【Dies irae】奇跡の朝に祝福を Side Riza【2016-2017玲愛誕生日SS】   作:桜月(Licht)

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本編一年前の玲愛先輩の誕生日のお話。去年の作品のトリファ神父視点です。
アニメ化前の設定なので、諸々ご容赦ください。


【Dies irae】奇跡の朝に祝福を Side Valeria【2017玲愛誕生日SS】

 

§Side Valeria

 

 天井から下る明かりが落とされた、薄暗い部屋の中。朽ちかけて垂れ下がるカーテンの微かな隙間から差し込む月明かりだけが唯一の光源だが、夜目が効く瞳では明かりの有無など大した問題ではない。

 そろそろかと、壁に掛けられた簡素な造りの時計の秒針から聞こえる僅かな音に耳を澄ます。時差を鑑みれば、向こうは朝だ。連絡を取るには、丁度いい頃合いだろう。

 閉じた瞼の内に降りた暗闇に、思い浮かべる情景は此処とは遥かに離れた裏側のこと。

 予報では、あの街の空は晴れているらしい。四季がある国であるから訪れた冬に気温こそ低いだろうが、冴えた空気越しに見る景色は一層に美しいだろう。

 手入れの行き届いた緑が茂る、柔らかい陽の光が差す庭を抜けた先に立つ教会の一部屋に、今日も変わらず彼女はいるはずだ。

 そろそろ朝食の時間ではないだろうか。それなら、彼女はもう起きただろうか。それともまだ温かい毛布に包まれてぐっすりと眠っているだろうか。

 ああ、最後に寝顔を見たのは、もうどれくらい前だったか。

 独り言ちて、極東の地を立つ前夜に密やかに眺めた幼い寝顔を思い浮かべる。

 あのときも、こんな風に辺りは薄暗かった。あどけない眠りを妨げないようにと照明を落とした薄暗い部屋の中、掻き消えてしまいそうなほど小さな寝息を聞きながら見た光景はまだ鮮明に脳裏に焼き付いている。

 それはそうだろう、たった十数年ほど前のことなのだから。

 であれば、これくらいのことは造作もない。この身はとっくの昔にまっとうな人間を逸脱し魔に堕ちた存在であり、既に一世紀近くを生きている。その異常性故か、まだ遥か昔に辛うじて人であった頃の記憶すら当時の五感を貫いた感覚そのものをまざまざと思い出せるのだから。

 特に、あの日の出来事など恐ろしいほどに鮮やかに蘇り、心を苛んでやまない。

 噎せ返りそうな血の臭いを伴って目の前に広がった凄惨な光景が衝撃的すぎて、ただただ忘れられないだけかもしれないが、それでもこの記憶力をただの人とするには手に余るだろう。

 そうして人の手に余るそれはこの身にとって悪くもあるが、良くもある。長く生きたこの身が受けた出来事は、何も、ただ辛く、ひたすらに悪いことばかりではなかったからだ。人として生きたことがある以上、今もその皮を被って内に募る魔を隠して生きている以上、良いこともたしかにあったのだ。

 そうしてそういう良い出来事は、鮮明に記憶に残っているからこそ、愛しさが募る。

 ああ、一世紀近く生きておきながら、たかが十数年前の他愛ない瞬間(こと)が恋しいとは。

 年甲斐もなく逸る気持ちに我ながら呆れて肩を竦めた。

しかしまあ、それもまた一興。

年に一度しかない特別な日なのだから、普段と違う仮面をほんの僅かの間被るくらい許されるだろう。時間にすれば数分もないのだ。それくらいで目くじらを立てるような心狭い相手を上に持った記憶はない。新たな命を迎え、我々の抱く計画が綿密な軌道に乗ったあの日からその役割を任せられているのだから、今から改めてそう振る舞ったところで何の問題もないだろう。

 

「そろそろ、いいですかねぇ」

 

 適当な理由を思い浮かべられるだけずらりと並べて己に言い聞かせた後で、ずらした視線の先、テーブルに鎮座している古ぼけた据え置き電話をじっと凝視した。

此処を根城にして随分と経つが、それが本来の用途で使われたことは一度もない。私用で使うようにと用意したものだったが、これまでただの物置同然だった。それなのにまさか、こうして本当に役に立つ日がこようとは。このときのためにと己で用意したはずのそれに苦笑交じり歩み寄って、月明かりに薄っすらと艶光する受話器を手に取った。浅く息を吐き、暗記している番号をダイヤルする。

