夏の梅の子ども*   作:マイロ

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嘘の色は

 

 柔らかな黒髪を指でつまんで、力任せに引っ張った。

 髪を放すと夏梅の指の間に数本残った。

 

 

 

✣✣ ✣ ✣✣ ✣

 

 

 昇降扉(ハッチ)を開いたそこには、敵のギルド員が居た。

 

「なっ……!」

 

 体勢を低くして左手で相手の口を塞ぎ、背後に回り込んで首筋に手刀を落とす。

 くぐもった呻き声を残して崩れ落ち、対象の沈黙を確認する。

 

「肝が冷えたな……」

 

 素手で対抗したが、初っ端からついていない、と織田作はため息を吐いた。

 

 侵入してすぐに運悪く鉢合わせしてしまった敵を熨すと、織田作は、正面からでは死角になる位置へと引きずった。息はあるので、相手の上着を脱がせ、両袖の部分を頭の後ろで結び、目隠しをする。

 次いで、薄手の夏物の外套に付いた埃を払うと、ちょうど通信がつながる。

 

『無事、潜入できましたか』

 

 知性を感じさせる落ち着いた声音が片耳から聞こえる。

 吊具から拳銃を一挺抜き取り、両手で構えながら返答する。

 

「ああ。ここから俺はどちらへ行けばいいだろうか」

 

『まず、右手に見える通路を通ってください。そして出てすぐの左から二番目の外開きの扉を通り、二十二歩行った先に、中央制御室があります。そこへお渡ししておいたUSBメモリを差し込んでください。現状こちらからは船内の視覚情報にはアクセスできておりません。すぐ近くにそちらの組織の人間が潜んでいるかもしれませんのでどうか、お気をつけて』

 

「了解した」

 

 潜入の補助をしてくれる蒐集家(コレクター)でありその界隈では名の知れた電網潜士(ハッカー)でもあるらしい青年実業家へと礼を言うと、とんでも御座いません、と茨木は静かに恐縮した。

 

 茨木の言葉の通りに進んでいくと、扉の取っ手に触れたところで体が蜂の巣になるのが視えた。

 脇の通路に跳んで壁に背を預け、弾雨をやり過ごす。どうやら、侵入がばれているらしい。

 

『大丈夫ですか』

 

 相手が確認のために、扉を開けたところで、最初の敵の脚を撃つ。転げて態勢を落としたところで、その背後にいた敵も撃つ。

 

「ああ、問題ない」

 

 天井から移動している敵に合わせて、両肩の吊具(ハーネス)にある、もう一挺の拳銃へと手を伸ばす。

 

 

 

 

 

❂❂ ❂ ❂❂ ❂

 

 

 

 

 父の友人である、太宰になら見てもいいと思った。

 けれども、いざとなるとやっぱり悪足掻きしたくなった。それも無駄だった。

 

 

「……聞きたくない。見たらわかるでしょ」

 

 真上から照らす光で、影もなくその“絵”の細部が暗がりの中から浮かび上がる。

 

 

 ――海辺の白い部屋にいる三人の家族の肖像画。

 

 

 繊細なのに、明瞭な色で象られた輪郭。

 細部は、人肌の温かさと、薄皮の下の血管とその脈拍まで想像させる細やかさ。

 いっそ、異常なほどの写実性。

 

 こうした絵を描く母は、生涯精神を患っていたとも聴く。

 屋敷に常駐していた医師の専門が精神科であったことからもそれは決して的外れな話ではなかっただろう。

 

 

 母は、艶のある長い黒髪に色白の肌を持つ、成長した夏梅と双子のようにそっくりの顔をした人だ。目は少し伏せられているが、昏い色合いをしている。椅子に座り、画布(キャンバス)を目の前にしている。母の手には絵筆がある。今にも動き出して、画布に絵筆を添えそうなほど、命あるかのように描かれている。

 

 父は、赤銅色の髪に、鳶色の瞳を持つ。髪の長さは今よりもずっと短く、目の下に隈はない。少しばかり微苦笑していて、少し日に焼けた肌の、背の高い人だ。書斎机を脇に椅子に座り、幼い子どもを抱いている。机の上には、原稿用紙と万年筆が置かれている。

 

 そして、ちょっと目を開いた幼い子どもの姿も――夏梅の記憶にある通り。

 

 ……幼い子どもは、その父親(、、)にそっくりだった。乾いた鳶色の瞳に、柔らかな()い髪を、していた。

 

 

「お願いだ、落ち着いて、聞いてほしい」

「――聞く? なにを? その子がぼくじゃないってことくらい、ぼくだってみたらわかるよ」

 

 

 掠れた声で返答するも尚、そのことについて話そうとしてくる太宰に、夏梅の中の抑えておこうと必死だった何かが弾けた。それは幼い夏梅が抱いた鮮明な絶望だった。喉から叫んだ。

 

 

「僕はその赤ちゃんじゃない! 髪だって黒いし、眼だって色が違う! こんな、こんな……! 僕はお父さんとお母さんの子どもじゃない! 判ったで、」

 

