愛に啼く月の進化論 -Gehen Sie im Licht-【蓮×ヴィルヘルム】   作:桜月(Licht)

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Extra Chapter Ⅰ Beginn des Vertrages 02

 

 

Extra Chapter Ⅰ Beginn des Vertrages 02

§Side Wilhelm

 

 吹きすさぶ風は、冷えきっている。

 けれどそれとは裏腹に、心はこれからの狩りの楽しみに喜びで熱く滾っていた。

 

  諏訪原市(シャンバラ)に架かった鉄橋。その手すりの一つに身体を預けて、見下ろす光景に頬が緩む。

  普通(なまみ)の人間には到底視認できない距離の先――海辺の公園の一角でそれは起きていた。

 

「かはッ。おい見たかよ、なあ。ずいぶんとアツいラブシーンかましてくれるじゃねえか、あのガキ」

「ふふっ、ほんとね。若いっていいわぁ、わたしなんだか妬けちゃうわね」

 

 無骨な手すりから子供みたいに身を乗り出しながら、頭悪そうなピンク色の髪の、それこそガキみてえな身体の女が――マレウスが軽口で答える。

 そのなりとは似つかないババアじみたお決まりの返しが、あまりにもらしくて笑う。

 

「まあババアにゃ無理だわな。あんな初々しいのいまさらやってられっかよってなあ」

「あら、失礼ね。ベイ、あなたよりはよっぽど初々しく振る舞えるつもりだけど?」

「はッ、どうだか。どうせ途中で飽きててめえから乗っかって腰振るのがオチだろうがよ」

 

 正論だろうとまた声をあげて笑えば、拗ねたように頬をぷくりと膨らませる。

 けど、どうせ本音じゃ拗ねちゃいないぜ。誰よりも長く生きてるんだ。自分の 性癖(タチ)ってのは嫌ってほど自覚してるだろ。

 それは俺も同様で、プラトニックなんかガラじゃねえ。

 もちろんそれは、俺以外の 同胞(なかま)にも共通して言えることだ。

 ――ああ、いや。

 なんか逆にプラトニック貫き切ってる堅物女一人と、 同胞(なかま)ですらねえのと、そもそも該当しない例外もいるな。

 まあいいや、面倒くせえ。

 とにかく、俺らは全員とっくに狂ってて、そしてそれを自覚した上で、ここにいる。

 ヒトを捨てた魔人として、狩りをするために集められた。

 その狩りを始めるにはけっこうな時間が準備に掛かっててな。

 待って、待って、ずいぶんと待って、耐えた。半世紀以上も待たされた。我慢も限界ってやつだろう。

 これでめでたくようやく解禁ってわけだ。胸躍るなとか無理な話だろ?

 むしろ、よく耐えたと褒めて貰いたいくらいだぜ。

 

 そんで、二、三時間くらい前だったか。

 マレウスと俺が殺し役を追いかけて、夜の街を疾走したが逆に図られてヤられて、取り逃がした。

 あれは屈辱だったな。

 こっちの判断ミスだったから、それに関しちゃもういいが。

 とにかく、このままじゃ済ませられねえとあとを追いかけたところで、邪魔が入った。

 仕掛けたのはクリストフの野郎だが、こっちにやった人選としてはいい判断だったと言っていい。

 これで俺らを止めにきたのがレオンだったりしたら、俺もマレウスも聞きゃしなかっただろう。ぶっ飛ばしてあとを追っていたに違いない。

 現れたのが昔馴染みの 同胞(ダチ)で、こっちが納得するだけのちゃんとした理由も持ってたもんだから大人しく引いてやった。

 追っかけてボコるよりいいもん見れるっていうなら、そりゃ従うよな。

 

「――おや。どうやら 見世物(ラブシーン)は終わったようですよ。ベイ中尉にマレウス准尉」

 

 背後からするりと割り込んできた、細く愉快げな声が思考を遮る。

 ロート・シュピーネ。黒円卓の十位。俺たちを止めにきたのはこいつだった。

 シャンバラ入りするのはもう少し先だと踏んでたが、予想より早く着いたらしい。どうもクリストフとつるんでキナ臭いことしてそうな気配があるが、それは別にいい。

 こっちに障りがないなら、興味はないしな。好きに謀ったりしてりゃあいい。

 

