どうしてそんなことをするのだろう。どうしてすべてを壊そうとするのだろう。どうして夏梅からたった一つのそれを取り上げようとするのだろう。もしそれを取り上げられたら、それが違うと示されたら、夏梅の存在が分からなくなってしまう。知られたくない。知りたくない。なくなるならいい。でも、ちがうなんて嫌だ。ぜったいに、いやだ。それなら。そんなことになてしまうくらいなら――
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白い手袋に覆われた両手を掲げる男は首を傾げた。
「一つ提案です。――見逃してくださいませんか」
実に簡単なことだった。一見して意味のないことをしている状況。とある画家の絵画を横取りし、画家の子どもを誘拐して、逃げないように取り付けられた地雷と、時間が経過すれば燃焼するように仕掛けられている絵画。問題は、子どもに動く余地を残しつつ、時間の制限を与えているという状況は――まさに実験室での条件づけられた環境だった。
この場を用意したのは、絵画に愛着を持つ学芸員などではない。
そして、この状況を作りながら、実験者が完全にこの場を去るというのはちぐはぐだ。
こうしてすべての状況を見渡すことができる場にいるというのが、実に似合いだった。
だから、太宰は一人で来た。
そういう人物だと知っていた。
ブレーカーを落とした暗闇の中、懐中電灯の光だけを頼りとして、太宰は男と対峙する。
顔に張り付けた皮膚はよく創られてはいたが、陰影の中でも皺が引きつって見えた。
「それは、随分と虫のいい話じゃないかい?」
太宰は目の前の男へと顔を凄ませた。
男は、そうでしょうか、とさも不思議そうに疑問を唱えた。太宰の手にある懐中電灯の光に照らされ、眩しそうに目を細めているさまは、如何にもといった人畜無害さを呈していた。
その時、一発の銃声が鳴り響く。
風鈴の音でも聞いているかのような涼しげな顔で男は云う。
「――おや、聞き
「君の哀れな操り人形が暴走したのではないかな」
太宰が云うと、男は「それは……どうでしょう」と言い、硬い靴音を立てて移動した。
当然、太宰は見咎めた。
「
「先にお暇させていただこうかと。計画は失敗してしまいましたからね。まったく――来ていただきたい作之助殿にはいつも、思い通りには来ていただけないのですから。………まあ、想定外というのは人生における必要な驚きではありますがね」
律儀に足を止めて男は答える。案外と素直なものだ。男は、予想外だったらしいというのに、時折声を弾ませて尚、足りないとばかりに愉し気にわらう。何とも感情豊かになったものだと太宰は苦く舌打ちをする。
「………成程、毎回仕掛けているわけか。道理で、夏梅くんがそんなに動揺していないわけだ」
「動揺はしていると思いますよ、今回は特にね」
「今回は、ねえ……」
あの子の周りを良識を備えた大人が守ってやれなかったのだろうか。
重いため息をつく。問題は解決されたわけではない。
再び歩を進めようとする男の背に向けて、太宰は声をかける。
「私が逃がすと思うのかい」
「脱出への妨害を見越して、私が何も手を打たなかったとでも? 私の現在の職に関連した
けたたましく硝子が割れる音がした。硝子……?
