愛に啼く月の進化論 -Gehen Sie im Licht-【蓮×ヴィルヘルム】   作:桜月(Licht)

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Extra Chapter Ⅰ Beginn des Vertrages 08

 

 

Extra Chapter Ⅰ Beginn des Vertrages 08

§Side Ren

 

 家主を差し置いて勝手に部屋へ上がり込んだ吸血鬼へ、俺が最初にかましたのは放置プレイだった。

 

 おまえに見られて困るモノは何もない。モノさえ壊さなければ好きにしていい。

 あとそこの二つの謎の扉には触れないように。あとで説明するからスルーしろ。

 それだけびしっと言いつけて、いろいろありすぎて疲れてたんで部屋にヴィルヘルム一人放置してシャワーを浴びに風呂場へ直行。

 客人扱いはしない。そういう関係じゃないからしてやらない。

 あくまで家主は俺。こいつは居候。さらに言うなら俺はこいつの飼い主だ。

 契約によって使役する権利があって、規定の範囲内で俺が守れと決めた命令は絶対。

 だとすれば関係を示す表現は間違ってないし、こいつだってそう認めただろう。

 とにかく、俺の方が立場が上。つけあがらせないし、甘やかさない。

 この契約を交わしている間はそれだけは譲れないんで、引き続き立ち振舞に気をつけることにしよう。

 そんな風に今後の方針を固めつつ浴びたシャワーで身体がさっぱりした。ついでに心もすっきりした。

 なんだろうな。最初はあの吸血鬼の扱いをあんなに面倒くさくて厄介だと思っていたのに、今はたいして負担に感じていない。

 それはたぶん、蓋を開けてみればあいつの中身が想像以上に普通だったからで。

 厄介なのにかわりはないが、なんとなく上手くいきそうな気がしたんだろう。

 変な話、あの狂人相手に希望が見えた。からかい甲斐すら感じたほどだ。

 首輪がはまってなかったらこんな風に思うことなんて欠片もなかったんだろうけど、幸か不幸かあいつは今、俺たち人間の側に無理矢理突き落とされて。

 そのせいで、狩るべきはずの俺なんかに使われる羽目になったわけで。ほんと、神父の言った通り運がないんだな。

 上半身だけ裸のままがしがしとタオルで頭を拭きながら、居候の不憫さをかわりに嘆いてやる。

 

 それで、不憫なあいつは俺の仕掛けた放置プレイ中いったい何をしていたのか。

 ここまでの腹いせに部屋を荒らしていたりしたらお仕置きだ。

 派手な物音は聞こえなかったから、まあその線は薄いだろう。

 何にせよ、吸血鬼の生態には興味がある。

 知っておいて損はないし、知っておくべきだろう。今後のためにも、ぜひに。

 

「おい、ヴィルヘルム?」

 

 髪を拭きつつキッチンを通り抜けて、呼びかけた。

 ひょいっと部屋の中を覗き込む。

 

「ふはっ」

 

 やべえ。吸血鬼が俺のベッドでマンガ読んでる。

 見慣れたレーベルの単行本にすっかり夢中だ。すげえ普通に部屋にいる。

 

 ガマンできずににやけて吹き出した。

 だって仕方ないだろ。人殺しの吸血鬼のくせして予想以上に馴染んでるんだ。

 まるで、 友達(ダチ)の部屋に遊びに来たチンピラ。いやまあ実際チンピラなんだけど。

 黒円卓の狂人って、こんなんだっけ。俺を半殺しにした奴はもっといろいろヤバかったはずなんだけどな。

 あのときのおまえはどこにいっちまったんだよ、ヴィルヘルム。

 

 まあ上手く暇が潰せたならなによりだ。暴れられるよりよっぽどいいしな。

 ぱっと見た感じ、部屋の中が荒らされた形跡はない。

 最初に言った通り、見られたところで困るモノもないから家探しされても別に構わない。

 野郎同士だし、怪しい何かが見つかってもスルーされるだろう。お節介な幼馴染が突撃してくるんで、一応対策はしてあるし。

 いろいろ見て回ったりしたかもしれないが、これといって特に問題なしと判断。

 そんなわけでお待ちかねの生態観察タイムだ。

 マンガを読み耽る吸血鬼をここぞとばかりに観察しようと、椅子に掛けていた寝巻きがわりのスウェットの上着に腕を通しながらちらりと視線をやる。

 

 床に座るのが嫌だったのかベッドの縁に腰かけていて、がばっと開いた両足にそれぞれ肘をついて前のめり。明らかに適当な流し読みじゃない体勢で読み耽ってる。

 どういう基準で選んだのかは知らないが、ヴィルヘルムが本棚から選んだタイトルは短編集じゃなくてシリーズ物。読み始めたばかりらしく、まだ一巻目だ。

 腰掛けた側、しわの寄ったシーツの上には読んでいるシリーズのあるだけ全部の巻が引っ張りだされて無造作に放られている。それ、全部読破する気かよ。

 たしか最初は司狼がうちに置いていって、試しに読んでみたら面白かったから続きを自分で買った少年マンガだ。

 新刊出たのに買ってなかったから、まだ全部揃ってないんだよな。俺も続きは気になるし今度買ってこようか。

 

 さっきから、戻ってきた俺にもちろん気づいているくせに無反応。大人しく読み耽る態度を崩さず、手元のマンガに視線を落としたまま。

 コマを移るたびに赤い瞳が細かく揺れる。

 ああ、やっぱりちゃんと読んでるんだな。

 ヴィルヘルムがわざとに無反応なのをいいことに遠慮無く視線をぶつけて観察する。

 表情を窺ってみた感じだと、内容を理解してないわけじゃなさそうだ。

 淡々と普通な顔してページを捲っている。

 描かれた内容が意味不明だと戸惑っているようには見えない。

 じっと観察していると、たまにぴくりと眉が揺れて、白い顎がきゅっと引かれたりする。

 ときおり考えこむような仕草で、ページを捲る手が不自然に止まったりもする。

 ここは日本で、普通に日本のマンガなんだから使われてる文字は日本語だ。

 だからといって、絵だけ、雰囲気だけで内容を察しているわけじゃないらしい。

 赤い目線を辿ると吹き出しの文字を追うように縦に上下して、きちんとページ書かれた文字全部を読んでいるのが分かる。

 そうなると、書けはしなくてもある程度は日本語が読めるのか。それ、地味に凄いな。

 もちろん普通に勉強して日本語を覚えていたらの話だ。

 相手は普通じゃない。魔術とかそんなよく分からない概念を持ちだしてきてる。

 変なマジックアイテムや便利なトリックを使ってるとかだったら、緊急事態に意思疎通が急にできなくなるって展開もありえるだろう。

 そんなのは困る。だから今後のためにその辺ははっきりさせておいた方がいいだろう。

 

「なあ、おまえ日本語読めるんだな。わざわざ勉強したのか?」

 

