こんなことをしておいて、許されるわけがない。
この罪は、何をしようと償うことはできない。
死んで詫びることはできず、あの世で悔いることもできない。
ならば、さあ――共に歩きましょう。逢いたいと叫びながら。
❂ ❂ ❂
横浜の並木が赤や黄色に色づく頃、突然姿を見せなくなった少年のことを思い出す。あれから元気にしているのか。夏休み中に、少年をそのまま小さくしたような幼い子どもと出くわした。連絡を寄越すように伝えてもらったが、その言葉は無事に届いたのだろうか。学校に通っていた時は気づきもしなかったが、あの少年も複雑な家庭事情を持っていた。――話して、呉れれば何かしてやれることがあったのではないか。部屋の窓から、夕陽に染まる街並みを眺めていると、自室の扉が、音を立てて開く。何時もはかけている音楽もないため、少し立て付けの悪い扉が、キィと高い音をたてるのが少々耳障りだった。
顔をしかめて後ろを振り返ると、扉を開ける白い手が見えた。ねえ、と静かな声が、もともとの性格を知っているだけにいつまでたっても違和感を覚える。――実の姉であるのに。
「
「………
長い黒髪が、背中に音もたてずに落ちる。
長いこと日に当たっていないかのような白い肌は、どこかの怪談に登場する幽鬼のようだ。
「あら? そうだったかしら。……ああ、そうだったわね。……ええ、そうだった、そうだった」
姉は、自分も先ほど思い返していた少年について強い関心を抱いているようだった。
それは、あの快活で横暴だった姉と、どうしても重ならない。まるで――別人だ。
「どこに行ってしまったのかしら」
「さあな。連絡もないし」
足取りがふらふらとしていて、姉だけ雲の上を歩いているかのようだった。
姉は、二年の留年の後、大学に通っているが、ちゃんとやっていけているのか判らない。
父親が警察官だからと云って、子どもが品行方正に育つと勝手に期待するのは、無神経で無責任な連中だ。家族を顧みる暇もない父親不在の家では、まっとうに育つことは難しい。どれほど立派な父親も家に帰らないのなら、いないのと同じことだ。それでも病気がちの母が病院暮らしになり、家と病院とを行き来して、柄でもないのに、まさに母親代わりに家での暮らしを支えてくれていた姉は、その反動か、外見を校則から違反するくらいには派手していた。それほど周囲から咎められるような非行に走っていたわけではないと思う。根の世話焼きな面は変わらず、幼馴染で家に引きこもり気味の二谷を外に連れ出してキャッチボールに誘うことだって続いていた。しかし、中学生の時分に夜遅く、他学校の教師に補導されてからは、家にほぼ不在の父親が職場から帰ってきて分厚い資料を食卓にばさりと置き、高校を全寮制の女学校と行き先を一方的に決められた。文句も言う間もなく、父親は職務に戻り、姉は反論する機会も与えられなかった。姉も自分も父を疎んでいるわけでも恨んでいるわけでもない。ただ、父はあまりに多忙過ぎだ。家族の時間も持てないくらいに。中学卒業後、姉は黙って父の決めた学校の寮へ入寮するため荷物をまとめ、家を発った。最後に見た姉は日に焼けて真っ黒で、反対に元々地毛が黒だったのを脱色した頭髪は茶色で、癖が強い短髪だった。
中学時代仲の良い友人と同じ高校に通うのだと姉は云っていた。姉の通いたかった高校に自分は通っている。
「じゃあ、ほら、よくうちに来ていた、二谷さんのところのお嬢さんにあげてちょうだい」
「……まあ、いいけど」
別人のようだと思った次の瞬間には、昔の姉の顔が出てくる。横暴で気安く物を云いつけてくる。その度に、安井は何だかよくわからない安堵に胸をなでおろすのだった。しかし、同時に形容しがたい不安は片時も頭を離れることはなかった。
いつまで続くのか。知らない女の顔をする姉に、多忙な父と、体が弱く病気がちの母には打ち明けられない。特に父は、姉が巻き込まれた女学校の事件を今でも追っている。そんなただの違和感を話したところでどうにかなる気はしなかった。
「じゃ、よろしくね」