「――
「本当は作之助殿に問いたかった
目の前で堂々と去ろうとする男を置いて、太宰は駆け戻った。
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中島は、先ほど合流した位置からいくらか離れた場所まで、無傷で辿りつけていた。
それは、単なる偶然ではない。
虎眼を瞬かせ、鼻をひくつかせる。
目を凝らせば気が付くかもしれない。そんな程度だった。
電気を消した瞬間、床は微かに光って見えた。何かうっすらと埃のようなものが床にまかれているらしく、目を凝らせば、どうしてか手がかりとなる足跡が見えるのだった。その足跡を辿っていき、音がした場所へ辿りついた中島は、そこに誰もいないことに眉を寄せた。その靴先にコツリと何かが当たる。
「これは――」
それは薬莢だった。薬莢はほかにも幾つか落ちていて、それが壁面へと続いているようだった。抜け道でもあるのかもしれない。犯人が通った道なのだろうか。それにしても怪しいが、手掛かりがこれ一つしかないのだった。
中島は落ちている薬莢をそのままにして追っていき、壁まで無事にたどり着いた。壁を手で探ると、少し開いた扉があった。僅かに空気が循環しているのが判った。
背後を振り返り、声を張った。
「夏梅君、犯人が使ったような抜け道を見つけた! まだ銃を持っていると思う。僕はそちらを追うから、太宰さんが合流したら、指示に従って」
「――わかった」
中島は、扉を慎重に開き、落ちている薬莢を辿っていく。そこは関係者が使うような通路であるようで、飾り気なく、狭い道幅だった。点々と続く薬莢を目印に追うと、一つの角を曲がる。まだ、奥に薬莢は続いている。そして、開いた部屋の前で途絶えていた。
ここまでの道筋はシンプルだった。絵画の並べられた部屋から出て左に曲がる。
さらに通路で左に曲がり、開いた扉の部屋へ。
誘い込まれている――そう気づきながらも、行くしかない。
警戒しながらその部屋へ入ると、薬莢はない。何か手掛かりはないかと屈んで、床の表面へと目を凝らし、うっすらと光るその床の真ん中に光っていないところがあることに気付く。それは薬莢よりも大きい。
「あの形は――」
思わず扉の中へ入った、何かが足に引っかかり、たたらを踏む。
背筋がぞっとする嫌な予感がした。
忽ち、癇癪を起こしたようにゴーン、ゴーンと時計の音が鳴りだす。
「時計が急に……な、何に引っ掛かったんだ」
気が動転しかけた中島は、首を振って、目の前のことに集中する。
何かがあったところを手で探る。
すると、薬莢よりも大きなものを探り当てた。
「
時計の音は近かった。
何かを壁を隔てた先で、銃声が鳴り――鳴ったかかと思えば、けたたましい硬質な素材が割れる破壊音が中島の耳に突き刺さった。それは硝子が砕ける音。衣擦れの音。子どもの悲鳴。銃弾を避けるように瞬時に屈んで、警戒態勢に入っていた中島は、空気の匂いで、先ほどいた空間とつながった場所にいることに気付き、知った悲鳴が混じっていることを知った。
「な、夏梅君!」
軽い
「う、眼が………!」
突然の光に、暗闇に慣れた目を持つ中島は、両目を押さえて悶絶する。
頭痛がした、鋭敏になっていた視覚への強烈な光の刺激に、中島は床へ額を押し付けて呻く。その耳に、自分の呻きのほかに、何か重たいものが落ちる音がして、それを拾う音が聞こえ――それは不思議なことだった――目を閉じているのに瞼の裏に像として情報が結びつく。
「おねがいだから、おねがいだから、やめてよ、おねがいだから」
「それはできないお願いです」
男が云った。
「どうして……?」
大きな瞳から大粒の涙を零して、ぼろぼろと泣いていた。
それでも聞いてくれない大人を見上げて、年端も行かない幼い子どもは呆然と問うた。
頭を支える細い首が今にも重さに耐えかねて、後ろへ倒れそうだ。
「私は知りたいのですよ、夏梅坊ちゃん」
赤い眼が優しく細められた。それに中島は我知らず、鳥肌が立った。
手袋に包まれた長い指が引き金に掛かる。
鈍く光る銃口が、柔らかな髪の乱された頭に突き付けられた。
「私は知りたいのです。だから、『ひょっとしたら』ここでお別れです」
ハッとして目を開けた時、中島は、中島の背後の一つの照明に照らされて、いくつかの絵画と、気絶していたはずの溝地に銃口を突き付けられた夏梅の姿がはっきりと見えた。