 反応が欲しくて、わざと軽く煽るような言葉を選んで放る。

 ぴくりと、マンガを握る手元が揺れた。

 嫌そうにへの字に歪んだ口元。意地でも目線はこっちにくれない。

 あー、この反応は間違いないな。

 ヴィルヘルム、おまえわざわざ日本語勉強したんだな。

 自力で習得したのなら、脳みそ強打で記憶が混乱したとかでもない限り困ることはないだろう。それならいいか。

 日本語を操れるようになるのが上官命令だったとしても、よくもまああんなに流暢にチンピラワードをぺらぺらと。その辺は絶対おまえの趣味だろ。

 真面目に外国語を勉強ね。見た目がチンピラだからとことん似合わないな、こいつ。

 日本語のテキストとぎりぎり睨み合いながら渋い顔して半ギレしているヴィルヘルムを想像したらちょっとツボった。

 行き詰まってはテキストぶん投げてぼろぼろにしたりしたかもしれない。それでも拾い直して、渋々読み直したりするんだろう。

 やるって決めたらやるんだって、諦めないんだって、こいつそういう性格だから。

 ほんとうにそんなことをしていたんだとしたら、いじらしい。

 だってなあ、俺を気持ちよく煽るためにこいついわく劣等人種の言葉をわざわざ喋れて読めるレベルまで習得したってことだろ。

 俺と戦いたい。ただ戦うだけじゃなく、骨の髄まで気持よくなりたいし満足する戦いにしたいってこいつなりの意思表示だ。

 そしてそれは実際きちんと実を結んでいて、俺と舌戦できるレベルまでしっかり極められている。

 ここまでの準備にどれだけ掛けたのか詳しくは知らないが、ヴィルヘルムはそれだけ俺と戦うのが楽しみだったってことか。

 ああこいつ、そこまでしてお預け喰らうなんてほんとうに運のない奴だな。

 俺と戦う番が回ってきたら、煽り文句くらい受けて応酬してやらないと報われないだろう。

 不運すぎて仕方がないから、そうやって覚えておいてやることにする。

 いざ殺し合うって局面で箍が外れて気が狂れた面倒くさい絡み方してきたらガマンできずにスルーするかもしれないけど、そのときはそのときだ。

 

 俺は生粋の日本人で、扱うのは母国語だけで限界だ。かろうじてうっすら日常会話が英語でできるくらい。

 曲がりなりにも進学校なんで、サボらずに出た授業の範囲で知識として入ってはいるが、実戦で役立てられるかと問われれば怪しい。

 そう考えると、こいつやっぱり頭はいいんだな。

 それにたぶん、何かを覚える素質があるんだろう。それでいて相当勘がいいのか、もしくは努力家なのか。

 要領は悪くなさそうだけど良くもなさそうだ。要領がよかったら、そもそもあんなえげつない 祝福(のろい)を受けたりしないだろう。

 ことごとく間の悪い男に、要領がいいっていう表現は似合わない。

 それを言ってやったら相当嫌そうに顔を歪めるのが想像できて、またおかしくて笑いそうになる。

 そんな想像が簡単にできてしまうあたり、良くも悪くもこいつは根が素直なんだろう。からかいやすいのもその証拠だ。

 

「なあ、ヴィルヘルム。おまえマンガ好きなんだな。それ面白いか?」

 

 身体もさっぱりしたし部屋も荒らされてなくて、面白いモノも見れた。

 気分が良くなって、ベッドの上の吸血鬼に話しかける。

 やっぱり返事はない。こっちに視線もくれないのは相変わらず。

 だけど質問の答えは聞かなくても分かる。

 面白いんだろう。だから下手に反論しないし反応もしない。

 否定している他国のモノを認めるのも癪だし、発した言葉で揚げ足取ってからかわれるのも面白くない。だからこその無反応。

 マンガを読むのをやめないところを見ると正解だろう。

 

「まだやることあるから読んでていいぞ。済んだら声かけるから」

 

 そう許可だけだして、放置プレイ兼観察タイム続行。

 やることがあるのはほんとうだ。大人しくしてくれているならこっちも都合がいい。

 棚に並べてある教科書を引っ張りだす。通学用の鞄の中身を入れ替えて、明日の学校の準備は完了。授業を受けるかどうか分からないけど、まあ一応。

 こいつの寝床を用意しなきゃいけないから、クローゼットからしまい込まれていた客用の布団を引っ張りだす。

 冬用の毛布足りるかな。まあ身体は丈夫そうだし風邪とかひかないだろう。そもそもこいつ人外だし。

 ガラス張りのテーブルを端にずらして、床の上に適当に敷いた布団。

 そうやって着々と必要な準備を整える俺の横で、こっちを完全スルーのままマンガを読み続けるヴィルヘルム。

 俺のことは無視できてもマンガの内容には完全に気を取られているらしい。

 あ、二巻に手が伸びた。

 せかせかと一巻をシーツの上に放って、無言のまま拾った二巻のページをぱらりと捲る。

 

「……ッ!」

 

 続きを読み始めて早々、ガマンできずに鳴る白い喉。

 あー、うん。その辺の展開読んでて俺もビビったよ。まあ夢中になったらそうなるよな。

 読み進めていくうちにどんどんボロが出てきて、澄まし顔も顰めっ面もできずに流れる展開に合わせて表情豊かになっていくヴィルヘルム。

 なんだこれ、見てて楽しいんだけど。吸血鬼ってなんだっけ。

 あれこれ手を動かしつつ、ちらちら観察してた俺の感想がコレ。

 

 あともう少しで二巻は読み終わりそうなんだけど、さすがにこっちのやることが尽きた。

 家主の俺がいろいろ準備して立ったままで、居候が楽しく座ってマンガ読んでる図は間違ってるだろう。

 そんなわけで俺も休憩。

 手元に夢中になってるヴィルヘルムの隣、散らばったマンガを間に腰かけて、そのままごろんと寝転んだ。

 そしたらさすがに嫌そうにちらっと赤い瞳がこっちを見てきたから、分かってるだろうなと冷めた視線でじろりと見返した。

 いや、俺が床に座るとかないから。これ俺のベッドだし、そもそも俺の部屋だし。

 俺も好きにしていいって言ったからベッドから降りて床に座れとは言わない。さすがにそんなに酷くないぞ、俺。

 意図はきちんと伝わったらしく、さすがに文句を言わずに大人しく引いたヴィルヘルムに満足して柔らかいシーツに顔を埋めた。

 

 ベッドにごろんと寝転がったまま、今度は背中側からヴィルヘルムを観察してみる。

 大人しくしてる上に無視を決め込んでくれてるから好きに見放題だ。

 シャワー浴びてきたって言ったっけ。

 これも首輪の効果なのか、染み付いた血の匂いが薄れたぶん、シャンプーの匂いが仄かに香る。

 それでも、浴びた血の量が膨大すぎて完全には隠し切れない。長時間いっしょにいたらこっちにまで移りそうだ。

 ああ、だとすると客用の布団がダメになるな。血臭が染み付いて他の人に使えそうにないからこいつ専用にするしかない。

 他に使うあてもないし、まあいいか。

 

