暗い。怖い。寂しい。
ここに入れられた時はまだそんな事を考える事もあった。今ではもうそんな事も無くなってしまった。周りの人たちは私をどの様に扱うかを決めあぐねているようだ。腫れ物を扱うかの様に接し、必要以上には意思疎通をしようとはせずに生きるのに最低限の事だけを私に施して去って行く。もう嫌だ。何度そんな事を考えたかわからない。こんな世界いっそ・・・この世界が憎い。無くなってしまえ。滅んでしまえ。口から出た呪詛の言葉はしかし叶う事は無かった。驚く程時の流れが遅いこの箱の中では全てが無意味で、無為で、空疎で、虚ろで、空っぽだ。
「リー・・ネちゃん・・・」
スプリングが氷の様に堅いベッドに横たわっている、私の乾いた唇の間から無意識のうちに漏れた言葉。かつての友の名前だった。あの頃に戻れれば。今更そんな事を思った所で時間が巻き戻せる訳でも無い。口をついて出た友の名前はそのまま冷たい石の壁へと吸い込まれていった。
そして私はここに来て、何度目かもわからない意識の喪失を経験した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「プロジェクト・サイン?」
「そう。こいつを見てみなよ」
そう言いながら伊吹にボーマンが手渡してきた分厚い紙の束の一番上には
『PROJECT・SIGN』
と書かれていた。
「何だこれ?」
「リベリオン合衆国の地球外生命体研究機関」
「・・・冗談だろ?」
特段重要でも無い様な事の様にさらっと口にするボーマン。しかしその内容は明らかに軽い様な事では無かった。
「本当だよ。NACAにいる友人が送ってきてくれたんだ。まあ大事な部分は流石に教えてくれなかったけどね」
「民間が主導してるのか?こんな大規模なプロジェクト・・・」
伊吹が紙の束を捲る度に目に飛び込んでくるのはその道の著名な研究家や様々な軍の実験部隊、研究機関の名称だった。これを民間が主導しているというのはどう考えても無理がある。
「表向きは・・・ね」
手元のワイングラスを揺すりながら呟く様にボーマンが話す。
「表向き?」
「実態は主導してるのはCIAと空軍らしい」
「CIA?何だそれ何かの研究機関か?」
「ああ、イブキは知らないのか。リベリオン中央情報局。昔のOSSだよ。スパイ機関さ」
ボーマンの言葉を聞き、伊吹が納得した様な表情を見せる。リベリオンの諜報機関と空軍が主導ならこれほど大それたプロジェクトも実行可能だろう。しかし・・・
「地球の上ではネウロイと絶讃戦争中だってのにエイリアンとは・・・よく政府がゴーサインだしたもんだ」
呆れた様な口調で伊吹が言う。そんな予算があるならこっちに回して欲しい。せめてワイルドファイアで無くても前線で戦っている兵士達に回してやればいい物を・・・そんな考えが頭の中をよぎった時、横からボーマンの声が飛び込んできた。
「その計画、金出してるのは8割民間らしい」
「え?」
「何でもあのハワード・ヒューズが出資してるらしい。世界の富の半分を持つ男だよ」
ハワード・ヒューズ。リベリオンの実業家。資本主義の権化とも言われ、様々な分野に対して投資を行ったり自ら研究所を立ち上げている大富豪だ。
「彼は宇宙とか飛行機に目が無いらしいからね。今回の投資もそういうとこじゃないかな」
と、ボーマン。
「金持ちの道楽に軍が食いついたってとこか」
「そうだろうね。軍としちゃ地球外生命体の研究しますって言いながら民間から金ふんだくって宇宙開発やネウロイの研究を進める糧にしようって腹づもりじゃないか?」
そこまで言うとボーマンはワイングラスに入っていた黒ワインを一気に飲み干した。
・・・なるほど。前に何処かで聞いた『各国の政府や軍の上層部はネウロイ大戦が終わった後の青写真を描き始めている』というのはあながち嘘でもないのか。おそらくネウロイの危機が去った後に起こる、各国の様々な利権争いや資源を巡る争いの主導権を握るべく、今の内から様々な研究を行おうとしているのだろう。大国間の争いでも戦火を交えない戦いという物が存在する。いわゆる冷戦というやつだ。その戦いではお互いの科学力や技術力の争いとなる。その際に宇宙開発分野で相手の国よりリード出来る事が出来れば相手に対して相当なプレッシャーを掛ける事に成功する。おおかたリベリオン政府のお偉いさん型が考えているのはそういう事だろう。伊吹はそこまで考えてほぅとため息をついた。
