Methuselah:Kaziklu Bey 【ヴィルヘルム×クラウディア】 ※イカベイ時期のエピソードのみ抜粋   作:桜月(Licht)

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ベイ中尉の誕生日2017ver.です。時系列は本編開始前の双頭鷲襲来後くらいです。
ヴィルヘルムの長い生涯で、誕生日の夜にたった一度だけ起きた小さな奇跡のお話を書きました。
 


生誕の日【ベイ中尉誕生日SS2017】

 

【生誕の日】

 

§Side Wilhelm

 

 乱暴に身を預けた布張りのソファーが立てた、ぎしりと軋んだ音。ここでいいかと適当に当たりをつけて潜りこんだ空っぽの他人の家で、固い肘置きに組んだ足を放り出す。浅く息を吐いて視線をずらせば、背もたれと隣り合った壁に埋め込まれた四角い窓。単調でくすんだ色味の布地のカーテンが味気なく垂れている。うっすらと開いた隙間から見えた、縦長に切り取られた外の世界に目を凝らした。

 ガラス一枚隔てた向こうに満ちた黒い夜、それに映える色鮮やかな照明の色が建ち並ぶ建物の隙間から溢れ、眩しくちらついていた。人工的な照明が、まるで星のように見える。沈んだ太陽に世界が暗く反転しても蠢き続ける脆弱な魂は数多く、階下に広がる景色の中に喧騒を生み出していた。

 夜になっても明るく眠らない街に存在が霞んだのか、切り取られた四角の高い位置に掛かった月が随分と遠く小さく映る。

 

「……はッ」

 

 乾いた嗤い声が喉から溢れた理由が上手く掴めず、妙な気分に陥った。どこか納得のいかない気持ちを抱えたまま、ふいと視線を暗い部屋の中に戻す。手持ち無沙汰でやるせなく腹の上に置かれた指先がやけに白く映った。

 今夜は喧騒の中に身を置く気になれず、一人でいたい気分だった。そう思い立った空間を、周りから雑多な魂を追い払って望む形に作り変えるのは容易かったが、そういうのとは少し違う気がして扉を潜り階段を昇って地上(そと)に出た。それが叶う場所を探して、街中をふらりと徘徊した。踏み込んだことがなかった土地勘のない場所ばかりをジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま適当に歩き続けているうちに辿り着いたのは、暗がりの街並みの中で偶然に目についた年季を感じさせる古ぼけた外装のアパートだった。

 部屋数はそれなりにある割に、這った蔦とひびだらけの壁の向こうのどこにも住人の気配一つないのが気に入った。人が住んでいないわけじゃない。お誂え向きにその時だけは、運良くもぬけの殻だった。暇つぶしがてら正面に見えた部屋に微かに残った住人の残滓を辿ってみれば、数日前でふつりと途切れていた。たまには一人で静かに夜を明かしたい、その望みを叶えるのに都合良くちょうどいい塒が見つかって良かった。

 こういうときの勘が外れることはないだろうと機嫌良くカンカンと乾いた音を立てて外階段を昇り、適当な階で足を止めた。規則正しく並んだ幾つかの扉、そのうち一つを無造作に選んだ。

 どうせ適当に時間を過ごすだけだと乱暴にドアを蹴破りずかずかと中へ進んでみれば、あっさりと辿り着いたリビングに休むのにちょうどいいソファーがあったもんで腰を落ち着けて今に至る。

 重力で垂れた厚い布の隙間から差し込んでくる明かりこそ眩しく鬱陶しいが、表通りから離れて奥まっているおかげだろう。耳障りになるほどうるさくはなかった。

 

「……ン?」

 

 ふと、鼓膜をつく微かな物音に気付く。聴覚が捉えた音を辿ってみれば、行き着いたのは壁際に据えられた小振りの棚だ。その天板の上に、丸く簡素な造りの置き時計があった。

 肘置きに乗せた首だけを傾けて、家主が不在でも律儀に時を刻み続ける文字盤に目を凝らす。

 あと少しで短針と長針が重なりそうだ。体感でも探ってみるが、狂いはなさそうだった。

 もうすぐ日付が変わるなと独りごちて、けれどそれがどうしたと視線が床に落ちかけたが気が変わった。置き時計の隣、暗がりの中に立つ小さな四角い形を見つけたからだ。逸れ掛けた視界の端にちらりと映った四角いそれは、簡素で味気ない装丁の小振りのカレンダーで。並んだ小振りの丸と四角を視界の中に鮮明に捉えたところで、微かに呻き声に似た吐息が唇の端から漏れる。

 どちらも人間が円滑に暮らそうとするなら要るものだろう。そこにあることに違和感はない、並びだってよくある組み合わせだ。ただ、だからこそ別段面白くもないものに目が行ったことが不思議だった。漏れた吐息は妙な気分に陥ったせいで、気になったことに意味でもあるのかと訝しみ、規則正しく並んだ数字を視線でなぞってみる。

 日付なんて普段はろくに気にしない。公私問わず、誰かと会う用事でもなければ必要がないからだ。せっかく気が向くまま愉しんでいる自由な暮らしだ。日付だの時間だの、その手の細かく面倒なものに縛られる気はさらさらない。

 吸血鬼の俺にとって大事なのは、今が昼か夜かどうか。大雑把ではあるがそれに尽きる。

 そして黒円卓に存する俺にとって大事なのは、四半世紀を切った約束の時に出遅れないどうかだ。極東の地を血祭りに染め上げ、黄金錬成を完成させる。そのためにこうして待ち惚けを食らい続けているわけで、それさえ把握していれば他はどうでもいいし、どうとでもなる。待ちくたびれた挙句に遅刻するなんざ格好悪くて目も当てられないからな。