 猫背気味にまるまった赤い革ジャンの背中。

 それがふと、凄惨な赤い光景の中で見下ろした血溜まりに這いつくばってのたうちまわる姿とだぶる。

 月明かりに照った髪も、外気に晒されていた頬も、首も、指先まで、あんなに身体中赤く染まったのに、綺麗さっぱり洗い流されて今は真っ白だ。

 肌の晒された部分を一つ一つ視線で辿ってみる。

 さらりと流れて人工の光に照る白い髪も、その隙間からのぞく頬も、すらりと長い白い首も、彫刻みたいに整った指先までやっぱり白い。

 雪みたいに、綺麗な白だ。

 じっと見つめすぎたのか、いつの間にかその白さに囚われていて思わず息をのんだ。

 体格が貧相なわけじゃない。俺より背はでかいし、鍛えてるのは間違いない。顔だって俺ほど女顔じゃない。

 だけどその異常なまでの白さのせいで、儚げな印象が強くて、どうしても華奢だというイメージが拭えない。

 そのせいだろうか。

 見目がいいのも相まって、男相手に綺麗だなんて感想しか出てこないのは。

 最初に出会ったときは優男だとそれくらいの感想は抱いたものの、死に物狂いでこいつの風貌に気を取られる暇なんて正直なかった。

 だけど今は 黒円卓(てき)と停戦を結んで命の危機が一旦は遠のいたせいで変に余裕が出てきたんだろう。

 それに加えて、この先のためにこいつを知ろうと思っている。さらに言えば、俺に屈させようと思っている。

 だから、見目とか仕草とかそういう部分に自然と目がいってしまうのか。

 首輪のせいで恐怖を感じない、今は敵と認識しなくていいっていう要素も相当にでかい。

 効果が現れる前の元の人格がそうだったのか、言動が面白かったりするし、からかいがいあるし。

 狂人だと忘れたわけじゃない。決して軽んじているわけじゃないのに、変に親近感が湧きつつある、というか。

 ヴィルヘルムには悪いがそういうもろもろの部分を加味して、最初とずいぶん抱く印象が変わってきている。

 敵だろうとなんだろうと赤い瞳も白い肌も綺麗だと、そういう風にしか取れなくなってきた。

 そんな自分にだいぶ参るが、それしか浮かばないんだからしょうがない。

 そもそもこいつはとっくに人を外れた存在だ。そうなると男とか女とか通り越して美術品でも眺めてる気分に近いんだろうか。

 ああうん、だったらしょうがないよな。

 もうそれで納得することにしよう。

 男相手に綺麗、可愛いは禁句って俺が一番分かってる。

 だから心の中で思いはしても、口にすることはないだろう。

 

 寝転がったまま、すらりと長くて白い首をぼんやり見つめながらそんな葛藤をしているうちに、ページを捲る音がぴたりと止んだ。

 寝転んだ体勢を軽く起こして後ろから手元を覗き込むと、ぱたんと閉じられていて見えた二巻の裏表紙。

 きっちり読み終わったらしい。

 ちょうどキリがいいから、今日はこれでおしまいだ。

 

「こら、ダメだ。続きは明日にしろ」

 

 ひょいっと三巻目掛けて伸びた手に向かってぴしゃりと制止の声をかける。

 起き上がって、有無を言わさずシーツに散らばった残っていた巻全部を手早く拾い集めた。

 まだ持ったままの二巻もこっちに寄越せと手を出したら、寄せた眉根、不満そうな赤い瞳がじっと俺を見た。

 

 ははっ、何だそれ。餌を前にお預けくらった犬みたいだ。

 そんなに気に入ったんならまあいいけど。うちにあるモノを気に入ったっていうのは悪い気がしないから。

 たとえ根っからの化物だとしても、共感できる事項があるってのはいいことだよな。

 マンガとか日本のサブカルチャーの代名詞だし。どこいったんだよ、おまえの 異人種嫌い(ゼノフォビア)

 指摘したら二度と読まなそうなんでもちろん黙っておくけど。

 

 相変わらず黙ったまま不満げに歪む顔。

 それを見返しながら、ふと思いつく。

 もしかしたら餌で釣れるかな。この吸血鬼、犬みたいだし。

 待てができたらご褒美がいるだろう。躾の基本だよな。

 

「ダメだ、この続きは明日読め。ガマンできたらこの続き買ってきてやるからさ」

 

 わざと座り直して向き直った正面、じっと赤い目を見つめて言い聞かせるように告げる。

 だけど、どうだろうな。

 元は手に負えないほど凶暴な野良だった黄金の飼い犬だ。

 今は俺がリードを握っているものの簡単になびくとは思えない。効果なんてないかもしれない。

 だけど煽り文句くらいにはなるだろう。嫌味としては十分すぎる。

 

「……クソが、うるせえなあ。ガキ扱いすんじゃねえよ」

 

 僅かな沈黙のあと、低く押し殺した声を落とした薄い唇。

 どうやら効果はあったみたいだ。

 しかも、餌としても嫌味としても両方。

 諭すような口調が心底嫌だったらしく、俺が部屋に戻ってきてからはじめてまともにヴィルヘルムが喋った。

 そのままぐいぐい押し付けるように戻ってきた二巻。落とさないように受け取って、思わず苦笑い。

 耐えて無言のままか思いっきり声を張るかどっちかだと思ったのに、予想とだいぶ違った大人しい返し。

 だからこそ余計に増す信憑性。

 いや、そもそも最初から隠しきれてもないんだが。

 

 なあ、ヴィルヘルム。おまえそうとう続き気になるんだろ。

 続きなんていらない、買ってこなくていいって、言わないんだな。おまえが否定しなきゃいけないのは、そもそも日本のマンガ好き疑惑だろ。

 ここで反論しておかないと、今まで黙って 無視(シカト)してたのが水の泡じゃないのか吸血鬼。

 

 従ったのは上官命令に基づいた契約のせい。

 そもそもくだらない案件だし、俺相手だと折れるしか道がないのが分かっているから無駄な抵抗は諦めた。

 子供扱いは癪だが、続きを買ってきたいというならまあ読んでやらんでもない。

 ヴィルヘルムの心情はそんなところだろう。ただの予想だが、こいつにしてはたぶん精一杯抑えた対応だったんじゃないだろうか。

 やばいな、もうちょっとからかいたい。

 

「そうか。じゃあ買ってくるのやめるわ」

「って、何でだよ!? 早く買ってこいよ! ……あ゛?」

 

 ついに弾けた大声、素直な本音。

 こいつ、ほんとうにからかい甲斐があって困る。

 

「ははっ。わかったわかった、じゃあ明日な」

「……あっ、あ゛ーッ。ちッ、この糞餓鬼があああ!」

 