 聞こえた声に促されて視線を下に戻せば、確かに見世物は終わったようだった。

 

「さしずめ、囚われのお姫サマを救い出した王子サマってところかしらね。あんなにボロボロじゃ、格好なんかつかないでしょうけど」

  

 気を失った女を背負って、覚束ない足取りでツァラトゥストラが公園の外れに消えていく。

 それと同じくして、別の場所からひとり見世物を見物していたレオンの気配もぷつりと途切れた。

 あれも可愛げがねえな。

 厭味ったらしく媚を売られるのも腹が立つが、ああもてめえは別だと澄まし顔してこっちを見下してやがるのももちろん気分はよくねえ。

 どっちも嫌ってて慣れ合うつもりも毛頭ないが、自分の立場ってもんだけは近いうちにわからせてやるべきだろう。

 あいつはなにか、でけえ勘違いをしているようだからな。

 

 どうせ制止が掛かるだろうし――ここで仕掛けても無意味と分かっているから、もちろん誰も動かない。

 万全でない獲物を前にして喜ぶ狩人などいないだろう。そんな弱った獲物に喜ぶのは今にも飢えて死にそうに弱った奴くらいのもんだ。

 狩りの楽しみは獲物の活きがいいほど増す。もちろんやりがいだってそうだろう。

 そういう意味じゃ今の獲物は死に体だ。戦ったところで張り合いがない。

 去っていく獲物の姿を興味なく見送ってそれが完全に闇に紛れて見えなくなった頃、するりと音もなく隣に並んだ病的なまでに細い肢体。

 

「まあ何にせよ、これで最低限の準備は整ったことになりますね。

 我々の探していたツァラトゥストラは、やはりあの少年で間違いない」

  

 ツァラトゥストラ探しが予想外に手間取った理由―― 双蛇の杖(カドゥケウス)のからくりはシュピーネから聞いた。

 公園で最初に会ったツァラトゥストラを思い出す。

 アタリだと思って仕掛けたら、とんだ期待はずれだった。だけどそれは水銀のクソ野郎が仕掛けたタチの悪いブラフだったわけだ。

 ボコられる本人すら真実を知らねえ。それなら、こっちがいくらシメたところで正解にたどり着けるわけもねえ。その間にもう一匹、アタリっぽいのが出てきて今度こそと思ったらあのザマ。

 そして屈辱に駆られて追いかけるも間に合わず、邪魔も入ってジ・エンド。

 ツァラトゥストラは狩ろうとした俺らの魔の手を掻い潜り、ひとつになり力を手に入れ、逆に 黒円卓(こっち)を狩る力を手に入れた。

 力を取り戻すまでにツァラトゥストラを特定できなかった。

 これで最初のゲームは俺らの負けだ。

 

 シャンバラに入る前は、どうせすぐに見つかると思ってたんだがな。

 良くも悪くもあの水銀の代替だ。もっと、初っ端から完成してるもんだと踏んでたんだ。

 だから、こっちを馬鹿にするみてえな派手な演出でもかまして出てくるんじゃないかと思ってたからよ。

 最初の勘が外れてなかったのは悪くない話だが、それだけに謀られたことが腹立たしい。

 俺らの 特性(せいかく)を把握して、上手いことやってくれやがったよな。

  

「結局、俺たちはまたあの腐れ外套にいいように踊らされたってわけかよ。ああー、胸糞悪ぃ、許せねえ」

「ええ、許せないわよね。だけど、その分あのコで好きに鬱憤晴らしていいってことでしょう。それはとっても楽しみよ」

「まったくですよ。あの方のいいようにされたこの屈辱の代償は、代替だというならやはり彼が受けるべきだと思いますしね。えぇ、それこそ余すことなく、すべて」

  

