愛に啼く月の進化論 -Gehen Sie im Licht-【蓮×ヴィルヘルム】   作:桜月(Licht)

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Extra Chapter Ⅰ Beginn des Vertrages 06

 

 

Extra Chapter Ⅰ Beginn des Vertrages 06

§Side Ren

 

 月明かりの下、登り切った坂道。

 間近に迫った教会の大きな扉。

 辿り着く前に、ぎぃと重い音を立てて開いた。

 そこからひょこりと覗いた人影にとても見覚えがある。

 それは昼間、俺が余裕のなさから冷たく当たってしまった彼女で。

 さらりと、傾いた首筋から月明かりに燦めいて零れた銀糸。予想してなかった華奢な姿の出迎えに、どきりと心臓が跳ねた。

 

「こんばんは、藤井君」

 

 いつもと変わらない、落ち着いたトーンの声。扉の前に立って佇むのは、見覚えのある私服姿。見た目はほんとうにいつもと何も変わらない。

 それなのに、まるで全てを見透かしているような深い紫色の瞳が、真っ直ぐにこっちへ向けられている。

 その瞳に、またどきりと心臓が跳ねた。

 玲愛先輩――俺が守りたい日常の中にいる数少ない大切な人だ。

 先輩は何をどこまで知っているんだろう。神父と並んだ俺の姿に先輩は今、何を思っているんだろう。

 

「……先輩」

 

 読めない事態に交ざる、聞き慣れた挨拶。

 どう返していいのか分からない。だからただ、か細く名前を呼んで応えるしかできなくて。

 戸惑う俺の隣、背の高い僧衣が動いた。

 

「藤井さん、私は用が済んだので今夜はこれで。

 テレジアが何か話があるようですから、付き合ってあげてください。それでは、また」

「……ああ」

 

 にこやかに今夜の歌劇の終わりを告げられて、するりと歩き出した広い背中に結われて長い金髪が揺れる。

 去っていく僧衣の後ろ姿に、掠れた声で短く頷くしかできなかった。

 

 木製の大きな教会の扉の前。消えていく背中をじっと凝視する。

 神父と玲愛先輩がすれ違いざま、短く言葉を交わした素振りがあった。

 だけどその声音は小さくて、二人の短い会話を聞き取ることはできなかった。

 ただ、 養父(しんぷ)を見送る先輩の表情が一瞬険しく顰められたのは離れた場所に立っていた俺にも分かって。

 

 それに、嫌な予感がした。

 もしそれが当たったなら、きっと俺は一つの決断を迫られるんだろう。どちらかを選べ、と。

 漠然と、そう思った。

 だけど、悩むことはない。俺の中でどっちに転ぶか最初から答えは出ている。

 そこに関しては揺らがない。揺らぐわけには、いかない。

 だからどうか、俺の望む方向に先輩が居て欲しい。願うのは、それだけだ。

 たとえ望みと違ってもやるべきことが変わるだけで、俺の守りたいものに先輩が入っているのは変わらない。

 俺は結局、先輩の立ち位置なんてどうでもいいのかもしれない。

 ただ、知りたい。あやふやなままでいたくない。

 これからのために、俺はそれを知っておかなくちゃいけない。

 その権利だって、あるはずだ。

 戦うと決めた以上、俺はもう部外者じゃないんだから。

 

 こつり、と足音。

 ゆっくりとした足取りで、夜風に銀髪を揺らして近づいてくる華奢な身体。

 片腕一本分の距離をあけて、ぴたりと止まる。

 淡々とした紫色の瞳が変わらずそこにある。

 読めないいつものポーカーフェイスを崩さなままま、形のいい唇が開いた。

 

「こっち側、きちゃったんだね」

 

 届いた言葉に反応した指先がぴくりと動く。

 次に届いたのは、予感を肯定する決定打。

 

