靴箱まで三人で行ったところで忘れ物をしたと断って、ひとり教室に戻った夏梅は、目当ての定期入れを机のなかから探り当ててほっと息を吐く。
いつもは鞄につけておいているのだが、江戸川とともに事件に同行した際に、鞄から外して単体で持ち運びしていたのをそのままにしていたのだ。
これがないではちょっとまずい。
教室の壁に掛けられた時計を見ると時刻は午後六時二十三分となっていた。だんだんと日が暮れてきた外の景色を窓から眺めて、靴箱で待たせたままにしている二人のことを思い出した。
しかし、焦ればボロが出るのは夏梅なのでゆったりと教室を出ると、来るとき急いでいた際には気づかなかった隣の教室にひとりの女子生徒がいることに気づいた。
こんな時間まで残っているのはちょっと不自然だと感じた。
夏梅たちが茶番をしているときにもこの生徒はずっと隣の教室にいたのだろうか。
「ねえ、どうしたの?」
長い黒髪の女子生徒が振り返る。紫色の花がついたヘアピンでサイドの髪を留めているのが見えた。女子はおしゃれだなと思いながら、夏梅は見知らぬ女子生徒に問いかけた。
「帰らないの?」
「………友だち、を待ってるの」
「そうなんだ」
女子生徒は膝のうえで両手を握っている。行儀よく、真面目な印象を受けた。
友人と約束しているのなら、待つのは当然だ。でも夏梅はなんとなく納得がいかず、食い下がった。日直の夏梅もふつうであればとっくに仕事を終わらせて帰っているはずなのだ。部活動だってテスト週間だから自主練ぐらいでそれも短時間で切り上げるはず。委員会だってこの一週間は免除されている。
そういった事情をいちいち挙げずとも、なんとなく不自然さを夏梅は感じたのだ。
それにテスト週間の時間はとても重要だ。いつも赤点ぎりぎりの夏梅にとっては死活問題。
この生徒が夏梅のように不出来だとは思わないが、時間が大切というのはみんな同じであるべきという幼さからくる少々傲慢な考えから口をとがらせた。
「でも、外暗くなってるよ」
「待っててって言われたから」
一生懸命考えて、夏梅は言った。
「もしかしたら、その友だち……何か急に用が出来て、何も言えずに帰ったんじゃないかな。ごめんなさいって思いながら」
席に座ったままじっと机の一点を見つめるように、目を伏せていた女子生徒はどうにも、好んでこの教室でひとり友人を待っているようには見えなかった。
けれども、こうして夏梅が声をかけるまで微動だにせず座って待っていたのかと思うと、待たせている方の友人はきっと慌てるのではないかと思った。
夏梅は、人を待たせてばかりいるから、そう思うのかもしれないけれど。
そういう気持ちから、少し親身になって言うと、はじめて女子生徒の物静かな空気が揺らいだ気がした。
「――……そう、なら……わたし、は……帰ってもいいの、かな……もう」
「いいんじゃない?」
どうして自分の行動なのに人に聞くのだろうと首を傾げながら夏梅は言い放つ。
女子生徒は思ってもみなかったことを言われたという顔で、こちらをぱっと見てきた。
そんなに不思議なことを言っているだろうか。
首を傾げたまま、夏梅は目を細めた。単純に、教室の窓の斜陽が射しこんできて眩しかったので。
「――もし駄目だったら、ごめんなさいって言えばいいよ」
そうして、おそるおそるといった具合に頷いた女子生徒を認めて、ようやく気が済んだ。
そのまま背を向けて帰ろうとして、夏梅は思い出したように足を止めた。
「そういえば、君の名前なんていうの? 僕は、な……織田、夏梅だよ?」
「藤咲みのり」
彼女は肩に鞄を掛けながら呟くように言った。
ちょっと動揺して語尾が上がってしまい、疑問形に聞こえてしまう。
夏梅は自分の失態にもだもだしそうになったが、相手は気にしていないようだったので一安心。
ふうん、と夏梅は頷いた。やっぱり聞き覚えのない名前だ。
まあ……夏梅はクラスメイトの名前だって碌に憶えていないけれど。
「じゃあまたね、ふじしゃきさん……ぬうぅ…」
夏梅は二度目の失態に、今度は相手が何か言うのも待たず、頬を押さえながら廊下を走った。それこそ脱兎のごとく――今、夏梅は風になる。
バタバタと足音荒げて靴箱に着くと、びっくりした顔ふたつに出迎えられた。
「……噛んだ」
詳細省き簡潔にまとめる。
