愛に啼く月の進化論 -Gehen Sie im Licht-【蓮×ヴィルヘルム】 作:桜月(Licht)
Extra Chapter Ⅰ Beginn des Vertrages 10
§Side Ren
ガラスのテーブルに片肘をついて、だらしなく掌に乗せた頬。
自然な体勢を装って、視線は無造作に朝のニュースを流す真正面のテレビへ。
映る画面はただ眺めているだけ。景色同然だ。
原稿を読み上げる女性アナウンサーの声は耳に届きはするものの右から左へとするりと抜ける。
内容なんてこれっぽっちも頭に入らない。朝のニュースに耳を傾ける余裕なんてまったくない。
傾ける意識はキッチンへ。交わされている会話を聞き取るのに全力で充てている。
――ドキドキとワクワクが絡み合って、俺の心の中が訳の分からない感情でいっぱいだ。
本来なら決してあり得ない光景がすぐ側で現実に繰り広げられていて、にやにやとゆるみっぱなしの口元。
頬杖をついているのはそれを隠すためだ。思いっきり笑ってるのバレたらキレられるだろ。
ちらりとキッチンを横目で見る。
とたん、敏感に気配を察して俺の頭上を掠めて猛スピードでビュンと飛んでくるフォーク。
壁にダーツよろしくざくりと刺さった。ちなみにこれは三本目だ。
絶対に当たらないのは分かっているけど的確にギリギリなんでそれなりにビビる。
俺の飯炊き吸血鬼は好奇心が唆られてちら見するたび、ご機嫌斜めになっていく。それはいただけない。
不機嫌顔で朝メシ作られたらどんな料理でも不味くなりそうだ。せっかく朝メシ作ってくれてるんだし、これ以上ちら見するのは止めておこう。
そう決めて、湧き上がる好奇心をにやけた口元といっしょに押し隠した。
***
あの後、朝っぱらから突撃してきた香純の登場で俺は大ピンチに陥った。
ベッドに転けたまま秘密の通用口――壁にぽっかり開いた穴を見れば、混乱から立ち直ったらしい香純がまず動いた。
呆けたまんま穴から半分だけひょこりと出していた身体。
それが自分の部屋に引っ込むことなくずるりと縁を乗り越えて、ついに完全に俺の部屋へ踏み込む。そして、疑惑の眼差したっぷりにズンと仁王立ち。
“あやしい、あやしいとちょいちょい思ってたけどあんたまさかほんとにそっちのケがあったわけ!? 説明しなさいよ、このバカレン!”と言いたげな顔でぎりぎりこっちを睨んでくる。
で、もちろん俺を責めているのは香純だけじゃないわけで。むしろこっちの方が命の危機を感じるレベルでヤバイ。
香純の突然の登場でぱっと離れた俺の腕から開放されて、白い身体がゆらりと幽鬼みたいに起き上がる。
そして突き刺さる、とてつもなく冷めた赤い視線。
あ、これマズイ、非常にマズイ。
あからさまに激しく怒るより、静かに怒る方が何倍も恐いのは吸血鬼も変わらないらしい。そんなわけで滅茶苦茶恐え。
“レン、おまえ俺にメシ作れって言ったよなあ。なのに尽くしてくれる飯炊き女が既にいましただあ? ふざけんじゃねえぞ死に晒せ、俺を馬鹿にすんのも大概にしろや糞餓鬼”
俺を見下ろす冷たい怒りの顔色を読んだらこんな感じだろうか。
あっちもこっちも意訳だがだいたい合ってるだろう、それだけ恐い顔してんだよどっちも。
説明するまで逃がさないと強気で睨んでくる香純に焦るし、虚仮にされたとキレるこれ以上ないくらい冷たい視線のヴィルヘルムに肝が冷える。
完全に二股がバレたダメ男の図だ。
ベッドに転けている俺の体勢が間抜けで、余計にそれっぽい雰囲気を演出してるのがいたたまれない。
俺が二股かけたみたいになっている状況がもう訳が分からない。
いや、実際二股かけたようなもんだけどこんなことに命の危機を感じるのは間違ってる。
朝メシ作る作らないで何でこんなに追い詰められなきゃいけないんだ。
とにかく、この状況をどうにかしないと。
説明すれば何とかなるか。っていうか、ヴィルヘルムがキレているせいで余計に状況が拗れてるんじゃないか、これ?
香純とヴィルヘルムの怒りの論点がそもそもズレている。
香純は俺が知らない男を連れ込んでるのを怒っていて、ヴィルヘルムは俺から頼んだくせして朝メシを作る人間が他にいたことが理不尽だとキレている。
だとすれば、優先度が高いのは香純の方だ。
朝メシを誰が作るかは今は問題じゃない。そんなことよりも真っ先に誤解を解かなきゃいけないのは香純が一人で勝手に抱いてる事実無根のホモ疑惑だ。
これで香純を説明なく追い返してしまえば俺はこの先一生ホモ扱い確定だ。そんなのは絶対に避けなきゃダメだろう。
ヴィルヘルムだって俺との関係を疑われるなんて嫌なはずだ。だったらここは協力して誤解を解けば、って、うわ。
「ちょっと、無視するんじゃないわよバカレン! さっさと答えろっ、そこのイケメン外人どこの誰なのよっ!?」
おまえには関係ないと無理矢理追い払うこともできるが、できれば香純を傷つけたくない。
しばらくヴィルヘルムは家にいる、下手なウソはつけない。
なんとか穏便にやり過ごそうとベストな対応を求めて転けたまま頭を働かせていた俺。それがマズかった。
その沈黙を我慢できずに
そのまま俺のスウェットの首元をぐわしっと鷲掴む。鍛えられた馬鹿力で背中がぶわっと宙に浮く。
ヴィルヘルムに視線で考えを訴えようとするも香純の方が早くて間に合わなかった。
ああ、しまった。そもそもヴィルヘルムとアイコンタクトで意思疎通とかまだ早すぎた。
最初から詰んでたな、これ。
「やめろ香純、誤解、誤解だって! 何で来たんだよ、今日は朝メシ頼んでなかっただろ!」
「うるさい! 人の親切無碍にするなっ! どうせ昨夜イチャイチャしてたんでしょ!?
