両手を組んだ上に顎を乗せて、エプロン姿の父の広い背中を、口をとがらせながら眺めた。漂う……肉と香草、油の匂いの空気を吸っているだけで、もう夏梅はなんだか、胸いっぱい、お腹もいっぱいな気分だった。
「……おとーさん、さっきからずっと、なに作ってるの?」
「寝台列車での料理を再現してみようかと」
父は、木べらを手に、「そう、思い立ったのはいんだが……」とその横顔を微かに曇らせた。なにか心配事でもあるのだろうかと夏梅は首をかしげる。
夏梅の食事が格別注意を払わなくてはならないものだったので、父もまた栄養士並みの知識を持つようになっていた。父は手先も器用なので、料理に凝りだせば上達も早い。きっと今では母よりも父の方が料理上手なのではないかと思う。その父が、料理で何か悩みがあるのだろうか。
夏梅は、いま父が手掛けている料理の具合を見ようと目を細めた。
ざっくりと切られた葉野菜はボウルの中に納まり、食卓に出す際に盛り付けるのだろう大皿は既に作業台にセットされていた。今は火がかけられていないけれども、片方のコンロに鎮座するのは、先ほど完成したカレーの入った厚底鍋だ。
「あそこで食べたものって」
「ああ」
父は頷く。
……夏梅はちょっと間をおいて首を傾げた。
「えっと……」
カレーのことではないのだろうか。
じっと眺めていた割に、夏梅は目の前の状況を理解できていなかったようだ。
ひとつひとつ、言葉にして確認していく。
「お悩みは……カレーですか?」
こだわりが過ぎて、満足のいくレベルが高すぎているんじゃなかろうか。
父は目線を天井に巡らせてから、「……違います」と首を傾げ、厚底鍋を振り返った。
「カレーは完璧に仕上がってる」
「あ、そう……」
寝台列車でのまともな食事といえば、たった二回だけ。
両方とも、カレーで、サイドメニューが、サラダだった。イタリア風の盛り合わせで、油が何だか青い実の匂いがしていた。そういえば、父が料理棚に、黄緑色の瓶に入った新しい食用油を揃えていた。それを使っているのかもしれない。出来上がりを想像して、夏梅は首を傾げた。
「じゃ、サラダなんだよね? なんだかサラダにお肉を入れるなんて、とんだおしゃれ料理だね」
「肉を焼いて入れるのは、よく分からない肉の代わりだな。他にも、代替している材料が多過ぎて、全く別物になりそうだ」
「……それはそれでおいしそうだよ?」
夏梅はちょっと気まずげに両手をこすり合わせながら慰めた。
その傍ら、サラダに入れる肉が香草とともに焦げる音がした。夏梅は何だが鼻がむずむずとして来て顔をしかめていると、玄関の呼び鈴が鳴った。夏梅は鼻のむずむずから逃れるように椅子から立ち上がると、廊下に出た。パタパタと足音を立てて玄関へ向かった。
鍵を開けて、そのまま開く。私服姿の太宰は、片手に荷物を下げてにこやかに微笑んでいた。
「いらっしゃい、ませ。太宰さん」
「お邪魔するよ。……ここのセキュリティはなかなかのものだね」
セキュリティといわれて、首を傾げかけた夏梅だが、ああと見当がついた。
「お爺さんがここにしろってみ、み、みつ」
「『見繕って』くれた?」
「たぶん、そう」
予め伝えておいた秘密番号は問題なく使えたらしい。
……12ケタの英数字の組み合わせをメモも取らずに一度で記憶したのはすごいのではと周りの反応を感を想像してみた。
玄関で立ち話も何である。
「どうぞ」
お邪魔します、と太宰は断りを入れて玄関に入った。扉を閉める。
勝手に鍵が閉まるオートロック式だ。一応、きちんと閉まるか確認してから、先に中に入った太宰へと振り返る。すると、太宰はこちらを見下してきていた。
「夏梅くん」
「はい?」
不思議に思って首をかしげると、生真面目な顔をして太宰は云う。
「誰か解からないのに扉を開けるのはちょおーっと……いただけないかな? 君はまだよくわからないかもしれないけれど、世の中っていうのはね、何かと物騒なのだよ」
「ぶっそう……」
「危険、危ないってことだよ」
「はえー……」
眉をひそめた。ここは元少年暗殺者である父がいる家ぞ。そう思った夏梅だったが、確かに、この家に良からぬ目的で入ろうとしてきたうっかりさんは大変気の毒である。――なるほど、世の中、物騒だ。
「だから、玄関の扉も、ちゃんと相手が誰かだか確認してから開けなくてはならないのだよ?」
明るくも諭すような口調に、はーいと夏梅は返事をしたが、いよいよ退屈になってきていたので、その手は既に太宰の袖を引っかけ中へ引っ張っていた。そして顔だけ振り返って奥に声をかけた、「おとーさん、太宰さんが来たよー」
奥から声だけが返って来た。
「ああ。上ってもらってくれ。今
「はーい」
夏梅は、脇に寄せられていた室内履きを揃えて玄関先に出した。