「心配だよ、藤井くん。心配だからガマンできずに出てきちゃった。ただの一般人じゃなくなっちゃったよ、私」

「……っ」

 

 嫌な予感は当たったんだ。

 この人だけは、関わっていて欲しくなかった。香純はもう巻き込んでしまったから、先輩だけは無事でいて欲しかった。

 だけど、そうじゃなかった。それが、悔しい。

 知らなかったのは俺だけで、数少ない大切なもののほとんどが無関係じゃなかった。

 これから起きる血塗れの戦争に巻き込まれてしまっていたんだ。

 

 息をのんで、無意識にぎゅっと握ってしまった掌。この展開だって薄々予想はしていたはずなのに、思っていたより衝撃があった。

 だけど、それくらいの反応だけで済んでよかったと心底思った。

 大切な人を、傷つけたくなかったからだ。

 先輩が、こうして俺の前に出てきたのは俺を傷つけたいからじゃないって分かる。

 だから必要以上にショックを受けたりしたら、また昼間みたいに傷つけてしまうかもしれない。そんなのはごめんだった。

 

「ごめんね、藤井君。私、ずっと藤井君にウソをついてたよ。

 でも私、やっぱり藤井君にはずっとウソをついていたかった。キミに、こっちに来てほしくなんてなかったよ」

 

 先輩が、俺の身を案じてくれているのが分かる。言葉で、行動で示されている。それが嬉しい。

 だから、俺もちゃんと先輩に伝えたい。

 大切な言葉は、きちんと伝えないといけない。渋っていたら、失ってしまう。

 俺は昼間みたいに、不本意に先輩を傷つけるのはもうごめんなんだ。

 

 拳を握り直して、真っ直ぐに先輩を見据えた。

 伝わって欲しいと気持ちを乗せて思うまま正直に告げた言葉。

 

「先輩は、先輩だ。あんたが何者だとか俺にはどうでもいいんだ。

 たとえあんたがイカレた軍服集団と関係あるんだとしても、俺が先輩を守りたい気持ちは変わらない。それだけは、信じて欲しい」

 

 紫色の瞳が、驚きに見開かれる。

 一度開かれた瞼が、きゅっと細まって――じわりと、ほんのすこし目尻に涙が滲んで。

 それに、ホッとした。

 拙い言葉だったけど、何とか先輩の心に届いたみたいだ。

 

「ありがとう、藤井君。私、嬉しいよ」

 

 柔らかく控えめな微笑み。それが見れて良かった。

 ヘタしたらもう二度と見れないかもしれなかったんだ。

 きっと先輩は、ここで俺が拒絶したら俺から離れるつもりだったんだろう。

 俺の邪魔をしない決断を下す気だった。その覚悟をして、ここに立ってくれていたんだと思う。

 

「あのね、きっと大丈夫だよ。私、一応ただの一般人とほとんど変わらないの。

 怪力なんて持ってないし、変な魔術とか使えないよ。だから藤井君の敵にはなれないんだ」

 

 先輩もホッとしたんだろう。

 微かに硬かった声をいつものように緩めてイタズラでも告白するように、さらっと先輩が教えてくれた。

 

「え、そうなのか?」

「うん。私ね、ついこないだまで自分の正体を自分で知らなかったくらいだから。びっくりしちゃうよね」

 

 あまりにもあっさり言うから、呆気にとられたし安心もした。

 本当に先輩が奴らとどれぐらい関わってるだとかこれっぽっちも分からない。

 だけど先輩の発現を掻き集めて考えると、確かに戦闘要員じゃない。

 特殊な 能力(スキル)がないというからには、諜報要員でもないんだろう。もっと別の何かなのだと推測できる。

 情報が少なすぎて、それが何なのかは理解できないが、今は追求する気になれない。

 先輩と直接殺しあわなくて済む。

 今は、それが分かっただけでもう充分だ。

 悪い予感は当たりはしたが、俺たちの精神をギタギタにするほど泥沼みたいな展開じゃないらしい。今のところはだけど。

 詳しいことはこれから知って、できることが見つかる側から対策を練っていけばいいだろう。

 大切なものを守る――俺はそこだけブレなければこの先だってきっと大丈夫だ。

 そう信じて進むしかないんだ。

 

「そっか。とりあえずは、よかった。事情はまだよく分からないけど、先輩も頼むから無理しないでくれよ」

「うん。でも私より藤井君が心配だってさっきも言ったよ?

