ほんと、めんどうくさい。
彼女はそう舌打ちをする。
廊下を響く靴音は、少女の気持ちの代弁者。
一歩進むごとに深みを増すソレは、苛立ちの深度に比例する。
まぁ靴音などで図らずとも、今の少女の顔を見れば瞭然ではあるのだが。
きれいに整った眉は真ん中へと潜められ、鼻息は荒く、口元はぎりりと尖る。
黄金色の瞳はまっすぐと前を向き、燃えるような光で睨みを利かせている。
その迫力はかなりのもので、見かけた職員たちはさっと素早く通路端へ身を引いて、火の玉が過ぎるのを静かに待った。
そんな火の玉が血眼になって探す人物。
黒き衣を纏いて旗を揺らし、竜の魔女として恐れられるただ一人--ジャンヌ・ダルク・オルタが求める者。
無論それは騙るまでもなく……カルデアのマスター、その人である。
「一時間も放置とかありえないでしょ……あーもう。絶対一発いれてやる……」
ぱきぱきと指を鳴らすジャンヌ。
物騒だが、それも無理からぬこと。
……ミッション終了後、すぐ戻るからいっしょに帰ろうねと一方的に告げてこちらの返答も聞かず、さっさと消えてしまった彼。
無視して帰ることもできはしたが……気の迷いで、律儀に待ってしまった。
しかしいくら待てども顔を出さず、時計の針が一回りした瞬間にぷちりと切れた。
腕を大きく振って歩く彼女の目指す場所はただ一つ。
ミッションが終われば必ず報告しにいく、レオナルド・ダ・ヴィンチの工房である。
最近休日も何やかんやでそこに呼び出されることも多い。
呼ばれたからごめんねと軽くあしらわれて、約束の最中に置き去りにされたことも一度や二度ではない。
別にそれについて、ジャンヌはこれっぽっちも怒っても恨んでもない。
だが……ついで程度には、文句を言っておこう。
そう考えていると、少女の視界は一つの扉をとらえる。
工房へと続く扉の前に立つと、彼女は一度大きく息を吸って吐き、それからばんばんとなるだけ大きく響くようにノックした。
「マスター!いったいいつまで待たせる気なのよ!?さっさと出てきなさいっ!!」
そう声をあげて少女は腕を組んで反応を待つ。
しかし響ききったあとは、しんと静まり返るだけ。
もう蹴破ってやろうかなと、ジャンヌがつま先で床をぐりぐりとえぐっていた、ちょうどその瞬間。
ぱしゅんと一瞬で、自動ドアは横なぎに開く。
そして彼女の視線は扉の向こうにやや高めにあった青いまなざしと交差した。
その青は、ジャンヌの姿を映すとやんわりと柔らかな色を見せた。
「――やっぱりジャンヌだ。迎えに来てくれたの?うれしいなぁ」
「……別に迎えにきたわけじゃない。一時間もほったらかしにした不届き者を殴りに来ただけよ」
「あれ?もうそんなか?ごめんごめん、うっかりしてた。お詫びにほら、ぎゅーってしてあげる」
「あのね、いつもいつもそんなんで絆されるわけないでしょ……」
「いつもなら絆されてくれるの?」
「こ、言葉の綾よっ!!」
えーほんとかなー?と言いながら彼は顔を覗き込んでくる。
その頬はにやにやとまた腹の立つ笑みを浮かべて。
……やな奴。
熱っぽい頬を少年の視線から手で遮りながら、魔女は忌々しげに毒づく。
けれどその『やな奴』は肩をすくめて「構ってほしい年頃なだけさ」と微笑んでみせる。
……ほんと、こいつきらい。
「……ぶん殴るにしても、まずはさっさと帰りましょう。もう足がくたくたよ」
「ああ、ちょっと待って。帰る前に是非ジャンヌに見てほしいものがあるんだ。」
「アンタねぇ、この期に及んでまだ言うの?」
「まぁまぁいいからちょっと来て来て」
そうしてぐいぐいと少年は手を引いてゆく。
……こういうとき、この手を振り払えきれないというのが、私の致命的な欠陥なんでしょうね。
まんざらでもない指先の温度に、少女は深く息をついた。