 名前を出しただけで、ざわりと場の空気が淀む。

 楽しみとは口先ばかりで、言葉の端に滲むのは明らかな怒り、苛立ち。

 黒円卓の中で、あいつに良い感情を持っている奴なんて一人もいない。そんな例外はあの人だけだ。

 それも、そもそもあの人が規格外じみた生き物だからその関係が成り立っている。

 ただそれだけだ。同じ土俵で考えていいものじゃあないだろう。

 あのクソ野郎とあの人以外、新参の団員を除いて、全員何かしら嫌な目にあわされている。

 それこそ、入団してから関わる事に逐一、その姿を消したあとですらあのボロ外套の影が事ある事にちらつく。

 忘れるな、その業からは逃れられないのだと厭味ったらしく突きつけてくる。

 その姿を見るだけで不快、会話なんてもっての外。その得体の知れない中身に、殺れそうで殺れないジレンマに苦しむ。

 だからやっぱり、次に会ったらぶちのめしたい。その気色悪さを拭いたい。

 そして、幸運にも目の前にそのチャンスが転がっている。

 俺たち黒円卓はそもそも、詳細なカタチこそ違えどあの人への忠誠と、クソ野郎への憎悪で繋がっている。

 弄ばれた屈辱は今までのツケの分もきっちり乗せて返してやるのだと、それはシャンバラに集った黒円卓の総意と言い切ってもいい。

 最初こそ出遅れたが、まだクソ野郎の仕掛けたゲームは始まったばかりだ。

 この先いくらでも挽回できる。あのクソ餓鬼を始末すれば、それこそこっちの勝ちだ。

  

「――おや、ついに開くようですね。ツァラトゥストラへ力の譲渡を経て、第一のスワスチカが」

「あぁ、やっとなのね! 待ち望んでいた瞬間が、これでわたしたちの願いが叶う日も近い」

「かはッ、いいなァおい! 理屈としちゃあわかっちゃいたがよ、あのクソ野郎の仕掛けた術式とやら眉唾じゃあなかったみてえだなあ!」

 

 俺らの佇む鉄橋の中央、市街に向かって正面の方角。鉤十字を形作るその一角、博物館。

 そこから蠢きだす魂の胎動、仕掛けられた術式の解放を感知した。

 

「あー、クリストフがいるんだったか。はッ、特等席かよ」

「ツァラトゥストラの聖遺物譲渡とスワスチカ開放の確認、ってとこかしら。神父様もお忙しいのね」

「いいではありませんか。我々はここで文字通り、高みの見物と洒落こむとしましょう」

   

 軽口を叩き合って、揃って視線を同じ場所へ向ける。

 それと変わらぬタイミングで、ずくり、と身体が疼いた。

 ――懐かしい、この感覚。

 あの人から直接刻まれた聖痕が開き始めたスワスチカに反応していく。

 

 赤い、血。

 見慣れた紋章の刻まれた白い手袋が、ぐじゅりと湿る。

 見下ろす夜の街にかざした掌からぼたりぼたりと溢れていく。

 それを皮切りに、身体中から軍服を濡らして溢れ零れていく鮮血。

 両隣の同胞たちもそれは同様で、マレウスが寄りかかる手すりも、シュピーネの足元のアスファルトも既にぐっしょりと血だらけだ。

 