薄青色の包み紙に、白い紐で口を結ばれている。器用にそれは二重の蝶々結びになっていた。
器用だな、と思う。これは一体どう解けばいいのか。
閉まりかけた扉の隙間から、長い黒髪の一筋を見送っていると、ふと父の言葉を思い出した。
「どんな迷宮入りも解く、名探偵……」
呟いたとき、携帯が鳴った。それは、先ほど話題になった少年からの、やっとの連絡だった。
❂ ❂ ❂
硬貨を入れ、選択すると、軽い金属音を立てて落下した。計二回。表面に結露を纏わせた飲料を手に取り、ふと感慨深くなった。晩夏に初夏の果実の飲料が手に入るのは、特別珍しい事ではない。
手元にやって来るまでの過程を知らなくとも、その現物は何気なく手に入り、普遍的なものとして自覚なしに受け入れられている。手にしている物の過程が不透明であっても、その情報が欠如していることを不安に思うことがなければ、気が狂うこともない。
人は正気のまま、加工されたものを享受している。
「
冷えた飲料を両手に戻ると、子どもは荷物の上に頬杖をついて、真新しく塗られた緑の壁と海老色の窓枠の外の景色を眺めていた。縁あって個展の関係で出た食事会の席で上がった話のなかに、海外からの気鋭の建築家が設計した建物がここ最近増えてきているというものがあった。その方面に疎いせいか、どれがその作品なのかはわからないが、この頃目にする新築の建物は皆そのように見えてしまう。
「――まだ拗ねているのか?」
「………しらない」
鼻を鳴らし、ついでとばかりに顎もと反らされる。とりつく島も無い。
肩を竦めて横目で様子を窺う。この年頃の子育ては特に難しいという。それこそ首も座らぬ赤ん坊を抱いた頃に既に覚悟していたことだったけれども、自分一人で自分の子を見なくてはならないという重圧に、耐えきれなくなる母親も少なくはないという。それが男手ひとつで何とかなるのか。幸いなことに、妻の実家の人々や探偵社の面々に助けられ、ここまでやって来ることができた。情けなくも思うが、非常にありがたい。
しかし、今この瞬間、ここには自分しかいない。そして、その子どもの不機嫌がいったい何によるものなのかを知るのは、自分しかいないだろう。……回りくどいのは性に合わない。私は夏梅の
――こういうとき、どう口火を切るのか。
アルコールをちびちびと口に含んで
『父親というものは泰然としなければならん。頑として揺らがず、深山の奥の巌のようでなければ如何して子が安心して凭れ掛かることができる。一等重要なのは、言葉ではない。存在感だ。先ず目を合わせるのだ』
成程その通りだと頷こうとした時、横合いから否と唱えたのが太宰だった。その言い分はこうだ、
『
『何を云う、太宰。眼を合わせて話をせねば、伝わる物も伝わらんだろう』
この二人の掛け合いは実に小気味よく進む。
息の合う二人というのはこういう仲を云うのだろう。感心しつつ横目で窺う。
『うーん、例えばだよ? 堅物な国木田君には有り得ないことだけれど、国木田君が合コンに出たとする』
『な! 俺はそんな破廉恥な場に顔を出したりなどせんっ』
世に出れば少数派である稀少な長髪仲間の国木田は、幅広の赤い紐で一つくくりにしている髪を荒野に出る獅子の様に逆立てて、猛然と太宰へ食って掛かる。両手を掲げた太宰がどこか余裕を感じさせる仕草で、気が高ぶった猛獣を相手にするようにどう、どうと宥める。
『だーかーら、例えば、仮定として。それも気に入らなかったら架空の世界でもいい』
『断固として有り得ん話だがな』
『はいはい、まア細かいところは置いといて、そんな国木田君の目の前に好みの
太宰が語りだすうちに、私の持っているグラスの中身は空になった。氷同士をグラスの中でぶつけて手慰みにしていると、がたりと音がした。いつの間にか身を乗り出していた国木田が、カウンターの席で脚をぶつけたらしい。耳半分で聞いていた太宰の、国木田曰く荒唐無稽で到底あり得ない非現実的な仮想話は途中で途切れていた。
太宰は笑みの張り付いた顔のまま微動だにせず、国木田はどこか焦った様に前のめりに催促する。