 いつもと変わらぬ平常心を装いながら、内心は僅かばかり緊張していた。

 ここは戦場ではない。殺し合いの場でもなければ、騙し合いの場でもない。

 つまりは任務ではない。ただの私用で、過去共に暮らしていた相手に電話を掛けるだけのこと。それも相手は年端もいかぬ子供だ。

 それなのに今の私と来たら。随分と情けない、笑ってしまう話だろう。

 それも逆に言えば、任務ではないからこそなのだろうが。

 まだこんな風に心揺れることが残されていたのかと少しばかり驚きながら、回線の向こうの音に耳を傾ける。遠く離れた異国と繋がって、鳴り響く電話の呼び出し音。普段公に使っている電話と違うものだから、聞きなれない音だ。だが、変化があるとすればこれ一つだけで、この音が繋がっている先の音はきっと聞き慣れたもののままだろう。新調したとは一言も聞いていない。きっと、私が出ていったあの頃のまま、殆どのものが残されているだろう。

 あの教会に置かれた電話の位置が昔と変わっていないのだとすれば、きっと朝の光差すリビングで私の心を映したように今か今かとばかり大きな音で鳴っているに違いない。

 そうして受話器を押し当てたまま、どれくらい待っただろうか。海を隔てた向こう側に待ち望んでいた反応があった。

 実際はたいした時間ではなかっただろうに、年甲斐もなく逸る気持ちにか、やけに空白の時間が長く感じてしまったのだから困る。

 せっかく電話が通じたのだ。今日という日はこの一度きりなのだし、慣れない心に困っているだけなのも、喜びに呆けているだけなのも勿体無い。この状況を余すことなく、楽しまなくては。ひさびさに寂れて枯れた心が動いたのだとすれば、なおのこと。

 そうして気を引き締めてみて、気付く。

 受話器を持ち上げる癖が、いつもと違う。それだけで、電話を受けたのがいつもやり取りを交わしている相手でないことが知れた。

 あの場所に住んでいるのは二人だけだ。客人が訪れていたとしても、それこそよほど親しくなければ、他人の家の電話など取りはしないだろう。

 そうなると、やはり電話を取ったのは――。

 無意識に、口元が綻んだ。その口元につられて弾んだ息のまま、久方ぶりに声に乗せて呼びかけようと唇を開く、が。

 

「テ――」

 

 ――ガチャリ。

 無情にも、電話が切れた。押し当てた受話器から、鼓膜に響く回線不通の電子音。

 それが示す現実に、呆気にとられたまま立ち尽くす。

 棒立ちになったのは、一方的に電話が切られたことがショックだったからではない。それとは真逆、喜びに、だ。まったく予想していないわけではなかったが、まさか、こんなにも喜ばしい展開になるとは思わなかったものだから、つい。

 

「ふ……、ふふっ」

 

 思わず、口元がだらしなく緩んで、笑みまで溢れた。

 ああ、これは何とも、彼女らしい。

 

「こうも期待されると、腕がなりますねえ」

 

 カチャリと、喜びに弾んだ手付きで受話器を戻したその手で、相手の期待を裏切らないように、即座に受話器を取り直してリダイヤルする。

 はてさて、一体何回目で折れてくれるのか。

 こういう意地の張り合いは楽しい。踏み締めた地球の直径を挟んで彼女とじゃれ合っていると思えば愛しくてしょうがない。それも、こんな特別な日に。

 これは、何とも贅沢な。年甲斐もなく浮かれてしまうのも仕方ないと許して欲しい。

 

 ――ジリリリリリリリ!!

 

 二度目の呼び出し音は、またしっかりと主張をして鳴り響く。そうこうしているうちに繋がった。が、途端に受話器を置かれる。再び、耳元に鳴り響く通話終了の電子音。

 本来なら凹むべきだろう、その非情な音。楽しいまま余韻に浸りたくなる気持ちをなるべく押さえ、極力愛し子に邪険にされる哀れな養父の必死さを醸し出すように、追い縋る。端的にいうと、ダイヤルする速さを倍にしてみた。

 

 ――ジリリリリリリリリリリリリ!!!