連れられて入った工房の中は今回が初めてというわけではない。
だから見えてきた光景は予想通りのものばかり。
散らかった床に書類の山、奇奇怪怪な装置の数々にも、興味を惹かれることはない。
「おや。これはまたちょうどいいところに適任者がきてくれたみたいだね」
そう笑ってきらりとメガネを光らせる栗色の彼女。
それがかの有名な画家、レオナルド・ダ・ヴィンチだいう事実もとっくに、嫌というほど知っているから全然驚かない。
……驚くものがあるとするなら、それはその画家の背後に存在した。
「――あ、ジャンヌだ。やっほー、元気してるー?」
――それは何気ない、いつもの彼らしい挨拶。
変わりない声と表情。
疑問に思うことなどあるはずがなかった。
……その声が、今手を引いている少年から発せられたものであったならば。
「……は?」
思わず、声が漏れた。
その光景は、驚き慣れした彼女でも目を見張るものであったから。
少女の手を引いている、暖かな熱を持つ人。
画家といっしょに工房に立って、暖かな笑みで手を振っている人。
その二人はまったくの別人であるはずなのに。
二人ともが、寸分違わぬ『マスター』の顔をしていた。
「何が、どうなって……?」
目を白黒させる竜の魔女。
混乱する彼女に「やっぱそうなるよねぇ」としみじみとした二つの声が重なる。
「けどまぁ結論として、今の状況を端的説明するならさ」
同じ姿、同じ顔、同じ声。
すべてを合わせながら、二人は告げる。
人差し指と中指を立て、ピースサインなんてかざしながら少年『たち』は言った。
「――おもしろそうだから増えてみました」
ぱちりとウィンクする鏡合わせ。
その異常なまでにいつも通りな軽い態度に、どしんと肩に重さがくる。
先ほどまでの衝撃はあっさり消えた。
未知の現象に対する畏怖ももうない。
今ひしと感じているこの感覚は、アンタまた何かやらかしたのねという呆れと。
……まだしばらくは休めそうにないと確信してしまったがゆえの、意気消沈である。
■ ■ ■
「……最近ひしひしと感じてたんだよね。どう考えても『体』が足りないって」
「ミッションに資料作成、訓練にサーヴァントたちとの交流。日に日にハードになってくスケジュール。内容が内容だけに他の人にはやらせられない。今はどうにかなってるけど、そのうち首が回らなくなるっていうのは明白だった」
「そこで、ひそかにダ・ヴィンチちゃんと相談して計画していたのがこの計画。名付けて『マスター量産計画』になります」
「人形技術を応用してオレのコピー体をダ・ヴィンチちゃんに作ってもらった。令呪とかの機構を除いて基本スペックは本体と同等。そして空っぽのコピー体とオリジナルの身体の両方を操作しながら動かしてみる。つまり、一つの魂で二つの身体を操ってるわけだね」
「はじめは苦戦したけどそれなりに練習したから今ほらこのとおり、両方共が遜色なく動かせるようになった」
「ただ単にコピーを作ったんじゃ、きよひー辺りが苦い顔をしそうだからね。だから中身は本物したんだ」
「ねぇどうどう?結構様になってるでしょ?何か感想聞かせてよジャンヌ」
「……そうね。もうなんというか……とにかくうざいから一匹減らしてもいい?」
えーひどーいと声を合わせる二人。
交互に聞こえ、重ねて奏でてもくる音楽。
まるで違和感のない『彼』らしい『彼ら』の反応に、彼女は深く長いため息をついた。
「まぁまぁそう邪険にしないで。これでも造るのにかなり費用かかったし、何より私も自分の作品があっさり壊されるのは忍びないからね」
「こんなどうでもいいものに時間と労力と費用を割いてどうすんのよ……」
「仕方がない。私が作るものはいつの世だってどうでもいいと言われるものばかりさ。時代が追いつくのを気長に待つよ」