 スワスチカ解放の合図。

 黄金錬成――ハイドリヒ卿を現世に呼び戻すための儀式。そのために開く鉤十字のカタチをなぞらえた八つの陣。

 それを開くたび、進めるたび、祝福として流れる同胞の血。

 ああ、この祝福を、歓びをもっと味わいたい。早く、早く儀式の完成を。そして望みを叶えるのだ。

 あの人の爪牙として完全なモノになる、そのために。

 刺して穿って貫いて、あのクソ餓鬼を一刻も早く吸い殺したい。その栄誉を手に入れたい。

 その瞬間を想像して、ぶるりと歓喜に身体が震えた。

 ぞくりと背筋を這い上がった快感に、口元が緩む。

 隠すようにそれを拭えば、唇にべったりと擦られた指先の血。

 錆びた鉄の味が口腔に 侵入(はい)ってきて、我慢できずに舌で舐めとる。

 久々に舐めた自分の血の味に、やはり歓喜は収まらず。

 黒円卓に名を連ね、あのベルリンの崩壊以来、そもそも血を流す機会すら珍しい。

 いやむしろそんな機会、あってはならないことだろう。

 それはつまり、この黒円卓に匹敵するだけの敵がいる、ということになるからだ。

 そんな存在は目についた側から片っ端に潰してきたから、ろくに残っちゃいねえがよ。

 聖痕の痛みは祝福だから別として、魔人である俺たちが外傷を負う、ということ自体がもう稀有な異常事態。

 しかもそれを用意したのが、曲がりなりにも自分らの副首領ってんだから、笑っちまうよな。

 けしかけられた戦争は、あのクソ野郎らしい抜け目なくイカれたルール。

 自分の代替を賞品に黒円卓を集わせて狩らせて、幾千の魂を散華させられるなら、虐殺でも代替――同胞殺しでも問題ないときたもんだ。

 そのくせ、無駄撃ちを避けるためにこっちの行動はある程度制御されるっていうんだからやりづらいことこのうえない。

 俺としちゃ、一気に派手に 大量虐殺(ホロコースト)ぶちかましたいところだが、そうもいかないのが現状だよな。

   

「さて、次はどうすんだろうな。どこのスワスチカを開くのか、誰がいくのか。

 どうせ、うぜえクリストフの指示待ちなんだろうがさっさと派手におっ始めたいよな」

「ちょっと、ベイ。あなた、抜け駆けはやめ――、っ!?」

 

 先を越されるとでも思ったんだろう。こっちを見上げて睨んできた血だらけのマレウスの言葉が、不意に止まった。

 俺も、シュピーネも同時に、ぎくりと不自然に動きを止める。  

  

 ――感じたのは、視線。それも黄金の。

 俺たちのよく知る規格外の生き物が遥か高みからこちらを視た、確実に。

 

 それだけなら構わない。そもそも俺たちは、あの人をこちらに戻すべく与えられた牙を奮う。

 これから起こるすべて――戦争も虐殺も騙し合いも、あるかもしれない裏切りや同胞殺しですら、むしろ余すことなく視てて貰わなきゃ困るとさえ思う。

 だけど、これはそうじゃない。ただ眺めただけとか、そういうぬるいもんじゃない。

 明確な、意志があった。

 たとえ一欠片だったとしても、手順を無視してでも現世に介入するほどの、あの人の意志が。 

  

「――これは……っ。いやはいや、予想外でした、ねぇ」

「ちょっと、ねぇ! なんで、いくらなんでも……っ」

 

 受け入れるような言葉とは裏腹に、シュピーネの声はみっともなく震えて、認めたくないとでもいうようにきつく身体が強張っている。

 マレウスも似たようなもので、甲高くヒステリックな声は混乱を隠せてない。

 ベルリン崩壊以来、ろくに味わうことのなかった恐怖の再来に怯えている。

 俺は驚きはしたし戸惑ってもいるが、こいつらほどのあからさまな恐怖はない。

 というか、そういう類の恐怖はとっくに乗り越えた。

 俺がこいつらと似たような感情を感じることがあるとすれば、それはあのボロ外套相手くらいのもんだろう。まったく不本意な話だが。

 とにかく、俺はそういう意味であの人のことは恐くねえ。

 別の意味ではもちろん恐いが、何にせよ尊敬の念が勝つ。忠誠だって揺るがねえ。

 そもそもの土台が違う。

 だからこそこいつらより単純に、拭えない違和感に眉を顰めた。

 

 刻々と近づき濃くなる黄金の獣の気配。これは間違いなく、降りてくるだろう。

 それは街全体の空気を重く陰鬱に塗り変えていく。

 圧倒的な、存在感。

 ――ついに、黄金の獣が顕現する。

 美しくも恐ろしい黒円卓の首領が、そこにカタチを成したのだと、街があげる悲鳴から、溢れる重圧から痛感する。

 拡がる眼下の街中、気圧され狂わされ、激しく明滅する建物の明かり。

 逃げ出そうにも地に縛りつけられ逃げられず、二重三重に建物がブレて見えた。

 特にヒドイのは、あの人が降りたその周辺。元凶があの人なんだから当然の結果だな。

 昏倒する人間が続出するだろう。そのせいで、運が悪ければいくつか事故も起きるだろう。このたった数瞬で死人が出るかもしれない。

 存在の一欠片が――それも実体ですらないが、近づいただけでこのザマだ。

 黄金錬成が無事に成った先のことを思うと、さすがにぞくりと肝が冷えた。同時に、その光景をこの目で直に見たいと心が躍る。

  