「呆れるな」
「まあどんな形であれ、宇宙にメスが入るのは歓迎すべき事だよ。平和な世界に乾杯さ」
ボーマンがそう言った後、
2人の間に一瞬の沈黙が訪れた。
「そういや・・・」
その沈黙を破ったのは伊吹だった。
「ん?」
「何で俺にそんな話を?」
そう言うとボーマンは破顔した。
「イブキ、好きだろ?宇宙。イブキがいつも使ってる本の栞、見たよ」
「・・・見られてたとは知らなかった」
「あれを栞に書いてるって事はそういう事だろ?」
「昔の名残。もう忘れた」
そう伊吹が言うとボーマンが『素直じゃないなぁ』と言う様に苦笑する。
「ちょっと飲み物を取ってくるよ」
ボーマンはそういうと『パーティ会場』に設置された仮設のバーに向かった。ボーマンが去った後、改めて伊吹はこの歪な空間を横目で見渡す。本来ならストライカーユニットの整備・保管を主な目的とするこの巨大なハンガーは今日は国際連盟空軍参加各国の国旗がはためき、スーツやドレス、略衣ではない軍服に袖を通した軍人の姿であふれかえっていた。そこにいる各々が豪華な食事と酒に舌鼓を打ち、内地から呼び寄せたジャズバンドの演奏に拍手を送る。言われなければここが対ネウロイ戦争の前線基地とは気づけない程の明るい雰囲気がその場には漂っていた。
『新しい部隊がたった1個創設されただけでこんな事する必要あるのかね』
伊吹はこのパーティが始まる前にマレーが苦々しそうに言っていた一言を思い出す。そう、本来伊吹はこのパーティにおいてここにいる人々から祝われるべき立場の人間なのだ。『第105技術研究団創立記念祝典』この騒々しいパーティの正式な名称。マレー曰く『うちの部隊と501の予算獲得の場』である、これに出席する為にワイルドファイアの面々はもちろんの事、この基地に同居している501JFWの面々まで巻き込んで2日前から綿密に準備されたこの茶番劇にうんざりし始めていた伊吹はこの喧噪にまみれた場所から一刻も早く立ち去りたかった。せめて立ち去れないならこのハンガーから外に出て行きたい。そう言えばさっき飲み物を取りに行ってくるとったビーマンは何をしているのかと思い、周りを見渡してみると何処の国の軍人かに捕まって色々話をさせられている現場を目撃してしまった。彼には申し訳ないが自分だけでもここから退散させてもらう事にしよう。落ち着いた所でついでに先ほどボーマンから渡されたプロジェクト・サインの書類も読んでみたい。ささやかな『脱柵』を決意した伊吹は、しかし2秒後にドレスを着た1人の少女に行く手を阻まれることになった。
「あ、前にハットリといたやつだ」
「あんたらたしか・・・ユーティライネン大尉か」
「お、私の事覚えてたか。エラいな」
感心した様にエイラが言う。前にあった時にも思ったが話し方が妙に女子っぽく無いというか、何というか残念な感じがする。プロポーションは北欧のおとぎ話に出てくるお姫様の様な出で立ちで、いかにも美少女という感じだ。現に今彼女が来ている純白のワンピースをもう少し長くした様なドレスと相まって何処かの国の姫様と言っても違和感は無い。・・・容姿だけなら。
「何だ?」
「これ、食わないか?」
エイラが差し出してきたのは黒いビー玉の様な代物だった。
「何だこれ?」
「サルミアッキ。スオムスのお菓子」
「美味いのか?」
「まあ1回食ってみろって」
「・・・あんたその喋り方直した方がいいとか言われないか?」
苦言を呈しながらエイラの手のひらに転がるサルミアッキに手を伸ばす。いずれにせよ断れる雰囲気では無いし、特段断る理由も無い。見た目はこんなんだが案外美味いのだろう。その伊吹の予想はサルミアッキを口に入れた5秒後に覆される事となる。
「・・・何だこれ」
ふと横にいるエイラの顔を見てみるとニヤニヤしている。この野郎・・・
最初にサルミアッキを口に入れた瞬間はまだ良かった。少し苦みはあるがまあまあ食べられない事は無い。問題はその数秒後にやってきた。
「・・・焼いたタイヤを食ってる感じだ」
その言葉に耐えきれなくなったのかエイラが思い切り笑い出した。
「あのなぁ・・・」
『泣くな少年、ほら、これでも食うか?』
・・・今のは何だ?脳裏から聞こえた確かな声。周りを見渡してもそばにいる女性は目の前にいるエイラのみ。幻聴・・・?