 

 折り返す電話のスパンは早い。

 きっと懇願めいてリビングに響いただろう、電話の音。

 それを受け、またカチャリと受話器の上がる音。今度は、回線を断ち切る非情な音は続かなかった。

 三度目にして、切れなかった通話。ああ、思ったより回数が掛からなかった。もうちょっとじゃれてくれてもいい。構って欲しいと彼女が言うなら、一晩でもそれ以上でも付き合うことなど造作もない。そんなことを実際に口にすれば、容赦のない彼女たちのことだ。軽蔑混じりの冷ややかな視線は刺さるだろうし、華奢な背中越しに冷めた微笑みまで飛んでくるだろう。

 だからまあ、その点に関してはさらりと流して口を噤むとして。

 

「ちょっとテレジア、いきなり切るなんて酷いじゃないですか」

『…………』

 

 電話の向こうの相手に会話を試みることを許されて、ここぞとばかりに軽く肺に息を吸い込む。そうして握った受話器に向かって拗ねた声を上げてみせてみせれば、返ってきたのは息を潜めた沈黙。

 懐かしい。まだうんと幼い彼女がつれない態度を取るたびに、こうやってわざと拗ねてやってみせたものだ。

 自惚れかもしれないが、これは彼女のそういう愛情表現だ。私と彼女と、更に言うならもう一人の育て親と築き上げてきたものだ。

 わざと冷たく当たってみせて、逆に突き放されないかどうかーーそこに注がれる確かな愛があるのか試している。そんな、少しばかり幼稚な彼女の行為。ある意味、甘えられていると言っていい。

 そんなだから、邪険に扱ったことを怒っていないと、弱って拗ねて機嫌を取ってみせると彼女はこそりと安心するのだ。年を重ねて成長しても、育て親に対する根本的な部分に変わりはないようだ。

 

「その様子だと大丈夫なようですねえ。

 ――ってあのぅ、テレジア? 私の声、聞こえていますか?」

 

 さて、電話の向こうの沈黙はいつまで続くのか。そう構えて二の句を告げたのに、想像していたよりもあっさりと待ち望んだ声は聞こえてきた。

 

『ちゃんと聞こえてるよ。

 すごいね、神父様。喋ってないのに私だって分かるんだ』

 

 淡々と吐き出される中に、うっすらと喜びが滲んだ声。ああ、すいぶんと大人びたものだ。

 言葉を交わすのはずいぶんと久しぶりなのに、つらつらと堰を切ったように続く言葉が溢れ出る。そうしてそれは、彼女も同様に。

 

「ええ、それはもちろん分かりますとも。

 というか、あんなヒドイことを私にするのはあなたくらいでしょう。

 シスターリザがこちらに対して怒ってでもいるならあなたでない可能性も出てくるでしょうが、あいにく私は彼女の怒りを買うようなことをした覚えはありませんので」

『ふぅん、それホントかな?

 リザ、神父様がなかなか連絡くれないって言ってたよ。フォローしておいた方がいいんじゃない?』

「うっ……それは不味いですね。テレジア、御忠告どうもありがとうございます」

『ふふっ、冗談だよ。怒ってないから安心していいよ。ただ、たまには声を聞かないと存在を忘れちゃいそうってしれっと言ってたのはホントだけど』

「なんと、そっちの方が怒られるよりよほど深刻な事態のような気がするのですが。これは参りましたねえ」

 

 回線越しに叩き合う軽口は離れていた時間など忘れさせるほどに軽やかで、身に馴染む。

 くすくすと電話の向こうから聞こえる忍び笑い。そんな風に大人びた笑い方をするようになったのかと思うと感慨深い。脳裏に映る幼い彼女の面影が、少しずつの実感を伴って写真越しにだけ見た彼女の今の姿と重なっていく。埋まっていく、時間の距離。それが随分と、心地よい。

 

『今から話せばいいんじゃないかな。きっと喜ぶよ。

 それに神父様、リザに用があってかけたんでしょう? ちょっと待って、電話変わるね』

「いえ、それには及びませんよ。今日この電話はあなたに用があってかけたのですから」

 

 本題を思い出したとばかり、言うが早いか華奢な手にするりと降ろされかけた受話器。それを呼び止めたくて静止の声を放れば、微かな沈黙。

 外れた予想と、それとは裏腹に心にあった僅かな期待。それにほんの少し緊張でもしたのか、か細く、息を呑んで揺れた空気が回線越しに伝わる。

 ああ、そんな仕草の一つ一つが、こんなにも愛おしく、愛らしい。

 その気持は私にとって紛れもない本心だ。離れていた十数年の間にも、決して潰えることのなかった愛おしい感情であり、そしてまた、彼女にとって特別なこの日を共に祝いたいというこの気持ちにも偽りはない。

 だから、告げる言葉はこの胸の内に抱え込んだ余計なものが混じり込む隙きなどないほど、簡素に。けれど愛しいと、溢れんばかりの万感の気持ちを込めて。

 

「――誕生日おめでとうございます、テレジア」

 

 伝えた生誕を祝う言葉に返ってきたのは、か細く、愛らしく息を呑む音。そうしてそれに続くしばらくの沈黙。その後で、強張った身体がふわりと解けてゆるりと緩んだ空気、繋がった回線越しに届いたのは柔らかな喜びの色だ。その柔らかい色のまま、片手で支えた受話器越しに望んだ声が返る。

 

『ありがとう、神父様。一番乗りだね、嬉しい?』

「おや、本当ですか?