 謀られたとばかりに短く喚いて、人のベッドに勢いよくぼふんと顔から突っ伏すヴィルヘルム。

 それっきり力尽きたようにそのままずるずると下がっていった腰。情けなくへたりと床に膝が着いた。

 抗えない上官命令に首輪の効果発動で押さえつけられて暴れるのをこらえた結果がこのベッドダイブなんだろう。

 俺を殴れないしモノも壊したら危ういんじゃしょうがない。ルール違反したら冗談抜きで死ぬからな。

 ほんとうに不憫だな、こいつ。

 

 これはあれだな、ほんとうにおもちゃにされてたんだろうな。ある種の 人格(タイプ)からしたら格好の餌食だ。

 ここまで素直にいろいろ引っかかるのは人間側に存在を寄せる首輪の効果が発揮した結果だと、思う、んだが、なんか俺もちょっとよく分かんなくなってきた。

 

 まあいいや、暇があったら明日こいつについていろいろ聞いてみよう。

 学校に行ったら制服着てるどっちかはいるだろう。停戦中だし話くらいはできるに違いない。

 

 とりあえず、今日はもう寝よう。いろいろありすぎて疲れた。

 晩メシは、あー、もう食わなくていいや。明日でいい。

 こいつは食わなくても平気そうだし、今から用意するのとか面倒くさい。そもそもまともに料理できないしな、俺。

 詳しい現状の把握や情報収集はもろもろ明日にぶん投げよう。疲れてるときは何でも効率悪いし、体力と気力回復のためには寝てしまうのが手っ取り早い。

 狂人だって、いや狂人だからこそ生存に関わるあたりの意見は余計シンプルなはずだ。こっちとたいして差もないだろう。

 

「ヴィルヘルム、今日はもう寝るぞ。そんなわけだからそれ俺のベッドなんで降りろ。おまえはこっち、布団な。

 あといつまで革ジャン着てるんだよ。向こう、壁のハンガー使っていいからかけとけよ。そんで寝る準備がいるならさっさとしろ」

 

 ベッドに突っ伏したまま拗ねたように動かない後ろ頭に、膝の上のマンガを一列にまとめながら指示を飛ばして急かす。

 そしたら床に膝を着けたまま、首から上だけ浮いてぐるっとこっちを向いた白い貌。

 その表情はぽかんと呆気に取られていた。おまえは馬鹿か、とでも言いたげだ。

 いや、そんな顔したいのはわけ分かんない俺の方なんだけど。

 

「はあ? 俺は吸血鬼だぞ、今から俺の時間なんだよ。寝るわけねえだろ、てめえだけ勝手に寝ればいいじゃねえか。

 いいか、俺は吸血鬼だからな。もちろん朝は弱えんだよ。俺がもし寝るとしたらそりゃ昼間だ。

 頭もぼうっとするし肉体の感度もさがる、逆に夜になればありとあらゆる能力が強化される。夜の俺は無敵なんだ。

 夜は俺の世界だ、俺そのものだ。つまり俺が動くなら夜しかねえ。

 だから明るいうちに動いたっていいことねえんだから動かねえぞ。そもそも俺は明るいのが苦手だし、大っ嫌いなんだよ。

 ああ、そんなわけで今は夜だ。

 俺の時間なんだから俺は寝ねえ、てめえ一人勝手にぐーすか寝ちまえよ。わかったか、糞餓鬼」

 

 聞き返すより先にあっさりと理由が飛んでくる。しかもつらつらと饒舌に。さっきまでのだんまりが嘘みたいだな。

 吸血鬼はどうも自分語りが好きらしい。

 しかも俺だ吸血鬼だ、ずいぶんと自己主張が激しいな。

 そういえば神父も快く答えてくれるだろうと言っていた。これはこういうことだったわけだ。

 神父はヴィルヘルムを人間だと断定していた。だとすれば吸血鬼は通名みたいなものかと思っていたが、どうもヴィルヘルムの言い分を聞くと違うように感じる。

 もっと重い。芯からそうだと信じている。自分がそういうものであることに偽りがない。

 つらつらと流れるように語る言葉が訴えてきたのはそういう、真実に近い類のものだ。

 こいつが自称だとしても吸血鬼ということに 誇り(プライド)があって、身体能力もそれっぽいのは分かった。実際見ての通りのアルビノなんだから光に弱い、紫外線の強い朝から昼間かけて調子が悪いことに納得はする。

 だけどそれを俺が認めるかというとまったく別問題だ。

 

 おまえが自称吸血鬼なのは分かった。

 だけど俺は普通の人間を自称してる。いずれ完全に別物になってしまうんだとしても、人間側に立ってる以上は人間としての生き方を見失う気はない。

 だから残念だけどおまえの言い分は聞けないな。

 こっちは健全に人間の生活をしたいんだ。昼夜逆転の吸血鬼の生活サイクルに付き合う理由は俺にはない。

 そもそも夜に何するんだ、俺が寝てからさっきの続きでも読むっていうのか。夜目は効くのかもしれないが側でごそごそされたら邪魔なんだよ。

 おまけに日中ろくに動けないで寝倒して夜に遊びまわるとか、それただの穀潰しニートだぞ。

 働かない奴食うべからずなんで、そんなの俺は認めない。

 これから組んで活動するのに、好んで動く時間帯が噛み合わないとかおまえが俺に使われてる意味ないだろ。

 単独で行動されたら困るんだ。それなのに、なんで俺がそっちに合わせないといけないんだよ。

 おまえに合わせてたらこっちがこれっぽっちも寝る暇がなくて寝不足になるだろう。それじゃあ有利になるようにと配慮された意味がない。

 何日も寝なくても平気なんて、俺はそんな超人通り越して化物な身体なんて手に入れてないんだよ。

 そんな状況で家主の睡眠を邪魔する居候なんて許してたまるか。

 

 ああ、よく分かった。

 吸血鬼を扱うのはやっぱりちょっと面倒くさい。

 これは頼んだレベルじゃ解決しない問題だ。さっきの暇つぶしのマンガとはわけが違う。妥協なんてしないだろう。

 この類の話でヴィルヘルムが折れるわけないのは簡単に想像がつく。そして俺も折れたくない、譲れない。

 ここでこいつが吸血鬼であることはともかく、それに付随するモノを通してしまったら、この先の立ち回りが究極に面倒くさい。

 日中に役立たずを飼う気はないんだよ、俺は。

 吸血鬼と人間の種族間の溝が邪魔をしてる以上、すっぱり解決するにはあの手しかないだろう。

 

 だから迷いなく、俺はそれを行使することにした。

 この際だから、気になっていた事案を全部盛りの大サービスだ。

 

「じゃあ“命令”な。さっそく使うぞ。

 “必要最低限のコミュニケーションを取れ”

 “身の回りの世話をしろ”

 とりあえずこの二つな。絶対守れよ、ヴィルヘルム」

「あァ?