ふと、エイラの方を見るとバツの悪そうな顔でこちらの様子を伺っている。
「そこまでまずかったか?」
どうやら自分が狼狽している理由があまりにアルミサッキがまずすぎたからだと思っているらしい。少し心配そうな顔をしている。どうやら根はいい子らし・・・。その瞬間、伊吹の脳裏にある事が浮かんだ。
「・・・あんた、俺がここに来るまでに、今までに何処かで会った事あるか?」
エイラがきょとんとした顔をする。
「はぁ?そんな訳無いだろー?大丈夫か?」
さっき、サルミアッキを食べた瞬間、どこかから聞こえてきた女性の声の様な物と同時に何故か浮かんできた漠然とした疑問。何故そんな事を唐突に思ったのか。混ぜ目の前にいる女性と会うのがここに来て初めてでは無いのではないかと心の奥底で一瞬でも思ってしまったのか。既視感・・・?いや、おそらく気のせいだろう。前にユーティライネン大尉と似た女性の何処かで会ったのだろう。実際これまでに欧州には来た事が無い。彼女と扶桑国内で出会う事などまず無いのだから。
「いや、何でもない。気にしないでくれ」
すると、どこかホッとした様な表情を浮かべながらエイラが言う。
「ごめんごめん、普通に美味いっていう人もいるんだけど・・・えーと、何だっけ?名前」
「柊伊吹だ。人の名前もちゃんと覚えとけよ・・・」
「イブキの口には合わなかったんだな。けど、あの医者の人とかは結構美味しいって言ってたぞ」
「あんたもしかして俺以外の人間にも食わせたのか?」
悪びれる様子も無くエイラが頷く。
「ま、なんてことないって」
「ったく・・・」
そう言うと伊吹はハンガーの出口に向かって歩を進め始めた。
「何処行くんだ?」
「ハンガーの外。こういう人が沢山いるとこ苦手なんだ」
後ろから聞こえるエイラの声に反応しつつ伊吹は新鮮な空気と静けさを求めてハンガーから立ち去ろうとした。その時、
「あ、そうだ」
またも後ろから聞こえるエイラの声。
「今度は何だ?」
「サーニャ、見なかったか?」
「サーニャ?」
「サーニャ・V・リトヴャク大尉。前に私の横にいた女の子」
前にいた女の子。そう言われて伊吹は前に兵舎で迷って静夏に案内してもらっていた際にエイラの横にいた少女の事を思い出す。まるで陶器の様な白い肌で、触れてしまうと崩れてしまう様な儚さを持った少女だった。
「ああ、あの子か。いや、見てないな」
「うーん、そうか。ありがとう」
エイラの問いに答えた伊吹は今度こそハンガーの出口を求め歩き出す。後ろからエイラの『何処行っちゃったんだぁ』という悲痛な声が聞こえてきたが今はこの人間の坩堝から一刻も早く抜け出したい気分でいっぱいだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「ここなら大丈夫か」