 約束の地を円滑に整えるのに力を貸せというのなら、こっちが指折り数えて待っていなくとも向こうから呼び出しが掛かるだろう。こないだだってそうだった。ちょっとは大暴れできるかと多少は期待して出向いた割にその期待は見事にすかされて、約束の時を迎える前に団員が欠けるという予想外の結末になった。

 月日は流れ、事態は動いている。緩慢ではあるが、約束のときは確実に近づいている。我慢なんて性じゃない自覚はあるが、それでもこれまでの永い時間を耐えてきた、そういう自負がある。あともう少しだ、しかしその少しがとてつもなく長く退屈に感じる。

 持てる力を揮えと乞われるまで耄碌せず、溜め込める限り魂を喰らって蓄え続けていればいい。そうと分かっちゃいるが、堪え続けてきた癇癪が爆発しそうだなという危惧がある。さっきも言ったが、我慢も退屈も柄じゃねえんだよ。毎度、適当な戦場で暴れてはうさを晴らしてきたものの、派手に暴れすぎてさすがに同胞から灸を据えられた。後処理を見据えてもう少し上手く立ち回れという小言は聞き飽きた。個人的にはそんな助言はガン無視したいところだが、事情をそれなりに鑑みるくらいの頭はあるもんだからそうもいかない。団員の立ち振る舞いの是非が我らの悲願を成功に導くのだと、黄金錬成の成否を引き合いに出されちゃあこっちにゃまともに反論する言葉もない。

 もう少し時期が近づけば実感も湧くんだろうが、生憎と焦燥と退屈が勝っているんだから気が滅入る。待ち望んだ瞬間を指折り数えて待つにはまだちと早い。

 あまり暴れ過ぎるなと灸を据えられちゃいるが、こっちは逃げも隠れもしちゃいないんだ。存在は臆することなくあからさまに世界(てき)に向けて曝されている。仕掛けられたら迎え撃つのは当然として、それくらいしか滾る血を鎮める手段がないことにまた辟易する。欲に塗れてのらりくらりと昂る破壊衝動を騙し騙し生きながら、真に欲するその瞬間が訪れるまで、ひたすら退屈に喘ぐしかない。そうなると、退屈を潰すための手段を模索しないとやっていられない。どうしてか目についた他愛ないものに意識を傾ける気になったのも、その一環だろう。

 気を引かれたことに意味はあるのか。あるとしたなら、それは何なのか。

 さて、今日は一体何日だっただろうかと暇潰しがてら規則正しい数字の羅列と答えになりそうなここ最近の記憶を引っ張り出し、照らし合わせてみる。

 大まかな日付くらいは分かっちゃいる。いくら興味がないからと、そこまで耄碌しちゃいない。

 既に、七月が始まってしばらく経っただろうが、まだ初旬あたりだろう。それくらいの夜しか越えていない気がするが、今からまた一つ日付(よる)を跨ぐわけで、そうなると関わってくる数字は二つだ。それならばと、正しい解答(きょう)の一歩先の数字(あす)を探す。答えがあると分かりきっていれば見つけ出すのは簡単だった。

 簡単過ぎてろくな暇つぶしにならなかったなと肩を竦めて当たりだと踏んだ数字で目を止めたが途端、脳裏をざわついた微かな違和感にきゅっと顎を引いた。

 

「……アア、何だっけなア?」

 

 七月十日。その数字に、見覚えがあるような気がする。どこかで誰かに何かを言われたような気もする。

 ほんのすぐそこまで答えが出かかっているような気が確かにするのに、その先を考えたくないような考えたいような変な心持ちだ。表現しがたい複雑な胸の内に手を伸ばしてみて、今夜はどうしてかあれこれ妙だと己の怪訝さに独りごちる。

 結局、掴めそうなものを掴まないのは負けたようで気分が悪いと結論付けて、喉元まで出掛かっている答えを手繰り寄せてみることにした。

 腕置きにだらしなく預けた頭で薄暗闇に広がる天井を仰ぎ、その体勢のまましばらく考え事に没頭する。

 俺に声を掛けたのは誰だったろう、そいつに何を言われただろう。気掛かりな数字の羅列に関わった他人の面影、答えを見つける取っ掛かりになりそうなのはそれだと踏んで、吸血鬼(おれ)に関わろうとする物好きの顔を数人ほど思い浮かべてみる。脳裏に並べた気の狂った怪物の面をぞろりと並べてみてやっと掘り返した記憶と数字の羅列が一本の線で繋がった。途端、背筋を這うようにぞわりと湧き上がったのは強烈な不快感だ。

 意味を忘れて、錆び付いていた数字。たいして重要じゃないからと脳裏の片隅に乱雑に放っていた。そのせいで答えに辿り着くまで時間が掛かったが、いっそのこと辿り着けない方がまだましだっただろう。腹に溜まっていく苛立ちに、顔を顰めて小さな四角い紙に刻まれた二桁の数字を睨めつける。

 ああ、そうだ。そうだった。

 七月十日はこの魂が、半端な肉体を伴って昼と夜が同在する憎々しい世界に生まれ落ちた日だ。どうでも良すぎて一々覚えていやしなかったのに、思い出したせいで馬鹿をみた。

 年齢一つでうるさく騒ぐ女子供じゃあるまいし、そもそも己の誕生日なんてものに興味がない。生まれた正式な日付だって、それこそ黒円卓の団員になってから知った。やれ手配書だなんだと、好き放題振る舞ううちに気がつけば出来上がっていた逸話に添えられて毎度ご丁寧に書かれたその数字は個人を特定するだけのもので、俺が世界の敵に相違ないと証明するくらいの役割しかない。

