微妙な顔をした刑事と目を輝かせる若い警察官に見送られる。
事件について、例の男性に聞いたところ、すぐに被害者の身元が分かった。何故、そのことを言わなかったのかと声を荒げて問う刑事は相手の言葉を聞いて何かに口ごもった。それからただ頷いて、署に来くるように落ち着いた声で頼んでいた。
夏梅は父や大叔父の言葉ではなく、自分の目で見て、江戸川乱歩という人物がすごいと感じた。
夏梅のふくれっ面もおさまるくらいに、それは圧巻だった。
江戸川の姿を見つつ、夏梅は帰りの電車に乗った。そして江戸川の異能力を褒めつつ、どうやって解決に導いたのかを質問した。機嫌のよい江戸川は、それに答えてくれた。
頭がぷすぷすと湯気を上げるような興奮に包まれた夏梅は、窓の外に視線をやって落ち着こうとした。
電車の窓は、きらきらと光る水面がみえる川を切り取っていた。そこに、なにか見慣れないものを見つけて目を細める。
ううん……?と首を捻っていると、江戸川がひょいと顔を出してきた。
「ありゃあ、まーたやってる」
「ぼく……あれ、人の両足にみえるんですけど。……流れてる」
「気にすることはない、いつものことだ。放っておけばいい」
太宰だよ、と江戸川は言う。がたがたと夏梅は身じろいだ。
「え、たすけないと」
「へーきだよ。すぐに川から引き上げられるよ。その岸辺にいる少年にね」
そう言った途端に、川の中へ少年がとびこむのが見えた。電車からはそれ以上みえなかったが、江戸川のまったりとした様子から落ち着きを取り戻し、夏梅はいつの間にか浮かせていた腰をおろした。
探偵社まで送って、夏梅は報告書を作成し、茶を淹れていた父に出迎えられた。その手には、何かの資料があった。
「夏梅、戻ったのか。乱歩さん、お疲れさまです」
「どーもー」
自由気ままに江戸川は席に飛び乗って本を読みだす。斜陽のなかでは読みづらいだろうと思い、江戸川の席のところの電気をつけてから、父の方へと近寄った。
「おとうさん、それは?」
「このところ騒ぎになってる、『人食い虎』の被害についての資料だ。独歩に頼まれてな」
「ふうん。お茶は、大叔父さんに?」
「社長と呼ぶように。――持って行ってくれるか。今日は、事務の方が非番でいないんだ」
父は人からものを頼まれやすく、そしてそれを何でも受け付けてしまう。自分の手に負えない案件は断るが、そんなに何でもかんでもしょい込むのは、子としては不安に思う面だった。
「いいけど、おとうさんの報告書の提出は、休日だとおひるの三時までだよ」
「それはもう終わっている。これは太宰のだ」
「………太宰さん?」
用事があるからと頼まれた、と父は言うが、夏梅は電車で見かけた両足を思い出して微妙な顔になった。どうした、と父は首を傾げる。そして夏梅の頭を撫でてきた。口許にはほんの少しの笑み。
「それにしても、しっかりするようになったな、夏梅」
夏梅はすこし目を大きくしてから茶くみ用の盆で口許を隠して、父を見あげた、
「――もっとほめてもいいんだよ、おとうさん」
すると、調子にのるなと頬を引っ張られた。いたい。
大叔父の福沢に茶を持って行き、江戸川の代わりに報告書を作る。
そうしているうちに、日はすっかり暮れた。
作成した報告書を、父に確認してもらう。本当なら、同行した先輩社員に見てもらうところだが、江戸川に関してはそれが当てはまらない。
父は既に太宰から頼まれていた報告書をあげ、さらに『人食い虎』についての資料をまとめているところだった。地図に日付や被害について書き込んでいるところだったが、夏梅が近寄ってくるのを認めると手を止めた。
父の作業に一区切りつくまで待つつもりだったが、夏梅は手に持っていた報告書を渡した。
父はざっと目を通しただけで、赤ペンで次々にチェックを入れた。