喧噪にまみれたハンガーから脱出した伊吹がやってきたのは、兵舎の5階にある大きなバルコニーだった。バルコニーと言っても、兵舎から外に出っ張った場所にベンチなどを置いた簡素な物で普段は兵員達がウィッチの誘導に使用したり、大口径の双眼鏡を持って基地の近くの空域を監視したりする際に利用するスペースだった。バルコニーに通じるドアを開けた瞬間、涼しい風が兵舎の中に入り込んできた。あまり厚着をしなくてもよさそうだ。冬場になるとぐんと気温が冷え込む地域だが、季節柄もあるのだろう。これ幸いとバルコニーに足を踏み入れた瞬間、誰かが据え置きされているベンチに座っているのが見えた。
「先客か?」
小さな声で呟いたつもりのその声は、重いの他その場に大きく響いてベンチに座っている人物の耳まで届いたらしい。その人物が少し驚いた様な表情で伊吹の方を見てきた。
「あんたは確か・・・リトヴャク大尉」
バルコニーにいた先客、それは501JFW所属のウィッチであるアレクサンドラ・ウラジミーロヴナ・リトヴャク大尉だった。
「ヒイラギ・・・さん?」
「名前、覚えててくれたのか」
さっきのユーティライネン大尉とはえらい違いだ。内心そう呟きつつも相手の様子を伺ってみる。少し不安げな顔。そりゃそうだ。1度合ったとはいえ殆ど見ず知らずな男性とこんな場所で2人きり。年頃の女性なら不安にならない訳がない。ここは早い内に退散するか・・・
「悪い、邪魔したな」
そう言いつつバルコニーから出ていこうとする。そこで伊吹はユーティライネン大尉がこの女性の事を探していたのを思い出した。『ユーティライネン大尉があんたの事を探していたぞ』振り返って、そう言おうとした時、後ろから声が聞こえた。
「あ、・・・待って下さい!大丈夫ですから・・・」
「え?」
後ろから聞こえたリトヴャク大尉の声に思わず振り返る。
「ここのベンチ、まだ場所があるんで・・・どうぞ」
「・・・いいのか?」
「はい」
「・・・そういう事なら」
大尉が譲ってくれたスペースに腰掛ける。それほど小さいベンチでは無いといえ、お互いの距離は60cm程。
「そういや、ユーティライネン大尉があんたの事探してたぞ」
「エイラが・・・そうですか」
それだけの会話だった。元々人とあまり会話しない伊吹に取って殆ど見ず知らずの女性と2人きりというこの現場はさっきまでいたパーティ会場よりも別の意味で更に厳しい環境と言えるかもしれない。どうすればいいかわからず、とりあえず伊吹は当初の目的を達成する事に決めた。相手の邪魔にならない様にそっと今まで手に持っていた物を身体の前にやる。本だった。今まで読んでいたページには栞が指している。そのページを開こうとした瞬間、栞が本の間から抜け落ちた。
「ん」
ひらひらと木の葉の様に落ちていく栞。それを空中で取ろうと伊吹が手を伸ばした瞬間、横から伸びてきた手が伊吹よりも早く栞をキャッチした。
「あ、ありがとう大尉」
栞が地面に落ちる寸前でキャッチしてくれたのはリトヴャク大尉だった。礼を言って栞を受け取ろうとした伊吹だったが、そこである事に気づいた。
「大尉?」
栞をキャッチしたリトヴャク大尉が、その栞を熱心に眺めている。もしかしてアレを読んでるのか・・・?
