくりとも動かない夏梅を心配した。だいぶ衰弱が進んでいるのかもしれない。

 

「ここからだと判りにくいか。――夏梅くん、きみが正面から見て、いくつの絵が見える?」

 

 夏梅が一つずつ数えていく。夏梅は敦たちに背を向けるような形で座っているため、夏梅の後ろにある絵まで数えられないだろうと思った。夏梅が数える傍ら、敦も自然と見える範囲の絵をすべて数え上げていく。それはなかなかに多く点灯されていた。全部で――

 

「十六個」

 

 夏梅は言った。敦は慌てて太宰に声をかける。

 

「大変です、夏梅君のも入れてもう三十三個もついています! あと、一つ点灯したら発火してしまいますよ太宰さん!」

「大丈夫だよ、敦くん。十六個だ。夏梅くんのを入れると、十七個だね」

 

 太宰が敦の肩を軽くたたいてきた、その指である方向を示す。その先には、絵の台座に座らされた夏梅――いや、鏡に映った夏梅の姿があった。鏡に映った夏梅の方が、表情がまだ見える。紙のように白い顔色だった。まだ、三歳の子どもなのだ。早く助け出さなければいけないのに。

 

「鏡だよ。鏡に映った絵で、こちらからは実際の二倍の数に見えてしまうんだ。一応、夏梅くんの身体で隠れて見えない絵がないかを確認してみたけれど、夏梅くんの目の前にある鏡からは、今のところ点灯されている絵すべてが見えるようになっているようでね、だから夏梅くんに数えてもらったのさ」

「な、成程。そうだったんですね」

 

 拘束されている夏梅がその状態のまま鏡を見れば、全ての作品から背を向けていても、照明が点いているすべての絵が見えるということらしい。――しかしだ。誘拐犯の『絵を見ること』といったらしいが、この状況では、実物の絵は到底見えず、夏梅はただ鏡に映った絵を見るしかない。何がしたいのか、よく解らない。

 

「さて、点灯している照明と、未だ点いていない照明はそれぞれ十七個でちょうど半分ずつであるわけだ。この調子では全点灯までに時間の余裕はありそうではあるが、今から残りの十七個の照明が一斉に点いて黒い布に引火してしまうという可能性がないでもない。しかしここに犯人の姿がない以上、照明が点くのにもおそらく規則性があるはず。――何か心当たりはないかい?」

 

 太宰が夏梅へと呼びかける。

 

「……照明が点くのは、たぶん、時計の鐘が鳴った後だと思う。二回しか見てないけど、二回ともそうだった」

 

 思ったよりもしっかりとした口調だった。そのことに敦は安堵する。

 ふと思いついて太宰に尋ねてみた。

 

「時計を破壊したら、どうなるんでしょう?」

 

「根本的な解決になるとは考え辛いね」

「そうですか……」

 

 提案してみたが、解決には至らないようだった。

 では次だ。何か策はないか。この場所の状況を確認しながら、考えをまとめていく。

 

「夏梅君と絵を無事に回収するには、導火線になるあの黒い紐を切るのがいいんでしょうけど」

「床には地雷原という障害があるわけだ。却説(さて)――どうするか思いつくかな、敦くん」

 

 時計ではなく、導火線もどうにもできないのなら、どうにかできるのは照明だ。

 つまり――

 

「ブレーカーを落とすんですね」

「その通り」

 

 太宰は、砂色の外套を翻して、背中を向けたまま手を挙げる。共に通ってきたのとは反対側の、誰もいない暗がりの通路へとつま先が向いている。既に行くべき場所を識っている動作だった。私が、と太宰は告げて来た。

 

「ブレーカーを落としてこよう。ここへ来る前から、建物の見取り図はしっかり予習済みだからね。敦くんはこの場から動けない夏梅くんを見ていてくれ給え。ブレーカーを落とせば、今ついている照明の灯りすらなくなって完全に真っ暗になってしまうからね」

「はい!」

 

 敦は力強くうなずいた。太宰は肩口から振り向いて小さく微笑した。

 頼んだよ、というように。

 敦はこぶしを握り締めた。

 

「ここから私が管理室に行ってブレーカーを落とすまでに掛かるのは、(およ)そ八分くらいだろう。懐中電灯でも見つけてくるからもう少しかかるかな。ブレーカーが落ちる、最低でも三十秒ぐらい前になったら、敦くんは片目でも閉じておいてくれ給え。電気が切れて灯りが無くなってしまう前に、片方の虎眼を暗闇に馴らしておくんだ」

「はい、解りました。お気をつけて、太宰さん」

「ああ。それじゃあ、行ってくる」

 

 それまで静かに沈黙し、俯いていた子どもがほんの少し顎を上げて、消え入りそうな声で言う。

 

「――いってらっしゃい」

 

 まるでさようならというような、弱弱しい声だった。それに、太宰の足が少し止まった。そして敦に視線を一瞬向けてきた。先ほどとは違う、真剣な色――敦は頷いた。

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