「少なくとも私は追っかけるつもりないから永遠に理解不能ね」
それは残念、と毛ほども残念そうな素振りを見せずティーカップを傾けるダ・ヴィンチ。
相変わらず厚い面の皮だ、と同じくジャンヌも出された紅茶に口をつける。
味がどうのというよりも気つけの意味合いが強い一口は、疲れ乾きいっていた喉を潤す。
けれどそんな癒しもつかの間に、諸悪の根源たるマスター『たち』の屈託のない声が再度響く。
「そんなことよりさぁジャンヌ。せっかく動かせたんだしオレ『たち』でいっしょに遊ぼうよ」
「いっしょに遊ぶって何?鬼ごっこでもしろっていうの?」
「ううん、3P」
ぶふ、と溜まらず彼女は紅茶を噴出した。
げっほげっほとせき込む少女に、「あらお気の毒」と少年二人がつぶやく。
「あ、アンタ、いきなり何言って……!?」
「二人に増えたんだから、有効活用できることをしようと思ってね」
「有効活用の方向性が歪み過ぎじゃない!?」
「そんなことないよ。それにほら……今ならジャンヌの好きな『耳責め』、両方からしてあげられるよ?」
「そんなプレイを好きになった覚えはないっ!!」
「そうなの?その割には昨日の反応はなかなか……」
「おやそうなのかい?よしメモっておこう」
「メモるなっ!!あとは別に感じてなんか――」
ダ・ヴィンチがが羊皮紙の筆を走らせるのを見て、真っ赤になったジャンヌが声を荒げる。
……それが、わずかな彼女の隙となった。
その一瞬で、二人のマスターはジャンヌの背後に回る。
そして双方が彼女の耳元に口元を近づけ同時に……ふぅと、暖かな吐息を吹きつけた。
途端、「ひゃん!?」と上がるかわいらしい声。
その声に、にやりと歪む二人の口元。
「ほら、満更でもない」
「……い、今のはただ、びっくりしただけ、で……」
「そうかな?じゃあもう一回……」
そうしてまた彼らの吐息が耳の奥まで入ってくる。
今度は唇が触れて、ぬくいソレが頭の中から犯してゆく。
その想像を絶するねっとりとしたしびれに、腰から崩れ落ちそうになる。
けれどそこで逃げること許してくれる彼じゃない。
力の抜けた少女の肩と手を優しく、けれどがっちりと持って捕まえる。
「駄目だよジャンヌ、まだ何もしてしてない」
「これぐらいじゃあいつも満足してないでしょ?」
「どこがいいって言ってくれればジャンヌのしたいようにしてあげる」
「ここがいいの?それともこっち?言ってくれなきゃわかんないな」
交互に、そして無作為に、二人のマスターは語りかけてくる。
それは少女を慣れによって飽きさせないための攻撃。
片方が言葉を紡ぎながら、もう片方の唇はそっと、少女の熱くなった耳たぶを食む。
唇のやわらかさだけで、少し痛いくらいの刺激を与えてゆく。
時折漏れる息は、まるで脳そのものを嘗められているかのよう。
声が響くたびに、頭が熱くなって。
刺激が走るたびに、息が荒くなる。
だんだんと、少女と少年たちの『何か』が高まってゆく。
「……やっぱり、ジャンヌって最高だね」
そう笑うマスターとマスター。
微笑みの先には、顔を真っ赤に染めて、涙なのか汗なのかわからないくらいぐちゃぐちゃになった少女の顔。
……ぶるりと、改めて背筋が震える。
「そろそろいいかな……」
「おっと、まさかここでするのかい?よりによって私の工房で、私がいる前でしちゃうのかい?なかなかの好きものだね、君」
「変態であることは認めますがダ・ヴィンチちゃんには敵いませんよ……それにジャンヌだって我慢の限界だろうし。ねぇジャンヌ?」
「……イン」
「ん?」
小さすぎて、よく聞こえなかった。
なんて言ったの、とマスターは少女の口元に耳を近づける。
すると今度はちゃんと聞こえた。