 ――ッう゛!?」

 

 明確な意志を乗せて言葉を紡ぐ。

 これだけは譲らないと気概を込めて、契約に付随した権利を形にする。

 簡潔にそれを告げた直後、不自然に硬直したヴィルヘルムの身体。

 床に膝を着いたまま、伏せた白い貌、苦しそうに息をのむ白い喉。

 身体も精神も逃さず蝕んでいく首輪の命令に、白い指先が堪え切れないように喉を掴む。

 

「あ……ッ、は……」

 

 数秒の沈黙。

 鼓膜が捉えるのは肩を上下させるヴィルヘルムの荒い息遣いだけ。

 

 俺の下した二つの命令が、無事にヴィルヘルムを支配することに成功したらしい。

 締まる呼吸が開放されて、やっと身体に自由が戻ったんだろう。

 ベッドに腰掛けたまま冷めた態度でじっと見下ろしていた俺の視線。

 それが、ふっと見上げてきた憎々しげな赤い視線とがちり激しくかち合う。

 

「おい、俺に何しやがった!」

「何って、当然の権利を行使しただけだ。七つの命令のうち二つを使ったんだよ、ここで。

 一応おまえにも分かりやすく解説するとだ、一つ目の命令はちゃんと挨拶して返事して名前も呼び合う。今度は逃げ道のあるルールじゃない絶対的な命令だ。だから曖昧に逃げられない、もう 無視(シカト)できない。契約の間は最低限それぐらいやってのけろよ。

 二つ目は言わなくったってまあ分かるだろ。日中にサボるのは許さない。寝るな休むなとは言わないがやることきっちりやってからにしろ」

 

 ヴィルヘルムからしたらとんでもない命令だろうが、俺にとっては当然の流れだ。

 最初から言ってることはブレてない。首輪の効果でたとえ相手が人外の吸血鬼だろうが人間の枠にあてはめられたならもっとちゃんと真人間しやがれって言いたいだけだ。

 

 そのついでに、まずは俺に従うことに無理矢理でも慣れさせる。こき使ってやるから練習しろよ。

 黄金にしか折れないと言い切る我が強くて利己的なおまえが殊勝に黄金以外の誰かのために動くとは思えないが、それに近い行動は取れるだろう。

 できれば残り五回の命令なんて使わずに普通に頼まれて素直に言うことを聞いて欲しい。

 そんな態度を取るなんて俺じゃない、魔性の吸血鬼足り得ないとかその手の文句は分かるが言わせない。

 そもそもそういう不条理を無理矢理受け入れさすためのモノだ。おまえが自らできないことをさせたいから命令して従わせるんだ。

 だとしたらおまえが反感を覚えるような内容なのは当然だろう。

 

 俺の答えを聞くなり、間髪いれず部屋に響いたヴィルヘルムの怒声。

 それに怯むことなく真っ向から立ち向かう。

 

「このッ! アホか、そんなくだらないことに命令使うんじゃねえよ!」

「うるさい。くだらないかどうかは俺が決める。そもそもお前のいうくだらなくない命令って一体何なんだよ?」

「馬鹿が、そんなの戦闘に関するもんにきまってんだろ! 敵を殺してこいとか、もっと極まった場面で使うもんじゃねえのかよ!?」

「はぁ? 馬鹿はおまえだろう。そんな当たり前のことに命令使ってどうすんだよ。おまえは俺が頼まなくったって、勝手に敵を殺ってくれるんだろ?

 俺が命令しなきゃできないのかよ。そもそもおまえ、俺にそういうスキルを仕込むためにこっちに派遣されたんだろうが。そのための停戦協定だろ。

 俺はただの学生なんだよ。おまえみたいに戦争屋じゃない、戦闘なんて本分じゃないんだよ。

 そんな俺がその分野で偉そうにおまえに指示なんかするわけないだろ!」

「何だあ、指示しないってどういうっ――、……あ?」

 

 鋭く発展した言い合いの果て、整った白い貌がぴくりと歪んだ。呆気にとられてあんぐりと口が開いて晒された間抜け面。

 呆れたいのはこっちだ。こいつ、何を勘違いしてるんだ。

 仕方なく、俺の考えを理解させるために言葉を続けた。

 

「あのな、そこら辺に関しては経験値の高いおまえの意見に従うし、素人なりに違うと思ったら歯向かったりするかもしれない。

 だけど、やっぱりその辺の知識とか勘とかはおまえの方が上手だと思うから最初から好きにさせる気だったよ。

 おまえの強さは嫌ってほど叩きこまれたんだ。変な話、信用してんだよ、そこんとこ。

 だからそんなことに命令使うなんてやっぱり馬鹿げてるって。それともおまえ、意趣返しに敵と戦わないとか、わざと不利にもちこんだりとかするつもりか?」

「はあッ!? するわけねえだろう! てめえに命令なんぞされなくったって向かってくる奴全部ぶっ殺してやるよ! そんなまどろっこしい真似するわけねえだろ!」

「ああ、だよな。だったらやっぱり、こういうことに使った方が有意義だと思うぞ。

 向こうの陣営はどうか知らないけどこっちは契約を交わしている間だけはチーム戦なんだ。

 不本意だってのは分かるけど、足並み揃えて貰わないと俺だって困るんだよ。意思疎通は基本だろう。へたな柵持ってる場合じゃない。じゃないと背中預けて戦えないだろうが」

 

 呆れながら吐いた言葉に、ぴくりと白い眉が跳ねる。白い貌が信じられないという表情で固まる。

 困惑に、か細く潜められた声が届く。

 

「……おい。おいよお、それ本気で言ってんのか? 俺に背中を預けるだと?」

「ああ、言ってるぞ。だっておまえ、俺に吠えたろ。絶対に契約やりきってみせるってさ。

 つまり本気で俺に味方してくれるんだろ?

 忠誠誓ってるんだもんな、中途半端なことなんかしないだろ。

 俺はさ、おまえはいろいろ危ない奴だけど、その忠誠心に関しては信じてもいいと思ったんだ。

 だから、突っぱねるつもりだったけどわざわざ意見変えて契約したんだよ。

 ――なあ、ヴィルヘルム。その意味、分かるだろ?」

「……――」

 

 それに堂々と言い返した。嘘は、何一つなかったからだ。

 狂人だと知っている。だけど目の前でまざまざ魅せつけられたその一点に関しては、信じていい。

 そう思ったのは本当だ。

 形のいい唇は微かに開いたまま、小さく吐息をこぼしたきり動かない。

 赤い瞳が真意を探るように真っ向からじっと注がれる。

 本心だからな、どんなに探られたってこっちは揺らがない。そんな瞳してこっち見たってヴィルヘルム、俺の意志は変わらない。

 命令を撤回したりしないし、そもそもそんな術は用意されていない。

 契約の首輪に受諾されて効果が発揮した以上、俺の命令をおまえは絶対に覆せない。

 だからおまえはやっぱり、 命令(おれ)を受け入れるしか道はないんだ。

 