 ――だって危ないよ、どう考えても。ねぇ止めたほうがいいよ、藤井君。あのヒト、このままうちに置いてるんじゃダメなのかな?」

 

 気遣う言葉を交わし合う。

 その会話の中で、先輩の心配の矛先が変更したルールに向いているのを知った。

 

「それ、もう“そっち側”は全員知ってるのか?」

「ううん、さっきまで知らなかったよ。

 と、言うか偶然、さっきあのヒトがぼやいてるの聞いちゃって、びっくりしてじっとしてられなくて出てきちゃった。

 でも、もう知らされてると思う。教会にいるヒトたちはそろそろ神父さまから話を聞いて、ざわざわしてる頃じゃないかな?」

「あー……」

 

 なるほど、納得が言った。

 先輩は、俺が心配で止めたいからわざわざ名乗りでてくれたのか。俺に避けられるかもって不安を押しのけてまで。

 ずっと秘密にしていたかったにしろ、まだ隠してないといけなかったにしろ、俺を心配して行動に移してくれた先輩の気持ちが嬉しい。

 あの食えない神父、ヴィルヘルムだけじゃなく陣営の誰にも黙秘を貫いていたんだろう。契約が確定する前に下手に対策を取られても困る、と考えての措置だったのか。

 そりゃあ先輩もびっくりして止めに出てくるよな。

 ただのそこら辺の高校生だった俺が人畜有害過ぎる吸血鬼を自分の部屋につれて帰ろうとしてるわけだから。

 

「ありがと、先輩。

 でも、大丈夫だよ。一応対策法はあるし俺が決めたことだからさ、意見を変える気はないんだ」

「……藤井君」

 

 まだ何か言いたそうだったけど、俺の気持ちを汲んでくれたんだろう。

 しばらく困ったようにうっすら眉を顰めた後、小さくこくんと頷いてくれた。

 ただお願いだから無茶はしないで、とじっと注がれた紫の瞳が訴えてくる。

 それをありがたく肝に命じつつ、安心して貰えるように笑って返す。

 

 それにしても、だ。

 教会が奴らの本拠地だろうことはもう明白だが、今頃混乱が起きてるかもしれない。

 というか、間違いなく起きてるだろう。尋問じみた質問攻めにあおうが飄々と躱す神父の姿が目に浮かんで憂鬱な気分になる。

 そういう局面で相手にするに奴はほんとうに 性質(たち)が悪い。

 神聖な場所のはずなのに、殺気立ってそうだ。いや、そう表現することすらもう可笑しいのかもしれない。

 教会とは名ばかりで、そこは気が狂れた魔人の巣窟だ。

 俺の方は無理にでも何とかするとして、やっぱり先輩が心配になる。

 立場の一部とはいといえ、予期せず正体をバラしてしまったわけだが、それで先輩の今後がどうなるのかも考えてみれば不安だった。

 こうして独断で動いた結果、向こうの陣営が不利になるようなことがあれば先輩に被害が及ぶかもしれないんだ。

 そこだけはしっかり確かめないと安心できないだろう。

 

「先輩、戻って大丈夫なのか?