火照りながらの彼女の言葉。
ゆっくりと確かに、少年は耳にする。
――
ぱちりと小さく弾けた火花を皮きりに。
瞬間、爆炎が辺りを包む。
紅蓮に包む世界。
同時に出現した槍は、対象目掛けて突き出される。
回避は不能。
赤が支配する世界で、何かがさし砕かれる音が響き渡った。
爆発は一瞬のことで、視界はすぐに焔の赤から煙の白に切り替わる。
だんだんと晴れてきて見えてくるのは、目を大きく見開いて唖然とする芸術家。
肩でぜぇぜぇと息をし膝をつく竜の魔女。
そしてその傍らにいるのは――。
「――お見事」
そういって拍手を贈る少しすすけたマスターと。
……滅多刺しにされた、『マスター』だったものの残骸である。
「よく本物がどっちかってわかったね。さすがジャンヌ、オレのことをよくわかってくれている」
「……アンタ、ほんとお気楽ね」
「うん。だって物事気楽に考えた方が幸せでしょ」
ね、と首をかしげるマスター。
……そのしぐさに体の疲れが臨界まで達しそうなるが、なんとか意識を踏みとどまらせる。拍手贈るマスターに倣って、ダ・ヴィンチもすごいもんだと感心する。
「いやはや私も驚いたよ、よく区別ができたもんだ。今後の参考までに、本物かどうかどうしてわかったのか訊いてもいいかい?」
「別に本物なんてわかんないわ……ただ、所謂『贋者』って奴は鏡の前でよく見てるから、なんとなくよ」
誰かに似た別の者。
同じだけど違う者。
そういう『贋作』は、彼女にとって慣れ親しんだ事象だ。
実際に『贋作』であるがゆえの、彼女の特権。
「どちらにせよ私如きでばれるようじゃ、清姫もごまかせやしないわよ……ていうかそもそも、こんなものを造った時点で怒鳴られるでしょうね」
「別にばれるばれないは二の次だよ。要は如何にオレを運用できるのかって話さ」
「……自分をパーツだと思って運用とかいう言葉を使うの、今すぐやめなさい……叩っ斬るわよ」
きんと音が鳴って、黒い刃が少年の喉元につけつけられる。
軽く指を動かせば少年の頭はごろんと地面を転がるだろう。
また誤魔化したら殺すと、彼女は確かに語っている。
傍らで見るダ・ヴィンチはそれを止めない。
突きつけられたマスターも、ただ黙して見上げてくる金色を蒼で見つめ返した。
「……貴方は以前、自分を道具みたいに言うのはやめてくれと言った。聞いてて吐き気を覚えるぐらいの一般論を、私に擦り付けてきた。おかげで私は、『自分を守りながら戦う』なんて面倒くさいことをやらされる羽目になった。本当に忌々しい……けどね、私には約束を守らせて肝心の貴方が自らを省みずに知らんぷりとか、何様のつもりなの?」
ついと、少年の首元から血が滴る。
冗談ではなく本気であると、発せられる空気から誰しもが理解できる。
それでもマスターは「そのための二つ目さ」と笑ってみせた。
「本体を休息させながら作業をこなす。肉体的な疲労を低減できる。ほら、効率的だろ?」
「意識がおんなじなんだから、休息なにもないでしょう?それに……どうして、他の誰かに手伝ってもらおうとか思わないのよ」
……全部、しょい込もうとする。
オレしか出来ないから。
オレがやるべきだから。
そう言って、そんな言い訳を吐いて。
……大っ嫌いだ。
そうやって私がやらなくてはと息巻いたやつを知っている。
挙句裏切られて、焼き殺された女を知っている。
今こいつがやっていることは、あいつといっしょだ。
だから、余計気に食わない。
「……仮にそれが、みんなに迷惑をかけないためならとか言うなら――私は今すぐ、この首を斬り落としてでも座に還るわ。私がここにいるのはアンタに愛されたいためじゃない。弱いアンタが、一人じゃ何にもできないアンタを……気まぐれに助けてやるためよ」