どうぞ、とにこりと笑う。顔に笑顔を固定するよう心掛けた。
「有難う」
太宰はにこやかに微笑んだが、出された室内履きを一目見て、頬の筋をひきつらせ、ひとこと「……うーん」と呻りただ立ち尽くす。
「どうしたの?」
夏梅は取り合わない心算だったけれど、乾いた瞳で太宰を見上げた。
「いや……とっても可愛い
あーこれね、これこれ……夏梅はげんなりしながら、ちょっと現実から目をそらした。遠いお空の下にいる祖父を思いうかべる。
「
夏梅がぶつぶつと愚痴を零していると、それを頷いて聞いていた太宰がしみじみとした口調で呟いた。
「それを、私に用意してくれたのだねえ」
「……あ、赤い目、可愛いよね。先生にちょっと似てるんだよ」
夏梅は、自分でこき下ろした室内履きを慌てて褒め、ごまかそうと愛想笑いした。
他の室内履きが出される気配がないのを察したか、諦めたように太宰が足を突っ込む。
「赤い目の、先生ね……」
「髪はとても真っ白いよ、おじいちゃん先生だからね」
ふうん、と太宰が空いている手で顎を撫でる。
「随分と、お年を召していらっしゃるのだね」
何やら考え込んでいるらしい太宰に、何か引っかかることでもいっただろうかと内心で首をかしげたが、いい加減、そう広くもない廊下で窮屈過ぎだった。太宰の、袖を引っ張る。
「おとうさんが晩ご飯作っているから」
「織田作の手料理かあ、はじめてだな」
父が料理上手であることを知らないな、と思った夏梅は、太宰の驚いた顔を思い浮かべてちょっとご機嫌になった。奥からは、油の跳ねる音がした。揚げ物をしている最中なのだろう。香辛料の匂いも漂ってくる。サラダ以外もつくっているのだろう。
夏梅は、太宰を引っ張りながら居間に入った。
太宰が土産に持ってきた固豆腐は紙のように薄く切って食べた。これ豆腐なんだよね? と思いながら父と共に食べる。不思議なことにとても美味しい豆腐の味がした。紙のように薄いのに。
「あー……豆腐の角に頭をぶつけて死ぬって、こういう豆腐に頭をぶつけちゃったのかな?」
「そんな物騒な話、どこから聞きつけて来たんだ?」
「物騒かなー?」
物騒だろう、と父は水を飲みながら、不思議そうに言う。
夏梅も不思議に思って父を見上げた。
すると、太宰が机の向かい側から口を開く。
「この豆腐だったら、死ねないことはないと思うよ。何しろそのために開発したのだからね」
「ああ、例の妙な試みか」
「そう。私の神妙な趣味さ」
父も、太宰の試みについて思う部分はあったらしい。
当の太宰は気にも留めていないようだけれど。
「……わざわざ固い豆腐を作らなくても、冷凍庫で凍らせてから頭をぶつけたらいいんじゃない? あ、そうしたら、ほら。遺体が発見されたときには豆腐は溶けて、凶器だってばれないよ。溶けた豆腐は、ぶつけた頭よりずっとずっと柔らかくてすぐ潰れちゃうから」
途端に太宰が膝を叩いて呻った。
夏梅はぱちくりと瞳を瞬く。
「素晴らしい、実に見事な完全犯罪だ! 才能があるよ、夏梅くん!」
「そうかな……」
太宰が褒めるが、夏梅は「何の才能だろ……」と微妙な気分になりながら水の入ったコップを持った。匙を机に置いた父が、夏梅に向き直った。
「その凶器を使う予定があるのか?」
凍った豆腐を凶器として見做せる父って天然だな、という感想を抱く一方で、夏梅の顔は強張る。つまりこれって、どういう意味で聞いているのだろう。
「……僕が人を殺すと思われてるの?」
夏梅は唖然とする。
わなわなと持っている箸から、食べかけの唐揚げが落ちる。夏梅は食べ物を粗末になんてしない! 心外すぎる!
あんまりな疑いに戦慄く夏梅へ、太宰が努めて柔らかい声をかける。
「気のせいさ」
太宰がとりなすように父の腕を小突いて目配せするが、父は何のことかくみ取れなかったのか、首をかしげていた。
夏梅は半眼で父親を見上げる。首を傾げた父が、夏梅に目を落として口を開く。
「いや、そうでもないなら、お前まで自殺に嵌ってしまったのかと」
「……えっ」
「………ええっ 夏梅くんも?」
太宰が、そうなのかいという目できょどきょどと夏梅の方を見てきた。そんなわけない。自殺にはまるなんてちょっと訳が分からない言葉でもあるし。死んじゃったら、もうおしまいなのに!
こみ上げる憤りと共に力いっぱい首を横に振っていると、違うならいいんだ、と父はこめかみに手を遣っていた。
夏梅は、納得がいかなくて口をとがらせる。
「しないから。僕はこの先、ちゃんとお父さんのろうごの面倒を看なきゃいけないんだから」
「看てくれるのか」
太宰が突如、口に含んだ水に咽た。
夏梅が机にあるティッシュを一枚差し出す。しかし太宰は余計に咳き込んだ。……手の施しようもない。いや、ティッシュの施しようも?