 ええ、もちろん嬉しいですとも。しかし、おかしいですね。朝食の時間でしょうにリザには会わなかったのですか?」

『リザ? キッチンにいるよ』

「そうですか。ああ、なるほど」

 

 正直、これは予想していなかった。まさか誰よりも先に、彼女の生誕を祝えるとは。

 どうしてなのかと気になったことを問うてみれば、あっさりと真相は明るみに出た。

 どうやら私は、先を譲られたようだ。世話焼きな彼女にテレジア諸共お節介を焼かれてしまったらしい。

 件の彼女は、キッチンにいるという。朝食にしては少し遅いこの時間にそこに陣取っていることと今日がどういう日なのかを照らし合わせれば、彼女の目的は聞かずとも自ずと知れた。毎年恒例のことではあるが、今年もきっと手ずから作ってやっているのだろう。今も作業の手を止めてはおらず、それを証明するように、耳を澄ませば少し遠くからかちゃかちゃと掠れた音が鳴っているのが聞こえる。その音がキッチンに立つ彼女の手元から鳴っているのなら、それの完成まで、まだ時間が掛かるのだろう。

 先を譲ってくれたのは、育て親としての彼女の優しさはもちろんのこと、完成までの間を繋いでいて欲しいという意味もあったのかもしれない。

 それならば、ともう少しだけ楽しみたくなって、冒頭のやり取りを蒸し返してみることにした。そうそうない機会なのだから、他愛ないやり取りをもっとと望んでしまう心のまま、唇を開く。

 

「まったく、私は早くあなたの声を聞きたくて仕方なかったんですよ。それなのに喋る暇すら与えてくれないとは扱いがひどすぎやしませんか?」

 

 心にもない言葉をつらつらと。またお約束程度に邪険に扱われるかと思いきや、その予想は嬉しくも外れて。

 

『ごめんなさい、イタズラしたかったんだ。久し振りだし、ガマンできなかったの。怒った、神父様?』

「まさか。あなたへの愛を試されているようで悪い気はしませんでしたよ、むしろあなたらしくて喜ばしかったくらいだ」

『……何それ痛いね。私、そんなつもりないんだけど』

「そういうことにしておきましょうかねえ、あなたはいつも素直でないですから。そういうところも愛らしいと私は思いますがね」

『うるさいな、神父様の変態。そんなこと言うならもう切るから』

 

 年相応より少し幼く、拗ねた声が雑音混じりに聴こえる。おまけに離れた場所にあるキッチンからくすくすと、話し相手の彼女には聞こえないほどに声を絞られた忍び笑いまで聞こえてくるのだから頂けない。

 遠く離れてこそいるものの、十数年振りにひさびさに味わう、穏やかで懐かしい雰囲気に自然と声と頬が緩んでしまうのだから、困ってしまう。

 

「おや、もう少しくらいいいじゃないですか。私はまだあなたと話したい。せっかくの誕生日なのですから。

 ……ああ、元気そうな声は聞こえるのに顔が見えないのが残念ですねえ」

 

 拗ねた軽口混じり、他愛ない会話を重ねていくうちに、秘めていた本音が、ぽつりと口を吐いてでる。

 本来の立場を思えばあまり褒められたことではないかもしれないが、今は養父としてここに立っているのだ。それで彼女が安心してくれるなら、甘い言葉などどれだけでも重ねられる。否、どれほど重ねても届け足りないように思う。

 この十数年、用が済む度にあちこち点々と家移りしているはずなのに、どういう手段を取ったのか。頼んだ覚えのない写真がお節介な彼女からたまに送られてくるが、それではいささか不十分。やはり生きて――感情のままに動いて、拗ねて、頬を染めてはにかむ彼女の姿をこの瞳に映したい。