相手が男でも美人だからって盛ってんじゃないわよ! レンのスケべ! このケダモノっ!」
まともに話も聞いてもらえず、ぐわんぐわんと頭が揺すられる。しかもとんでもない言い掛かりだ。
俺にそのケはない、至って性癖はノーマルだ。
そもそも最初っからちょっとホモじゃないかと疑ってたとかおまえの神経はどうなってるんだ、このバカスミ。
ぎゃあぎゃあとうるさく朝っぱらからベッドの上で揉める。誤解だとひたすら叫ぶ俺だが、正直それじゃ苦しいのが分かる。
香純にヴィルヘルムのことを上手く説明できないからだ。こういう場面で理由考えたり言い訳するのは口下手だし苦手なんだよ、俺は。
昨夜上手い設定でも考えてから寝ればよかった。後悔してももう遅い。
ほんとうにまともに寝れない日々が続いていて、気張っていたのも限界で、思ったより吸血鬼と近寄れたからホッとして、大事なことをいろいろ忘れて寝こけてしまった。
目先のことばかりで限界で、香純のことを綺麗さっぱり忘れてたのは香純にも悪いと思ってる。
俺に朝メシを作ろうとしてくれたどっちにも不義理だったなと今だって反省はしている。
だけど起きてしまったことは、もうしょうがない。だから前向きに、どうにかこの状況を対処したい。
それなのにいい案がさっぱりだ。考えをまとめようにも、これだけ頭が激しく揺さぶられてるんじゃ思考なんて働かない。
揺さぶられすぎてまじで気持ち悪い。
どうにかしたい、上手くいかない。朝メシ二股騒動を引き起こしたのは俺だから責任は取らないと。
そう思って、とにかく多少乱暴になってでも香純を止めようと強引に手を伸ばしたときだった。
激しく揺さぶられて鼓膜にぶんぶんと響く風切り音。その中に、長い溜め息が一つ混じって。
「はぇ?」
気の抜けた声を上げて、俺をがくがくと揺さぶる香純の両手がぴたりと止まる。
揺れて気持ち悪い視界で正面の香純を見ると戸惑った表情を浮かべていて。
それはどう場を収めるか、ルールに則って最大限に譲歩して決めた行動だったんだろう。
直に触れるのは不快だし怪我をさせる恐れもある、大きな音を立てたり大声をあげて怖がらせるのはこの先を思えば得策じゃない。だから間を取った。
ベッドに乗り上げた俺達の側、腕を伸ばしたヴィルヘルムがいた。
伸ばされた白い腕の先、線の細い指先が摘んでいたのは香純の制服の襟で。
白い指につんと引っ張られて、びっくりしたように香純がスウェットの首元から反射でぱっと手を離す。
やっと開放されて、厚い布に擦れて熱い首元が自由になる。
俺たちを見下ろすヴィルヘルムは、何だか複雑そうな――不満そうな、困ったような表情を浮かべて、ぽつりと言った。
「おい、女。おまえ、俺にいろいろ教えろ。
……朝メシ作りてえんだけどよ、あのキッチン勝手がよく分かんねえ」
いきなり上から目線で、そのくせちょっと困った声で教えを乞われて、ぽかんと呆気に取られた香純の顔。
ヴィルヘルムが会話に乱入するとしたらそれこそ
そんな風に落ち着いた声でヴィルヘルムが会話に入ってくると思っていなかった俺も、香純と似たような顔でベッドにへたりこむ。
まさかヴィルヘルムが香純に助っ人を頼むとか――てっきり香純一人に作らせる方向に持ち込ませると思っていたから、意外で。
俺としては玲愛先輩と同じで香純にヴィルヘルムと関わって欲しくない。
日常が非日常に侵食されるのは、嫌だ。
だけど自分が引き起こした不注意で誤魔化しのきかない展開になった。もう既に二人は素面で顔を合わせてしまった。
ヴィルヘルムの首輪が機能している以上、香純の安全は保証されている。肉体的に香純が傷つくことはないと断言できる。
ああ、それなら今日だけは香純に任せるのでもいいか。そう折れかけていたから、驚いて。
同胞ならいざ知らず、同じ人種ならいざ知らず、頼った相手が異人種の香純だということに本気で驚いてしまって頭が一瞬白く飛びかけた。
三人が揃って沈黙してしばらく、ぷはっと吹き出した香純に後ろ向きに止まっていた時間が急に前向きに動き出して。
「何かよく分かんないけど、いいですよ。どうせこのバカレンが全部悪いんでしょ?」
「だな。こいつ言い出したら聞かねえから面倒くせえ」
俺を軽くけなしつつ揃って肩を竦める、幼馴染と吸血鬼。
ちょっと待てよ、勝手に意気投合してんなよ。二股男に見切りをつけて結束した女同士みたいな展開やめろよ、ちょっと傷つくだろ。
ベッドにへたって予想してなかった展開に呆気にとられている間に、俺を蚊帳の外にして勝手に話がまとまった。
それさえ決まればここに用なんてないと、背中を見せてさっさとキッチンへ向かったヴィルヘルムの後を心なしか機嫌よく香純がついていく。
ふいに、白い長身がくるりと振り返った。
びしっと乱暴に白い指先が俺を指す。
そして最初はチンピラらしいドスの効いた低い声、後半からは上ずった声で忠告が届いて。
「――おい、レン。絶対、のぞくんじゃねえぞ。
のぞきやがったら、あー……めちゃくちゃビビらしてやっからな、覚悟しろボケ」
ああ、うん。それは絶対にのぞけよってフラグだよな。