 それこそ、汚い血で繋がった母親の股ぐらから這い出た日より、過去を清算し怪物として自ら生まれ直した日のほうがよっぽど正しく生誕の日と言えるだろう。

 ああ、今夜はやっぱり妙だ。どうしてか、俺は選択を間違ったらしい。冴えているようで、冴えていない。絶妙な加減で勘を外している。

 それを防げる分岐点に気付く違和感はあったはずだ、覚えがある。負けた気分になるからと変な意地を張らず、汲み取った微かな違和感に従って日付の意味を探るのはやめて遠ざけておけばよかったんだ。

 悔いたところで、もう遅い。都合よく忘れていた生誕の日をまさか迎える直前に思い出すとは。

 刻一刻と迫る日付に紐付けられた意味を考えるだけで腸が煮えくり返る。どうしてか、それはこの身体に絶えず流れ続ける畜生の血ほど不快感を煽るものが世界にないからだ。

 この身体は、気色が悪い。幼い頃に根付いた肉体への嫌悪はどれだけ年月を重ねようとも拭えない。それどころかまるで枷のように絡みつき、色濃くどろりと粘つき溜まっていくばかりだ。

 獣のように交わる二つの身体をぼんやりと眺めていたある時に、小さな掌に走った震え。それは一瞬にしておぞましさに変わり、全身を侵した。その感覚に支配された瞬間から今まで、ずっと足掻いてきたんだ。

 どうあっても精神(こころ)を侵すおぞましさから抜け出したかった。そのために出生の因果だって手ずからぶち壊してやった。なりたいものになるために、たった一つしかない命だって懸けた。それこそ人知を越えた力を得る以前から、思いつく限りのことは身体を張って試してきた。そうだ、ありとあらゆる手は尽くしたはずなんだ。

 最初はただ、生きるためだった。だが、その可能性に気付いた瞬間から――怖気のない新しい身体を得られるならと獲物を狩って、大量の生き血を啜り、跳ねる肉を齧って喰らい、またそれと同じだけの血をこの身体から流し続けた。犠牲にした魂の数は既に数え切れない。

 それだけの他者の命を喰らって、まっさらに再生を繰り返して身体の細胞すべてがとっくに入れ替わってもなお精神(なかみ)は真新しくすげ替えられず、不快感は拭えない。

 

「――ッ゛!」

 

 古ぼけた光景が脳裏にちらついた。感覚まで還ったのか、嗅いでもいない饐えた臭いすら鋭敏に嗅覚が捉えた。ああ、思い出すだけで怖気が走る。全身を掻き毟りたくなったがその不毛さに萎えて、跳ねかけた指先を抑え付けきつく握りしめた。砕けそうなほどに軋んだ音を立てる白い掌を眺めてやっと、詰めた息を小さく吐く。

 まだ指折り数えるには早くとも、約束の時は確実に近付いている。暴れ回ることに異論はないし、出し惜しみをしているわけじゃないが、こんなくだらない理由でせっかく喰らって蓄えた魂を無駄に消費することはない。生まれ変わるために肌を裂き、肉を掻き乱すのならともかく、ただの逃避で自傷することに意味はないだろう。無意味に身体を傷つけて死に近付くなんて、それこそ死にたがりの馬鹿野郎がやることだ。確かにこの身体はおぞましく嫌いで取り替えられるものなら取り替えたいが、命を捨てたくなるほどに弱く落ちぶれちゃいない。

 ああ、忌々しい日がやってくる。あとほんの少しで日付が変わるが、祝う気になんて到底なれない。

 命は、どんな生き物だろうと基本たった一つだ。それは吸血鬼だって例外じゃない。掲げた望みを叶え、永遠を生きるのだとして、燃料さえあれば身体はいくらでも再生がきくが(いのち)だけはそうもいかない。魂は言うなれば自分自身、替えがきかない大事なもんだ。そんな魂が朽ちて褪せないように俗っぽい考え方をするならば、こういう機会こそ愉しまなければいけないのだろうが気が乗るわけもない。気色悪い近親の血を改めて認識するような真似をどうしてしなくちゃならない。俺は吸血鬼だと、それさえ識っていれば十分だ。

 騒がしく周りで騒がれ祝われるなら考えもするが、生憎と今は一人だ。永い未来に備えて魂を摩耗させまいと、たった一人でへらりと阿保に笑えるような心境になどなれるものか。

 

「……ァ?」

 

 そこまで苛立ち混じりに考え付いてふと、浮かんだ疑問に意識が逸れた。

 そういえば、俺にその手の考えを植え付けたのは誰だったか。俗っぽく生きるのは悪いことではなく、むしろ必要なことだといつかの昔に説いたやつがいたはずだ。

 気になったもんだから、それらしき古い記憶を手繰り寄せてみることにした。

 さっきに倣ってもう一度、薄暗い天井に視線を放ってしばらく――時間にすればほんの数秒だっただろうが見つけ出した答えについ苦虫を磨り潰したような気分になった。思わず呻いて、牙を剥いた。その瞬間に還った記憶に感情がつられたらしい。俺にそんな考えを植え付けたやつにまつわる記憶は、この身体とは違う意味で俺を不快にさせるものだったからだ。

