私の隠居生活は、足が動くようになってから程なくして終わりを告げる事になった。
「紫色の光……いえ、聞いたことはないわ。ただね、あんまりタイミングが良いものだから、思い当たる節が生まれたのよ」
こうして私だけがランツブルックへ赴く事になったのも、今し方オルトフィーネが話し聞かせてくれた話の内容で察しがついた。
レイラインの魔力が消え、現代から魔法が完全に消え去ったとばかり思い込んでいた私は最初、彼女の語りを冗談かなにかだとばかり思って笑った。紫色の光と共に舞い降りた悪魔が魔法を使役して戦況を覆しているだなんて、魔女であった私自身が誰よりも一笑に伏すに相応しいじゃない。けれどオルトフィーネの目は、その深刻さを薄めなかった。
少し前、私の記憶についてイゼッタと共に少しだけ考察してみた際に出た何の確証もない結論が、今になってその真実味とでも言うのか、兎にも角にも、オルトフィーネの話によって無視する事のできない領域へと上り詰めるに至ったのだ。
私たちの出したレイラインの根源は、この世界が記録する人々の記憶や想い。しかし未だ、それが真理であるとは言い難い。可能性は出て来た、という段階に過ぎない。
「それでは、人類が生存している限りこの世から魔法は絶えない、という事なのか?」
「仮説にも至らない陳腐なものだけれど、現に魔法は蘇っている……ね、可能性としては捨て置けないでしょう?」
「しかし――」
表情を曇らせるオルトフィーネ。彼女の言いたいことは何となくだけれど、私にもわかる。もし仮にこの結論が真を突いていたとすれば、イゼッタが命を賭してまで根絶しようとした行為そのものを全くの無意味なものだったと、そう認めざるを得なくなるからだ。
でも、この世の真理とはいつだって人に残酷であるのもまた、事実。
「それで、その魔法に対抗し得る方法は思い付いているのかしら、幾ら何でも弱点がない訳ではないでしょう?」
「……まだ確定はしていない。けど、戦線を敷いているゲルマニアのほぼ全域で紫色の光が確認されている」
その苦言は、私の耳にすらもその味を広がらせる。
「全域で……」
記憶にあるレイラインの流れを喚起させる……が、凡そ戦域に当たると思しき箇所の全てに魔力の筋は流れていない。それどころかゲルマニアの本国自体、魔力の流れは弱いはず。
「どうした、何か思い当たったのか?」
最悪の事態が脳裏に浮かび、思わず彼女の名を告げると、私の抱く不穏とは裏腹にオルトフィーネは期待に満ちた表情を向けてきた。
「残念だけど、悲報よ。その魔法は恐らく――私の知る魔法ではないのかもしれない」
希望を抱くからこその絶望。その簡単な方程式の解が今正に、私の目の前で披露された。
オルトフィーネとの密談以来、この屋敷の中は騒然とした。
用意された椅子に腰を下ろしいる私の前を頻りに横切って行く軍人たちの服は、エイルシュタットの物ばかりではなく、他所の国の物も混じっている。
しかし、それでも一律なのはその表情だ。
誰もが血相を著しく変え、慌てふためいている。死んだ魚のような目の者も珍しくはない。その一端を担ったのは他でもない自分ではあるが、これ程に見ていて笑えてくる様相というのも他には在るまい。なんせ、私がこの屋敷へ顔を覗かせた際には誰もが希望という名の藁を見つけたかのような、見ててむず痒くなる程の表情を見せたのだから。
いつの間にか失くしていた復讐心が煽られた所為だろうか、こんな思想を抱くのは。所詮、今の私を形造る根底はこの国への復讐心だとでも言うのだろうか。
「早々に抜け落ちる物でもないみたいよ、イゼッタ」
壁際だったのが幸いし、振り向けばすぐに窓の向こうに広がる空を眺め見ることが叶った。
蒼を暈す希薄な雲らを、あの娘も見ているのだろうか。もしもそうなら、必死に困難を打開しようとする懸命な彼らの姿をほんの一間でも嘲り笑った私をどうか、その全てを包み込むような微笑みを以って許して欲しい。
そんな勝手の過ぎる想いに馳せていると、聞き慣れない声が私を呼んだ。
「非礼を承知でお尋ねします。貴女こそ伝説に出て来る白き魔女で、間違いはないのでしょうか?」
女性ながらその凛々しい顔付きは、この場にいる男どもの誰よりも男性的であると称えよう。振り向くと、そんな麗人が私を見据えていた。
「そうでも無ければ、私は今ここに座っていないと思うけど?」
敢えて意地の悪い返しをしてみた。
この凛々しさがこの麗人にとっての真なる表情であるのなら、期待以上の返しを以って私を満足させてくれる筈と見込んでの事。
「以前、私はあの伝説の真実を聞かされ、思わずそれを否定した事がありました。その節の事、今ここで謝らせて下さい。申し訳ありませんでした」
予想していた返しとは随分と違ったけれど、これはこれで中々に彼女の“らしさ”は滲み出ているように思える。
「別に謝るような事でもないでしょ。大勢の人間が吹聴してる伝説の方が、私としても耳心地の程が良い物だと思うもの」
それに対して私が抱いた感想は置いとくとしても、ね。
「私は小さな頃、あの伝説を聞かされてから貴女に強く憧れました」
顔を伏せたまま、麗人は続けた。
「いつか私も貴女のようにこの国の救世主になりたい、と」
そこで顔を上げる。凛々しさを年相応の女性のモノへと変えて。
「失礼致しました」
それだけ言うと、麗人は足早に去って行った。
彼女が立っていた箇所のカーペットには、出来たばかりのシミが二、三見受けられる。
「私にどうしろって言うのよ……助けようにも、今の私にはそんな力、欠片ほども残ってはいないと言うのにね」
シミを見詰めながら呟きを捨てた。
胸の内側をそっと撫でてくる熱い何かを、その感覚を私は知っている。あの時と同じだから。今の私が当時の私で無い事についての結論は出ていた。けれど、この気持ちだけは覚えている。知っている。
「嗚呼、駄目ね……幾度と生を繰り返そうとも、馬鹿って言うのは治るものでもないみたい」
――救世主。
麗人の語り聞かせて来たその言葉だけが、まるで呪詛であるかのようにいつまでも私の頭の中で反響を繰り返した。
週末の方は煮詰まり過ぎて冷ましてる最中ですので、もう暫しお待ちを?