 なんか、中で揉めてそうな予感がするんだけど。それにあいつらと関係があるって俺にバラしちゃったけど、これから大丈夫なのか?」

「平気だからバラせたんだよ。それに、揉め事はきっと神父さまが一人勝ちして終わるよ。あのヒトのそういうとこ、嫌いなんだけどね。

 ――ねぇ、藤井君。心配してくれるなら、私もつれて帰ってくれたりしない? しても、いいよ?」

「ダメだ。危ないだろ」

「ケチ。藤井君だって危ないよ」

 

 また堂々巡りしそうだった会話を、軽く肩を竦めて止めた。真剣に心配してるのは伝わったんだろう。

 すこし真面目に切り換わった声音で、先輩が中途半端だった話に結論づけた。

 

「心配してくれてありがとう、藤井君。

 私なら大丈夫だよ。ちょっと特殊なの、私にヒドイことできないんだって。だから平気」

「……分かった、信じるよ」

「うん、私も信じるよ。だから、藤井君も気をつけなさい」

 

 先輩らしくちょっとえらそうな口振り。それに余裕を感じて、いつもの見慣れた日常を感じて、安心した。

 言葉にあった特殊の意味は理解できなかったが、信じると決めたから追求はしない。

 大丈夫だと分かれば、今はそれでよかった。

 どうせ嫌でも知るときがくるのだと、外れないだろう予感があるから。

 

「……ん?」

 

 建物の方、不意に気配を感じた。

 近づいてくるのは、奇妙な殺気。それに戸惑いを覚える。

 誰のものかはもう察しがつくが、どうしてそうなったのか――ああ、これがたぶん神父の言う“首輪”の効果なんだろう。

 気配の方に視線を投げた俺に気付いて、先輩が微かに身体を強張らせて小さく溜息をこぼした。

 この先に何が起こるかを把握したんだろう。

 

 ぎぃ、と閉じていた重い扉が開く。

 その隙間からするりと、俺の待ち人――奇妙な気配を纏って吸血鬼が姿を現す。

 

「……ヴィルヘルム」

 

 星がうっすら光る夜空の下に現れた吸血鬼の名前を呼ぶと、赤い瞳が面倒くさそうにちらりと俺を見た。

 

 私服、初めて見たな。

 こんなことでも起きなきゃ見ることなんて一生なかっただろう。

 赤い革ジャンに黒いシャツ。黒めのGパンという出で立ちで、革張りのアンティークらしい高そうなトランクを片手に一つ。

 初めて会ったときにしていたサングラスは襟元にぶらりと引っ掛けられている。

 

 アルビノだという特性を考えなければ、どうみてもガラの悪そうなそこらへんにいるチンピラだ。

 嫌味なくらいに顔立ちがいいから、ほんとうにそこら辺にいるかどうかはちょっと微妙だけど。

 もっと奇抜な格好して出てきたらどうしようかと思ったけど、そうじゃなくて助かった。つれて歩けるくらいには街に馴染んでてくれて何よりだ。

 

 ああ、でも世も末だよな。

 ヴィルヘルムだけに限らず、ルサルカも、櫻井も、あの神父も――たぶんシスターも、こんな普通な見た目をしている奴が、実は中身が狂人だとかどんな冗談だ。

 こいつはまだ身体的特徴があるから異常性が視覚でわかりやすいにしても、他はほんとうに酷い。

 現に上手く擬態されて、さっぱり見抜けなかった馬鹿が俺だよ。

 俺だけじゃなくて、この街の人間全員おんなじレベルだけど、俺以外は救いがあるだろう。

 見抜けないまま一生が終わる方がどう考えたってマシな人生だからだ。こんな化物の存在、できれば一生知りたくない。知らなくていい。

 知ってしまったら、もう普通じゃなくなるんだから。

 

「あァ? おい、ガキども。誰がそこでいちゃつけつったよ」

 

 こっちを見るなり、飛んできた悪態。

 乱暴に、後ろ手で閉めた扉。ずかずかと大股で進んで、俺たちの方へ寄ってくる。

 その足が、こっちに腕一本の距離をあけてぴたりと止まった。

 