 喧騒の明かりが細長い隙間から差し込む薄暗い部屋の中で、しわだらけのシーツに横たわる青白い顔の女と交わした会話を思い出す。

 心の深く暗い奥底に放り込んで忘れていたのに生誕の日を前にして引き摺り出してしまったのは、初めての喪失の記憶。

 ああ、そうだ。あいつは俺が認めた稀有な魂を持つ、光狂いで死にたがりな馬鹿な女だった。懸けた魂の半分を抱き、訳の分からない言葉を残して微笑って逝った、初恋の女だ。

 今夜は、本当に調子が悪い。どうしてこうも不快になることばかりを思い出すのか。さっきと違って、良くない方に転ぶ思考を足止めする切欠すら感じ取れなかった。耄碌したつもりはないのに、こうもしくじってばかりだと不満が募る。

 雑多な喧騒から抜け出して一人で夜を愉しみたいとわざわざ地上に出てきたのに、さっぱり愉しくない。俺はただ、有意義にいい時間を過ごしたかっただけだ。いい夜になりそうだという予感は外れたのか。まさかと即座に否定するが、現状がそれを許さずに噤んだ唇が思わずぐうと唸る。目の前に転がったもんが、欲しいものを取り逃がすという俺の業を示しているようで、そのくせ人の脳裏に勝手にふわふわと浮かぶ阿呆面の初恋の女がこれは俺にとって悪いものではないと馬鹿げたことを言いたげに笑いやがるもんだから腹が立つ。

 鬱陶しく浮かぶ阿呆面を無残に掻き毟って消してやろうとするのに、上手くいかない。屈託ない陽溜まりのような笑顔を鬱陶しいと思うなんざ久々で、それこそあの頃以来だと気付いて、その事実に呆れ返って溜め息が落ちた。

 本当にうざったい。死んだ後まで付きまとわれちゃあたまったもんじゃねえ。当時もそりゃあ散々だった。ぬるま湯のような二人暮らしの日々は、どれもろくな思い出じゃない。無邪気で自由奔放な性格に振り回されて、俺の性格にゃ不釣り合いな我慢ばかりを強いられて、不満だらけだった。

 だが、あの女が俺にとって特別だったのは間違いない。赤に塗れた戦場で拾ったのがあの女じゃなかったら、たった一つの魂を糧に限界を越える方法なんて見出だせずにいただろう。その稀有さは、約束の時を間近に控えてもなお燻っている現状に証明されている。

 俺に特別な獲物だと見出され、そのくせあれだけ長く側で命を繋いだ人間は一世紀近い時間を過ごしても他にいない。あれはいい意味でも、悪い意味でも俺とよく似た性根を持った腹の立つ女で。

 不慣れな我慢となけなしの努力をしてまで迎えた結果は、最悪だった。初めて本気で欲しいと望んだ女を奪えず、その魂を汚すことすら出来なかった。救うと決めたのに逆に救われ、奪うと決めたのに逆に奪われるという皮肉めいた結末。過程はどうあれ死闘の果てに、たった一人だけ世界に生き残ったんだ。状況だけ見れば勝ちは勝ちだろうが、不満だらけだ。おまけにあの瞬間、俺は自分に課せられた業が初めて深く身に沁みた。

 振り返ってみれば、どうしてあんな女が良かったのか。

 同じアルビノで、俺とは真逆の思想を持っていた。それが必要な要素だったことは認めるが、あんなイカレた女のどこに惚れていたかすら今じゃよく分からない。

 人であれ物であれ、いいもんはいいと褒めることに異論はないし、そういうのが色恋に取っちゃ大事だと思う。濡れた肌を重ねるんなら、萎えるような展開はいただけねえ。雰囲気は大事だし、男ならいい女は口説くべきだろう。欲望には素直な質なんでこれまでだって何のてらいもなくそうしてきた。ついこないだ死んじまったが、ここ最近本気で口説いてた殺したいほど好きだった同胞の女相手でもそれは変わらねえ。なびかないところがこっちを余計その気にさせて、ずいぶん構うのが愉しかった。

 だが、あの馬鹿女に関してだけは違う。あれは、俺の興を削ぐのが上手い女だった。惚れたなんて素直に認めたくないし、今でも何かの間違いなんじゃねえかとすら思う。振り返ってみれば、俺が惚れる女の類から一番外れているのがあの阿呆面だ。

 考えてみりゃ、あの女にだけはそういう色めいた台詞を好き好んで持ち出したことはなかった。あの女だってそうだったろうが、初めてだったんだ。惚れた、という自覚すらなかったから、それこそ無意識にぽろりと口にしたんでもなけりゃ艶っぽく口説いた記憶が一切ない。吐いた言葉はどれも罵声に近く、無骨で、色めいた雰囲気なんてまるでなかった。あの頃は俺も年相応だったし、さっきも言ったがそもそもあの女が趣味じゃなかった。相反する主義を抱いた女に好みでもないのに惚れるなんて、それこそ予想外だ。

 譲れない思想とたった一つの命、初恋の代償に懸けたものはとてつもなく重かった。捕食者と獲物という関係でありながら、互いが互いに相手に惚れさせたい理由があった。俺はあの女を受け入れやすい形に創り変えたかったし、あの女は俺に拾われた恩を返したかった。そのくせあの女は惚れさせたところで俺を受け入れる気がないと馬鹿げたことを抜かすもんだから、やり取りは逐一勝負事めいていた。好きだ、とその言葉一つを素直に認めることが心底癪だった。

 改めて言うが、あの女のどこに惚れていたのかよく分からない。我慢のきかない俺にしちゃそれなりに長い間、連れ立って二人でいたんだ。もっといろいろあったような気がするし、うんと大事なことを忘れているような気もするが、いくら頭を捻ったところでどうしたって出てきようがない。当然だ、俺のそういう気持ちごと、あの女が抱いて勝手に逝っちまったんだから。

