わざとだったりします。
欲しいものがある。今の俺にはそれが何だか分かってはいない。けれどもどういうものなのか、何となく分かっている気もする。醜くて残酷で傲慢な関係性。それを俺は本物だなんていっているのだろうか。でも。もし、醜くて残酷で傲慢でも。それは自分にとって大切なものだ。他にも色んな大切なものがあるけれど全部ひっくるめて必要だって思うものだ。きっとそれには形が無い。形が無い、有象無象のものでそれ故にそれが正しいのかも分からない。有象無象なのが怖いから形を思い描いているけれどもそういう経験が乏しかったからその形はしっかり形になっていないのだろう。だから、実際のところ、それがどんなものなのか具体的に分かってはいない。
本当は、たった一つの明確な答え以外求めてはいないのに不思議と曖昧で模糊した響きを伴ってしまう。そのはずなのに、それを言葉にするたびに自然と顔がほころんで、恥ずかしさに頭を抱えてしまう。その恥ずかしさが良いものだと思ってしまう自分もいて、それがあまりにも心苦しい。お前はそんなもの、求めていないだろう? 求める資格なんか持っていないだろう? そう自分の中の自意識の化け物が俺に言ってくる。
自意識の化け物に納得させる為に今持っているものに名前をつけようとしている。定義づけさえしてしまえば楽になる気がして、ぼっち特有の思考を使っていくつも考えた。それでも当てはまるものが見つからない。俺の知識が足りなくて俺の思考が敵わなくて。そのせいで自意識の化け物を納得させる事が出来ない。迷宮めいた袋小路に閉じこもっている怪物を殺せるような英雄もいない。作り出すことなど出来ないのだろう。なんと呼ぶのか。それが分かればもしかしたら英雄になりうるのかもしれない。でも、それが分からないから『本物』だなんて子供みたいな言葉で呼んだ。そうしたら軽々しく呼んだ本物なんて存在しないのではないかとも思うようになっている。幾つか浮かぶ候補でさえ全て間違っている気がして、その中で一番自然に出てきた簡略化された言葉で呼んでいる。それだけだ。
自分の中でも解決しきれない。自分で提示した問題の答えですら答えられないのに他人の問題提示に正しく答えられるはずが無い。むしろ、その誤差は、大きくなってしまうはずである。定義づけの出来ないもの同士を計算したって答えが出るはずも無い。
同じ方向に間違えて進めるなら、それはいいのだ。同じ方向さえ向けるならそれで十分事足りるだなんて希望的観測を抱きはしない。そんな希望的観測こそ俺が昔から嫌っていた欺瞞だ。彼らは青春の二文字の前ならばどんな一般的解釈も社会通念も捻じ曲げてみせる。嘘も秘密も罪科も失敗さえも青春のスパイスでしかない。そんな風にいって忌み嫌っていた『彼ら』に今の俺たちは、なってしまっているのではないだろうか。その不安に駆られて、自分だけずらた場所にいることだけに目を向けて俺のいる場所を共有してしまってはいけない気がするから欲しかったそれから手を離せと自分に言い聞かせる。
その行動が正しいのか、答えあわせなどせずに浮かぶ言の葉を綴る事しかしない。答えあわせが出来ていないから間違っているかどうか分からないけれども間違いだらけの答案だってことも分かってしまう。間違いだらけだって分かっているから虚ろな答えしか出せずに欲しいものの意味をこねくり回すしかない。
それでも、漠然とある自分たちの中の答えらしいものを正解だと思ってここまで来た。
別に消極的な感情を持ってここまで来た訳じゃない。俺はいつだってポジティブだ。自分たちにとってそれが最大公約数のはずだからそれを前提条件とするしかない。
これが本物であると。そう信じている。それ以外のものは全て信じる事が出来ないからせめてそれぐらいは、信じていたいと思う。
――――いや、違うな。それさえも信じていなかったから。だから、信じられる本物をさがしているのだろう。
夕日が部室に差し込んでいたあの日、俺はそれを二人に求めた。信じられる本物を欲しいと思って自分以外に委ねた。誰かに物をねだるなんて滑稽で醜い真似、少し前の俺なら考えもしなかっただろう。それでもあの日、俺はねだった。その事実は、揺るぐことが無い。俺が二人に求めた証人だって俺と二人だけじゃない。一色いろは。奉仕部の扉の前で話を聞いていた四人目の証人である。そしておそらく、彼女自身も俺が求めたそれを求めていたのではないだろうか。そう思うのは酷く傲慢かもしれない。いや、言い切ってしまおう。酷く傲慢だ。求めているんじゃないか、だなんて推測するのはとても傲慢だし愚かである。それでも、あの放課後の事を俺は、忘れない。暖かく、それでいて冷たいあの日。夕日がガラス越しに降り注ぐ空中廊下での出来事。空中廊下は、あの日も冷たい風が吹いていてそれ故に利用者もほぼいなかった。今でも、あの日のことを忘れることなど出来ない。
雪ノ下雪乃は、手すりに寄りかかっていたはずだ。確か、「分からない」と意思表示をして去り際に一言、謝罪の言葉を口早に述べた。「ごめんなさい」という一言を引き出してしまった自分が情けないとも思う。雪ノ下は、あの時、何故謝ったのだろうか。日本人特有の「よく分からないけどとりあえず謝っておこう」ってやつか? いや、雪ノ下に限ってそれはないだろう。雪ノ下雪乃という人間は芯がしっかりとしている。そう、俺が思う程度にはしっかりしているのだ。本人は、自分の芯がしっかりしているなど自称しないかもしれない。事実、そうなのかもしれない。けれども少なくともそんな風によく分からないから、何ていうだけで謝罪するようには思えないのだ。