「おら、準備できたぞ。行くんだろうが、さっさとしろよ」

 

 ぶっきらぼうに先を促される。その視線が見ているのは俺だけだ。

 側にいる玲愛先輩には興味すらわかないと言わんばかりの粗野な態度。

 この二人の仲がいいなんて想像もつかない。それでいい、そのまま関わらないで欲しい。

 目の前の当然の事実に、胸の中でホッとした。

 

――それなのに。

 

「あ?」

 

 夜の空気に抜けた怪訝な声。

 それは、ぐいっと吸血鬼の赤い革ジャンの袖が引っ張られたからで。

 俺じゃ、ない。俺は動いてない。先に動いたのは、華奢な先輩の、身体で。

 

 何で、こんなことになった?

 呆然と浮かんだ疑問符。どうしたって、この二人に関係はあるのかもしれない。

 だけど、俺の守りたい日常と、壊したい異常が関わるなんてことは、できる限り起きてほしくない。

 さっき、そう思ったばかりで。

 

 鋭い血のように赤い視線が、肩越しに先輩を向く。

 誰を相手に何をしでかしてくれるのか、と怒りに射抜かれる。

 それに当然怯んで――だけど、ぐっと小さな拳を握って、舗装路を踏みしめる細いブーツの爪先。

 

 間近の光景。

 本来なら、それはありえないはずだと湧き上がる異常さに瞠目する。

 

「藤井君をいじめたら、許さないから」

 

 精一杯押し殺した声が、形のいい唇から紡がれた。

 そして――。

 

 べちっ。

 

 鈍い音。

 先輩が、袖を掴んでいたその手で叩いた革ジャンの腕。

 

「私、本気だから」

 

 赤い瞳を真っ向から見据えて、短く言い放つ。

 内容に、あっけに取られた。

 先輩がらしくなく無茶をした動機の正体はどう考えたって俺にあって。

 心配だと、その言葉がどれだけ彼女の本心からだったのかを、目の前の情景に情けなくも痛感する。

 

「ッ、先輩っ!」

 

 そこまで呆然と見ていて、我に返った。

 叫んで。慌てて、強く引き寄せた細い腕。先輩を咄嗟に背中に庇った。

 先輩は俺の肩越し、まだ怯まずにヴィルヘルムを睨み続けているのが気配で分かる。

 だけど無意識に俺のジャケットを掴む手は、どうしたって怖いんだろう。小さく、震えていて。

 

 無茶するなって言った側から、何するんだこの人は。

 どうしようもなく呆れたし、それと同じだけ嬉しかった。

 だけどやっぱり無茶だろう。先輩いわく、何の力もない一般人が狂気を纏う吸血鬼相手にこんな暴挙。

 動機が俺にあるんだろうから行動はともかく心情に対しては怒れない。

 説教は後でするとして、どうにかこの場を切り抜けないと。

 

 俺たち二人にどくどくと刺さる赤い視線。

 怒りの矛先が先輩に向かないように、必死に背中に庇う。

 相対するのは怒りに支配された奇妙な殺意。

 溢れる奇妙さのおかげでまともな恐怖は湧かないが、相手が危険であることに変わりはない。

 “首輪”に害されながら、それでもわずかに残っていた純粋な殺意が視線といっしょにぎりりと刺さる。

 それに追いつめられたように背中越し、先輩の呼吸が苦しそうに締まる。

 こんなところで初っ端から敵対する気はなかったから、予期せぬ展開で焦りに背筋が引き攣る。

 

 ――ふと、何故か。

 こっちに真っ直ぐ向いていた殺意が、急にばっと霧散した。

 

「……ちッ、はァあ――っ」

 

 溢れていた怒りが散って、そのかわりに苛立った舌打ちと、盛大な溜息。

 

 それはこいつがたぶん、否応なく現状を痛感させられたからだろう。

 俺もヴィルヘルムの遠慮ない――不機嫌を隠さない反応でやっと、状況に理解が追いついた。

 

