夏の梅の子ども*   作:マイロ

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(学校のはなし)


ひとりでできるよ。

 どうして緑色なのに、黒板という名称なのか。

 きっと誰もが疑問に思うだろうことなのではないか。

 

 最近、語彙力と使える漢字を着々と習得してきていると思っている夏梅は、そんなことを考えながら、上の空で黒板消しを黒板にあてたせいか、勢い余って白い粉が舞いあがってとっさに目をつぶって咳き込んだ。

 

 力の加減は苦手だ。手先を器用に動かすのはもっと苦手だ。

 

 薄目を開けて、粉が収まったのを確認すると両目を開けて、ゆっくりと黒板消しをチョーク置きに戻した。

 

 そしてそろそろを目線を下げて制服の惨状を確認する。

 

「うわあ……」

 

 頭から粉を被ってしまったせいか、黒い制服には特に汚れが顕著だった。

 白いチョークがついた制服の上着を手で払うと、白い汚れが広がってしまう、手を止める。

 しばし考えて、脱ごうと決意する。しかしこのとき、黒板消しを持っていたことも忘れて襟に手をかけたことで、ますます制服を汚してしまう。詰襟に指の型がついたのに気づいてむむむとうなった。

 

 それ以上汚れを酷くするわけにもいかず、どうしようと手を空に浮かせたまま真顔で悩んでいると、ガラガラと戸を開けて教室に戻ってきたもうひとりの日直の女子生徒に「何やってるの?」と声をかけられる。

 

 振り返ると、怪訝そうな顔で夏梅の方を見ているところだった。

 

 彼女は日誌を担当していて、職員室から戻ってきたところなのだろう。字を書くことがまだ不慣れな夏梅に代わってこうした役割分担を申し出てくれるあたり、面倒見がよいのだろう。

 

 すぐに夏梅の両手がぶらりとした状態と襟元を見て状況を把握したか、ひとつ頷くとつかつかと大股で教壇へと上がってきた。

 

「織田君はこういうこと不器用だね。いままでどうやってきたんだろって不思議なんだけど」

「いままでは……」

 

 精神も肉体も少々込み入った事情はあるけれども、正真正銘の三歳児である夏梅は、全部父母がやってくれたとしか言いようがない。

 

 とはいえ、はっきりと生まれてからこの方の記憶のある夏梅は、彼女に不器用といわれる原因に思い当たらないではない。

 

 おそらく、要領の悪さは父から、上の空の行動は母から受け継いでいるのだろうなあ、と。

 悪いところを似たといいたくはないけれど、どうにも原因はそこらへんにあるように思える。

 

 父は持ち前の能力の高さから、要領の悪さをカバーして有り余るほどだけれど。

 母はどこかぼうっとした性質で、家のなかを歩けば机に足をぶつけ、皿を洗えば落として割り、風呂に入れば足を滑らせ転ぶなどといったことがよくあった。集中力の散漫というのだろうか。

 目も碌に開かない乳幼児期の時から、母の周りはやたらと騒がしい音が溢れていた。皿が割れた、その音にびくついていたものだ。

 

 とりあえず、母が器用か不器用かと問われれば、不器用に分類されるのではないかと――。

 

「うん? ……ただのおっちょこちょい?」

 

 考えていたことが、つい口から零れると、「目の前に人がいるのそっちのけで考え事とは……ねえ?」と気迫のある笑顔で思考を呼びもどされて、咄嗟に口許を手で押さえる。途端に、煙たくなる口のなか……。

 

「あ、」「あああ!」

 

 夏梅よりも高くて大きい悲鳴が目の前で上がる。その声音に肩を小さくしていると、

 

「あらら……もう、すぐに違うこと考えてやっちゃうんだから」

 

 そう零しながらも、女子生徒は女子らしくハンカチをポケットから取り出して、夏梅の口周りについてしまった白いチョークの跡をふき取ってくれた。縁に猫の刺しゅうが入ったピンク色のタオル地のハンカチだ。ふかれながら夏梅はその猫の刺しゅうを目で追った。

 湿らせた方がいいんだけどねえ、と言いつつ夏梅を見あげてくる少女はため息をついた。

 