――なんでもできる人間なら、助けてやろうなんて思わない。
ここにいるサーヴァント全員がそう思うはずだ。
普通だからこそ、非力だからこそ。
それでも手を伸ばす貴方に、みんなが力を貸す。
最弱だからこそ……貴方は最強なんだと、あのオルレアンで私は思い知らされた。
自らの失墜とともに。
「なのにアンタは、その唯一の取柄もなくしてる。そんな魅力も覚悟もない奴なんかに……抱き締められても、嬉しくない」
にらみつけてくる目じりには、うっすらと湿っていて。
今度こそマスターの胃袋に、ずどんと重しを落とした。
……思っていたこと、考えていたこと、すべてを見抜かれてしまって。
挙句彼女にこんな顔をさせたことが、心からショックで。
反論する間もなく、「……悪かった」と言葉が出た。
強がっていた彼も、素に戻ってしまう。
「……時間が、足りなくて。どんどんやることが増えていくし、だけどこれはオレが『責任』をとらなくちゃいけない。オレががんばらなくちゃって……でもやっぱり、君と遊ぶ時間とかは、残しておきたくて……責任の取り方を、間違えてた」
情けない言い訳だとは思うが、それが少年の本心。
……毎日、足を運ぶのが楽しかった。
嫌がりながらも、かまってくれる君が好きだった。
たまに来てくれる君の気まぐれが、本当にうれしかった。
だからこそ、嫌だった。
忙しくて、君の部屋に行けない日が。
せっかく来てくれた君を、追い返す日々が。
君の顔を見れずに終わる一日が……どうしようもなく、さびしい。
その結果が、このざま。
『責任』から逃げて、両方をうまくとろうとして破綻。
ばかだよねと、マスターは自嘲した。
するとジャンヌも「まったくね」と即座に肯定する。
……ほんと、しょうもない。
「アンタはばかよ。この期に及んでもね……なんで、貴方が『責任』を取る必要があるんですか?」
びしっと、今度は額を指ではじかれる。
普通の少女ならまだしもジャンヌのデコピンはなかなか。
不意を突かれ、たまらずしりもちをつく彼。
若干涙目になりながら、マスターはジャンヌを見つめ返した。
「今一番貴方の時間を獲っているのも、貴方のそばにずっといるのも、ほかでもないこの私です。なら貴方はなぜ一言……『責任をとって手伝ってくれ』と命令することができないのですか?」
……勘違いをしている。
少年は大きな、勘違いをしている。
いっしょにいたいと思ったのは貴方だけじゃない。
ほんのすこし、ほんとにほんの少しだけど。
……私だって、いれたらいいなって思ってるから。
だから、仕方ないから……手伝ってあげてもいいわ。
言った彼女は、少し頬を染めて。
ぷいと目を背ける。
対してマスターはいまだに唖然としたまま。
言っている言葉はわかるのだが、言っている意味がわからないという顔をしている。
するとジャンヌはちらりと横目で見て「……気は長くはありません」とぽつりとつぶやく。
それが合図だと気づき、マスターも慌てる。
「あ、えっとその……手伝って、もらえますか?」
そう上目遣いに、少年は問う。
するとジャンヌは頭を掻きながら「しょうがないマスターちゃんねぇ……」と深く息を吐いた。
「ま、仮にもマスターの命令であるし。レポート類なら私も見てやれるから……手伝ってあげるわよ」
「……ありがとう」
「……今度から、もっと早めに言いなさいな」
「……はい」
そう笑みを浮かべると、彼女もふっと頬を緩めた。
……やっぱり、好きになってよかった。
だってこんなにも、いっぱいの幸せな気持ちをもらえたんだから。
だからちゃんと、君に返していきたい。
少しづつ、確かに……。
少年が少女に手を伸ばした……その時。