「止めてよ、先生、お願いだから」
自分に銃口を突き付けられているというのに、夏梅は溝地という男にすがっていた。
でっぷりとした腹に、薄くなった頭皮。白い手袋ははち切れそうなほど指が肥えていた――目を閉じたときに想像した光景とは少しずつ異なっている。
しかし、そんなことは消されようとしている命のともし火の前では些細なことだった。
「夏梅君!」
間に合わない。
引き金が引かれた。――弾は空だった。
心臓が止まるかと思った。いや、一瞬は本当に停止していた。
飛びかかろう、そう大腿に力を込める前で、何の気負いもなく再び、引き金が引かれる。思わず硬直する。それは異様な状況だった。弾がないにもかかわらず、引き金が引かれる。カチリ、カチリカチリカチリ……と機械的な音が続いたあと、男は首を傾げた。
「そのまま弾を渡してもらいましょうか」
溝地がぐるりと首を回して、中島の方へ顔を向ける。その腕は、夏梅の顔へと回して拘束し続けている。
「敦お兄さん……」
「夏梅君」
目の前には地雷が広がっている。
「くっ どうして……こんなに早く意識を取り戻したっていうのか……!」
「――違うと思う」
夏梅が顎を動かして口を腕の中から出して何かを伝えようとしたようだったが、腕に力が籠められて、空咳をした。拘束しているほうの手にはナイフがあった。
「そのまま弾を渡してもらいましょうか。でないと、刺します」
「ま、待て! 解った、今そちらに蹴るから」
中島は拾ったばかりの弾倉を蹴り、溝地へ当てようと思ったが、夏梅が前にいるため正確には狙えない。あるいは手元が狂ってしまえば、もっと大事になることは間違いなかった。せめて軽い弾倉からさらに弾を抜こうとしたが、
「そのまま、弾を、渡して、もらい、ましょウか?」
「わ、解った! 解ったから」
口調に尋常ではないものを感じて、中島はそのまま替えの弾倉を床に下して蹴った。
夏梅の足元まで来たそれを、溝地が取ろうと屈んだ、その時、夏梅が溝地の顎めがけて頭を後ろに振った。ごがっと声を漏らしながら、溝地が崩れる。夏梅が咳き込みつつ、這って中島の方へと行く。
中島は地雷のことを忘れて駆け出した。そして派手に爆発する足元。
爆発に巻き込まれるなか、中島は這っている夏梅の後ろから、ゆらりと起き上がり、拳銃に弾を入れた男を見て、気が遠くなった。
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駆けてくる足音が遠くから近づく。
いつも走ったりしないその足音は、今は慌てているようだった。
きっと間に合わない、そう思った夏梅は、中島の背後にある絵に届かないと判りながら、手を伸ばした。
夏梅の目に――母の絵に貼られたメモ紙があることに気付く。
“真実の色は
――その通りだった。
手から力が抜けた。ぱたりと床に落ちる。
さらさらとした手触りの床をさすりながら、自分のもとへ手を引き寄せる。
「夏梅くん!」
名前を呼ばれて、体がこれ以上冷たくなることはないのではないかと思うほどに血の気が引いた――届かなかった。
「……なら、もういいや」
暗闇の中で、それは隠しようがないほど明らかだった。
太宰さん、と夏梅は上半身を起こした。
振り返ると、どうやって地雷を避けたのか知らないけれども、近くの絵画の傍にまで近づき、顔をこわばらせた太宰がいた。亡霊でも見たような顔だった。でも――そうかもしれない。
「おださ……」
「ぼくはね、まもりたかったんだ」
夏梅は訥々と語る。
宗教画でも眺めるように、その“絵”を見上げる。
夏梅がいる場所よりも、数段高い位置に置かれているのが何とも皮肉に感じられた。
「お母さんが残した真実よりも、お爺さんたちが、ううん……僕がついた嘘を」
夏梅の眼から見ても、それは美しいものだった。
その“絵”はとても精巧に描かれていた。
母の絵は、もともとその写実性の高さが特徴の一つではあったけれども。
人間に人間らしさを更に足したような、実物以上の温かみがあった。
人肌と血肉を感じさせる絵。
観念して、夏梅は太宰に、
三人の家族の肖像だ。
父と母と幼い子ども。
写真のように細緻に忠実に描かれている。
「その絵を見てみて。そこには
太宰が、そちらへ目を向けた。
動揺が一瞬顔に現れるのが分かった、「――ね」と夏梅は首を垂れた。
「………夏梅くん、聞いてほしい」
何も聞きたくなかった。