「あの・・・この栞に書かれてる数式みたいなのって・・・」
大尉が栞から目を外し伊吹に問いかけてきた。やはりそうか・・・まあいいかと思い伊吹がゆっくりと口を開く。
「・・・ツィオルコフスキーのロケット方程式」
伊吹の栞に書かれていた文字。そこには
ΔV=ωIn(mo/mT)
と書かれていた。
「推進剤を使う全てのロケットに共通する方程式だ。どれぐらいの速度で、どれほどの量の推進剤を後方に向かって吐き出せば、どれぐらいの重さの物体が、どれぐらいの速度を得る事が出来るのかを計算する為の式・・・今から半世紀も前にあんたの国の学者さんが発見した方程式だよ。宇宙屋はその方程式を覚えないとやっていけない」
「・・・ロケットが好きなんですか?」
淡々とツィオルコフスキーの方程式について話す伊吹にサーニャが問いかけた。
「好き・・・そうだな、それよりもっと・・・宇宙に行きたいって思った事はあるな」
伊吹はす呟くと自分の手元に置いてある本に視線を落とした。寸分ためらってから、その本をサーニャに渡す。
「月世界旅行・・・」
本を渡されたサーニャが表紙に書かれたタイトルをゆっくりと読み上げた。
「ジュール・ヴェルヌの本。その本、好きなんだ。初めて読んだのはいつだか覚えてないけど、何だか生まれた時からその本を読んでた様な気がする。何回も何回も読んで、俺も月に行きたいとか馬鹿な事ずっと考えてた。いつかあの綺麗な衛星の上に自分も旗を立ててやるんだ・・・って」
「・・・そうなんですね」
サーニャが手元の月世界旅行のページをざっと捲る。ところどころのページが変色したり、破れ掛けていたりしているがその度に補修が入っていたりしている。この本の持ち主が大切に読んでいる事がうかがえた。
「その本の中だと月まで大砲を使って行ってるけど大砲じゃ駄目だ。第1宇宙速度にも届かない。推進剤を使うロケットじゃないと・・・」
そこまで言って伊吹は口を閉ざした。
「ロケットじゃないと・・・?」
サーニャが怪訝そうな表情で伊吹を覗き込む。
「今のロケット技術はそんなに高くない。とてもじゃないが第3宇宙速度を振り切って太陽の重力を振り切る速度なんて・・・そんな事を考えてたら急に宇宙だ何だかんだ考えるのが馬鹿らしくなって、気づけば生物学なんてやってた。一応物理学の博士号も取得したけど未練だらけだ」
「けどまだ本は読んでるじゃないですか」
「ん?」
「昔、私の友達が出来ない事を諦めようとしてたんです。何度やっても無理な物は無理って。私は出来ないからって諦めちゃ駄目って言って・・・そのまま喧嘩になりました」
「・・・それで?どうなったんだ?」
「その友達は諦めませんでした。出来ないって言ってた事を私の為に頑張って努力して出来る様にして助けてくれたんです」
そう言った後、サーニャは顔を俯かせたまましばし沈黙した。
「・・・いい友達だな」
「私の大切な友達・・・大切な人です」
「俺にはそんな人はいなかったよ。扶桑にいた頃も皆が皆、他の人の足の引っ張り合いで醜いもんだ」
信用出来る人間も、喜びや悲しみを心から分かち合える友人なんかもいなかった・・・そこまで考えて、伊吹はふと我に返る。
「・・・こんな話、今まで誰にもした事は無かったよ」
「そうなんですか・・・」
「あぁ」
「きっと、ヒイラギさんなら出来ます」
「何がだ?」
「月まで。宇宙まできっと、届きます」
「・・・そうだといいな」
そう言うと伊吹は微笑する。自嘲や人付き合いで必要な定型的なぎこちない笑いでは無く、心の底から面白いと思って頬を緩めたのはいつぶりだろうか。目の前のリトヴャク大尉を見ると彼女もつられたのか頬を緩めている。彼女の肩までかかる、白銀の長い髪が軽風に吹かれて靡く。自分たちの足下で未だ行われているパーティの喧噪も、バルコニーへと続くドアの陰でサーニャと共にいる伊吹を睨み続けているエイラの棘のある視線も関係なかった。ただ、今、この空間にだけ流れている幸福とも、平穏とも違う何かを噛みしめていたかった。ふと空を見上げれば満面の星空。そこにぽつんと浮かぶ満月の月明かりが彼らを優しく照らしていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
地球から約38万キロ、音も、大気も無いその空間は一面が砂と岩で覆われていた。太古の昔から地球の衛星として天球上の白道をほぼ4週間の周期の間で回り続ける天体、月。その天体の静かの海と呼ばれる場所にそれは落ちていた。月面の岩石などを採取する際に使われるプラスチックの容器、金のオリーブの枝、ユージン・シューメーカーの位牌を入れた壺。そして、それらが置かれている中心にひっそりと横たわっている物。赤と白のストライプに左上部が青地、その上には無数の白い星が書かれている。ところどころレゴリスや太陽の紫外線などで変色しているが、その旗のデザインははっきりと見えた。ここに持って来られてからこの場所にずっと置かれ続けていた星条旗は今日も伊吹やサーニャ、様々な人間や動物が生存している地球をじっと、いつまでも見つめていた。
続く