「博物館、だな。スワスチカ――いや、クリストフのところか。

 ろくなもんじゃなさそうだぜ、嫌な予感しかしねえ」

 

 感じた違和感の正体にあたりをつけて、肩を竦める。

 クリストフに用があるのだとしたら、やはりいい話じゃなさそうだ。

 緊急事態でも起きたのか、いやそもそも、あのクソ野郎が用意したものにそんな不備が起こることがあるのかどうか。

 胸糞悪いがあいつの実力は本物だ。そんな不確かなものを首領が絡む事態に用意するはずもない。

 そもそも、そんないい加減なもんで半世紀以上待たされたのかと思うとそれこそ許せない。

 術者本人はこれっぽっちも信用できねえが、用意されたもんに関しては信用できる、大丈夫だと踏んだから全員大人しく従ってたんだ。

 それなのにやっぱり無理でした、間違いました、失敗でしたとか、お話になんねえぞ、そんなの。ふざけんじゃねえ。

 だからまあ、たぶんその線は薄い。だからこそ、ワケがわからねえ。

 この組み合わせ、このタイミングであの人が姿を現す理由が、何一つさっぱりだ。

 ただの様子見じゃねえと断じれるからこそ、嫌な予感しかしない。

 俺たち全員に話があるなら、別に今じゃなくてもいいだろう。

 俺らの拠点は 教会(あそこ)なわけで、円卓の間で揃うことはそれこそこれからいくらでもある。

 クリストフの前だけに姿を現すということ自体、不穏な動きの証明みたいなもんだ。

    

 どうやら突然の密談は無事に終わったらしい。話がまとまった、ということだろう。

 笑っちまうくらいあっけなく、あの人の気配がするりと 現世(せかい)から抜けて、消えていく。

 それに、両隣の同胞二人があからさまに安堵の息を吐いた。

 まあ気持ちはわからんでもないが、冗談抜きであの人の前だぜ。素直でいいとは思うが、一応もうちょっと隠せよ。

 ビビって腰抜かしたくせえレオンよりはマシだがよ。

 ほんの一部だったとはいえ、初めて対峙したあの人の恐怖にそりゃあもう竦んだんだろう。

 一度は消えたはずのレオンの気配を市街の真ん中あたりで拾えた。

 その位置から察するに、教会に帰ろうとしてたんだろうな。

 そのせいで運悪く、俺らよりあの人に近い位置で喰らってしまったらしい。ご愁傷様ってやつだな。

 おおかたバビロンあたりもビビってそうだがレオンよりはさすがにマシだろ。

 あれはあれでえげつない修羅場くぐりまくってる 悪女(オンナ)だからな。

 

 とにかく、 想定外(イレギュラー)はあったもののこれで終わったんだろう。あの腐れ外套が用意した 双蛇の杖(ツァラトゥストラ)の見世物は。

 どいつもこいつも情けねえなと呆れて、薄れていったあの人の気配の先を追って空の闇に視線をやった――ときだった。

 

「――ッ゛ぅ!?」

 

 一瞬で全身を支配した絶対的な恐怖に、上ずった悲鳴が漏れる。

 ああ、マズイと思ったときには遅かった。

 真正面から、視てしまった。

 去ったと思った黄金の双眸が狙いすましたかのように“俺だけ”を捉えて射抜くのを。

 

「……っ、あ……ぐぅッ」

 

 凝縮された鋭い意識にあてられて、立っていられずに揺らいで血だらけのアスファルトに膝をついた。

 そのまま倒れるように両肩が前のめり。息が詰まって、苦しくて、もがく。

 まるできつく“首輪”でもハメられた気分だ。どうにか気道を確保しようと血だらけの手袋が喉を掻き毟る。

 身体が別のモノに造り変えられたような気さえして、不快で気持ち悪くてしょうがない。

 

「うそっ、ベイ! ねえあなた大丈夫!?」

 

 俺の異変に気付いたマレウスが慌てて駆け寄り、血溜まりに同じように膝をつく。

 背中をさする小さな手すら不快で、もがいて呻いて。小さな身体に八つ当るように身体がぶつかる。

 そう長くなかったと思う、一分もなかっただろうが――やっとそれが収まった頃、戻ってきた身体の自由にひゅっと深く息を吸い込んだ。

  