『ど、どど、如何話しかけるんだ?』
私も興味が湧いて空になったグラスを下ろして太宰を見遣った。
太宰は人好きのする笑顔で
『「先ず、目を合わせる」』
『できるか!』
国木田が、グラスをテーブルに荒々しく打ち付けた。
国木田の先の言葉を借りた太宰は、手のひらを広げてひらひらと振った。
『ほらね』
大気に揺らめく紫煙のように軽く、太宰は薄く笑う。マスターが空のグラスに酒を注いでくれた。礼を云い、私は、なみなみと入った黄金のグラスに口を付けた。ふと鼻腔をすっと通る香りがして、その出所を目で追うと、カウンターの席の、ちょうど太宰が座っている席の前に、さりげなく置かれた小皿に白い花が摘んで浮かべられていた。玻璃のグラスを柔らかい布で拭いていたマスターが静かに『
『国木田君の云うように、先ず目を合わせるなんてことができるなら、話しかけることだってできるのさ』
『難易度の問題ということか。――いや、だが、父と子の会話の取っ掛かりを云うのだろう。うら若き初対面の女人と話すのとでは立場が違う。親子間の会話において、互いに目を合わせるということは間違っていなと思うが』
どちらも正しい言い分に聞こえた。謂わば正論と正論の水掛け合いのようなものだ。非才の身では、如何してこうも矢継ぎ早に論じ合えるのか不思議でならない。私には、ご近所の老人の昔語りの聞き役であったり、言葉のいらない幼子のお守りが似合いの凡夫だ。
お行儀のよい銃撃戦の様に順序を守って往ったり来たりする言葉のやり取りが頭上で交わされる中、私は奇跡の様に安穏と喉を通っていく冷たい感覚を満喫していた。そして再び空になるグラス。
『話をするということに対して気まずさを感じる点については同じ状況だと思うけれど、まあ確かにね。でも、しかしだよ、国木田君』
国木田の指摘に、同意しつつ太宰は反論の姿勢を見せた。
『――なんだ』
それを受けて立つように腕組みした国木田が目を細め、双方の視線が交錯する。何かが始まろうとしていた。私は、マスターに新しい酒を頼み、用意されたそれを口に運んだ。
銃口を向けあう敵同士のように見合っていた二人の内、先に笑んで均衡を崩したのは太宰だった。
『立場というのは、けっこう重要なのさ。父親という自分を庇護する立場の人間と、庇護される立場の人間が目を合わせるというのは、気まずい状態では、庇護される側の人間の方がよほど圧迫感を感じるだろう」
『――威圧してしまうということか』
『眼を合わせるという行為は、国木田君の云った通り、大切なことさ。けれど、時と場合によれば、それは逆効果になってしまうことだってある』
『「時と場合」か。……手帳に記しておこう』
太宰は整った眉を上げ、『おやあ?』と疑問符を浮かべる。そして、子どもを持つ予定でもあるのか、と屋台の輪投げのように軽やかに問いを投げかけ、それに弾かれたように国木田が椅子から立ち上がったところで、私はああ、と気づいた。第三者として聞き入っていたが、我がことだった。予定でもなく、私には既に子どもがいるので、それが必要な教訓だった。そして二人の内のもう一方が持つ意見も。
『それで、太宰は如何やって話し始めるんだ』
二対の目がこちらを向いた。しばらくして、国木田が椅子を戻し静かに座る。その様子を見守っていると、咳払いが聞こえて太宰の方を向く。太宰は、カウンターのテーブルに頬杖をついて、白い薄荷の花が活けられた小皿を眺めながら、『そうだねえ』と前置きをして云うには、眼を合わせないようにする、という国木田とは真逆の事だった。人に馴れない動物に相対する要領で、過度に視線を向けず、背中合わせか、あるいは
夏梅の隣に座り、前を向いた。そこには電子掲示板があった。在来線の到着時刻が一新され、時刻と電車名が変動する。そこから足元に視線を落として、私は話し始めた。
「神西先生に連絡がつかなくなったのだって、何か事情があるかもしれないだろう」
