「……面白いわね、これ」
ぽんと軽い音を立てて、少女は本を閉じる。
それからその本のタイトルを眺めながら、彼女――ジャンヌ・オルタはつぶやいた。
――マスターから渡された本。
絶対に気に入るからとしつこいぐらいに推してきたので、ものは試しにと借りてみた第一巻。
それで、たまたま現在暇だったから、しょうがないから開いて目を通してやったのだが……確かに、おもしろくはあった。
ぺらりぺらりとめくり続け、一時間もしないうちに読み終わってしまったぐらいには。
「……気になる」
ベットに寝そべり、天井を見上げながら少女は一人語る。
……けれど、こんなにもあっさり読み終わって早速借りにいくというのは、なんとくなく面白くない。
少年の予想通りハマってしまった、と認識されることが少しどころか相当気にくわないと思えてしまうジャンヌ。
しかし同じくらい、今後の展開が気になるのも事実。
うーんと唸りながら左右に体を揺らして苦悩する竜の魔女。
……最終的に、好奇心の方に負けた。
「……呼んで持ってきてもらおうかしら」
それがせめてもの意地、と少女は懐から携帯端末を取り出す。
元来サーヴァントとマスターの間では無用だろうが、もしもの時のためにと彼が持たせてくれた。
主に、日常のなにげない遠距離のやりとりに使用してる。
ポチポチとパネルに指を走らせ、スピーカー部を耳元に着ける。
響いてくるコール音が途切れる瞬間を、足をパタパタと揺らしながら待った。
……しかし、いくら待とうともその気配はない。
彼の声が聞こえてくる雰囲気が、これっぽっちもない。
繰り返される電子音に、だんだんと苛立ちが募ってゆく。
「……ああもうっ!!遅いのよ!!」
一分以上の無反応にはじけた彼女はぱんと枕に端末を叩きつけた。
……呼べば絶対行くよとか言っておきながらこういうことをする。
意味がないじゃない、と大きく息を吐きだす。
しばらくの間、少女はその呼吸を繰り返す。
コール音もなければ、振動もない端末を見つめながら。
沈黙の中を、散々悩んだ挙句、仕方がないと彼女は後頭部を掻く。
「……直接行くか」
出ないんじゃ仕方ないしね、と再び自分に言い聞かせながら、ジャンヌはベットから起き上がる。
それからマスターに借りた初巻を手にとり。
ぱちんと指を鳴らせば、身なりはラフな部屋着からいつもの黒装束へと早変わり。
そして、高い踵を一層高く鳴り響かせて、魔女は部屋を後にする。
……しょうもない、どこぞのマスターを探すために。
■ ■ ■
――時刻は午後三時。
この時間だと、マスターが必ずいる場所というものはなかなか特定できない。
なのでまずは彼の自室を目指すことにした。
かつんかつんと白い廊下に靴音を響かせて、ジャンヌは歩く。
まだ昼頃だというのに、すれ違う人はわずか。
見かけるのは少年と呼ぶには少々更けすぎた大人たちばかりで、しかもどこか遠巻きにされている。
彼らは一瞬目が合うとすぐに目を逸らして、足早に去ってゆく。
……当然だろう。
かつて敵だった者が、我が物顔でここを闊歩してるのだ。
時間が経ったからといえ、私に慣れる奴と相容れない奴がいることに、私自身なんの不思議もなく納得してる。
……ただあの少年が、とびぬけて異質なだけのこと。
そうこう考えてるうちに、少女の目指していたマスターの部屋の前へとたどり着く。
無機質な灰色の扉、その傍らに備えられているナンバープレートを、ジャンヌは一つずつ順番に押し込んでゆく。
押し出すリズムは軽快。
彼女にとっては慣れた動作だ。
ピロンという正解のメロディと共に、閉ざされていた扉は横なぎに開かれる。
これも、普段通りの光景。
あとは開かれた部屋に立つ、そのふにゃけた面構えに声をかけるだけ。
……しかし。
「――あら。ジャンヌさんではありませんか。こんにちは」
――そこに立っていた人物は、黒の彼女が思い描いていた人物ではなかった。
マスターよりも一回りも小さい身長と、はるかに高く透き通るような声。
緑色の長髪と着物、その上から覆うように纏った白い三角巾とエプロン。
動きやすいようにとまくり上げた袖からは真っ白く細い少女の腕が見え、右手に草箒、左手に塵取りを握っている。
「……なんで、アンタがここにいんのよ」
がしがしと髪をかき乱しながら、ジャンヌは苦々しげにそうつぶやく。
……正直、この問いかけ自体なんの意味を持ってないと重々承知してはいたが、尋ねずにはいられなかった。
すると緑の少女は「それはもちろん……」とやわらかに微笑む。
――ジャンヌとは、似て非なる黄金の瞳を歪めて。
少女はさも当然のように答えた。
「――わたくしでございますから」
「……あっそう」
慣れとは怖いものだ、と魔女はつくづく実感する。
何せ今の一言に対して、何の疑問もなく納得できてしまう自分がいたのだから。
……本当、末恐ろしい女性である。
■ ■ ■
「――もっ一回訊くけど、なんでマスターの部屋に当たり前のように貴方がいるんですか?」
ぎこぎこと、座っている椅子を傾け揺らしながら、ジャンヌは再度尋ねる。
対して清姫は「お掃除ですよ」と答える。