「使える漢字が増えたな」
しかし、直しはなくならない。むむむと口をとがらせていると、父は何故か微笑した。
「……学校で友だちがおしえてくれるから。ないしょで、おかしもくれるよ」
父はそうか、と頷いた。学校でのことは心配いらないということが伝わっただろうか。安心してくれたように思って、満足して、夏梅は報告書を直すために席に戻った。
すると、休日だというのに、探偵社のドアが開き、社員たちがやって来るところだった。
父に資料を頼んでいた国木田独歩を筆頭に、谷崎兄妹、宮沢賢治、与謝野晶子ら。勢ぞろいでどうしたというのか。ここまで揃っていると、太宰がいないことが気にかかってくる。帰りに見かけたおそらく太宰の足は無事に少年に助けられたのだろうか。
「どうしたんだ、独歩。太宰を追いかけたんじゃなかったのか」
父が目を上げて言う。そして後ろのメンバーも見て、目を細めた。
「その太宰から伝言だ。織田作と……帰ってきたばかりの夏梅にも悪いが、来てもらいたい」
江戸川は社長とともに留守番だ。
夏梅は、父や他の社員とともに目的地へと急行する。
青白い月が浮かぶ空を見あげつつ、夏梅は父に今日の仕事について話をした。
「乱歩さん、すごかったんだよ。警察のひともおしえてくれなかったのに、よく来てる男のひとがいることを当てたんだ。それも二十代から三十代っていって、奥さんも子供もいるってあてたんだよ」
江戸川の力を目の前にして、夏梅は感嘆した。筋だって言われると、なるほど、と誰もを納得させる根拠も言ってみせた。
「そうか。――それは、どんな事件だったんだ」
要領を得ない話だと夏梅でも思うが、父は根気強く続きを聞いてきた。夏梅は声をひそめたまま、言葉を選んでいう。
この事件――いや事故の全貌はこうだ。被害者は、ここ数日の間、毎日やって来る男性と付き合っていた。三日前、男性と待ち合わせをしていた被害者は、結局男性とは逢えなかった。それは、待ち合わせの時間に男性が来なかったからだ。その日は、早朝の電車が遅延していた。一時間遅れて、男性は待ち合わせ場所に来たが、そこに被害者はいなかった。被害者は、その頃には既に、海へ転落してしまっていたのだ。その時刻が、朝の五時三十八分だ。被害者は転落する際に、漁船が密集した場所で、縄か何かに絡まってしまい、溺死する。しかしその遺体は絡まったままですぐには発見されず、待ち合わせに来ていた男性もまた、見つけられずにその場を去った。そして、今日。深夜のうちに出航する漁船のスクリューに遺体が巻き込まれる。体は既に膨張していて簡単に切断されてバラバラになった。その欠片が、海に放った網にかかった。
そして江戸川は、被害者の身元は、男性に訊けば分かるだろうと言葉を締めくくった。
「殺人ではなかったんだな」
「うん。腕におなじような傷がたくさんあって、ひとにはできないっていってた。それがプロペラでできたものだって」
「そうか。――そういえば、三日前といえば、夏梅が遅刻した時だったな」
「……遅延しょうめい書をちゃんと提出したから、公欠にしてくれる……はずだよ」
夏梅は顔をあげる。
「でも、すごいよね。乱歩さんには、ちょっと話しただけなのにちゃんとそのことを覚えていたんだよ。それで、待ちあわせに相手のひとが遅れたっていうのを当てたんだよ」
電話で刑事が確認した時、その通りだったということを知ったのだ。
「相手は待ち合わせしていた被害者が死んだということを、ニュースで見なかったのか。名乗りを上げそうなものだが」
夏梅はぱっと口を開いてそれはね、と声を上げる。慌てて口を押えて、ひそめた声で言い直した。
倉庫の中も外もしんとして静かだ。この静けさに見合った、小さい声で話すように心がける。今もまだ一応、仕事中だ。