 惚れていたはずなのに、奪われたせいで上手く思い出せない。肌を合わせた記憶もなく、甘い睦言を囁いてやったこともない。恋心と呼ぶには殺伐としていて、色めいた思い出は一切なく、腹立たしい出来事として記憶にしまわれている。だが間違いなく、あれはこの身が味わった初めての恋だった。ほんの僅かな間だったが、それでもあの女に愛された実感はこの半分の魂に刻まれている。色めいたものが他に何もなくとも、あの女の愛情――魂ごと抱き締められたような感覚だけは忘れていない。

 それ一つしか、この胸のうちに初恋を証明できるものがないのは皮肉だが、何も残っていないよりはましだろう。

 相変わらず脳裏には腑抜けた笑い顔が浮かんだまま離れない。そうやって笑うくせに、まともに思い出せたのはつまらない口論やくだらなく他愛ない日常の光景ばかりで、ろくなもんじゃない。

 やれきちんとまともにメシを食えだの、身だしなみはきちんとしろだの、挙句の果には他人をもっと慮れだの、人殺しの吸血鬼を相手に的外れな小言ばかりが拗ねた表情といっしょに再生される。世話好きがたたって口うるさかった。かと言ってこっちにも事情があるもんだから適当に遠ざけるわけにもいかず、当時は面倒ながらにその小言を聞き流すしか手がなかった。我慢できずに口が出て、それだけでは済まずに手が出たこともあったが、それでもなけなしの自制は効いていて、最後だと定めた瞬間まであの女を五体満足で生かせていたんだから褒めて欲しいくらいだ。

 結局、あの女がこの手を原因に血を流したことは一度もなかった。それがいまだに、心底悔しい。叶うことなら光に灼かれた細い首筋に鋭く牙を立て、俺だけの(もの)にしたかった。

 だが、もう全部終わったことだ。確定した不本意な結果が心底憎いが、後悔はない。未練たらしくあの瞬間をやり直したいとは思わない。年を重ねた今となっちゃ他にやりようがあったとは思う。だが俺という本質はこれだけの日々を生きても変化する兆しはなく、だとすれば過去に戻ったとしてもたいして結果に差はないだろう。上手くいくように器用に立ち振る舞ったとして、それで自己の本質が揺らぐようじゃ本末転倒だ。過去に還って理想の結末を叶えることが出来るとしても、思考や主義が噛み合わないならそれは姿形がよく似た別モンだ。間違っても、それを俺とは呼べないだろう。

 そもそもだ、定まった過去は変えられない、当然だ。

 それでももし万が一奇跡が起きて、あの女が再び俺の前に現れるようなことがあれば、その時は今度こそ掴まえて逃さず奪いたい。

 誤解するな、湿っぽいのは嫌いなんだ。いつだって見つめているのは未来(まえ)だけで、過去(うしろ)を振り返る気なんてさらさらない。だが、新たに進むべき道にそいつが訪れるなら話は別だろう。あの雪辱を晴らしたい、呪いのように縛り付ける不本意な業を払拭したいと思って何が悪い。進んだ先に機会があるなら、何度手を伸ばしたっていいだろう。望んで待ち焦がれた再戦ならば、挑んで勝ち取った果てに、喜んで喰らってやればいい。

 ああ、そうだ。亡霊でも、生まれ変わりでも何でもいい。

 あの女は底抜けの馬鹿で、俺と性根がよく似た諦めの悪い女だから、案外とそういう奇跡が起きるかもしれない。何かの拍子にひょっこり俺の前に現れそうな気がして、我ながらイカレきった愉快な想像に寝転がったままつい嘲笑ってしまう。

 もちろん、あの女が未練を残して逝ったなんてこれぽっちも思っちゃいない。

 俺に奪われたいと望んだくせに黙って大人しく待つことも出来ず、伸ばしてやった俺の手を頼みもしないのに勝手に振り解いて逝ったんだ。最後は清々しいほど、満ち足りて穏やかな表情だった。あれだけ自由に望み通り振る舞っておいて、満足出来なかったなんて馬鹿な話はないだろう。

 ただ、あいつは世話焼きなやつだからな。やれメシは食ったかだの、ちゃんと休んでいるかだの、吸血鬼相手に的外れなことを気にしてあの世からちらりと様子を覗きに来るかもしれない。いくら余計な世話だと手酷く追っ払っても恩を返したいの一点張りで頑として譲らない意地っ張りな女だったからな。

 奇跡なんてそうそう起きるもんじゃない。それくらい分かってる。だがしかし、起きないと決めつけるのもそれはそれで勿体無い。確かに有り得ないほど馬鹿げちゃいるが、手に入れ損ねたものを奪い直し、腹立たしい業とやらを払拭して完全な勝利を手にできるなら、期待するくらいはありだろう。どう考えようとそれこそ個人の自由だし、望まなければ機会なんて到底落ちてこない。そう考えれば、奇跡を信じることは悪い話じゃないだろう――なんて、考えがずいぶんと飛躍しすぎた。

 今夜はどうにも浮ついている。あと数秒後には訪れる望まない生誕の日を前に、つまらないことばかりを考えてしまう。この先の未来に懸ける望みの話ではあるが、起きるかどうか分からないならただの憶測でしかないわけだ。期待するのは悪いことじゃないが、これ以上は不毛だろう。時間ってのは有限だ、くだらないことに頭を使いたくはない。元々考え事に没頭するなんざ趣味じゃないんだ。