のぞかれるのが本気で嫌だから真面目に効果のありそうな文句考えて、結局何も見つからなかったとか可愛いな、おまえ。
殺すも潰すもシメるもその手のお決まりの文句は今の俺にはさっぱり無効だ。実行出来ないって分かってることに抑止力も何もない。
同じ理由で、香純に危害を加えるとかその手の文句も口に出すだけ意味がない。
そもそも自分に不利益だからと、怖がらすような言動は避けるはずだ。
こいつは感情が表に出やすく素直なだけでそこまで考えられない馬鹿じゃないだろう。
香純の身の安全も保証されているし、まさかのヴィルヘルム主導で始まったこの展開を止める理由が俺にはない。
むしろちょっとワクワクする。幼馴染×吸血鬼の組み合わせの読めない化学変化に多少の不安でドキドキもするが。
にやけた俺の表情が不満だったんだろう。
だけど取り合うと拗れて面倒くさいと思ったのか、不満そうにフンと鼻を鳴らしただけだった。
香純とヴィルヘルムが連れ立って、小窓のすりガラスから柔らかい光が淡く差し込むキッチンへ。
予想外の解決を見せた朝っぱらからの大ピンチ――朝メシ担当二股騒動に、今日はじめてやっとベッドから降りて安堵の溜め息を吐いた俺だった。
そして、話は冒頭少し前に戻る。
一人部屋に取り残されたわけだが、見るなとは言われても聞くなとは言われていない。それに俺には知る義務がある、そもそも当事者だ。
香純が知りたがった事情の説明はまだされていない。そうなると当然、隣にいるヴィルヘルムに聞くだろう。
そうなったらどういう説明をあいつがするのか話を合わせなきゃいけない俺は知っておくべきなわけで。
辿り着いたキッチンで、始まった二人の会話に耳を澄ます。
まず最初に口を開いたのはヴィルヘルムの方で、そもそも何であんな状況に陥ったのかという説明を始めた。
宿代がわりに朝メシを作れと言われたが食材がない、準備不足にキレて抗議したら揉み合いになってあんなフザケた体勢になった。
この冷蔵庫じゃキレたくもなる。
ぱかっと冷蔵庫を開ける音に、呆れた香純の声が続く。
こっちの冷蔵後が空っぽなのは大方予想していたらしく、食材は用意しているから大丈夫と宥めるような声がした。
結果、香純は食材を取りに秘密の通路を使って一旦自分の部屋へ。ヴィルヘルムは途中だった着替えをしにこっちに戻ってきた。
通りがけに風呂場の脱衣籠に濡れたタオルを放り込んできたんだろう。首から下がっていたタオルが消えていた。
無言で部屋の壁際に置いていたトランクを開けて、長袖のTシャツを引っ張りだして着こむ。
白い肌の上半身はTシャツの薄い布に阻まれて見えなくなったが、丸まった猫背のせいか布に添うようにぴったりと綺麗に筋肉のラインが浮き出ていた。
「……何だよ、文句あんのかよ」
ついまじまじと見てしまっていたこっちの視線に気付いて、嫌そうにぽつりとこぼす。
文句なんかない、むしろ応援してるぞと笑ったら、また嫌そうにフンと鼻を鳴らして、のぞくなよともう一度言い残してからキッチンへ戻った。
まったく。フラグ立てるのもいい加減にしろよ、ヴィルヘルム。後で絶対のぞくからな。
香純がいない間に出来ることはしておくつもりなんだろう。
物の配置を確認しているのか、あちこちパカパカと作業台や食器棚の扉を開く音がする。
短気でキレやすいしガラの悪い部分が全面に出ていて気づきにくいが、基本的には真面目なんだろうな。
そんな性格だなんて、見た目がチンピラなんでぱっと見からは想像もつかないが。
開いては閉じられる微かな物音に耳を傾けながら、朝メシ作りを自分からこなそうと動いたヴィルヘルムについて考えを巡らせる。
それにしても、どうしてこういう選択をあいつはしたんだろうか。命令と負けず嫌いと損得感情、条件の全部が上手く噛み合った結果だろうか。
持ってくるでも買い出しに行くでも、何かしらの食材が用意できるから香純が朝メシを作りにきたんだと仮定して、任されて決まっていた役割を横からいきなり掻っ攫われるのもそれはそれで癪だ。
例え望んでいないことだろうと、奪われるというのは気分がいいものじゃない。
かといって食材だけ受け取って一人で不慣れな場所で料理するのは荷が重い。
そもそもだ、この先しばらく食事の用意はすべて自分がしなければならない。
今朝だけ理由をつけて上手く逃げたところで今晩の夕食作りはまず回避できない。
それなら間を取って、今後のために利用できるものは利用しつつ、さっさと環境に慣れて今後の役割をきっちり全うした方がいい。
たとえ理不尽で不満だらけの命令でも受け入れた以上上手くこなせないのは癪だと、持ち前の負けず嫌いが遺憾なく発揮されたんだろう。
やる気があるのは、今も一人でキッチンをうろうろしているヴィルヘルム自身が証明している。
助っ人を香純に頼んだわけだが、頭を下げたつもりはないんだろう。
ヴィルヘルム的には香純に教わってやっているというスタンスのはずだ。それならヴィルヘルムから香純に声を掛けたのも納得がいく。
揉み合っていた最中の香純との会話で、俺に直接朝メシ作りを頼まれたのは自分だけだと分かった。
