夏の梅の子ども*   作:マイロ

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『せいかくわるいな。』


学芸員と画家の子

 精巧な技術によって描かれた絵画は、写真と何が違うのか。

 其処に意味はあるのか。

 

 

 溝地タケルはこう答える。

 ――人は意味がある物を愛すのではない、と。

 

 

 古代の希臘 (ギリシア)において名高いプラトンという者は、詩人を『パイドロス』にて次のように語った。『ムゥサの神々から授けられる神がかりと狂気があり、もし人が、技巧だけで立派な詩人になれるものと信じて、ムゥサの神々の授ける狂気にあずかることなしに、詩作の門に至るならば、その人は自分が不完全な詩人に終わるばかりでなく、正気のなせる彼の詩も、狂気の人々の詩の前には、光をうしなって消え去ってしまうのだ』と。

 

 圧倒的な画力で見た者の度肝を抜いた、鬼才――中村和枝(カズエ)

 彼女の絵を、ただ写実性に優れているだけの物と囀る観衆がいる。

 芸術とは受け手の受け取り方を強制するものではなく、見る者と作品との関係についてどうこう口出す筋合いはない。

 

 だから『私』個人の、私的な意見を云わせてもらえば――彼女の絵は、気が触れたような精巧さで作られた、ひとつの虚構世界だった。そこには、在る筈のものがなく、無い筈のものがあった。安易に『見たい』と思ったものがなく、切に『見たくない』と思ったものこそがある。

 

 

 彼女の絵を、一部の界隈に知らしめた最初の一枚がある。

 それは地下室か倉庫か分からないが、暗所に寝転ぶ少女の絵だ。学生服を着たその少女は、片方のおさげを半ばまで解いた状態で横になっている。分厚い黒縁の眼鏡を胸の上に置き、両手を腹の上に組んでいる。

 健やかな寝息すら聞こえてきそうな、血色の良い頬。空間の上部の空気穴から外の光が僅かに差し込み、少女の顔の半分を照らす――ある種の宗教画のようだった。

 モデルの少女は亡くなっており、その死を悼み、その魂の安寧を願って書かれた追悼の絵、とされている。一般には。――しかしそれは事実ではない。

 

 

 貸し出されなかったものに、彼女の故郷である、瀬戸の海と集落が舞台の絵画がある。

 現実よりも美しく描かれた海には、白い影があった。その影は、極細の筆を更に減らして細くした線で描かれていた。見る視点を変えると、その形が見えてくる――あれは海の中に沈む髪の人影だ。長い白髪の隙間から腕を伸ばし、集落の上の方を指さしている。小さく描かれた腕だが、筋肉の付き方からして明らかに男とわかる。

 

 

 最初の一枚も、故郷の一枚も、それは事実ではない。

 モデルの少女は死んでおらず、沈んでいる男は生きている。

 

 

 そう、彼女の絵は虚構を描く画家だ。

 

 実際、彼女の在学中に多数の行方不明者は出たものの、皆帰ってきている。

 逆なのだ、彼女の絵は。

 海の中に沈む男も、死んでいるように描かれているのならば、生きている。

 

 しかし――果たしてそれは、真実なのか。

 

 

 溝地はこう受け取った。

 彼女の絵は虚構だが、真実を描いている、と。

 

 彼女の絵は嘘しか描いていない。

 それを見て素晴らしい、本物と見分けがつかないと、本物よりも素晴らしいと賛辞する。

 しかしその絵は、真実を受け入れさせるために、事実を捻じ曲げた虚構なのだ。

 けれどもそれは、本質を突く。

 

 ――観衆は気づかない。

 

 それは、見たい物だけ見て呼吸することが許される現実社会での生の、あらゆる矛盾をついてくるような、事実よりも真実を表す鑑だった。彼女の絵は、最も目を逸らしたい一片の真実だけを具現化している。なればこそ――それが魅せるものは事実ではないともいえる。事実(fact)()真実(truth)ではないということを皮肉たっぷりに指摘してくる。

 

 

 人は虚構が好きな生き物なのだ。

 そうだろう?