 ああ、彼女に会いたい。間近に顔を見て、どれだけ大きくなったのか、写真だけでなくこの瞳で確かめたい。それが叶わぬと分かっているからこそ、余計に焦がれる。

 声を聞けば、よく分かった。さぞかし綺麗に、聡明に育ったことだろう。

 少なくとも、口が達者に育ったのは間違いない。口喧嘩は私はもちろんのこと、共にいる彼女も十分に強い方だ。ある意味育てた私たちに似たのだと思うと、感慨もひとしおというものだ。

 もちろんそれをテレジアに伝えれば、彼女はともかく私には似たくないと渋い顔を浮かべるでしょうが。

 ――それでも、きっと似ている、と。

 その事実を内心、多少は喜んでくれるのではないかと期待してしまう。これは育て親の欲目というものでしょうかねえ。

 ああ、抱きしめたい。

 顔を見て、頬を撫でて、綺麗な銀糸を指先で梳いて、慈しみたい。

 大切なのだと、伝えたい。

 胸に滾々と湧くのは、そんな想いばかりだ。

 今ここにいる私は、ただの彼女の養父。そのつもりでこうして地球の裏側から遥かな距離を跨いで会話を交わしている。

 そう思うのは、おこがましいだろうか。

 それでも、私の大切な愛し子が望むのだ。養父として、今日だけは在って欲しいのだ、と。 言葉にはせずとも、ひたりと注がれた心で感じる。

 それに応えたいと思うのは、たとえ汚れていたとしても聖職者として在る以上間違ってはいないと信じたい。そう思ってしまう己に苦笑交じり、残された僅かな時間を存分に味わおうと言葉を途切れていた言葉を繋げる。

 

「そうだ、テレビ電話が欲しいですねえ。いっそのこと、居間のそれを新しいものに買い替えますか。そうしたらあなたの顔を見ながら会話ができる。必要ならば喜んで贈りましょう。

 ええ、我ながらいいアイディアだと思うんですが、どうでしょう?」

『イヤ。そんなことしたら絶交するから』

 

 浮き浮きと、思いついたことを思いついた側から提案した途端、地球の裏側から真っ直ぐに飛んできた否定の声。それに、弱った声を出して追い縋る。これはもう、一種の様式美だろう。

 

「いいじゃないですか、顔が見えた方がきっと楽しいでしょうし会話も弾むと思うんですがね」

『ダメ、絶交。そんなことしたら絶対、口きいてあげないから』

 

 ああ、可愛らしい。口を聞いてくれないと私が凹むと、それが堪えるのだと当然のように思っている彼女の考えが、愛おしくてたまらない。

 

「そんなあ、テレジア。そんなこと言わず、ちょっとだけ。ね、検討するくらいはしてくれてもいいんじゃないですか?」

『ちょっともなにもないよ。一ミクロンもない。残念だね、神父様』

 「そうですか、それはちょっと……いえ、だいぶ残念ですねえ。

 ですがあなたに嫌われては元も子もない、ここは大人しく引き下がるとしましょう」

 

 名残惜しいが、ここまで。これ以上続けてしまっては本気で彼女の機嫌を損ねてしまいそうだ。そうなってしまうのは私の本意ではない。

 今日は何にも増して彼女にとって特別な日であるのだから、それを彼女が正しい意味を持って知らないにしても、良き一日であるべきだ。

 そう望んで、そう願って、こうして随分と久方ぶりに彼女の背を押したくて直接的な手段を取ったのだ。断っていたはずの長い時間は、掛けた電話一つであっさりと繋がった。驚くほどあっけなく、そして、想像よりも遥かに愛おしく。

 今日を皮切りに、彼女にはいっそう幸せに生きて欲しいのだ。そう、残された終わりが近づくあの約束の日まで、どうか他愛なくも愛おしい穏やかな日々を。

 

 私を言い負かしたことですっかり機嫌がよくなったのだろう。

 電話の向こうで、楽しそうにテレジアが頬を綻ばせた気配がする。きっとはにかんだ笑顔を浮かべて、そこに立っているに違いない。

 結果は上々、ならばもう引き時だろう。

 

「ああ、そうだ。テレジア、リザにありがとうと伝えてください」

『リザに? うん、分かった。伝えるね』

 

 聞き分けの良い了承の返事。何に対して、とは聞かれなかった。私が彼女に礼を言う理由など山のようにあるからだろう。テレジアからしたら、もっと彼女に深く感謝するべきくらい思っていそうなものだ。ろくにまともな連絡すら寄越さず仕事に傾倒してばかりの養父には、返す言葉もありはしないが。

 伝言を受けてくれた旨に対するお礼がてら、今日の日について最後にもう一言だけと声を重ねる。

 