だけど香純も朝メシを作りたいからわざわざ頼まれもせずやって来たわけで、状況において優先度が上な自分がそれを止めない代償にあれこれ教えてくれればいいってところか。
あれこれ考えてみてやっと、俺と香純が揉み合う横で取り残されたヴィルヘルムの頭の中で組まれた思考が読めた。
あいかわらず、ブレない。あげく俺の予想の上をいく。
これでよっぽどの不器用料理オンチでなければ、メシも上手いだろう。だってあいつ、負けず嫌いだからな。
こういう展開になった以上、俺にマズイとか絶対に言われたくないはずだ。
少なくとも香純がついている今日は、味の保証がされていると思って間違いない。
昨日のは売り言葉に買い言葉だったが、まったく料理したことがないって感じじゃなかったし大丈夫だろう。うん、たぶん。
納得のいく答えを見つけた俺の隣を、戻ってきた香純が食材を抱えてパタパタと駆けていく。
食材を抱えた中に、片手に握った鈍く光る包丁を見つけて、咄嗟に目を反らした。
俺は刃物がダメだ。そんなわけでうちのキッチンには包丁がないから、いつも香純が自分の部屋から持ってくる。
置いてないんだから、今日だって当然そうなるよな。
キッチンの作業台の上に食材を並べつつ、もちろん包丁について突っ込まれて香純がけろっと答えた。
とたん、テレビに向いた俺の横顔にぎすぎすと刺さる危険な視線。
“食材をカット出来ないキッチンとかてめえ料理させる気ねえだろ、ふざけんな糞餓鬼”と、無言でびしびし訴えてくる。
ごめん、悪かったって。
だけど俺からしたって急過ぎる話なんで具体的な文句は前準備なしにおまえを俺に押しつけた神父に言ってくれよ。
ともかくそれで朝メシを作るための最低限の準備は整ったらしい。
危険な視線もついっと俺から外れて、どうやら目の前の料理に集中することにしたらしく。
香純が主導で名前を教えあっただけの簡単な自己紹介をしたあとに、これから先一人でキッチンを使うために収納場所やら注意事項やらを教え始める。
上から目線は相変わらずだが、それでもきちんと軽く相槌を打っている。
香純のアドバイスを大人しく聞き入れていろいろと教わっていくヴィルヘルムは、結果だけみれば随分と真面目で素直だ。
おかしいな。なんか、俺よりよっぽどマシに会話してるんだけど。
首輪の制約が大前提にあって、さらに香純のお人好しで素直な性格が功を奏したんだろうけど、ちょっと複雑だ。
俺より会話が上手くいっていることもそうだが、香純の楽しそうな笑い声が聞こえることも。
あくまで状況がすべて上手く整っているのが前提の特例として、今朝の俺はこんなイレギュラーな状況をそこそこ楽しんで受け入れている。
だけど本音としては、出来れば香純にヴィルヘルムと仲良くして欲しくない。
香純はあいつらに殺されかけた、俺のせいで。
こないだの夜の記憶がもし香純に残っていたら、絶対にこんな展開は願い下げだった。
香純に不安要素が少しでもあれば、最初から有無をいわさず乱暴な手段を取ってでも香純を追い返していた。それは間違いない。
だけど今だけは、少しくらいの交流は解禁してやってもいい。そう思えたのは、間違いなくヴィルヘルムのせいだろう。
もちろん停戦の間だけだ。危害を加えないと約束された期間を過ぎたら、守るために全力で遠ざける。
俺が大切な日常を全力で守りぬくように、ヴィルヘルムも忠誠を懸けてこの契約を全力で果たす。
だから停戦が解除されない限り香純の安全は絶対で。
それに、ちらりと横目でこっそり見たキッチンにあった光景が信じられないくらい微笑ましくて。
隣に並んだ香純に包丁を握る手元を褒められて、とてつもなく気のない声を上げておきながら満更じゃなさそうな背中。
そんなのを見てしまったら、この交流を認めてやるしかないだろう。
立ったフラグをしっかり回収して、しっかり見てしまった愛嬌たっぷりの背中にふはっと吹き出した瞬間、頬を掠めそうな距離でぶっ飛んできたフォーク一本目。物騒なくせしてそれが余計に微笑ましくて。
賃貸のアパートの壁に画鋲より大きな穴が三つ揃って空いたけど、幼馴染お手製の面白通用口が二個もある以上気にしたってどうしようもない。
おまえの面白い姿が見れるならフォークくらい好きにぶっ放してどうぞ。
こっちに反応してするどいフォーク投げを披露したヴィルヘルムに、香純が曲芸みたいだと感心した笑い声を上げた。
傍若無人な対応は司狼でとっくに慣れっこってことだろう。
毒気を抜かれてすっかり人間みたいな吸血鬼はどうやら俺の幼馴染と相性がいいみたいだ。それは悪くないなって素直に思えた。
着々と朝メシの準備が進んでいく中で、最大の疑問をついに香純がヴィルヘルムに吹っ掛けた。つまり、何で俺の家にいるのかってこと。
その質問にどう答えるのか興味があったし、必要なら助け舟も――役に立つかは知らないが、いるだろうからしっかりと聞き耳を立てる。
だけど結論から言うと、俺が出る幕はさっぱりなかった。するっと全部、ヴィルヘルムが答えてしまったからだ。