 

 咳き込むと、切られた喉からの血が逆流してきた。

 体を折って、口もとに手を遣ったが、指の間から滴った。

 

 そんなに深い傷ではなかったと思うのに、血が止まらない。痛みもない。鈍い痺れが手足に広がるだけだ。

 

 

 指を伝い、ぱたぱたと()い血が床に落ちる。

 この赤が、血ではなくて髪の色だったら、佳かったのに。

 

 

「聞いてくれ、夏梅くん。……髪色や瞳の色は成長するにつれて変化することはよくある。持っている色の違いで判断はできない。それに、これは、絵画だ。写真でもない。これが事実をそのまま描いているとは限らない」

 

「違うよ。知ってるんだ、僕は」

 

 

 成長すると髪の色が変わってくるのかも、と考えなかったことはない。

 高校の生物の教科書や便覧を読んだり、それとなく神西に尋ねてみたりした。

 

 可能性としては十分あり得るし、そういった事例(ケース)は少なくない。

 

 

 ……しかし、顔だちは? 耳の形は? 遺伝によって色濃く出る部位は?

 成長によって変化しにくい部位の、明らかな違いは?

 

 

 この“絵”は――写真よりもずっと、詳細な特徴を伝えてくる。

 写真であればぼやけるはずの部分も明確な線で輪郭が引かれている。

 

 

 これは事実だと、夏梅は知っている。

 

 

 瀬戸の屋敷の絵画には布が被せられてある。

 

 この“絵”は屋敷の主の部屋の、奥の奥の間の、古い箪笥の手の届かないような抽斗の中にわざわざ紫の布で包んで仕舞い込まれていた。それはそれは厳重に。それは、どうしてだろう……?

 

 

「絵には本当のことが描いてあるんだよ」

 

 

 夏梅は憶えている。

 夏梅のことを父は忘れてしまったことがあった。

 

 

「だって、お父さんとお母さんが話してた」

 

 

 いつもは母は、事実をそのままにして描かない。

 ないものをあるように描いて、在るものを描かない。

 

 

「『架空の中に真実を、真実の中に虚構を』って……でも、それでも、この絵だけは、本当のことが描かれてるんだ」

 

 

 死んで、“死相”を食べられて、死の間際一番強く思った記憶を失った。忘れられたということはそれだけ強く想われた証拠だ。それで、それだけ強い想いを残した記憶を失って蘇った人の気持ちなんて、夏梅は知らない。

 

 茫然自失となった父へと、幾度か既に忘れられた母が語った言葉。

 

 

「『あなたはペンを、わたしは絵筆を、それで各々の記憶の在り処としましょう』って――この絵はね、お父さんが忘れちゃっても、それがあったってことを知ってもらうための物なんだよ」

 

 

 この約束だけは、きっと父の中に残っている。

 なぜなら、この約束は忘れられるたびに何度もして、そしてそのあとしばらくして母は亡くなったのだから。

 それっきり、父は死んでいない。

 

 

 この“絵”は母が作った最期の記憶だった。

 世間では、それを『絶筆』というらしい。

 

 

 ――その絵の中に、夏梅は存在しない。

 いるのは、赤い髪に鳶色の瞳を持つ、父に似た面差しの幼子だけだ。

 耳の形も鼻筋も、父のそれをそのまま小さくしたような、そっくりの特徴を持つ子どもだ。

 

 

 夏梅のような、母に似た黒髪に昏い瞳を持つ、色白の子どもなんて何処にもいない。

 母をそのまま小さくしたような夏梅なんて、何処にもいない。

 母の胎内にいた記憶があると思っているのは、夏梅の勘違いなのか。それともそれだけは本当なのか。

 

 

 ……夏梅が自信を持っている記憶だって、この“絵”の前では、意味が揺らぐ。

 

 

 これは、いったい誰が最初に吐いた――嘘だったのだろう?

 嘘を真実(ほんとう)にするつもりだったのなら、こんな“絵”なければよかった。

 

 

「太宰さん、前に言ってたでしょ、『きみはきっとお母さん似だね。あいつとは大違いだ』って。僕を見て、『きみはいったい、何者なのだろう』って言ってたでしょう? ………ずっと、憶えてる」

 

 

 父の友人が夏梅に云った言葉だったから。

 でも、それ以外にも、夏梅は多くのことを覚えている。

 

 ……疑いを持った時から、記憶に残る様々なことが、少しだけ不安に思っていたことが糸でつながったかのように、次々と思い出されて、夏梅はずっと焦っていたし、不安だった。

 

 

「お墓前りに行くときに、横浜で駅までバスに乗った。その時のバスに乗ってた、あの母娘(おやこ)は髪の色も目の色も、顔もそっくりだった。おかしいよね、だってその女の子のほうは風邪か何かでマスクをしてて、目ぐらいしか見えなかったのに、似てるって分かったんだよ」

 

 

 夏梅は自分の顔に触れる。頬は父のように肉が薄くなっていない。

 手は、親子で似るという。それなのに、夏梅の指も手首も細く、同級生の女子にすら驚かれるほどだった。

 