 探るような視線が、やがて確信を得て確かめるような色に変わる。

 じっと視線を俺に注いだまま考え込んでいる素振りがすっと断ち切られた。

 こいつなりの結論がでて、心に折り合いがついたんだろう。

 諦めたように、ふっと床に落ちた赤い瞳。

 けれどそれは一瞬だけ。

 すぐにまた赤い瞳は俺を捉える。

 真っ直ぐに逸らすことなく向けられた白い貌。浮かぶ表情に感じたのは、確かな覚悟だった。

 

「――そっちの言い分は分かった。癪だけどよ、そう言われちゃ仕方ねえよな。

 くだらねえって言ったのは、俺が悪かったよ。

 それと契約交わしてる間だけは不本意だがどんなもんだろうとそっちの命令に従ってやるし、俺の力が必要なら貸してやる。それでいいだろ?」

 

 ぎゅっと寄る眉根に細められた赤い瞳。

 そこに俺を映しながら、真摯な響きを乗せて届く声。

 それは自分の非を認めて、俺に使役されることを改めて誓う言葉で。

 

 正直、驚いた。

 俺相手にこんな素直に謝るとか予想外だ。もっと意地の張り合いみたいな言い合いが続くと踏んでいた。

 受け入れるしかないにしたって、もっと嫌々従わせる羽目になると思っていたのにいい意味で裏切られた。

 これが本人の元の性格なのか、首輪による効果が上乗せされているのか正直判断はつかない。

 だけど、どうだったとしても謝罪があったのは、俺への歩み寄りがされたのは事実で。

 ヴィルヘルムにしたら、最大限の譲歩に違いない。歪なはじまりを思えば十分過ぎると思う。

 

「ああ、なんていうか俺も一方的に命令して悪かったよ。聞き入れてくれてありがとな、ヴィルヘルム」

 

 コミュニケーションを円滑にしろって命令したのは俺だ。

 判断基準は俺にあって、それならそもそも俺が手本にならなきゃダメなわけで。

 命令の強制力を度外視して自分の意志で俺に従うと折れてくれたヴィルヘルムへ、目の前の展開に少しだけ面食らいながらもそう声を掛けた。

 謝罪こそしたものの強情なこいつのことだ。

 そうは言ったって不本意に違いはなく、そこまで態度が軟化することはない。

 飛んでくるのはどうせ悪態だ。俺からの礼なんていらないと可愛くない態度を見せるだろう。

 それ以外ない、そう思った。

 それなのに、また予想は裏切られたんだ。

 

「おう、別にいいぜ。そもそも命令なんて基本そんなもんだ。大半が望まねえ不本意なことを押しつけられる。

 下す相手に惚れてるんでもなきゃ、当たりなんてろくにねえよな。

 長い間 平穏(ヒマ)すぎてなまってたんだろう。基本的なことをすっかり忘れてたぜ」

 

 ひょいと肩を竦めて、饒舌に言葉を紡ぎだした薄い唇。

 さっきまで大事そうに抱えていたはずの柵をどこかへぽいっと放り投げたみたいだ。

 まるで旧知の知人に軽口でも叩く素振り。

 

 相手は狂気の塊だ。常人なら側にいるだけで気が狂う。

 それなのに本来なら溢れて拭えない殺意も異人種への嘲りもあっさりと霧散してしまっている。

 歪まされてはいたしそういう手合だからと気にしてもいなかったが、同じ化物に片足突っ込んだ俺にはさっきまではもう少し明確に感じれていた。

 それなのに、相対する気配はずいぶんと気軽でまるでそこら辺にいるチンピラ同然。

 外せない首輪についに限界まで削られてしまっただけでまるきり消えたわけじゃないんだろうが、それにしたってがらっと変わった気配に驚く。

 契約の間は自らの意志で俺を害さない、手を貸すと、そうヴィルヘルムが決めただけでこんなにも違うんだな。

 もちろん契約が切れた途端に出会った当初のとんでもない害悪に元通りだろうから、絆されたりとかはダメだ。

 契約が終わったらお互いに柵は取り戻されて、魂が擦り切れるて満足するまで殺し合うとと 確定(やくそく)している。

 そこだけ気をつければ、ヴィルヘルムの態度の軟化でこの先とてつもなくやりやすくなったんじゃないだろうか。

 その証拠に俺から振るより先に、前向きな吸血鬼の方から質問がするっと飛んできた。

 

「ところでよお、命令って言われたって具体的にどうすりゃいいんだ?

 あの解説じゃまだよく分かんねえ。特に二個目が抽象的すぎてどうすりゃいいかさっぱりだ。

 知らずにスルーしてペナルティ喰らうなんざこっちはうんざりだぜ。破りそうになると身体ぞわっとすんだよな」

 

 喋りながら、大きく伸びを一つ。

 硬直していた姿勢を崩して、床に投げ出された長い足。

 だらんとヴィルヘルムの革ジャンの背中がベッドにもたれかかる。

 ベッドに腰掛けたままだから俺の位置から、形のいい頭に白い旋毛が見える。

 

 本当に前向きだな、こいつ。

 現状に芯から納得した途端、人の部屋で完全にくつろぎだしたぞ。

 身体から滲む気配が遊びにきましたってノリに近い。

 どうしても拭えない近所のチンピラ感。

 学校でマレウスに感じたみたいな、無害な振りして裏で何か考えているような怪しい気配や素振りがこれっぽっちもない。

 俺にどうこうされるとかこいつからしたら考えられないってのもあるだろうけど。

 威嚇されたり警戒されたりするよりはよっぽどマシだけど、それはちょっと軽すぎじゃないだろうか。

 単純に何も考えずにくつろいでるぞ、これ。

 この異常な契約にこいつが誰よりも適していると評価した神父の正しさを目の当たりにした気分だ。

 ヴィルヘルムからしたら期間限定で俺を認めて受け入れてやったってことなんだろうけどさ。

 

「あー、こうして普通に喋ってりゃとりあえずはいいんだろ?