要約すると、こうだ。
仕事の都合で来日して、唯一の知人の神父のところへ厄介になっていた。
だが自分は元から教会が苦手で、そしたら神父が俺を見つけて下宿先として厄介になれと言われた。
お互い寝耳に水だったが、異文化交流してこいと強引な神父の押しで結局ホームステイすることになってしまった。
既に双方納得してのことなので心配はいらない。
なるほどな。たしかに、嘘は何一つ言っていない。そうやって言えばよかったのか。
来日の理由が黒円卓の任務遂行なんだから、仕事に間違いはない。吸血鬼だし、教会が苦手なのもほんとうだろう。
契約を強引に押し進めた神父の態度もその通りだし、異文化交流も俺のルールに従わされていることを揶揄しているんだろう。
昨夜こっちのマンガを読んでたし、日本の一般家庭で生活するという意味なら文字通りにも取れる。
神父とは香純も顔見知りだから、納得できる部分があったんだろう。素直にその理由を信じて、苦笑交じりヴィルヘルムを労う声を掛けた。
俺も当事者なんだけどな、香純。
すぐそこにいるんだぞ、こっちにも何か言えよ。さっきから扱い酷いぞおまえ、そんなにイケメンがいいかよ。
すっかり放っておかれて面白くなくて、ふてくされて楽しそうなキッチンをちらっと見たらまた遠慮無くフォークが飛んできた。
料理くらいで恥ずかしがるなよ、チンピラめ。
どうせこれから毎日最低二回は拝むことになるんだから、俺に見られるのは諦めろ。
そう考えたら、何だか楽しくなってきた。
空腹に染みるいい匂いもだんだんとキッチンから漂い始める。
こうなったら楽しまなきゃ損な気がする。
途中いろいろと不安に思ったりもしたが、そのほとんどが杞憂に終わったことで最初に感じたドキドキとワクワクが胸に戻ってくる。
何が出てくるのか分からないんだからドキドキするのも当然だ。これからしばらくの俺の食事の出来がこの朝メシでだいたい分かるんだ。
男子高校生にとって食はとてつもなく重要だろ。
マズかったら死活問題だ、キッチンから聞こえてくる香純の反応が正常なのを祈るよ。
どうかヴィルヘルムが壊滅的味音痴とかじゃありませんように。頼んでおいてなんだけど、俺の胃袋が守られますように。
状況証拠から大丈夫だろうと頭では分かっていても、やっぱり不安にはなるんだな。
我慢できずにまたまたちら見した俺の頭上をぶんっと勢いよく掠めて飛んでいった三本目のフォーク。
それが壁に刺さってしばらくして、無事に香純とヴィルヘルムお手製の朝食は完成したらしい。
出来上がる頃にはすっかり部屋中いい匂いで、俺の腹が鳴りっぱなしでヤバかった。
そもそもここ最近まともに食べてなかったんだ、しょうがないだろう。
香純がぱたぱたとキッチンから往復してガラステーブルの上に出来上がった料理を運んで並べていく。
ヴィルヘルムも両手にそれぞれ皿を抱えてこっちに戻ってきた。すっかり香純に上手く使われているが、指摘した途端不機嫌になるんで黙っておく。
テーブルまで運んでいるのは使われているわけでなくあくまで自分の意志だと言い張って譲らないだろうし。
ああ、何か俺たった一日で結構ヴィルヘルムの思考が読めるようになってきた気がする。こっちもいろいろ命がけなんで当然かもしれないけど。
さて、俺も俺で出来ることをするとしよう。家主だからって、ちょっとは動かないとだめだろう。
食事に向いた環境を整えようと、ヴィルヘルムに一度意味深に視線を投げてからベッド側のカーテン一枚を不自然にならない程度にシャッと開いた。
それで薄暗かった部屋に陽射しが差し込んでふわりと明るくなる。
放っておけば手の空いた頃に気を利かせた香純がカーテンを一気に全開にしてしまうだろうから、それよりマシだろう。
陽光が苦手なのは知っているが、かといって一切開けないのは不自然過ぎる。こんな朝から蛍光灯に頼るのも怪しい。
素直にアルビノで陽光が苦手なのだと告白してもいいが、そうなるとたぶんとてつもなく面倒くさいことになる。
そんな体質なのにホームステイとか心配過ぎる放っておけないと、俺の部屋に入り浸ってヴィルヘルムに甲斐甲斐しく世話を焼く香純が余裕で想像できて萎えた。
やっぱり隠しておいた方が無難だ。幸い苦手なだけで耐えられるらしいから、朝メシの間だけ凌げばなんとかなるだろう。
俺の配慮は察したらしい。
ヴィルヘルムが嫌そうに軽く顔を顰めたが、香純がいるのに配慮してか文句は飛んでこなかった。
そのかわり、状況を優位にしようと率先して動いた。座る場所を迷いなく決めて、うっすらテーブルに影が掛かっている場所を陣取る。座ると完全に身体は日陰に隠れた。
部屋自体は差し込む光で不自然じゃないくらいには十分明るいし、日陰だとしてもテーブルからの照り返しでヴィルヘルムの顔もワントーン明るく見える。
これなら怪しくない、カーテンが全開にされるのは防げるだろう。
テーブルへ手を伸ばしてしまえばどうしても陽の光が当たるが、それくらいは譲歩して我慢してくれるらしい。
ここで面倒を起こす気はないらしいから助かった。