「ここで私が廊下を出て蛇口ひねってる間に、織田君もっと酷い惨状になってそうだから、これで我慢よ」

 きつい物言いだが、直接的で分かりやすい。面倒見がいいのだ。夏梅は頬を和らげてなんとかほほえんだ。

 

「ありがとう、三谷さん」

「二谷だから!」

 

 渾身の感謝の笑顔――効果はなし、と。

 

『ミ』タニ、違う。『ニ』タニ。その『ニ』が言いにくい。

 

 マ行は唇で、ナ行は舌の動きで発音する。夏梅は、どうも舌周りの動きが鈍いようなのだ。だから、近い音で見逃してくれないかなあと思うのだが、さすがに名前を呼び変えるのはまずいかも。

 

 うーんと悩んでいると、空いたままの教室の扉の前で見知った男子生徒が立っているのに気づいた。

 

「大きな声出してどうした?」

 

 部活帰りの男子生徒だ。刈り上げた頭と切れ長の瞳をもつ彼と夏梅とは隣のクラスということ以外に、仕事上で間接的にではあるが接点がある。そして、面倒見のいい女子生徒である二谷とは、幼馴染とのこと。

 

 当然、二谷とのほうが親しいのではないかと思うだろうが、ところがどっこい、男同士の友情というものは重きが置かれるらしい。

 

 明らかに大きな声を出していた幼馴染の二谷に向けられた言葉には、親しみからの砕けた物言い以外に少々咎めるような響きがあるようだった。

 

 

「野球部の練習、終わったんだ安井」

 

「ああ、テスト週間だから自主練だけだしな。夏梅は――日直か」

「うんそう、三谷さんといっしょで」

 

「二谷!」「二谷だろ」

 

 夏梅が首をかしげながら、

 

「そう大きな声を出さなくても……」

 

 それを聞いた男子生徒は、未だにふーふー毛を逆立てている二谷の先ほどの大声のいきさつに、ようやっと気がついたようで眉間から険をとり払うなり、深々とため息を吐いた。

 

 夏梅の通う高等学校では体育やら音楽やら美術やらの時間は二クラス合同授業となるのだが、その際彼はよく自分のクラスの友人とわかれて夏梅の面倒を見てくれる生徒の筆頭なのだ。

 

 何故ここまでしてくれるのか。夏梅があまりにもふらふらしているからというのは無関係ではないだろう。けれども、敢えて他の要因をひとつ挙げるとすれば、仕事の間接的な影響なのではないかということだ。

 

 江戸川乱歩。父の勤める武装探偵社の一員で、【超推理】という異能力をもつ。彼はその異能力によって数々の事件を解決してきた名探偵だ。

 

 そして、この男子生徒は安井。江戸川乱歩の実力を認め、高く評価している刑事の息子というのは、彼の父親である刑事から聞いたことだ。

 

 あまり探偵社のことは口に出すなとは父の言いつけなので、「江戸川さんのこと知ってるの?」と直接彼に聞いたりはしないけれど。

 

「あ、安井。上着脱ぐの手伝ってよ。白い粉がついちゃうから」

「いいけど、俺が消そうか?」

 

 むっとして夏梅は長身の安井を見あげてねめつけた。

 

「ぼく、ひとりでできるよ」

「あー、わるい、わるかった。自分の役割はなんでもちゃんと熟さないと、だもんな」

「安井、勝手に手を出すもんじゃないわよ。ほら、脱がせてあげるから、やんなさい」

 

 白のカッターシャツになった夏梅は白い粉を被りながら、黒板をきれいにして満足して振り返ると、保護者のように律儀に待っている二人の姿を見つける。目をぱちくりと瞬かせた。

 

「……あー、ごめん? ありがとう?」

 

 夢中になっていた黒板消しを終えると、急に頭が冷めて先ほどのきつい物言いを振り返り、反省した。

 謝罪を先に言おうか、それとも待っていてくれたことに感謝を先に述べた方がいいかと迷った末、自信なく疑問形で謝罪を口にすると、二人はまるで同じ人物のようにそろってふっと噴き出して肩を震わせた。