 勝利が欲しい、栄光だって手に入れたい。だがそれは愉しみにしている戦争がおっ始まってからの話で、それまでは目の前の時間をもっと気楽に、欲望に塗れて愉しく生きたい。半分だろうが、たった一つしかない魂を燻らせたくない。そういう持ち前の主義と、過去の鬱憤を掘り返し不満を募らす行為は相反している気がする。これ以上つまらない考えに頭を支配され続けるのは癪だった。いくら他になく特別だったからと、昔の女にいつまでも拘り続けるのも馬鹿らしい。そういうときはばっさりと意識を落としちまうに限る。考え事を止められないなら、考えられなくしてしまえばいい。無駄なことに延々と意識を割いてしまうくらいなら、惰眠を貪る方が遥かにましだ。誰に祝われるわけでもないのなら、こんな忌々しい日を前に起きていたってただ不快感が増すだけだという考えも吸血鬼が夜に眠るという選択をぐいぐいと後押しする。

 ああ、そうだ。こんなときは割り切って寝ちまおう。まだ夜は長いが、たまにはいいだろう。

 そう決めた途端、すんなりと眠気が襲ってきた。いつだって身体は素直だ、さっさと寝ちまって気分を持ち直せということらしい。身体が示した欲求に従うことに異論はない。

 感じた眠気に意識がとろりと蕩けだす。今夜は、悪夢を見ずに眠れそうだ。深い場所まで落ちる予感がある。それは、悪くない。もしそうなら地上へ抜け出そうとした最初の直感通り、いい夜だと呼べるだろう。次に目を覚ましたときにすっかり日付が変わって忌々しい日をやり過ごせたなら、それこそ何一つ文句はない。

 今日に残っていたほんの僅かな時間を越えて、止まっていた短針がついにかちりと動く。日付が変わった微かな音に、ぐっと唇を引き結んで瞼を閉じた。

 腹立たしく、それでいて懐かしいもんを思い返しちまったせいだろう。睡魔に意識を明け渡せば、妙な錯覚で身体が疼いた。寝転がるソファーの背もたれに触れたのとは逆の肩が、微かに温い。考え事は終わりだと決めたはずなのに、その温さにつられていよいよ馬鹿げた考えがむくりと頭をもたげる。触れるほどすぐ側で、俺の手を掴まずにすり抜けて早死した馬鹿な女がにこやかに微笑っているような気がした。あり得ないと自嘲すれば、吐息を零して開いた唇の端が歪む。奇跡なんて、そうそう起きようがない。信じていればいつか起きるかもしれないが、それが今だなんて保証はどこにもない。

 だが、信じているのに疑うというのも変な話だ。奇跡が存在するというのなら、その片鱗くらいは、いつどこで感じても可笑しくないだろう。

 そう思い直して、有り得ない感覚を受け入れでもしてみるかととろりと睡魔に誘われる意識の片隅で夜に増した五感をすうと研ぎ澄ましてみた。そうしたら――心底、驚く羽目になった。

 

『――誕生日おめでとう。愛してる、ヴィルヘルム』

 

 空気を震わせずに鼓膜を打った不思議な幻聴、それにびくりと肩を揺らして、閉じたはずの目を見開いた。声にならないほど浅い呼吸に混じった僅かな動揺に喉がひくついた。

 消えない街の明かりが漏れた薄暗い部屋の中、代わり映えのしない天井の模様が人を越えた視界に鮮明に映った、それだけだ。どこにもあの女の姿はない。気配を手繰っても誰もいない。妙な錯覚が熱になって肩に残っている気がするが、住人がもぬけの殻のアパートの一室で、ソファーに怪訝な顔で寝転ぶ、俺一人しかいない。

 それでも、確かに鼓膜は違和感を覚えていた。懐かしく、聞き覚えのある声を聞いた。ずいぶんと優しい声音だった。そんな風に俺に声を掛ける人間なんてもう、世界のどこにもいやしない。いるとしたら、それこそ遥か昔に俺を好きだと微笑って死んでいったあの馬鹿女くらいのもんだろう。

 

「ハッ、うるせえよバァカ。祝う気があるならとっとと出て来い。逃がすもんか、今度こそ喰ってやる」

 

 忌々しい日を迎えた途端、落ちてきた奇跡の片鱗に、天井を睨みつけ、瞳を眇めて吐き捨てる。僅かでも奇跡が起きるなら、もっと別の日が良かったと文句を言いたくなったせいだ。命が世界に生まれ落ちた日に限って奇跡が起きるなんて物語としちゃよく出来てる。そういう意味じゃあ他よりは遥かに確率も高いだろう。だが勝利とは一切関係がない奇跡なんて、俺には無駄打ちでしかない。望んだくせに贅沢だろうが御免こうむる、いらん。それこそ殺人鬼を相手にお節介焼きだったあの女らしい余計な世話だ。

 確かに声が聞こえたような気がするが、きっと何かの間違いだろう。それこそ、ろくに思い出すことがなかった懐かしく忌々しい記憶に引き摺られた幻だ。

 短い生涯でたった一人愛した男の忌々しい日を祝いたくて空から天使(おんな)が降りてきたなんて、馬鹿げている。俺が望む奇跡とは種類が違う。我ながら酷い幻聴だと嗤ってしまう。

 俺を愛していると、優しく微笑った女はもう世界のどこにも生きていないんだ。奪われたいと望んだくせに、奪ってやろうとした手を擦り抜けて身勝手に逝った。

 それでも、人殺しの化物を前に殺されると知っていながら馬鹿みたいに呑気に微笑っていた女が存在したのは事実で、その女が俺を愛したのも真実だ。あの女が俺のどこに惚れたのか知らないし、俺だってどこに惚れたのか上手く思い出せないが、あの女に愛された瞬間だけは、映像として、実感として、確かに記憶に残っている。