 

 写真よりも絵画を好む理由を示す必要があるのか。

 誰かの視界を、脳内を、覗いてみたいという欲求が備わっていないと言えるのか。

 

 

 それが悪辣であるほど、興味をそそられる暴力性があるのが人間だ。

 けれども、彼女の絵には――希望がある。事実をゆがめながらも正しく本質を描いている。

 ただグロテスクな絵を描くのではない。

 ただ美しい世界を描くのではない。

 

 

 しかし狂気のなかの景色を見ようと思うのなら、彼女の繊細な線で描かれた美しい虚構の一枚を見ればいい。

 安全な場所から、正気のまま狂気の淵から景色を臨むことが許される。

 

 

 彼女の見る世界の本質を、ゆがめて受け取りやすくしたものをただ享受する観衆の一人は、間違いなく溝地自身だ。彼女はその人生の殆どを、実家の精神科医にかかっていた。だからだろうか。捻じ曲げて虚構を描き続けた彼女の画家としての生命、人としての命は、あまりにも短かった。

 

『――聞いたことはありますよ。学生なのにとても良い絵を描く少女がいるとね。でも実際は世に出る前に、引っ込んでしまったという。いいえいえいえ、解りますよ溝地さん。とても有望な絵師だったのでしょう。巨匠の口にも上る程ですから。けれど、どうでしょう? 今、彼女の名が聞こえますか?』

『中村先生は……』

『ええ、前回お聞きしました。大変残念なことに、お亡くなりになられたと。お気持ちはお察しします。未来ある素晴らしい若手画家をひとり世に出す前に喪ってしまった。話を聞き齧った私ですら、とても惜しいと思ってしまいます』

 

 溝地は今年34になる。あれは、やっとこの大きな美術館の学芸員の職に就くことができて、ようやく一年が経ったところだった。出会ったのは、運命の絵。それまでは、他の画家の作品を礼賛していた溝地は、あっという間に彼女の絵画の虜になった。見る者が見れば、受け取れる真実。そこらの有象無象の観衆たちにはこの悦びは解るまい。

 下積みをし、経験を積み重ねてやっと開催する個展の選考を任されるようになったときには彼女は亡くなっていた。それでも、彼女の絵画を実際に手にして配列を練ること、この画廊に飾ることは諦めきれなかった。他の作家の個展を催しながら、一方ではいつも画家の遺族へと個展の依頼の手紙を送り続けた。

 

 

『でで、では』

『しかし、ご存じでしょう? 私も……他でもない溝地さん、貴方がおっしゃるのですから調べてみました。するとどうでしょう。絵の数は少なすぎるというほどではないようです。ですが、表に出回っている絵には既に持ち主が決まっていて、取引さえほとんどない。これは持ち主が滅多なことでは手放そうとしないことを表しています。また、ご遺族の方々の情報はあまりにも少ない。地方の名士の家とはいえ、門戸は固いことでしょう。何しろ、養子入りした先の家です。芸術家には複雑な家庭事情を持つ方が少なくありませんが、これはやはり繊細(デリケート)な事柄です。こうした状況で、そのうえ、この広い館内でひと月もの間個展を開くには、厳しすぎる条件では?』

『ご遺族の家にもお手紙をお送りし、何度かお返事も頂いています。もう少し、きっかけさえあれば、きっと』

『………その許可がご遺族から下りない話ですよ』

 

 溝地よりも年は下だが、この美術館の先達である学芸員はため息をついた。

 

『何も個展にこだわる必要はないのでは? 新鋭にスポットを当てたいのであれば、若手の作品を集めて、紹介する名目で』

『彼女の絵は、他には代えられません』

『それは、もちろんです』

 

 彼女の絵画は、何物にも替えられない。

 替えられないのだ。

 

 

『溝地さん、これは同僚としてではなく、友人としての言葉です。貴方、****いませんか?』

 

 

 そうだ、もう一度、溝地の手紙の返事を手ずから届けたあの白髪の老人に会おう。

 溝地を訪ねて来た、絵画では海の中を沈んでいた男は――生きているのだから。

 

 

❂❂❂ ❂❂❂

 

 

 横浜にちょうど来ているとのことだったので、ごり押しで連絡先を交換した。

 震える手で会いたいという旨を送信したところ、拍子抜けするほど簡単にOKをもらえた。

 鏡の前で、何度も薄くなった髪を梳き、ここのところストレスから多汗症になったために質にこだわったハンカチを両ポケットに入れる。滅多に締めないネクタイをタンスから引き出してしっかりと締める。年々腹が出てきて、シャツのボタンがはじけ飛びそうだが、何とか持ってほしいものだ。