 それ以外は何して欲しい? 俺に何をさせたいんだよ?」

 

 返事を求めて、ふるっと上向いた白い顎。

 逆さまに見える白い顔。赤い瞳がちらりと俺を掠め見る。

 長い前髪が横に流れて、普段隠れ気味の額が綺麗に晒される。

 

 この状況だけ見たら、ほんとうに無防備すぎて前向きすぎる吸血鬼がちょっと心配になった。

 ああ、今この場で俺が力でどうこうとかいう話じゃないからな。

 いくら俺が異能を使いこなせない非力で相手が太刀打ちできないくらいの強者だからって、精神的な面は話がまったく違うだろう。

 頼むから変なのに騙されたりとかしてくれるなよ。

 頭は悪くないのに根が真っ直ぐ素直だから不安だ。いつか思いっきり性根が悪いのに騙されそう。

 だけどまあ、それがこいつの長所な気がする。それでそういう部分、俺は好ましいからまあいいか。

 こういう性格してなきゃ、そもそも俺に組みするなんて関係が破綻してできない。騙そうと目論む相手は良くても俺が信用できずに受け入れられないって問題が勃発するからな。

 組んでる間はこいつよりは騙されにくそうな俺の方が周りを見ててやれば問題ないだろう。

 そんなことを考えてるなんて知ったら、非力のくせに上から目線だと憤慨するだろうからもちろん黙っておくけど。

 

「さっき言った通りだよ。そうやって普通にしててくれたらそれでいい。変に構えられるのがやり辛くて困るってだけだ。

 あとは、メシ食うとき寝るとき出掛けるとき普通に挨拶して、呼ばれたら普通に返事して。

 そういう人付き合いの基本をこなしてくれればいい。人間やってたことあるならできないわけじゃないだろ?」

「できなくねえけどよ、正直人間やってた頃もそういう教養じみた部分、俺はきちっとやってたかって言われりゃ微妙だぜ。なんせ貧民街生まれの殺人鬼だからな。

 まあ要はおまえを 友達(ダチ)扱いしろってことか。

 かはっ。ほんとどういう異常事態だよ、こりゃ」

 

 仰け反ったせいで余計に長く見える白い喉が、愉快そうに低く笑うたびに震える。

 友達とか、人外の吸血鬼からそういう表現が飛び出してくると思ってなくてまたちょっと面食らう。

 たとえ血塗れの殺人鬼だったとしても、元が人間である以上そういう概念はあるんだろう。

 もちろん相手の異常性を思えば、こいつの言う友達を俺が思っているのとまったく同じ意味に取れるかは疑問だ。元のこいつは友達だろうが肉親だろうが平気で殺しそうだしな。

 友達って言う表現は概ね間違ってないけど、正解からは少し外れる。

 元々あからさまな敵で、いずれ別れて殺し合うのが確定している以上、仲間とかそういう類も違う。

 一番近いのはやっぱり居候だろう。二個目の命令を鑑みるに。

 そうじゃなきゃ使役してるんだからやっぱり 飼い犬(ペット)だ。

 

「そんで、二つ目はどうなんだよ?」

 

 持たれていたベッドから身体を起こしながら、先を促す質問が飛ぶ。

 身の回りの世話をしろ、か。

 正直そっちの命令は一つ目の命令の副産物だ。

 あんまりにもこいつが強情そうだから、俺の指示を聞かせる練習にと思って仕掛けたものだった。

 それが、己の意志で認めきってしまえば意外と自主的かつ素直に指示をきくってことが判明したわけで。

 もちろん契約の制限がなかったらこんなこと頼んだ時点で俺は怒りに頭が沸いたこいつに惨殺されてるだろう。

 何の因果か、今はどうして欲しいのか積極的に問われてる始末。

 命令である以上、何を頼んだって実行しようとするだろう。こいつ、やるって言ったらやる奴だから。

 挙句、比喩でも何でもなく命が懸かってるんだしな。

 

「そうだな。俺が学校行ってる間に適当に家事しててくれ。

 とりあえず明日は洗濯して風呂掃除しといて、掃除機も。あとメシ作ってくれよ、朝メシ。何も食ってないからそろそろ限界」

「……おい、おまえ俺を何だと思ってんだよ。家政夫扱いすんじゃねえよ」

 

 床に足をだるそうに投げ出したまま、じろりと振り向いた赤い瞳が俺を睨みつける。

 だけどそれも恒例行事みたいなもんだろう。

 その証拠に俺の口振りが嫌だっただけで、家事をやらない、命令を聞かないとは一言も口にしてない。

 それさえ俺が分かってやっていれば十分だろう。

 こいつの性格や反応についてだいぶ理解できたからもう喧嘩にすらならない。

 

「身の回りの世話ってこういうことだろ。それに家政夫扱いはしてない、居候扱いはしてるけど。人の家に住むんだからそれくらいしろよな。

 それともそういうことはしたことないか? 家電もまったく使えないとか? 

 ああ、やっぱりおまえには荷が重すぎたか。

 そうだよな、悪かったよ。おまえがそんなのできるわけないよな。

 料理してるところとかさっぱり想像つかないもんな、どう考えても無理だよな」

 

 あからさまに溜息をついて、ヴィルヘルムを煽る。

 単純だからな、こいつ。

 馬鹿じゃないから挑発だって分かってるだろうけど、こういう返ししかできないところが不器用だ。

 案の定、増した苛立ちに赤い瞳がいよいよ険しく細まる。

 

「ああ? てめえ馬鹿にすんなよ、家事くらいできる。

 俺はてめえよりだいぶ長生きしてんだ、いっしょにすんじゃねえ。望み通りきっちりやってやるよ、俺の家事スキルの高さ目の当たりにしてビビりやがれや!」

「それならいい、あとは任せた。

 もし家電の使い方分かんなかったら教えるから壊す前に聞いてくれよ。

 じゃあ出来る範囲でいいからぼちぼち頑張ってくれ、とりあえず上手いメシ期待してる。ちゃんと人間が食えるもん作ってくれよ」

 

 家事ができる、きっちりやる。

 売り言葉に買い言葉だが、ヴィルヘルムの言質を取れたのでもう問題なし。

 別に誓わせなくても命令な以上渋々やるだろうが、本人を焚きつけておくと家事の出来が違うだろうからやってみた。

 仕掛けたくせに乗ってこなかった俺にこっちの目的を察して、悔しそうにふるふると肩を震わすヴィルヘルム。

 これで適当に家事できなくなったな、ご愁傷様。

 せめてもの救いにおまえの家事スキルとやらまったくこれっぽっちも期待しないでおいてやるからそれで収めてくれ。

 無理しなくていいぞ、どうせ勢いだったんだろ。

 普段からちまちま家事してるおまえとか想像したらこっちが吹くわ。っていうか、ちょっと想像してみてガマンできなかった。許せよ、ヴィルヘルム。

 

「ああ、クソ! 笑うんじゃねえよボケ!

 いいぜ、そんなら期待して待ってやがれや、この糞餓鬼があ!