ベッド側の俺の定位置は空いていたから、窓から離れていつも通りの場所に座る。
「あれ……?」
目の前のテーブルの上にどんどんど並べられていく出来立ての朝メシを見て、ふと疑問が湧く。
てっきり簡単に洋食風のワンプレートとかが出てくるのかと思ったが、テーブルに並んでいくのはどこからどうみても和風な料理ばかり。つまり日本食だ。
この異人種嫌いの吸血鬼は、そもそも日本食を食えるんだろうか。
作ってる奴が止めなかったんだから一応は食えるんだろうが、香純の手前意地を張って我慢している可能性もある。
心配になったから先に尋ねておくことにした。
「なあヴィルヘルム、おまえ平気なのか?」
何をとは言わなくても察したらしい。
気を使って聞いたのに、返ってきたのは呆れ声だ。
「はあ? 食えるに決まってんだろ。どんなもんだろうとメシに罪はねえし、粗末にする気はねえよ。生きるのに食ってのは大事だろうが。それに初めて食うってわけでもねえしよ」
なるほど。そういう主義なわけか、それは非常に感心だ。
だけど最後のは一体どういうことだ。
食はこいつにとって万国共通で嫌悪感はないと分かったが、食べたことがあるってそれは一体どこでだろう。
疑問を返す前に、答えはすこんと意外なところから飛んできた。
「あっ、そっかあ。ヴィルヘルムさん教会にいたんだよね。じゃあリザさんの手作りご飯食べてるんだから日本食は経験済みなんだね」
朝メシに必要な全部を運び終えたらしく、空いたスペースに座り込んだ香純に、そういうことだと読みの正しさをヴィルヘルムが認める。
リザさんの手料理か、羨ましいな。美味かったもんな。
ということは、ヴィルヘルムもそうだが、化物じみた他の奴らも味覚は割りと俺らと近いのかもしれない。
「よし、準備できたし朝ごはん食べよっ。ほら蓮。ヴィルヘルムさんも、ねっ?」
いい匂いのする食卓が完成して、にこにこと元気よく声を上げて俺たちを朝メシへと誘う香純。
その誘いを断る理由なんてない。少なくとも俺はもう空腹が限界だ。
ヴィルヘルムも異論はないらしく、フラットな態度で黙って俺たちの動向を伺っている。
「じゃあ、いっただきまぁす」
「いただきます」
「……イタダキマス」
香純のいただきますの合図のあとに、手を合わせてきちんと合唱。
そういう風習があるのは知っていたのか、それとも見よう見まねで真似しただけなのか、俺たちに揃えてぎこちない手つきで掌を合わせたヴィルヘルムを見て香純がにこにこと顔を綻ばせる。
ホームステイで異文化交流っていうフレーズは案外間違いじゃなさそうだ。その場しのぎの言い訳で終わるどころか思いっきり実行してるぞ。
コニュニーケションは円滑にっていう部分に引っかかるから、ここでもヴィルヘルムは俺の定めたルールに従わされるわけだ。
だけど前向きなこいつはその手のことに抵抗するのをすっぱり諦めてきちんと異文化交流する気でいるらしい。
従わないと不快感が消えない、強制力に従わざるを得ないっていう理由はもちろんあるだろう。
それでもこっちの予想をいい意味で裏切って、不貞腐れて拗ねることなくただ慣れていない気配だけを漂わせて俺たちに倣う。
促さずとも自分から手を合わせたヴィルヘルムに、ほっこりした香純の気持ちは分からんでもない。
ちまちまいろいろと教えているうちに俺の幼馴染はこのイケメン外人の同居人がすっかり気に入ってしまったらしい。
しっかり絆されて、こっちが頼んでもないのに甲斐甲斐しく世話を焼く気満々だ。
入っちゃいけないスイッチが完全にオンになっている。
その状態の香純にロックオンされたら逃げるのは至難の業なんで諦めて好き放題されてくれ。やばくなったら助けてやるから。
こういう状況でもなきゃとっくに大事になっているだろうが、幸か不幸か今のヴィルヘルムは香純に何もできない。
口で威嚇くらいは出来るだろうが、逆に言えばそれだけだ。実行したとしても自分の立場が悪化するだけなんでしないだろう。
だからまあ、香純に母親だか保育士だかみたいな生温い顔してにこにこ見られてる今も不満そうな瞳の色を隠さないくらいに留めてテーブルを挟んで大人しく座ってる。本来なら激高してとっくに大暴れだろうな。
まあ、悪い方に進展しない限りはどっちも止めなくて大丈夫だろう。
そんなことよりもう限界、早く朝メシが食いたい。いい加減あれやこれやで寸止めされるの飽きてきたぞ。
陽射しにそれなりに明るく反射するガラステーブルの上、珍しい面子で囲む今日の朝メシ。
グリルでこんがり焼いたアジの開き、ふんわりとしただし巻き卵。彩りが綺麗なほうれん草とちりめんじゃこのおひたしの小鉢に、豆腐とほうれん草の味噌汁、それと香純ん家からもってきた白ご飯。
一汁三菜がしっかり揃った典型的な日本人の食卓だ。
「せっかくの異文化交流だからね。スクランブルエッグとトーストでいっかーと思ってたけど、頑張ってみました。えっへん」
セルフな擬音つきでドヤ顔する香純。うん、でかした、よくやった。
空腹なんでしっかりと腹に溜まる食事はありがたい。そりゃあ俺も日本人なんで、白ご飯と味噌汁が正直恋しかったんでまじで嬉しい。