 詳しい理由は分からないが、こいつらは先輩にはヒドイことができない、らしい。

 そしてヴィルヘルムにはさらに俺との契約によるルールが課せられている。

 先輩は俺の守りたい大切な日常の一欠片だ。だからこいつは先輩に手は出せない。もちろん俺にも危害は加えられない。

 だから気に食わなかったとしても肉体に被害を及ぼすような反撃はできない。

 そして、ヴィルヘルムの殺気は“首輪”の効果で散らされて、無理矢理貶められている。

 じわじわと時間が経つにつれ効果は強まっているらしい。今はもう、ぎりぎり日常に溶け込めるレベルにまで落ちている。

 そして先輩は、ヴィルヘルムがそんな異常な状態だったからこそ強気に出られたんだろう。

 いろんな条件が重なった上での暴挙でそれと同時に先輩なりの本気――覚悟の証明だったに違いない。

 

「あのなあ、てめえに言われなくったっていじめねえよ。契約の間だけは大人しくしててやるから、もうどっかいっとけ」

「――絶対? 嘘はつかないで」

「おー、約束してやっから。さっさとお家に帰んな、テレジアちゃんよ」

 

 先輩の本気に対して、やる気のない返事が返ってくる。

 猫でも追い払うかのように、ひらひらと振られる白い手。

 

 軽口には違いないが、約束は約束だ。

 やりたいように振る舞えて言質も取れて、先輩も納得がいったんだろう。

 肩越しに、揺れる白い指先をじっと凝視していた視線がすっと落ちた。

 俺の服を掴んでいた手がじわりと解かれる。

 数歩、後ろに下がる足音。

 崩れた三人の 均衡(バランス)、解けた緊張にゆるりと動いた空気。

 

「おい、行くぞ。さっさとしろよ、ボケが」

 

 不機嫌を欠片も隠さず、押し殺した低い声。

 それでも、視線は俺からも先輩からも逸らされて、見据えているのは坂の下の舗装路で。

 

 本来ならこれで済まなかっただろう吸血鬼の譲歩。

 首輪の効果なのだとしても、類まれなる忠誠心が勝ったのだとしても、もっと荒れた結末になると思って先輩を背中に構えていた。

 足元の舗装路が無残に叩き割られるなり、もっと口汚く脅されるなりいろいろあるあるかと読んだのに、そういうのはさっぱりなかった。

 だからあれで済んだのが、正直、意外で。

 

 Gパンのポケットに無造作に突っ込まれた、手持ち無沙汰な白い掌の片方。

 痺れを切らしたように、もう片方の掌が乱暴に持ち上げてぶらりと揺れるトランク。

 返事を待たずにずかずかと坂の下へ歩き出していく長い足。

 その姿を、微かに戸惑いながら追いかけようと舗装路を蹴る。

 だけど追いかけるその前に大切なことがひとつあって、それを思い出して駈け出した足を一度止めた。

 

「先輩、じゃあまた明日。ああそうだ、こういう無茶はもうこれっきりにしてくださいよ。

 ……嬉しかったしありがたかったですけど、どうなることかと肝が冷えたんで」

 

 肩越しに振り返って、少し距離が開いた先輩との空間に挨拶と忠告をお礼を混ぜて放り投げた。

 そうしたら、すました顔でさらっと返ってきた謝罪。

 

「うん、ごめんね。藤井君どうせ言うこときかないだろうから、あの人にどうしても言ってやろうって決めて出てきたから。許してね」

 