 気合を入れて向かった先は、海が見える喫茶店だ。

 

 何度も深呼吸をして、店の扉をくぐる。

 少し早い風鈴の音がした。

 

 店主は厨房にでもいるのか見当たらず、客は窓際の席に青年がひとりいるだけだった。

 開いた窓から潮風が吹く。

 緊張から汗が吹き出し、用意した二枚目のハンカチに手を付けた。

 待ち合わせの人物はまだかと胸をなでおろしていると、

 

 

「こんにちは、溝地さん。個展を開きたいんだよね、この横浜で」

 

 見知らぬ青年が開口一番に発した言葉に空気をのどに詰まらせた。

 空咳をする間に、黒髪に鳶色の瞳をした青年が開いていた本に栞を挟んで閉じた。

 

「え、っと。では、あなたが?」

 

 青年は目元を細めた。笑っているのだろうか。

 指先でテーブルの角を打つと、先日手紙を届けてくれた背の高い白髪の老人が背後からやって来た。

 

「お待たせしました、坊ちゃん」

「いいよ。ちょうど来たところ。座って、神西先生」

 

 そして、溝地にも目を向けた。

 感情を読み取れない、深淵を除くような瞳に、知らず唾を飲んだ。

 

「それに、溝地さんも」

「は、はい……」

 

 気が付いたら言われるがまま、向かいの席に座っていた。この青年には、人を従わせる不思議な風格があった。この青年が交渉相手となるのだろうか、とじろじろと見るようにはならないことを意識して、そっと青年を見る。物静かで落ち着いた青年は、閉じた本の表紙を見下ろして撫でている。その睫毛は赤みがかっていた。光の加減だろうかと目を凝らすと、バチリと目が合う。そこでいつの間にか、大変不躾にみていたことに気づいて慌てて謝る。

 

「何で謝るの?」

「た、大変、失礼なことをしまして」

 

 白髪の老人が青年の隣の席に着く。

 潮風に、白い髭が揺れていた。

 

 青年は溝地の言葉に首をかしげた。

 

「そう?」

「坊ちゃん、何か飲み物を頼みませんか」

 

 初めて会った時も思ったが、老人は頭髪が真っ白になるほど年を重ねているのに、声は想像より若々しく聞こえた。青年に気を取られていたが、溝地が連絡したのは、こちらの人物だった。

 そっと見遣ると、暑くなってきているこの季節に、長袖に首元まで覆うハイネックの服だが、当人は暑そうなそぶりも見せない。年を取ると暑さや寒さに鈍感になるというが、そのせいだろうか。かっちりとジャケットまで着た溝地も大概ではある。

 そのため、この老人の言葉はありがたかった。

 

「そうだなあ………僕はクリームソーダがいいな。先生は?」

「私は珈琲を。溝地さんは何にされます?」

「わ、私はその、アイスコーヒーで」

 

 なんと、この炎天下の日中に、珈琲をホットで飲むのだろうか。

 長い白髪を一つに編んだ老人は、手袋をした手でテーブルの上の小さなベルを鳴らした。

 裏から出てきた店員が、老人から注文内容を聞き取って戻っていく。

 

「あ、あの、も、申し遅れました。わ、私は溝地タケルと申します。が、学芸員をして、お、おりまして……」

「タケルさんって言うんだ。それは知らなかったなー」

 

 青年は汗をふきふきする溝地にお冷を渡してくれた。

 

「あ、はい。ええと、その、この度は」

「おか………ええと、中村和枝の個展を開きたいんだよね?」

 

「は、はい!」

 

 緊張で喉の奥がカラカラに干上がったが、大事な場面で水を飲むわけにもいかない。

 真剣さが伝わるように、しっかりと目を見つめる。

 青年は、ゆったりと瞬きしながら溝地と見つめあい、あっさり言う。

 

「まあ、それはいんだけど」

 

「い、いいのですか!? ……あ、いや、えと。すみません、失礼ながら……」

 