 どんな形でも構わない。もしもこの先のいつかに、俺の望んだ形で有り得ない奇跡が本当に起きて、雪辱を晴らすためにあの女と生きて向き合うことがあったなら――鼓膜に響いた都合のいい幻聴のように、まだ俺が好きだと、愛していると、屈託なく微笑うだろうか。あの頃のように俺に奪われたいと望むだろうか。

 ああ、どうでもいいか、そんなことは。あの女の気持ちが俺から離れていようといまいと、今度こそ俺が勝つために稀有な魂ごと喰らうだけだ。俺のためだけに美しく咲き誇らせて、限界を越える糧としてこの腕に永遠に閉じ込められればそれでいい。

 誰かにこの心情を吐露する気はない。どういう理由をつけたって昔の女を喰いたいなんて他人からしたら未練たらしく映る。そんなのは俺だって不本意だ。

 だからこの願いを言葉にすることはないが、それでも結末に納得がいかず真に勝ち誇りたい以上は再戦を望んだっていいだろう。

 それに、最後の瞬間にあの女は言った。俺は、負けていないと。

 確かに言葉通り、あの場の勝者は俺だ。だがもしも、あの言葉に他の意味があったなら、奇跡を期待したっていいはずだ。

 それにあの馬鹿女には、あの身勝手な行動への文句を言い足りてない。俺はあんな展開望んでなかった、この命を対価にしてもあの女を喰らいたかった。あのときゃ正直面食らったし、悔しいがこっちも限界だったもんだから、どうにも時間が足りなさ過ぎた。二、三発と言わず何度でもあの軽い頭を叩いてやらなきゃ気が済まない。男の甲斐性を圧し折ってあんなに好き勝手されちゃあよ、もう一回くらい、姿を見せろと言いたくもなるだろう。だからこの願いは、当然なんだ。過去は二度と取り戻せなくても、この先の未来はいくらでも変えられるんだから常識では馬鹿げていたとしても前を向いている限り、真っ当な願いだろうさ。

 あれ以来、あの女を越える極上の魂は見つからず、限界を越えるための切欠も見つからない。業に囚われ、魂も半分に欠けたままだ。

 だが、生きている。生きて、世界を踏みしめている。勝者として命を紡ぎ続ける限り、理想が叶う可能性はある。

 約束の時はそれなりに近いが、まだ時間はある。黄金錬成を経ても、遥かに未来は続くだろう。それならば限界を越える機会が二度とないとは限らない。他の方法が見つかるかもしれないし、あの女を越える稀有な魂と出会う可能性だってまだ十分にあるだろう。

 いつまで経っても光狂いの馬鹿女が特別なままなのも癪だ。次に会ったとき、他の(オンナ)を抱いた俺に拗ねた顔でも見せてくれればこっちだって溜飲が下がる。そんときゃあ、思いっきり無様だと嗤ってやるよ。そうだな、そんで、どうして欲しいかその薄い唇を抉じ開けて吐き出させてやる。いつかのようにもう一度拾って欲しいと、今度こそ歪んだ顔を見せてみっともなく泣いて縋ってきたなら、考えてやらんこともない。一度想いが通じ合ったからと、高を括っているようならその花咲いた頭を叩き潰してやる。

 逆に、他に都合のいい魂が見つからなかったときは、嫌だと逃げても問答無用で拾って喰らうだろう。元々俺のものなんだ、拾い直したところで何が悪い。

 だから、奇跡が起きて機会(いのち)を得たならさっさと顔を出せばいい。一度奪われ、失ったいつかの俺の勝利のためだ、うっすらと期待して待っていてやらんこともない。

 結局日付を越えてもだらりと続いたつまらない思考に、忌々しい生誕を祝う女の声で吹き飛んだはずの眠気がまたじわりと襲ってきた。込み上げてきた眠気を堪えて、瞬きのあとに一度だけじわりと開いた瞼。半開きの視界に映った薄暗い天井に向かって、腹の上に投げ出していた片腕をぐっと伸ばす。忘れ去っていたはずの懐かしい初恋の女の名前を思い出し、誰にも吐露しない声にならない秘めた願いを声なく宙に放った。

 ――クラウディア、俺はおまえなんか好きじゃない。おまえへの恋心なんてとっくに失くした。それでもおまえは俺の初恋(もの)だから、もう一度俺の前に現れるようなことがあれば拾ってやる。だからさっさと、俺から奪ったものを寄越せ。今度こそ、おまえを喰らって業を越えて、勝利を誇って嗤ってやる。

 伸ばしたその手を握り返す誰かの手は見えない。半開きの視界をいくら眺めても、お伽話のように空から天使が降りてくることはない。それでも、いつかその願いが叶う気がするのはどうしてだろうな。

 それはきっと、幸せを諦めてないからだ。俺は必ず欲しい物を手に入れると自身の強運を疑ってないからだ。奇跡が起きると、信じて何が悪い。強欲だと嗤いたいなら嗤え。所詮、人間なんて欲塗れ。どう外見を取り繕ったところで中身なんてそんなもんだ。それを恥じるつもりはない。死にたがりで欲しがりの馬鹿な女が、最後まで自身の幸せを追って身勝手に果てたように、俺もそうやって振る舞ってやろうと決めている。

 正直、あれ以来こうも奪われてばかりの俺からしたら満足だと微笑って逝った女が羨ましい。永遠の命を生きると決めているし、それを叶えるつもりでいるが、もしも果てることがあるならばああやって逝きたいもんだ。もちろん、死ぬつもりなんてこれぽっちもないんだからそんなオチは永遠に御免だが、生き方の参考にくらいはしてやってもいいと思っている。