それに対して安井が「痛かったな」とありきたりな言葉を返してきて、夏梅はそれにすこし救われて精神を回復した。
「はいはい。で、定期は?」
「あったよ」
忘れ物の所在を追求してきた二谷にぴらりと定期入れを見せると、重々しく頷かれた。ちょっと先生に認められたような満足感が得られて夏梅は頬を緩めた。
駅まで一緒に歩いたものの、途中で安井が「腹減った」と売店へ寄る。
パンやスナック菓子などを買うのに付き合うため、一本遅れた電車に乗り込むことになった。二谷はダイエットで、夏梅は夕食が食べられなくなるため間食禁止なので、ほんとうに付き合うだけだ。
安井の両腕いっぱいのパンの山を手伝って持ったが、二谷といっしょにちょっと戦慄く。
カレーパンにメロンパンに焼きそばパン、肉まん、ホットドッグ、マフィン、シュークリーム、ポテトチップス……甘いもしょっぱいも関係ないのか。水は要らないのだろうか。ああ、自前のスポーツドリンクがあるんですね失礼しました……
体幹のしっかりとした恵まれた体格の安井は決して太っているわけではない。背は平均より少し高いというくらい。横幅があるわけではなく、単純に筋肉の質というのだろうか。そういった要素が合わさってなんとなく実際より大きく感じるものの、隣を歩けば目立って大柄ということはない。
なので、夏梅としては、安井のいったいどこにこの大量のパン達が入るのか、不思議でならなかった。食べるだけでは大きくはなれないんだな、と電車の広告にある力士の写真を見て思った。
いつもは目に入らない広告はいつもそこにあったのだろう。けれど人の多さ故、目に入らなかったのだ。視線も心なしかいつも下げていたようだと気づく。
そうしたいつもとはちょっと違ったところを車内で見つけるのが楽しくなった。
江戸川とともに乗った休日の電車でも感じたけれど――
やはり、いつもは乗らない時間帯の電車のなかは殊さらもの珍しくて、人の少ない車内を見回すと、隣の号車に教室でわかれた女子生徒がいることに気づいて「あ」と声を上げる。もちろん、別の車両なので、彼女が気づいて振り向くことはない。
しかし、隣にいた二谷は夏梅の視線を追ってあれ、と首をひねって反応した。
「ああ、B組の藤咲さんね。こんな遅くまで、どうしたんだろう。学校で勉強でもしてたのかな」
「三谷さん、知ってるの?」
「二谷です。そうね、有名かしら。私は同じクラスになったことないけど、才女って話よ。……まあ、私が知ってるのは彼女のことじゃなくて、彼女のおねえさんのことだけど」
「おねえさん?」
「安井のがもっと詳しいんじゃない?」
「ああ? 何がだ?」
まったくと二谷が舌打ちをする。けれど、夏梅や二谷の隣のクラス、安井は左隣だ。つまり、B組が藤咲で、C組が夏梅たちで、D組が安井なのだ。ふつうだったら、他クラスの女子のことなど知らなくても、不思議ではないのではないだろうか。
しかし、二谷には安井が知っている筈という何がしかの根拠があるようだった。
「あんたのおねえさんが藤咲さんのおねえさんと同じ女学校に通ってたの。たしか六年前になるのかな。いまでも覚えてる。当時は情報が錯綜しててね、結局あれはどうなったんだっけ? 解決してないんだっけ?」
「……ああ、あの事件。どうだったか……さすがに親父は口を開かなかったけど、姉貴は当事者だったからいろいろ聞いたな」
「私も聞いたわ。たぶん、真智さん、誰かに話すことで落ち着きたかったんだと思う……」
二谷はめずらしく言葉が尻すぼみになって、俯いていた。
安井は二谷の言葉に昔を思い返しているようで、気づいているのか分からない。
「あの時の姉貴は、ちょっとおかしかったな。ちょっとした影とかに怯えてて」
夏梅を挟んで、ふたりが会話するのを聞いていると、夏梅が完全に聞き役に回っているのを気遣ってか、二谷が顔をあげて微笑む。
「さっきは言わなかったけれどね、織田君が安井のおねえさんからお菓子もらってるって聞いてほっとしたの。ちゃんとあの時から回復してるんだって。……昔は真智さん、お菓子なんて作るような人じゃなかったけど、新しい趣味を見つけたのね。やっぱり、女学校に通っていると、女子力が上がるのかしら」
なんだか彼女らしくない柔らかい物言いは、夏梅にはちょっと難解だった。分からないなりに頷いておいたけれども。