 ぬか喜びするところだった。だめだ、落ち着けと自分に言い聞かせる。

 隣に座っている老人が青年に耳打ちする。

 

「坊ちゃん、まだ自己紹介をしていないのではないですか?」

 

「ん? あ、そっか。そうだった、ごめんね、溝地さん」

「い、いえ」

 

 老人は中村和枝の家の使用人だと聞いた。

 横浜へは、所用があって来たついでに、溝地に手紙を届けに来たと。

 

「僕の名前は、中村カズキ。おか……中村和枝の身内だから、個展についてはいいようにできると思うよ」

「な、中村先生のご家族の方でしたか! お会いできて光栄です!」

 

 溝地は両手を出した。

 青年はきょとんとしていたが、片手を出したので、それを握りしめて上下に振った。

 意外に硬い手のひらだった。

 

「で、では、本当に中村先生の個展を?」

 

 両手を離し、浮き上がった腰を椅子に戻す。

 前のめりになって話していることを自覚したが止められない。

 

「いいよ。神西先生がうまいことしてくれるから」

「丸投げですか、坊ちゃん。いけませんねえ……悪い癖がお付きになった」

 

 主人と使用人という関係からか、青年は老人に対してだいぶん不遜な態度だった。

 しかし、一使用人に任せるような流れに、急に不安になって来る。

 

「大丈夫だよ。神西先生は、うちのかかりつけのお医者さんだもの。……先生、お爺さんを誘導していいように動かしてよ」

「か、かかりつけ医?」

「おか……中村和枝の専属の精神科医だよ」

 

 溝地は目をかっぴらいた。

 では、精神を患っていたという噂が真実味を帯びてきた。

 彼女は幼少の頃から実家に馴染みのあるお抱えの老医に診てもらっていたと聞く。

 

「で、では、ずっと中村先生を診ていらしたんですね!」

「――いいえ、ほんのちょっと(、、、、)ですよ」

 

 ということは、それほどひどく精神を病んでいたというのは間違いらしい。

 溝地は、心酔する画家の精神状態が、それほど深刻ではなかったと知ってほっとした。

 ちょっとというのが、程度のことだと思ったのだ。

 

「個展については、先生に任せるとして、安心してくれていいよ。まあ、ないと思うけど、もし先生がだめだったら、面倒だけど、僕からお爺さんに言ってもいいし」

「おや、坊ちゃんご自身(、、、)が? いったいどうされるおつもりで?」

「やりようによってはいろいろあるでしょ」

 

 面白そうな声音の老医に対して、青年は投げやりに言い捨てる。

 溝地は何か言いかけたが、そこへ店員が注文した品を持ってきたので口を閉じた。

 

「ありがとう」

 

 礼を言う青年の前には、空よりも濃く青いソーダに満たされたなかに、白いクリームと赤い桜桃が浮かんだ大きいグラスが置かれた。窓の外の海の景色と相まって、四季を感じる。見ているだけで一瞬涼しい心地になった――が、青年は首を傾げた。

 

「あれ、クリームソーダって緑色かと思った」

「そうですね。クリームソーダは昔はメロンソーダを使っていたので緑でした。こうしたブルーハワイを使用して青くなったのは最近ですね」

 

 そういえば、昔飲んだクリームソーダは緑だった気がした。

 もう十代の頃、二十年ぐらい前の記憶だ。

 

「そうなんだ……。じゃあ、想像と合ってるのは、このクリームと赤ーいサクランボだけかあ」

「ふむ。では、それを合図としましょう」

 

 ゆったりとホットコーヒーに口を付ける老人の後、溝地もアイスコーヒーに手を付けた。

 止まらない汗をふきふき、喉を冷やした溝地は老人の言葉に首を傾げる。

 

「は、合図、ですか?」

 

 ほほ笑んだのは老医だった。

 隣の青年は俯いて、青いクリームソーダに刺さるストローを口にくわえている。

 透明なストローが青く染まっていく。赤みを帯びた睫毛がゆっくり瞬いた。

 

「ええ、そうです。あなたへの」

「わ、私への……?」

 

 個展の話だと思い、溝地は青年から老医に視線を戻す。

 溝地は、眼鏡の奥にある、老人の瞳を見た。

 

「あなたへの催眠の、合図ですよ」

 

 ――それは()のように()かった。

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