「ありがとうございます。

 ――今日一日が、あなたにとって素晴らしい日になるように私も祈りましょう。離れてはいますがね、この祈りがあなたに届けばこれ以上に嬉しいことはない」

『……うん。ちゃんと、届いてるよ。ありがとう、神父様』

 

 微かな沈黙のあと、嬉しさにだろうか、ひそめた声が柔らかく途切れがちに届く。きっとはにかんでいるだろう頬が、間近に拝めないことが何とも歯痒い。

 もっと楽しみたい気持ちは正直あるが、あまり長々と会話をするのはいただけない。そろそろ、彼女をリザに返した方がいいだろう。

 彼女だってこの日を楽しみにあれやこれやと準備をしてきたはずだ。それを降って湧いた一本の電話に、年に一度しかない機会を黙って先を譲ってくれただけで、こちらとしては十分だ。それに、あまり長く声を聞いていると離れ難くなっていけない。

 

「それはよかった。では、また」

『うん。またね、神父様』

「……ええ、愛していますよ。テレジア」

 

 また、という言葉が心にじわりと疼いて刺さる。その気持をさらりと振り解いて、代わりに特別な日だからこそ許される愛の言葉を唇に乗せた。

 ゆっくりと降ろされた受話器に回線が切れる間際、古くから見知った彼女が囁いた声を私の鼓膜がはっきりと拾う。

 テレジアには届かない。この場では、人外に身をやつした私だけが拾える秘められた言葉。

 漏れ聞こえていた彼女の笑い声とは違う、久しぶりに聞いた優しい声音が耳朶をくすぐる。

 

『――こちらこそありがとう、ヴァレリア。あの子にとって素敵な一日にするって約束するわ』

 

 ――カチャン。

 

 馴染みのある彼女の声が途切れるのと入れ替わりに鳴った、静かに乾いた音。

 それに完全に回線が途切れたことを知る。薄暗い部屋の中に、ぽつりと孤独に一人。それでも、この胸に残るものは確かにあった。

 

「ええ。約束しましたよ、リザ。彼女を頼みます」

 

 柄にもなく明るい喜びで綻んだ唇で、もう断絶され届かない返事を声に乗せる。

 テレジアには内緒で密やかに交わされた、私たちの約束。

 阻む距離は、随分と遠いのだ。どうか私には叶えられない分だけ、彼女を慈しみ、甘やかし、愛してあげて欲しい。私が乞わなくても、彼女ならそれと迷いなく叶えてくれるだろうが、約束という形に収まったことで、それはとても心強い。

 彼女がついていれば大丈夫だろう。ここまで積み重ねてきた幼いテレジアとの記憶を思い返せば、疑うべくもない。

 その点に関して信頼できるからこそ、テレジアを託しあの地を離れ、今ここに役目を果たすべく私はいるのだから。

 この良き日に、彼女の声が聴けてよかった。これでもう、修羅の道を進むことに一片の迷いはない。

 握っていた受話器を、静かに降ろす。

 乾いた音を立てて然るべき場所に収まった途端、用を成したそれは意味をなくし、灰のように跡形もなく崩れ落ちた。冷え切ったテーブルの上には、さっきまで此処と彼処を繋いでいた、それだったものの残骸がはらはらと散って僅かに残るのみだ。

 戯れの時間はこれにて終わり。来たるべき終わりの日へ向けて、課せられた任務に邁進するのみ。

 夜空にかかる雲はいつの間にか濃さを増し月明かりを遮って、一人佇む部屋を満たすのは、深い闇。常人では一寸先すら見えず、身の毛がよだつほどに恐ろしく深い。

 そう、それはただの人であれば。この身は既に魔導に堕ち、ならば恐れるものなどない。

 ――ああ。

 ただ、一つ。この世界に生まれ落ちた規格外の対なる存在を除いては、だが。

 

「さあ、行きますかねえ。残された時間もそう長くないのですから、立ち止まってもいられない」

 

 そう独り言ち冷えた床を踏み締めて歩を進め、月の隠れた夜空の下へ躍り出る。

 定めた行き先は、ああ――我ながら、随分と恐ろしい。

 起こすは、戦争。黄金の獣に連なる、戦火激しい破滅への道。聖餐杯の名の元に、どれほどの厄災があの街に降りかかるのか。考えただけで、敬虔なカソックを纏った背筋が昏い歓びに震えて、唇が緩んだ。

 

 

END

 




離れ離れの家族のお話でした。
玲愛先輩、お誕生日おめでとうございます!

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