そういえば、夏梅の母も女学校へ通っていたし、料理も上手だった気がする。夏梅の離乳食は母の手作りだった。
「……さあな」
安井はそっけなく言う。
ちなみに夏梅の両隣にふたりが座っている理由については、山盛りパンを抱える安井がすたすたと電車に乗り込み、それにカモガルのように夏梅が、遅れてはっとした二谷が乗り込んだままの順番で席に座っただけである。
「ふうん……おねえさんのお菓子おいしかったって伝えてね、安井。ありがとうって」
二谷に話を振られないよう、安井の方を向いて話題の流れを変えてみた。
安井はああ、と切れ長の目を緩めて頷いた。
二谷と安井は家が近くということでふたりそろって降りた。降りるとき踏み出した足が揃っていたことにぎゃあぎゃあと騒ぎながら。主に、二谷が。
気がつくと藤咲もいなかったので、話している間か二谷たちと同じ時にでも下車したのだろう。
喧噪が遠ざかると、静かな車内が顔を出した。夏梅は鞄を抱えて、暗い車窓に映る自分の姿を見ていた。
光を飲み込んだような黒々とした眼が、じっと夏梅を覗き込んでいるようだった。そこから目を反らせば窓から自分の姿をしたものが出てきて夏梅を襲ってくるのではないか。
そう想像してしまって、夏梅はそれから目を離すことができなかった。
目的地がアナウンスされ、駅の明るいホームに迎えらると、こちらをじっと見つめてくる少年が窓から消えた。ほっと息をついて、足早に電車を降りる。
家に帰ると、父が腕をまくった格好でドアを開けてくれた。夕食の用意をしてくれていたのだろう。長ネギの匂いがした。夏梅は、長ネギ、きらいだけれど。
「おかえり、夏梅。今日は遅かったんだな」
「ただいま。日直だったんだ。手伝ってもらったり、忘れ物したりしておそくなっちゃった」
まるで日直の仕事が、手伝ってもらうことだったり忘れ物をしたりすることのように話していることに気づかない。もちろん、夏梅がきちんと黒板消しや日誌ができていていたなら、そう話せていたのだろうが。
忘れ物のくだりで、父はちょっと苦笑した。あー、なるほど想像できる……みたいな感じだろうか。
「友だちに手伝ってもらったのか。ちゃんとお礼は言えたか」
靴を脱いで、家の中に入りながら夏梅は思い返す。
手伝ってもらった礼は言っただろうか。待っててくれたことには礼を言ったけれども。
父に続いてリビングに入ると、ふんわりとした鍋のいい匂いがした。
黙して長考した夏梅は、食欲をそそる匂いに意識が逸れてしまい、とりあえず頷いておいた。
「うん、たぶん」
「そうか」
父はその沈黙もしっかりと待ってくれていた。多分というあやふやな回答にも頷いてくれる。
口をすぼませて夏梅は鞄を降ろしながら、ちょっとだけ父の方をちらっと見てみた。
父がいうには、夏梅は目が大きいので、どこを向いているのかすぐに分かるというので気を付けて。
父が視線に気づくかどうかという時に、夏梅は「手を洗ってくるー」と何かいわれる前に洗面所に行った。
手を洗い、うがいもする。顔も洗ってタオルでふいていた夏梅は、鏡に映る自分がゆるゆるとわらっていることに気づいて、むむむと口をとがらせてみる。しかし、口の端から緩んで……失敗。
何もおもしろいことなどないのに。強いていえば、顔を洗っていたくらい。
鏡の前でタオルを置いて、両手で顔をぎゅっとつまむ。制服を着替えてリビングへ戻る。
鍋に火をつけ直していた父が「頬が赤いぞ、熱でもあるんじゃないか」という心配性な顔を覗かせる台詞に、返事にもならない相槌を打って席に座る。じっとコンロの火を見る夏梅に、父もまた席に座った。
距離が近くなると、青い火のゆれを眺めながら、夏梅はいつの間にかするすると今日あった学校のことを口にしていた。
「きょうはね、日直でいっしょになった子といつも話をする子とさんにんで帰ってきたよ」
父は友人と帰ってきたということに声を和らげた。何気なく話し出した夏梅より、静かに耳を傾けて聞いている父の方が嬉しそうだった。コンロの青い火から目を上げて、思わず父の顔を伺う。
ちょうど目が合って、夏梅はちょっと首を傾げて「ねえ……おとうさん」
気付けば、父を呼んでいた。
「なんだ?」
すぐに父の応えがある。
「……どうして、この火は赤色じゃなくって、青いの?」
本当は、別に、呼んでみただけなのだけれども。