 ああ、そういうこと。最初からあれが目的だったわけですか。

 先輩の読み通り、俺が素直に言うことなんて聞くわけない。

 だから、保険をかけておこう。俺はどうせ無茶するだろうから、それなら両方に忠告しておけば何とかなるかも。

 バッグにあの厄介な神父がついてるし、忠告したい当の本人が特殊な状況に陥ってるらしいから一言くらい言えるかもしれない。

 あとはこういう振る舞いをすれば俺への抑止力にもなる。

 心配かけ過ぎたらおせっかいでしゃしゃられるって分かっただろうから、まわりを巻き込むことを気にしてひどい無茶はできなくなるはず。

 無茶な行動防止策に身体を張ってみた、ってところだろうか。

 また危ない橋渡ろうとするんだから、この人は。感謝はするけど褒められはしないよ、ほんとうに。

 俺のまわりには、余計なおせっかい焼きがほんとうに多い。

 だからこそ、守らなくちゃいけないって思えるわけだけど。

 

「おやすみ、藤井君。また明日。庇ってくれて、ありがとう。カッコ良かったよ」

 

 少しだけはにかんだ微笑み。

 いつもより感情がこもって、優しく響いた声。

 小さく、手を振って。

 冷えた夜風に長い銀糸を揺らして、先輩の姿は扉の向こうに消えた。

 

 ぽつりと取り残された星空の下。

 反対側を見やれば、とっくに坂道を下りきった背の高いシルエット。

 歩くたびに揺れる、白い髪。綺麗なフォルムの後頭部にのぞく旋毛。

 だらりと垂れた腕で、不満そうにぎこちなく振れるアンティークなトランク。

 ときおり、面倒くさそうに首を傾けて、小さく溜息をつく素振り。

 それでも、立ち止まることはない。やっぱり不機嫌だろうまま、大股でずかずかと歩いていく。

 目的地は、俺の家。

 吸い殺すはずだった宿敵の根城。

 たとえ不満でも、納得いかなくても、あいつはきちんと契約を果たすんだろう。

 それが望まれた契約の内ならと、さっき先輩を苦々しくも見逃してくれたみたいに。

 

「連れて帰らないとな、吸血鬼。それで、とりあえず躾ないと。意思疎通できるくらいには」

 

 ぽつりと、敬虔な教会を背後にぼやいた月の下。

 

 そうすれば、とりあえずは先輩も安心だろう。

 あと、俺も気が楽だ。

 それで、そうだな。

 あとは現状に不満たらたらな吸血鬼も、少しは楽になってくれたらいい。

 不本意なルールを押しつけたのは俺だけど、慣れればあいつだって多少は担う負担も減るだろう。

 よく言うだろ、住めば都って。

 あいつ環境適応能力高そうだし、何とかなるだろ。

 だからまあ、とりあえずは帰ろう、(うち)へ。

 吸血鬼と二人暮らしなんてどっちも文句はあるし、不満もあるけど、お互いに決めたことだから最後までやり抜くだろう。

 そういうところは、俺とあいつの共通点なんだろうし。

 逆に、俺たちはそこさえブレなければ、上手くいくような気もする。

 目指している結果は明らかに違っても、途中までの目的は同じだからだ。

 だから俺もヴィルヘルムもたとえこの先が難攻不落の 魔人(てき)だらけだろうが志半ばで諦めたりなんてしないだろう。

 また一つ見つけてしまった吸血鬼への好感に、むず痒くなって肩を竦める。

 俺ばっかりこうなって、なんだか不公平だ。

 とりあえず、あいつには絶対俺の決めたルールを守らせよう。

 戦争が本格的に始まってからならいざ知らず、停戦の間は異論なんて言わせない。

 ヴィルヘルムは俺に服従、これは絶対だ。

 契約の内容でもそうだし、家主は俺であいつは居候なんだから当然だ。

 よく分からない感情のままそう堅く誓って、今夜から始まる奇妙な共同生活を前に気合をいれた。

 

 先輩を見送りたくて、一度は止めた足。

 月明かりに照る舗装路のタイルを、もう一度蹴って。

 先を行く人外の居候の姿を追いかけて、見慣れた住宅地の夜道を駆けた。

 

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