「ますたぁがご不在の今、お片づけをして差し上げることこそ、わたくしに出来る最大の御奉公です……あらあら。屑籠が溜まっていますね。袋に纏めておきましょう」
「思春期男子のゴミ箱漁るとか貴方もなかなか鬼畜ね……てゆうか毎回思うけどそもそもどうやって入ってるのよ?」
ふと気づけば近くにいる。
まるで幽霊か何かのようだ。
すると彼女は「いえいえ、そんな難しいことではありません」とちょいちょい手首を左右に振る。
「……開くぱすわーどになるまでぷれーとを連打してるだけでしたので、簡単な作業です」
こともなげに、さらりと述べる蛇の化身。
むしろこちらの汚れの方が難敵ですとさえ言ってのけ、念入りに雑巾で床を磨く彼女。
……前言撤回。
幽霊なんて生易しいものではなく、もはや怨霊のごとき執念。
ただもくもくとボタンを押し続けてる清姫の姿がイメージ出来てしまって、背筋がぶるりと震える。
「……ご苦労様ね、本当に」
乾いた笑いと共に漏れでたジャンヌの言葉に、清姫はむっと眉を顰める。
その言い方は腹が立ちますと、むくれながら文句を言ってきた。
「ますたぁを独占してる貴方に言われますと皮肉にしか聞こえませんわ」
「独占って、んなことしちゃいないわよ。貴方たちと同じ距離感だから。気のせいよ気のせい」
「気のせい、でございますか」
そうよ、とジャンヌは断言する。
それを訊いた清姫は特に反論した様子を見せることなく、「左様でございますか……」と首肯する。
思っていたよりも、あっさりとした幕引き。
拍子抜けかもとさえ、ジャンヌは思いもした。
「――ちなみにそこの箪笥の三段目。無造作に投げ込まれていた可愛らしいふりるの肌着はわたくしがきっちり畳み直しておきましたので、どうかご安心ください」
――ぽつりと囁かれたそのつぶやきに、かの竜の魔女もたまらず吹き出す。
けほけほと激しく咳き込む漆黒の彼女を、清姫は呆れた目で見降ろした。
「……なぁにが同距離ですか。ご自分は隠れてこそこそますたぁと仲良くなさってるくせに。貴方も十分したたかでいらっしゃいますね」
「……てか、勝手に人のプライベート探る奴に言われたくないし、このストーカー」
「恨み言なら、日頃から整理整頓を怠けているご自分の生活態度をお恨みください。むっつりすけべさん」
むっつりすけべ、という言葉がぐさりとジャンヌの心を抉った。
それはそれは深く深く。
思いもよらぬその不名誉極まりない仇名は、彼女の精神にクリティカルを叩きだす。
ずーんと落ち込でしまう魔女の姿にやれやれと齢十二歳の少女はため息をつく。
……粋がるくせに、叩けば簡単にしなびてしまう。
その姿はまるで乙女そのもの。
案外、『本物』よりもよっぽど敏感な感性を持っているのかもしれませんね。
「……まぁそれはさておき、貴方がお借りしたかった本はこちらですよね」
てってと小走り本棚近づき高めの棚に置いてあった赤い表紙の一冊をぴょんとひと跳ねして、清姫は掴みとる。
ジャンヌが求めていた二巻目。
どうぞと緑の少女はそれを差し出す。
鮮やかな深紅の外装に包まれた一冊。
しかし少女はすぐにそれを手に取らず、しばらくじっと見つめた。
「……いや。やっぱいいわ」
いらない、と少女は断って立ち上がる。
そのまま机に置いてあった一巻をひったくるように手に持って、部屋の扉へと歩いてゆく。
「いらないって、これを借りにきたのではないのですか?」
違うわよと、ジャンヌは否定を口にする。
……いや、実際には合っている。
だが気づいてしまったんだ。
あれだけ欲しかった続き。
けれどすっと冷めてしまった。
彼がいないとわかった途端、冷めてしまった。
……まったく、我ながら本当にわかりやすい。
扉の直前まで来て、彼女はくるりと顔をこちらに向ける。
そしてそのやんわりとした白い唇は、次にこう言葉を紡ぐ。
「――貴方に、借りに来たわけではありませんから」
――そう、言い残して。
ぴしゃりと音を立て、真黒の影は扉の向こうへと消えていった。
……こちこちと、室内に秒針が時を刻む音のみが響く。
しばしの時間が経ってから、はぁあと一際深く重々しいため息が、少女の口から吐き出される。
「……つくづく、面倒な方ですね」
――初々しく健気に、一心にかの背中を追いかけるあの姿。
……まるで、いつかの誰かを見ているようで。
そんな風に共感してしまう、女々しい自分にも呆れながら。
か細い指先を額に当て、清姫は大きくかぶりを振ってつぶやく。
だがまぁ……案外気分は悪くない。
以前の彼女なら、それを嫌でも認めようとしなかった。
しかし今は、その事実に向き合おうとしてる。
認めて向き合おうと思うだけの……『余力』が出来た。
そしてその成長を認められるだけの『気持ち』をくれたのも……まぎれもない『あの人』。
「……やはり最高ですね、わたくしのますたぁは」
くすりと、少女は笑う。
――これは『貴方』が決して知らない裏の物語。
知られてはいけない物語。
だってもし、『貴方』が知ってしまったら。
真っ赤になって、魔女は嬉し笑いする『貴方』の頬を打ち鳴らすだろうから。
……そんな甘い展開は、彼女だって羨ましく思えてしまうから。
あのささやかな魔女の変化は、少女だけの語らぬ物語である。
終