 ぱたりと落ちた腕が、妙だ。やけに温い。緩やかに握った指先が、まるで誰かに握り返されたように熱を孕んでいる気がする。

 何だ、呼んでやっても空から降りてこなかったくせに。まさか最初からずっとそこにいたとでもいうのか。跳ねるように浮かんだ僅かな期待は、間髪入れずに裏切られる。小さな掌に触れられたような指先を中心にどこをどう探しても、あの女の魂を感じることは出来ない。そのくせ、ともすればそこにいるのかという可能性を細々と繋ぐように指先がじわりと不思議な温もりに包まれているような気がするのだから腹が立つ。この身に起きている妙な感覚はどれも、懐かしく忌々しい記憶が見せた有り得ない幻だろう。

 この状況は、俺にとって無意味だ。白い肌として触れられない、微笑った顔が見えもしない。それじゃ奪うことが出来ないからだ。いくらもう一度、いや、今度こそ細い首に牙を立てたい女の声と熱に触れるという有り得ない奇跡がこの身に起きたのだとしても、それは俺の望んだ形じゃない。あの女の魂を喰らって、今度こそこの腹の中に収められなければ意味がない。

 だがそれでも――肌に触れるじわりと苛立ちを溶かすような穏やかな熱が、いつか望む形で奇跡が起きる可能性の示唆だとすれば悪くない。そう思い直し、頑なに否定に走っていた考えをほんの少しだけ緩めることにした。指先を包み込むような小さな掌に似た熱につられて、拗ねた初恋の女の顔が脳裏に思い浮かんだからだ。

 せっかく誕生日に祝福を贈ったのに素直じゃないと、ぷいと頬を膨らませてそっぽを向かれた。幻のくせして、ずいぶんと表情豊かだ。祝われたところでたいして嬉しくもないが、今後のことを思うとここで拗ねられちゃいろいろと面倒くさい。そうだ、この顔を俺好みにくしゃくしゃに歪めたいのは紛れもない本心だが、そうする相手は存在が希薄な幻の女でなく手を伸ばして触れられる初恋の女がいい。

 これはどう取っても、俺に都合のいい幻だ。奇跡と呼ぶには程遠い。それでも、たとえ幻であっても俺の言うことを何一つきかず、好き放題自由に振る舞って表情をくるくると変える様はまるで本物のあの女のようで。

 だとすれば、もう少しくらいこっちの都合のいいように取ってやらなくもない。少なくともうん十年振りに存在を思い出されたことに浮かれてひょっこり現れるくらいには、この女はまだ俺のことを好きなんだろう。そう思えたもんだから、微かに見えた可愛げに免じて多少の譲歩をしてやることにした。今夜くらいは、稀有な女の幻に付き合ってやってもいい。清純な振りして欲塗れの強欲な女だ。姿形すらないくせにどうしても触れたいというのなら仕方がない、特別に好きにさせてやる。

 温かくそっと寄り添う幻を振り払わないまま、瞼を閉じる。添えられた懐かしい熱に浸れば、自然と緩やかに身体から力が抜けた。

 訪れた忌々しい生誕の日、それを祝ったのが初恋の女の幻だけだと思うと嗤えるが、それが魂を摩耗させない俗っぽい生き方を教えた女相手なら仕方がない。光と闇が同在する腹立たしい世界に生まれ落ちたことを祝われた以上は、それを受け止めて勝者として生き抜いてやる。吸血鬼という理想を叶え、覆せない漆黒の闇に塗り替えた世界で栄光を手にしてやる。俺なら、きっとそれが出来るだろう。

 幸いにして、今夜はそれをよりいっそう信じさせる奇跡の片鱗がこの身に起きた。たとえこの熱が、都合のいい幻でも構わない。望んだ幸せを手にする可能性が潰えていないなら、なんだっていい。

 いつかの未来に初恋の女の魂を奪い、望まざる業を踏破する奇跡が起きるだろう。言葉(こえ)にすることこそないが、そう信じること初恋の女の幻に改めて誓い直した。

 気持ちよく微睡んで暗闇に沈んでいく意識の中で、思う。

 予想通りの、いい夜だ。

 今夜は(いのち)が畜生の血と繋がった、忌々しい生誕の日だが、それでも俺が生き続けることを心から喜び祝う、懐かしい声がした。懐かしい熱を感じた。奇跡の片鱗を見つけた夜を、悪いものとは扱えない。忌々しいなりに、歓びはあった。

 ああ、そうだ。俺の勘は、鈍ってなんかいない。俺は吸血鬼だ、夜闇を彩る予感が外れるわけがない。俺は世界に生きる誰よりも、吸血鬼(おれ)のことを信じている。だからいつか、俺は初恋(はじまり)を取り戻すだろう。それに僅かに緩んだ唇から、ぽそりと取り戻したい女の名前がか細く音になって落ちた。

 そうして完全に意識が懐かしい雰囲気に似た穏やかで深い闇に落ちて溶け切る最後の瞬間に、温かく指先を包み、肩に触れる初恋の女の幻がどこか誇らしげな表情でうんと優しく、幸せそうに微笑った気がした。

 

 ――それはある年の生誕の日に、魂が半分に分かたれた吸血鬼の生涯にただ一度だけ舞い降りた、いつか起きると信じた奇跡の片鱗。

 誰に語ることもなく胸に秘められた、始まりの愛に触れた唯一の温もりの記憶。

  

 




 
閲覧ありがとうございました!
ベイ中尉、お誕生日おめでとうございます。あなたにとってどうか少しでも、素敵な一日になりますように。

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