「それはね、ニュースでは女のひとのからだが見つかったっていってたけど、ほんとうは男のひとだったんだ。女のひとだと思ってたのは、かみのけが長かったからだけなんだって」
「……へえ? そういえば、見つかったのは左腕と頭部だけだったか」
「うん。そのひとはね、ニュースは見たけど、男のひとをさがしていたから、女のひとがしんでるっていって不安になってずっと港に来てたんだって」
「大切な友人だったんだな」
目を伏せる父に、すこし冷静になった。人が死んだというのに、このように得意になって話すのは良くなかった。
近くにいた国木田が、中の物音を聞き取り、父を呼んで扉の近くに待機するように言って、一旦離れた。代わりに、国木田が建物から下がってふうと息を吐いた。
国木田は、夏梅の入社試験で、強盗犯を演じていた。そのときは目まぐるしく動く場面についていけず、突拍子のない人と思っていたが、実際はごちゃごちゃと個性の強すぎる社員のまとめ役だった。
夏梅は正直、こういったしっかりした人からよく世話をされる。学校では、小テストの範囲から勉強の仕方までみてくれる。相手をしてくれるだけ、ありがたいと思う。
「聞こえて来たから、つい聞いてしまったんだが、どうして被害者の男は海に転落したんだ?」
さきほど、死んだ人のことを話すのは良くないと思ったばかりなので、夏梅は落ち着きなく目を瞬かせて、江戸川から聞いた事故の顛末をむりやりまとめて口にした。
「ひだりのおねえさん指が少し細かったんだって」
薬指だな、と律儀に訂正を入れてくる。むむと口をとがらせるが、話を続ける。
「ぼくはよく分からなかったけど……よく来てた男のひとと死んじゃった人はずっとまえからつきあってて、くすりゆびに指輪がはまってたって」
ずっと指輪をしていると、成長してもその指は細いままだという。被害者と待ち合わせしていた男性とは、ずっと前から付き合いがあったことを表していると、江戸川は言っていた。
「……おい? 待ち合わせていたのは男同士だったと聞いたような気がするんだが」
うん、そうだよ、と夏梅は頷く。そういえば、刑事も若い警察官も何とも言えない顔になっていた。
「それをうみに投げようか、どうしようかってうろうろしてるうちにうみに落ちちゃったんだって」
「……それは待ち合わせに、相手が遅れたからか?」
「怒りっぽいひとだったのかも。いやなことがあるとものをなげるひといるもんね」
夏梅は自分の考えを言う。江戸川の話は難しくてよく分からなかったのだ。夏梅が幼い頃――今だって十二分に幼いが――母が健在だったとき、いらいらすると大事にしている絵筆さえ壁にたたきつけたり、力任せに折ったりすることがあったのでそれを参考にした。
しかし、一応江戸川の話も国木田にする。
「ええっと、『妻子を持った男との関係を終わらせようと呼び出し、待ち合わせ時間までじっと待っていたが、相手は現れなかった。帰ろうかと思ったが、男との関係に一人でもけりをつけるべきか悩み、長年の関係の象徴でもある指輪を捨てようかとうろうろした結果、足を滑らせた』……です」
国木田は顔の下半分を押さえるのか、眼鏡を直すのか、手を顔の前にやっていた。結局、その手は眼鏡を直した。反射した眼鏡で見えない表情のまま、国木田は口ごもりながら言った。
「その……指輪は見つかったのか」
「うん、あとで。ほそくなってたゆびには、なにもなかったけど、あとで調べてみたら交番に届けられてたって。乱歩さんはすごいね」
そういえば、国木田はしっかりと頷いた、「ああ、乱歩さんはすごい」
その言葉に迷いはなかった。
青白い月夜に、白い虎の少年が現われた。
彼の名は、中島敦。
夏梅は、他の社員とともに倉庫の中へと入って、その驚いた顔を見つけた。
事件のあらましを考えても、文才がないので書ききれない…