 

「それなのに、でも、じゃあ、僕は? お母さんには似てても、お父さんには? お母さんとは血がつながってたとしても、お父さんとは? お母さんはもう死んじゃった! じゃあ、お父さんはぼくのお父さん? お父さんの子どもはぼくじゃないの? ぼくは……」

 

 

「……夏梅くんきみは」「――ぼくは」

 

 

 足元の地面が無くなってしまったような気がした。

 ぼんやりと夏梅はまたたきをした。

 世界はずっと滲んでいる。

 

 

「ぼくはだれなんだろう……?」

 

 

 誰に問いかけたのかもわからない。答えだって返ってこない。

 絵画は喋らずに、夏梅にその家族を見せつけてくるだけだ。

 

 

「ぼくはなんなんだろう……?」

 

 

 手を開いて、数本の黒髪へと視線を下ろす。

 赤い血に濡れた中でも、髪の毛は黒色だった。

 

 あの絵に貼りつけられたメモ紙の“真実の色は()”という通り、本当の子どもは赤髪をしているのだろう。では、黒髪の夏梅は偽物で、“嘘の色は黒”とでもいうのだろうか。父と母以外の子どもなら、そんなのいらない。だってそれなら、夏梅はいったい。

 

 

「……だれの子どもだったのかなって……」

 

 

 誰に問いかけたのかもわからない。答えだって返ってこない。

 絵画は喋らずに、夏梅にその家族を見せつけてくるだけだ。

 

 

「そんなの、いらない」

 

 

 その言葉がきっかけだったのか、焦げ付く匂いがした。

 最期の一枚の絵にも黒い紐がつながれていて、そこは既に煙が上がっているようだった。

 

 ああ、といつの間にか呟いていた。

 

 

「燃えちゃうんだ」

 

 

 ぼんやりとした視界の中で、赤い火の筋が見えた。

 それは廃油をしみこませた紐という導線を介して、燃え伝っているものだった。

 

 

「そっか、燃やすんだ、先生」

 

 

 手を握りしめる。

 それでいいと思っていたのに。

 息を吸って足に力を籠める。しかし。

 

 

「……ぬわわっ…」

 

 

 地雷原へと踏み出しかけた夏梅は後ろから猛烈な何かに突き飛ばされた。

 何かはその時、わからなかった。投げ出された床は幸いなことに、地雷は無いようだったが、その脇を小太りの溝地が通り抜けていく。その体からは思いもしない俊敏な動きだった。床から何かが巻きあがる。夏梅は何かを吸い込んでぼんやりとしかけた意識を、ぎゅっと目を閉じ首を振ることで引き戻す。その耳に、溝地の雄たけびが聞こえた。

 

 

「こ、この子たちを燃やさせるものかあああ」

 

 

 顎を強か打った夏梅はそのまま、絵画を抱え込み、火の手から遠ざけた溝地を信じられない思いで見上げた。

 

 

「うぇ、溝地さん……? なんで」

 

「大した専門(プロ)意識だよ、彼は」

 

 

 太宰が、絵画の側から大きくひと跳びで、夏梅の傍までやってくる。

 

 

「太宰さん、どうして――?」

 

「地雷の事かい? それなら、君の知り合いが設定していた、織田作への選択肢を考えれば、おのずとどこに地雷が仕掛けられて何処に仕掛けられていないかというのは予想がつくのだよ。実に合理的な、地雷の配置だからね」

 

 

 溝地は、手に持っている拳銃に、「な、なんだこれは」と叫ぶと、放り捨て、慌てた足元で蹴りつけた。

 床を滑り、夏梅の脇を通っていく。

 

「あ――れ」

 

 ほんの少ししか見えなかったが、その銃は見覚えがあった。

 

「起き上がれるかい、夏梅くん」

 

 

 太宰の手が夏梅へと伸ばされた。

 夏梅は、自力で起き上がった。

 

 

 その手は夏梅には過ぎたものに感じられていた。

 

 

「そっちじゃないけど……」

「――私からあの“絵”に感じたことだね。そう、確かに私の眼から見ても、あの幼児の骨格や印象は、きみとはまったく違う(、、)ものだ。きみの云う通り、あの絵が事実を切り取っているとするのなら、描かれている幼児はきみでは……ありえない」

「………うん」

 

 

 服についた何かの粉をきらって、夏梅は蒼褪めた手で払う。

 判っていたことを言われただけなのに、手が震えた。息が震え、目の奥が熱くなった。

 

 

「きみには、散々問いかけたね。とても残酷なことを、何度も。そんな私が云うのはとても無責任なことだとなじっても当然のことだ。――だが、云わせてもらうよ、夏梅くん」

 

 

 聞きたくないけど、とは言えなかった。

 聞かなければいけないと思った。

 この包帯だらけで傷だらけのこの人の言葉だけは、何を言われても。

 

 

 夏梅は聞かなければならないと思った、「――それでも」

 

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