「ベイー、ちょっとびっくりさせないでくれる? 頑丈がとりえのあなたが倒れたら焦るじゃない」

 

 心配と呆れが半々、そんな声がすぐ側から聞こえた。

 締まっていた喉から両手をやっと離して見上げれば、支えるように寄り添って、至近距離から大きな緑の瞳をしてこっちを覗き込むマレウスがいる。

 上げた声とお揃いにぎゅっと寄った眉根のまんま、次に飛んできたのはおせっかいな小言だった。

 

「あーもー、引っ掻きすぎ。きれいな白い喉から新鮮なお肉が見えて真っ赤っ赤よ。よっぽど苦しかったのね、さっさと治しちゃいなさいよー」

  

 血に濡れた手袋のまま人の頬を両手でひっつかんで、ぐいっと上向かされた。

 そのまま傷口を覗きこまれて、盛大に溜息を吐かれる。

 心配かけたのは悪かったけどよ、おまえのせいで俺の顔まで余計血だらけじゃねえかよ。

 

「おい、痛えよ。マレウス、離せ」

「なによ、心配してあげてるのに。ベイったら可愛くない!」

   

 礼も言わずに悪態ついたのが腹が立ったんだろう。離せって言ったのに離さないまま、両方の掌でぎりぎりと俺の顔を圧迫してきやがる。子供のイタズラかよ。

 拗ねるなよ、もう面倒くせえから。

 

「中尉、准尉。お二人とも、仲がいいのはいいことですが、じゃれるのはその辺でやめておいた方がいいでしょう。とにかく、移動しましょうか。私の勘ですがね、何かよくない予感がするのです。それは、あなた方もきっと同じでしょう」

 

 マレウスが先に動いたから、状況を見極めることに専念しようと静観していたんだろう。

 今度こそ事態が落ち着いたとみて、シュピーネから場を取りなす声が掛かる。

 俺の首の傷口を修復する赤い煙が立ち上り始めたのを確認して、ダメ押しみたいに俺の両頬をつまんでぎりっと抓ってからマレウスがひょいっと立ち上がった。

 無駄に痛ぇ、いい加減にしろクソババア。

 今回は心配掛けちまったから見逃すが、次にくだらねえイタズラしやがったら倍返しだ、アホが。

 ひとしきりやり返して満足そうなマレウスと入れ替わり、しゃがんだままのこっちにシュピーネがするりと細い腕を差し出した。

  

「肩を貸しますよ、ベイ中尉。さきほどのあなたの様子は尋常でない。どうも、あの方の影響でないかと思いますが……」

  

 その言葉は暗に、何かされたのかという問いが含まれている。

 断る前に手は出されてたもんだから大人しくひっぱりあげられつつ、否定のために元通りに治った首を横に振った。

 

「何でもねえよ。一人で歩ける、もう大丈夫だ。いこうぜ、とりあえず教会に戻るんだろ?」

 

 あの人を悪く言うつもりは毛頭ないし、 同胞(ダチ)を無駄に心配させるのも悪いだろう。

 それに下手に俺の口から適当なことを話すより、真実を知っているはずのクリストフを問い詰めた方が話が早いし確実だ。

 俺の考えを読んだんだろう。

 それが確かに適切な対処だろうと納得したように頷いて、先に歩き出した細すぎる体躯。

 長く伸びる軍服の細い影を追って、俺も血の海を抜けだして歩き出す。

 ひょっこりと小さな身体が今度は俺を追うように右隣に並んで、見下ろせばイタズラっぽい顔と視線がかち合った。

 肩越しにちらりと振り返れば、もうそこに血の海は広がっていない。あたりまえの平穏な夜の街の光景が、ただそこにあるだけだ。

 歩き出す前、さっきの一瞬でマレウスが片付けたんだろう。そういうところはよく気の利くやつだからな。

 

 静寂の中で暗い海を跨ぐ鉄橋、月に照らされて仄かに光るアスファルトに伸びる長さの違う軍服の影が三つ。

 次の刹那にはもうそれはその場所になく――月夜の闇に忽然と姿を消した。

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