探偵社創設以来の大仕事を終え、私事ではあるが亡き妻の個展も無事に開くことができた。妻の絵は、個展のための移送中に何者かにより奪取されてしまった。そのため横浜での個展の開催も危うくみられたが、探偵社とその他の多くの人々の力添えにより、予定されていた絵画三十三点と予定外の絵画一点の全ての絵画を回収することに成功した。
絵画の輸送経路や回収時の絵画の配置の仕方など、あまりにも手際が良いことから、密かに美術館側と身内側の両方に内通者あるいは共犯者がいて情報を漏らしているだろうということは見当がついた。そして、夏梅が裏で人を募って絵画を回収していたことが後から判明したが、用意周到な犯行のわりにその回収を許すというのは不自然だ。……犯行側の人間はおそらく複数人で、そのうち方向性の違いか何かで分裂したか、何らかの思惑で夏梅を誘導し、その行動に手を貸していたに違いなかった。そしてその関与を疑われていた最たる人物が、神西清という、夏梅の主治医でもある老医だ。一般から外れるだろうが、裏切りとは少し違う。
個人的私見では、神西が夏梅に危害を加えるという可能性はないと思われた。
しかしどうやら私は、最初の言葉選びに失敗したらしかった。
「…………おとうさんの、ばか」
暫くの間が空いて、少しばかり湿った声で罵倒される。思わず視線を向けるが、夏梅は俯いていた。僅かに震えている手には携帯電話を持ち、通知の来ない暗い画面を表にしている。連絡がないということは、私にはあの老医が夏梅のことを思っての行動だと思われた。たとえそれが、音信不通とい行動になったのだととしても。
夏梅はこぶしで膝を叩こうとするのを手のひらで受け止める。
その手に飲料を持たせた。束の間、武器を持たせてしまったかとひやりとする。しかし、実際にひやりとしたのは夏梅の方で、冷えた飲料の感触に小さな悲鳴をあげていた。
唇を噛む夏梅に手巾を渡して遣りつつ、電光掲示板へと視線を移した。眼を合わせずに、考えることは老医のことだ。老医が敵側に回るはずがないことへの根拠はひとつ。神西は夏梅のことを気に入っていた。私が“誰か”と外へ出かけている――とそうとしか思えない記憶の中で、ひとりになる幼児の夏梅を抱え子守をしていたのは神西だった。勿論、義父も見ていたに違いないが、義父は子どもを甲斐甲斐しく育てた経験はなく、手のかかる赤ん坊を見れるほどの知識はなかった。
神西は今も昔も、夏梅のことを気にかけている。そして夏梅にとっての神西は、憶測にはなるが、歳の離れた友人あるいは教師といった特別な存在だったのではないかと思う。母親を早くに死に別れ、父親は自分を置いて横浜へ。その間、夏梅を見てくれていたのは義父と神西だった。……考えてみれば、自分は酷い親だ。それでも横浜まで追ってきた。実年齢に合わない成長した身体と、子どもではいられなかった精神で。
我が子を慰められるような、気の利いた言葉一つ出てこない。
口から出せたのは、「機嫌を直せ。……もうすぐで太宰たちも来るぞ」という何とも冷たい言葉だった。それでも夏梅は、唇を噛んだ歯をどかし、俯けていた顔をあげた時には、いつも通りの、喜怒哀楽の見出しづらい顔だった。そしてしきりに気にしていた携帯電話を、上着の大きな衣嚢へと放り込み、立ち上がった。
目の前で止まっていた新幹線が出ていく。
「おーい」
聞き覚えのある声が駅に響く。
ふと見ると、電子掲示板が更新されていた。
「みんな来たみたいだね」
膝に抱えていた荷物を背負い直した夏梅が、
鏡越しに毎回見るのと同じ、鳶色の大きな瞳が眠そう瞬いた。
妻の絵画の奪還に尽力した人々を持て成したいという瀬戸の人々の依頼で、探偵社の面々を瀬戸へ連れて期間中案内する。依頼という形だが、実質の社員旅行だ。しかし、瀬戸の邸宅側の人間で、行方知れずの人間が一人。老医だ。理由もわからず、行方不明ということで、初めからこの社員旅行は、暗雲が立ち込めている。
気を張った時、服の一部が引かれた。持て成す側としては、夏梅の方が上手だ。
「任せていいか」
「やや、
なにやら海水浴場にでも行くのかと云った装いの面々を眺めてぼんやりした声で夏梅が答えた。