見た目は間違いなくうまそうなんで、湯気が立つほど熱々なのが冷める前に平らげたい。
それに俺と香純は学校もあるわけで、あんまりゆっくりしている時間はない。
この状況がイレギュラー過ぎてついつい楽しんでしまっているが、時計は見ながら行動しておかないと揃って遅刻になりかねない状況だ。
香純がすでに暴走しそうな気配がぷんぷんしてるから俺が手綱を握っておかなければまずいよな。
促すために自分の分の箸を握れば、揃って香純の手も当たり前にうちに持ち込んでいた自分の箸を手に取る。
そうなるとヴィルヘルムも――とはいかずに、テーブルに伸びた白い手がぴたりと止まった。
どうしてだろうかと考えて、止まてしまった白い手元を見れば理由はすぐに分かった。
簡単に言うと、迷ったからだ。
ヴィルヘルムにと用意されたのは、箸が一膳とフォークが一本。どっちを使っても良いように、そういう配慮だったらしい。
手を宙で止めたまま、一瞬の顰めっ面の後、ヴィルヘルムが隣の香純をちらっと見た。
それだけで察した香純がにっこりと笑って、箸を握った自分の手をヴィルヘルムの前にかざした。
「お箸はですね、こうやって。三本の指で持ってから、ペンを持つみたいにして。そう、もう一本は親指と人差指の間できゅっとして、んーっと、薬指のへんで、そう。固定しちゃう」
「…………」
「それで、動かすのは上の一本だけだから……、こんな感じ?」
楽しそうに箸の使い方をレクチャーする香純の隣、無言でヴィルヘルムが習って真似していく。
さすがに触られるのは嫌だろうから、そうされないようにきっちり要点を押さえていくせいで余計な接触はない。
最後にイメージが湧きやすいように、と香純が淡い黄色のだし巻き卵を箸でつまんで自分のアジの開きが乗った平皿にひょいっと乗せた。
それを受けて、確認するように練習を繰り返す白い指先。
まだ多少はぎこちないが、それっぽい手つきで右手の人差し指と中指だけがくいくいと動く。それにつられてきちん適切に動いた上の箸。
ちょっと驚いた。手の小さい子供の頃だから比べるのもなんだが、俺はもっとできるようになるまで遅かった気がする。香純だって似たようなもんだろう。
こいつはやっぱり物覚えがいい方なんだろうな。これならもう困らなそうだ。
「うん、オッケー。あとは練習あるのみです」
「ん」
短く返事をして、陽の光の中にひょいっと伸びた箸を握った右手。
箸先が向けられたのは一切れだけ減っただし巻き卵。
開いた箸先でぐっと掴むと、力を入れすぎて千切り落とすこともなく器用にぱくっと大きな口の中へ放った。
「わあ、ヴィルヘルムさん上手上手。あっ、味付けどうかな?」
「……うまい。悪くねえ」
むしゃむしゃと咀嚼して飲み込んだ後に、ぽつりと零した感想に小さくガッツポーズ。
初めての人に料理を作るのはやっぱり緊張するよね、そう言って照れてへらりと笑った香純にそういうもんかと納得する。
初対面の人に合って緊張するのの上位版ってところかな。まして初めての外国人相手ときた。
そこそこ日本食には慣れてるらしいとはいえ、ドキドキするのは考えてみれば当然だよな。
箸を器用に使いこなして好きに食事を始めたヴィルヘルムの隣でアジの開きがさらっと二人分ほぐし始められる。もちろん、俺のじゃないぞ。
俺の幼馴染の世話焼きスキルがいかんなく発揮されている。
世話を好きに焼かすヴィルヘルムも楽だからか満更じゃなさそうだし、世話を焼きたい香純も好きにさせてもらって満足そうだ。この二人の相性はすこぶるいいらしい。
俺はどっちかっていうと世話を焼かせたり尽くされたりっていうのは苦手だ。
ヴィルヘルムに俺の世話を焼かすのは居候の対価と上下関係の問題だから話が違うが、基本的には料理以外は自分で何でもしたい派だ。
だから、そういうところはこいつと似てないんだなって変に感心した。
こうして二人を眺めていても、俺の腹は膨れない。冷めないうちに今度こそ美味しく頂こう。
そう決めて、まず彩りのいい小鉢を手にとった。
一口分を箸で摘んで、口の中へ。
普通にうまい。すぐにもぐもぐと咀嚼しきって、二口目へ。腹が空き過ぎていたので、このまま手を止めずにがっつくことにする。
ふと感じた視線は、赤。
射抜かれた方を見返せば、一瞬だけ不安気な顔を浮かべた白い貌。
「あ、そのおひたしはヴィルヘルムさん作だよ、味付けもね。茹でるトコだけあたしがやって、あとは全部任せちゃった。
それとね、味噌汁の具も全部切って貰ったよ。干物を仕込んで焼いてる間にぱぱっと済ませちゃうんだもん、上手でびっくりしちゃった」
ほぐし終わったアジの開きを隣に戻して、今度は自分の皿のアジの開きに取り掛かりながら教えてくれた。
なるほど。それでこっちを気にしてたのか。
今度は味噌汁を啜りながら、汁椀の中身をチェック。香純いわく、これもヴィルヘルムが切ったらしい。
賽の目にされた豆腐、等間隔に切られたほうれん草。刃物を扱い慣れているのか、切り目も綺麗に揃っている。
俺より料理が出来るのはもう間違いない。