 全部終わったら本気で跡形もなく串刺して吸い殺してやっから覚悟しろ。マジでブチ殺す!」

「分かったよ、覚悟しとくって。それで逆にきっちりおまえの息の根止めてやるから安心しろ。

 とりあえず、明日起きたら七時に朝メシな。ちゃんと早起きしろよ。うちにあるものは好きに使っていいからさ」

「へーへー。わかりましたよー、死ね晒せや御主人サマよお」

 

 不貞腐れた声をあげて、不満そうにヴィルヘルムが立ち上がる。

 そのままだらだら歩いて、壁際へ。

 何をするのか見ていたら、ひょいっとハンガーを手にとってずっと着ていた革ジャンを脱いで掛けた。

 そのまま部屋の角に置いておいたトランクの側へ。

 ばかっと豪快に開いて中を物色しだす。

 

 なるほど。一応ちゃんと人の話聞いてたんだな。

 言いつけ通りハンガー使って、面倒くさそうに寝る準備をしだすヴィルヘルム。

 

 それなら俺も準備しようと、片付けるタイミングを逃してずっと膝の上にあったマンガ本の山を片付けることにした。

 明日続きを読むときに探しやすいように順番を揃えてから棚にしまい終わったころ、振り向くと着替え終わってすっかり準備の整った吸血鬼がトランクの蓋を閉めたところだった。

 

「……っ、ふ」

 

 しゃがんだままこっちを振り向いた姿勢が、もうダメだ。そのしゃがみ方はアウトだって。

 何だか俺と似たげで楽そうなスウェットの上下を着た吸血鬼が、やっぱりどう見ても遊びにきた近所のチンピラにしか見えなくてガマンできずに笑いそうな口元を隠す。

 チンピラは国境越えて万国共通かよ。おまえほんとうにブレないな、いろいろと。

 

「んだよ、どした?」

「あ、いや。何かお互い変なことになったよなあと思って」

「ああ、まったくだぜ。っていうかよお、おまえ俺が横にいて寝れんのか?

 寝首掻かれたらどうすんだよ、俺がどんな 存在(モン)か忘れたわけじゃねえよな」

 

 敷いてやった布団までずかずか大股で歩きながら、にやりと意地悪く口元を吊りあげる。

 俺をからかいたいヴィルヘルムには悪いが、それには乗ってやれないな。俺と言い合って愉しみたいならもっと 話題(ネタ)は選ばないとダメだろう。

 

「寝れるぞ、問題ない。だっておまえ、そんなことしないだろ。

 そんな風に騙し討して俺を殺したって満足しないし、したところでおまえには何一つメリットはない。おまえは俺と満足するまで殺し合いたいんだろ?

 だから信用してるぞ、ヴィルヘルム」

「けっ、言ってろ糞餓鬼。俺の隣で寝れるなんざてめえもそうとうイカれてるぜ。アホな寝顔拝んでやっからさっさと寝ちまえ」

 

 俺に――いつか殺すべき相手にヴィルヘルム・エーレンブルグという男を間違って認識されていないことが思いの外良かったんだろう。

 それ以上絡んでくることはなくけらけらと愉快そうに笑って、ばさりと捲った布団の中に白くて細い身体が潜り込む。

 

 俺との間に線引をするように、ベッドに向けられたスウェットの背中。

 さらりと流れる白い髪。

 掛け布団からはみ出した白い首筋が、規則正しく呼吸に上下する。

 言いつけ通りに寝る態度を見せた吸血鬼の背中。

 この状況に持ち込むまでずいぶんと長く掛かった気がする。そもそも今朝は、こんな異常事態になるなんて想像もできなかった。

 いや、そもそも魔人が争う戦争に駆り出された時点で日常から掛け離れて、何一つ想像なんて追いつかなくなっている。ただの人間ではいられなくなっている。

 想像のできない未知の領域に踏み込んでしまったというなら、この先はもう目の前で起きる事態をできる限り冷静に的確に対処して、後悔のないように立ち振る舞うしかない。

 陽だまりの日常を守りたいんだ。一度失ったらもうこの手には戻らないと知っているから。

 だからこそ俺は大切なものを取りこぼさないように必死に守る。

 そのために、戦う。

 その果てに、こいつとも魂を懸けて戦うことになるだろう。

 だけどそれはまだ先の話だ。

 俺にはまだやらなくちゃいけないことが山積みだから。

 本来なら敵であるはずのこいつに力を借りてでも、まずは魔人と同じ土俵に立たなくてはいけない。

 血飛沫舞う凄惨な戦争を求められているのに、戦えないようでは話にならない。俺が黒円卓にとって 獲物(てき)として機能しなければ、日常を守れなくなる。

 だから、力が欲しい。俺に必要なのは戦うため――大切なものを守り脅威に抗うための力だ。

 明日からはきっと、それを身につけるためにすべてを懸けることになるだろう。

 だから今日はもう寝よう。

 明日のために俺もヴィルヘルムも休息が必要だろう。

 

「おやすみ」

 

 照明を消して、ベッドに戻る。

 布団に潜りこみながら、寝転ぶ間際に背中を向けた吸血鬼におやすみの挨拶を。

 そういう 命令(やくそく)だから俺だって守らないといけない。

 

 暗闇の中で掛けた声に、布団が大きくもぞりと動く。

 そういえば、ルールや命令に抗おうとすると背筋が寒くなるとヴィルヘルムが言っていた。

 布団の中でちょっとだけ葛藤したのかもしれない。

 

 しばらく沈黙。

 枕に頬を埋めて離れた場所に寝転がる背中を眺めたまま大人しく待つ。

 するとまた布団がもぞりと動いて。

 

「ん。レン、オヤスミ」

 

 掠れたような小さな声が俺の鼓膜に微かに届く。

 びっくりして、ちょっと枕から顔をあげてしまった。

 視界の先には布団の中でまたもぞりとした吸血鬼。もしかしてもしかすると照れたりしてるのかもしれない。

 ここで名前まで呼ばれると思ってなくて、自分からそういう命令をしたくせに何だかちょっとこそばゆくなる。

 不意打ちは卑怯だぞ、ヴィルヘルム。

 もぞもぞと布団の中で葛藤していたのはどう挨拶するかじゃなく名前を呼ぶかどうかだったんだろう。

 たぶん命令されてからずっと呼ぶタイミングを図ってて、俺に急かされたら悔しいからどうにかしたくて足掻いた結果がこれだ。

 負けん気発揮して前向き。

 いいと思うぞ、そういうところはやっぱり好意的に見れるから。

 

「ははっ、また明日なヴィルヘルム。上手いメシ期待してるぞ、おやすみ」

「うるせえ。さっさと寝ろボケ」

 

 一度呼んだらすっきりしたんだろう。

 さっきより張った声が気持ちよさそうに悪態をつく。

 暗闇によく通る声にまた笑って、枕にまた頬を寄せた。

 一つ目の命令はこれで全部クリアだろう。

 初日にしては他人に屈するのが大嫌いな吸血鬼がずいぶんと頑張ったんじゃないだろうか。

 明日はさっそく二つ目の命令の遂行に励んでもらうとしよう。

 

 突然訪れた予想外な吸血鬼との共同生活。

 初日の成果に満足して目を閉じる。

 前途はどう考えても多難だけど今晩は楽しい夢が見れそうだ。

 きっと吸血鬼が悪態つきながらちまちま家事をしてる夢になるだろう。正夢になるんだから笑っちゃうよな。

 明日のことを想像したら面白くて、布団の中でくつくつと零れた忍び笑い。

 それが疲れた身体に心地よく響いて、微睡みはじめた意識がゆっくりと深く眠りに沈んでいった。

 

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