隣で父が向かいの太宰のコップに水を注いでいるけれど、その処置は合っているのか。
ちょっと気になりつつも、夏梅は父の言葉にすぐに反応した。
「そうに決まってるでしょ。だいたい、僕は忙しいんだよ! 神西先生ももうお爺さんだし、
「か、かいっ…ごほっ」
「介護か。そうしたら、横浜から瀬戸に行かないとな。……太宰はどうしたんだ?」
「そうだね。一か所に集まっててもらった方が介護しやすいかも。……太宰さん、大丈夫? 風邪? 病気? 神経症?」
「お、おかまいなく」
そうか、と父が頷くので、大丈夫なのだろう。
夏梅はにっこりと満面で笑む。
「でも、お爺さんたちもまだまだ元気そうだし、それまでは横浜のここにいようよ。……その間に、
是公とは、祖父である正直の実の息子である。実子がいるのならば、なぜ母を養子に取ったか、と疑問に思うかもしれない。理由は、性格にある。是公は豪放磊落とした気性の持ち主であり、片田舎の型に嵌った暮らしが性に合わなかったらしく、若い頃に出奔したきりだという。勘当の言葉を叩きつけることができなかったことを祖父は今でも心底悔しがっているらしい――ということはさておき、この是公という人物が絶縁状態になってしまったため、後継者不在となり、頭を悩ませているところに、夏梅の母が養子として引き取られたのだー。だー……。
家系図的には、母の義理の兄という立ち位置にいるので、夏梅は『伯父さん』と呼んでいる。
母は早くに亡くなってしまったし、夏梅はまだ幼い。
伯父が戻って来たなら、瀬戸の実家での夏梅の立場だって変わってくるだろう。
「お前は、瀬戸に戻りたいんだと思っていたんだが」
「それはーお父さんのほうだったでしょー」
唇を尖らせる。すると、ふと思いついたように、太宰へ顔を向けた。
薄切りの豆腐を口にくわえていた太宰がそのまま小首をかしげた。
「太宰さん、瀬戸の屋敷に来てみないですか? お父さんのお友達に会ってみたいって神西せんせいが言ってて」
夏梅の言葉に首をかしげたのは父だ。父と神西とは患者と医者という立場で、関わる時間が長かった。その人となりも父は夏梅よりもよく知っている……筈だ。
「先生がそんなことを? そういえば、あの方も、頭が回るし、太宰とは話が合うんじゃないか」
「えええー、私、下手に小賢しい奴とは、合わないんだけどう……」
もぐもぐと豆腐を咀嚼して飲み込んだ太宰が、口を尖らせた。
夏梅はきょとりと目を瞬かせた。
「神西先生は、そこら辺の知恵者などより博識で、貪欲な探求心にあふれ、医術者として数々の患者を救わんとするその人格も素晴らしい。だから――」
「神西せんせいは、何考えているかわからないくらいとっても頭が善いところも、変なところで難しーく考えることも、性格がちょっとうわあ…なところも似てるから」
「太宰とは合うんじゃないか」「太宰さんとは合うと思うよ」
そのときの表情が写し取ったかのようにそっくりだったのは、本日一番の見物だったとは太宰の言葉である。
「それ……どういう意味だい……?」
どこか消沈した太宰の頭を見つめながら、話題は移っていく。主だった目的だった、白骨の出た学校の話、母の女学生時代の聞きかじった話から、横浜の危ない話へと。夏梅は父を見上げて言う。
「おとうさん、ポートマフィアってとっても危ないんだね」
「ああ。この横浜で、好き好んで対峙したくはない相手だな」
父はカレーに唐揚げといった脂っこい物の組み合わせに胃もたれしたのか、先ほどからずっと固豆腐を口にしてばかりいる。歳か、とぼやくのを横目で見ながら、夏梅は唐揚げを口に運んだ。
まだ若いさ、と太宰がの肩をたたく。
「そういえばポートマフィアって、人間を頭から一口で食べちゃうんでしょ?」
炭酸レモンを注いでもらって飲む。
さすがに口のなかが脂っこかった。
「それは初耳だな」
「なんとも
真顔で頷く父の顔、ちょっと呆れような太宰の顔。
父が、不可解そうな声音で呟く
「昨今のポートマフィアは野獣化でもしてるのか?」
「敦お兄さんみたいだね。でも、お兄さんは人を食べたりしないよ」
夏梅は思い浮かんでしまった中島をかばうように云った。
口にした後に、夏梅が父の言葉で中島を連想してしまったことが伝わってしまったかとちょっと気まづくなった。幸いなことに、父は中島のことに意識がいったようだった。
「人食い虎とか言われていたが、結局人は食っていなかったことは報告書にもあったしな」
「私はまず、ポートマフィアの人間が人を食べたという情報の正否を論じたいんだがね」
おかしそうに笑いを
次を終章にしようか迷ったのですが、経過を省けばちょっと強引過ぎるし、経過だけ説明しても長くなってしまったので、ひとつ章を追加することにしました。
もうしばらく続きそうです。
宜しければ、お付き合いください。