こっちはほんとうに料理だけはダメだから、このレベルの再現は無理だ。包丁を握れないんだから同じ土俵にすら立てていない。
口の中に広がる味噌の味にほっこりしつつ、自力でほぐしたアジの身をほかほかの白ご飯に乗っけながら、素直に感心したと告げる。
「ヴィルヘルム、お前すごいな。ほんとうに料理出来たんだな。このおひたしも自分で味付けしたのか?」
「別に。並べた調味料組み合わせて好きに味付けろっていうから適当にぶっこんだだけだ。
普段は簡単に酒のつまみ作るくらいだからまともに料理なんてしてねえよ。する必要もねえしな。
だから作るには作るが、味は保証しねえぞ。出されたもんはきっちり全部食えよな」
自分で味付けした小鉢をつっつきながら、じろりと赤い瞳がこっちを睨む。
ああ、やっぱりそれなりにキッチンには立ってるのか。やっぱりそこに関しちゃ俺より上だな。
でも、料理をする必要がないってのはどういうことだろう。
完全な人間じゃないから食べなくても平気ってことなのか、それともメシの準備してくれる奴はまわりにごろごろいるってことなのか。どっちの線もありえそうだ。
それにしても、もう睨まれてもすっかり怖くなくなったな。
俺はすっかり慣れたけど、そうじゃなければ結構恐い顔してるはずだから横にいる香純が怯えるかとも思ったがそうでもない。
けろっとした顔でほくほくしたアジを口に放り込んでいる。
でもまあ、そうだよな。
だってなあ、一緒に料理して一緒にメシ囲んでるんだぞ。
もう化物の威厳とか恐怖とか飛んでくだろう、そんなの。
「いいよ、適当にやってコレだろ。人並みに食えればそれでいいし、おまえ食材を無駄にする気はないみたいだし。だから期待してる」
改めてそうやって頼むと、嫌そうな顔してずずっと味噌汁をすすった。
それでも嫌だと、作らないと言わないところがやっぱりこいつらしい。
きっといい具合に負けず嫌いとメシは大事っていうポリシーが合わさって、それなりのクオリティの食事を出してくれるだろう。
まったく作れない俺からしたら、まともに食えるメシを作ってくれるだけで御の字だ。これでレトルト食品生活から開放されるのが嬉しい。
味覚も大幅にズレてないなら、俺が食べれないってことはないと思う。
あとはまあ、二人で食べきれる量に抑えてくれれば残さなくて済むかな。
作るからにはこいつも食べるんだろうし、俺だけ食ってたら妙な意地が発動してキレてきそうだし。
正当な手段で俺をあっと言わせてやろうと頑張りすぎて、晩飯に重箱五段用意するとか、格式張ったフルコースとかそっち方面に火が着いて爆発するのだけは勘弁して欲しい。
いやまあ、美味いんならそれでもいいのか。どう転んでも意外と俺が得するのか、これ?
「そういえば、ヴィルヘルムさんって好きな日本の料理とかないんですか?
リザさんよく和食作るって前に話してたから、どんな料理食べたことあるのかなって」
「好きな、ねえ。あー、アレだ。肉ジャガだっけか、アレはうまかったな」
頭の片隅で考え事をしつつ、腹を満たすためにひたすら口をもぐもぐ動かす合間に、向かいから聞こえてきたのはそんな会話。
気になることを素直にぶつけてぽんと飛び出す香純の質問に、特に邪険にすることもなくヴィルヘルムがさらりと答えていく。
吸血鬼の機嫌はそれなりに良さそうだ。
メシがうまいと、やっぱり化物でも機嫌は良い方に転ぶらしい。そういうところは人間と変わらないんだろう。
「わあ、いいな。日本のお袋の味って感じ。リザさん料理上手だから、何食べてもおいしそう」
にこにこ笑いながら、香純が茶碗の中の白ご飯の残りを口に放り込んで。
だし巻き卵の最後の一切れをすっかり手慣れた箸さばきでヴィルヘルムが攫っていく。
それで、汁椀に残っていた味噌汁を俺が飲み干したら、すっかり和やかなまま全部の食器をきれいさっぱり空っぽにして終わった三人で囲んだ朝メシ。
これは、うん。
予想以上に面白くて楽しい時間だった。
それぞれの満足が形になったテーブルの上を眺めてみて、素直にそう思える。
ちらりと向かいの吸血鬼を見れば、それを察した赤い瞳がこっちをじろりと見返してきた。
そして、まるで照れ隠しでもするように不機嫌そうにフンと鼻を鳴らす。
それに凄みなんて感じなくて――それどころか逆に面白くて微笑ましくて、我慢できなかったな。つい声を上げて笑ったよ。
もちろん、そんなことしたら当然俺ん家に居候してる吸血鬼は怒る。
笑うんじゃねえよって叫ぶなり、結局使わなかったテーブルの上のフォークがどうしたって当たらないように俺に向かって投げられたのは言うまでもない。
その反応すら面白くって物騒なくせに微笑ましくって、香純までいっしょになってにけらけら笑ったらもちろんヴィルヘルムは余計に不機嫌になった。
それでも朝メシが済んだからって、馬鹿にしやがってだのルールだからどうだのぶつくさ言いながら自分が食べた分の皿はきちんとシンクに運ぶ姿がどうしたって好感が持てて、――これはもうどうしようもないよな。
こいつやっぱり嫌いじゃないなって思ったんだよ。