 

 まあ、その次にお互いの顔を見合って、二谷の方は気まり悪そうにそっぽ向き、安井の方は肩をすくめていたという差はあるけれど。

 

 

 どうにも、夏梅は学校ではこうした我が儘な側面が出てしまう。家や仕事では父を困らせないようにきちんとしよう、心配させないようにしっかりしようと気を張っているせいかもしれない。

 

 学校でもきちんとできたらいいのだが、そこは三歳児の自制心ではほころびが出て来てしまうというもの。

 夏梅自身は自覚していないものの、わりと完璧主義なのだ。同じくらいずぼらではあるのだけど、それはそれ。

 

「ああ、夏梅、姉貴から菓子渡すように頼まれてたんだよ。えっと……」

 

 そこで安井にストップをかけるのは、二谷だ。

 

「ちょっと、あんたまさかその土まみれの手で食べ物を触るつもり? 正気?」

 

 安井と夏梅のふたりであれば、スムーズに流れる会話が、第三者が加わるだけでこうも腰がおられるものなのか、と夏梅は黙ったままじっと成り行きを見つつ感慨深く思った。

 

 そして、二谷の言葉をまともに受けて、正気を問われるほど非常識なことなのか、と夏梅は真顔のままびっくりした。

 父にも手洗うがいはいいつけられていたけれど、外でもこれほどとやかく言われるのならば真面目に気をつけようと思った。

 

 ――まあ、もちろん、それくらいその人にとって常識を外した行動であるという言葉であったことは知っている。

 

「ちゃんとさっき洗ったけど」

「爪見て見なさいよ、土が入り込んでいるじゃない」

 

 言い合いになりそうな面倒な空気を察して、夏梅はふたりの間に割って入った。

 

「お菓子? 安井のおねえさんのとてもおいしいよね。見たい」

 

 夏梅が二人の間に手を差し出すと、横から手首をグイと掴まれた。二谷再び、だ。

 

「ちょっと、織田君もチョークまみれのこの手でって……ひっ……織田君の手首細くない!? 私の片手で回りきっちゃうんだけど!?」

 

 なんで、なんでと近づいてくる顔と気迫に驚いて言葉を詰まらせていると、慌てたように二谷が手を離した。ついでに顔も離す。

 対照的に、安井はそんなに細いのかと体を傾けて覗き込んでくる始末。

 

「ほ、ほら、泣かないの。私も飴あげるから」

「……クッキーが、いい」

 

 泣いてはいないし、泣くつもりもなかった。けれども何やら意図せず譲歩を引き出したようなので、さらに要求してみた。

 夏梅は一人っ子なのだ。ちょっとばかり我が強い。人見知りだが、構ってくれる相手とみると、地が出る。特に相手が世話好きとくれば、さらに懐く傾向にあった。つまり、図々しくなる。

 

「夏梅は洋菓子が好きなんだ」

 

 安井が汚れているといわれた手で触るのを惑う仕草をして、手を降ろしながら言った。

 二谷は動揺の声で、絞り出すように言った。

 

「ちょ、チョコレート味のキャンディーなら、あるわ」

「それ、食べたことない……」

 

 生まれてからこの方の記憶をしっかりと鮮明に保つ夏梅が思わずそう断言すると、二谷はやっと調子を取り戻したようにふふんと鼻で笑って、顎を上げて告げてきた。

 

「まずは。二人ともちゃんと手を洗いなさい」

 

 安井は「あー、はいはい」と坊主頭を掻いていたが、夏梅は頭から指図されるのが納得いかず、むむと口をとがらせて二谷を見あげる。

 

「……三谷さんは?」

「二谷も、洗います」

 

 そう言われると、夏梅は何も言うことがない。しゅんと肩を落として頷く。

 二谷は名前の部分を強調して、大人しくなった夏梅と安井の背を押しながら廊下にある流しに押していった。

 そういえば――と。

 教室を出る前に時計を確認すると、下校時間から一時間半を過ぎていた。電車はいつもより遅いものを乗らないといけないな、と頭で考えていると、流しの縁に大腿をぶつけて呻いた。

 

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