「――いやぁよかったよかったよかった。無事に解決してなによりだ……ところでさ、マスターくんの責任はともかく私の費用と時間と労力をかけた作品を壊した責任も、ちゃんととってもらえるのかな?」
そんな声が響いて、さぁと青ざめる二人。
ぎりぎりとゆっくり横を見ると、にこにこと微笑む彼女の姿。
するとそれを見たとたん、脱兎のごとく竜の魔女は駆け出した。
「ちょ、ジャンヌさん!?」
「マスターあとは任せた、あれの責任は無理っ!!」
「じゃあ謝るの手伝ってよっ!!」
「やだこわいっ!」
言ってぴゃーと姿を消した彼女。
置いてきぼりにされ、ぽつんと一人残されたマスター。
「……えっとねダ・ヴィンチちゃん、そのなんというか……この度はご迷惑をおかけして、そのぅ……」
それからしどろもどろになりながら、ダ・ヴィンチに弁明をし始める。
しかしそんな冷や汗をかくマスターを見て、彼女はぷっと噴き出す。
そのあとくすくすと笑いながら「冗談だよ本気にしないでくれ」と言った。
「なぁに、あの状況で言い出したらどうなるのかなと思った悪戯心さ。別に怒ってないよ……むしろ、君が反省できたのなら安いもんさ」
「……怒られるって、わかってたんですね」
「まぁね。でも君は変に盲目的で酔ってるみたいだったし、どうせ私がいったところであまり効き目はないだろうし、ならいっそ思いっきり怒られて来いと思ってね」
「ご迷惑をおかけしました……」
「だから気にしてないって。そんなことよりも、君のところのうさぎちゃんを追いかけてあげなよ。片付けの手伝いは、そのあとにでもお願いするからさ」
「ありがとうダ・ヴィンチちゃん。じゃ、ちょっと行ってきます」
「……でもマスター。最後に一言、言わせてもらっていいかい?」
何ですか?
そう言って、扉の前でマスターは振り返る。
この時珍しく、彼女は迷うそぶりを見せた。
言うべきか、これは余計なことではないかという迷い。
……けれど、結局言った。
今言っておかないと……迷う暇もなく、言える機会がなくなってしまう気がしたから
やんわりと、彼女は微笑んで。
青い瞳の青年に、こう言った。
――君が一人で背負い込んでも、誰も生き返らないからねと。
「――はい」
言葉を聞いた少年は、すぐに短く返事をした。
考える間もない、それはきっと当人が深く自覚していたことなのだろう。
だから、ただ頷いた。
もう絶対、そういう勘違いはしないからと。
彼が走り去ったあとのドアを見る。
怒らないとは言ったが、本心は怒れないといった方が正しいか。
……もしあのとき、もっとできることがあったなら。
もしあのとき、もっと頑張れたなら。
そんな当たり前の思いを、少年が抱かなかったわけがない。
悩んでいなかったわけがない、だからあんなにも無理をした。
いつかの誰かの二の舞のように、なりそうなほどに。
唯一の救いだったのは、そんな彼を叱咤激励してくれる人間がいたことか。
……何せよ、やはり天才を自称する彼女にとって、感情の機微というのは非常に難しい。
気の利いた慰めをいってやれるセンスが乏しい。
こんな風に遠回りでしか、声をかけてやれない。
彼の方なら、もっと上手く優しくできたろうに。
そのくせ、自分がいなくなったあとのことをまるで考えてない鈍感さ。
おかげで君がいなくなった『責任』は、私がとっているんだぞ?
ああ、まったく、本当に。
「……もう少し、自分が好かれてるって自覚を持っといてくれよ、朴念仁」
そう彼女は、今はいない誰かに愚痴る。
――そうなの?それはなんというか、光栄だね。
けれどそんな気の抜けた返事と、能天気にケーキをつまんでいる姿が、容易に想像できてしまって。
私も他人のことはいえないなぁと、彼女はくすりと微笑んだ。
それは懐かしそうで、楽しいそうに。
そして少しだけ……寂しそうな、一人きりの笑顔であった。
終