かといって、ただ単にその場を退席するから謝罪した、という風にも考えられないのだ。何か深い意図があるのではないかと深読みするのはよくないことなのだろう。それは時に残酷で時に醜いことだ。だから、答えを求める訳ではない。ただ、あの謝罪は特に頭から離れない。俺の傲慢な欲望が、俺の中の自意識の化け物が彼女の口から謝罪を引き出してしまったのだと思うから。贖罪の意味でも忘れてはいけないのだと思う。それは、今までに胸に刻んできた後悔とは、別種のものだ。今までみたいにしくじってミスをした訳じゃない。俺はきっと、どうしたって求める事しか出来ないのだ。
由比ヶ浜結衣は、俺に「今行かなきゃ」と訴えたはずだ。本当はどうしていいか、自分自身分からないのだろう。確か、俺の手を引くその力は弱々しく不安げなものだった。ああ、そうだ。今も明確に覚えてる。俺はその手を振り払い、由比ヶ浜は泣きそうな顔になっていた。でも、俺は拒絶した訳じゃなかった。一人で歩ける。その意思表示のために手を払い、そして自らの足で進んだ。俺が一人で歩くと意思表示してからの彼女の足取りは驚くほど軽やかだった。無論、気分が軽くなっていた訳じゃないだろう。だから、軽やか、何て表現はふさわしくない。雪ノ下を追わなければならない。その使命感が彼女を襲ったのか、それとも雪ノ下を追いたい。その欲望が彼女を包んだのか分からない。でも、後者であるならばそれはきっと素敵な事だ。俺のそれが傲慢であるのにたいして由比ヶ浜のそれが素敵なものであるのは、求めるものを真っ直ぐ、正しく捉えているからなのだろう。由比ヶ浜も、求めているそれについて分かってはいないのかもしれない。だが、少なくとも俺よりも誠実に求めているものに向き合っている。誠実に向き合うことは、とても難しいことのはずだ。恐ろしいことのはずだ。恐ろしいから、俺は逃げて由比ヶ浜が逃げなかった。それは、由比ヶ浜の強さを分かりやすくしている。
自分も分からない。でも話せば分かるだろう。それでも分からないんだろう。それで永久に輪からないのかもしれない。でもそういうのが分かるってことなんじゃないか。
頭が良い訳ではない。経験が豊富な訳でもない。それ故にそれを上手く言葉にできなくて誤魔化すようにお団子髪を撫でながら最終的に一筋の涙が伝った。
「あたし、今のままじゃやだよ……」
その言葉が、何を意味するのか分からない訳じゃない。由比ヶ浜が求めていた関係。それはその時の関係ではなくて勿論、今の関係性でもない。雪ノ下の持っていた信念は今のような低いところで留まるようなものではないはずだし俺の求めた本物も言うまでも無くこれではないと思う。ただ確かあの日、俺は彼女たちの素直な涙を見て思った。この瞬間だけは、間違えてなんかいないのだと。きっと俺は、現国の作文についてで呼び出されてペナルティを喰らって奉仕部に入部させられたあの春から変わったのだろう。変わってしまったから更に腑抜けになって答えすら出せなくなっている。
いつぞやの様に風が窓を叩いていた。久しぶりに部室に来てもやる事はあの頃と同じ。新しく仕入れた小説に目を落としながらカチカチと時計の秒針が動く音を聞いていた。行間さえ読むことが出来る俺の読書力は健在で、一人で読書をしていても退屈さを感じる事はない。木が伸びすぎたとのことで今年の春、多少伐採されたこともあってあの頃とは違って木が大きく揺れる事もなかった。それは読書意欲を削ぐ事も無く非常に心地よく読書に励める。今日は珍しく恋愛ものの有名どころを読んでいる。ライトノベルという訳でなければ高二病らしくマイナーなものを読んでいる訳でもない。まあ、絵で選んだ、という部分もあるがそれも今回ばかりは違う。本屋によって何となくインスピレーションで選んだ、といえば聞こえはいいだろうが端的に言えば完全に適当に選んだ。それが偶々いい絵で恋愛ものだったというだけだ。ただ、その偶然も今の俺には必然や運命のように感じられた。
まだ、中盤に達していない程度しか読んでいないが主人公の思考が中々に共感できるものだったのだ。偶々選んだ作品の主人公の思考が共感できるものだった、というのはどうにも運命的なものを感じてしまうのだが実際は、そんなことは無く俺の共感というのの程度がかなり低いのだろう。
去年の今頃も同じようにここで本を読んでいて去年と同じ冬だというのに今、この瞬間の暖かさは、去年とは違う。今までずっと同じ季節が巡っていたはずなのに今年の冬は何処か暖かい。この暖かさは去年の冬の風の冷たさを思い出しているからなのかもしれない。別段、気温が変わっている訳ではないのにこんなに暖かくなることを俺は知らなかった。
「いやー、それにしてもよかったよね。三人揃って推薦受けられて」
あの頃よりも幾分か大人びてすっかり大人の女性になっている由比ヶ浜。その口調はいまだ幼さが抜け切っていないけれども去年の春の頃のようなビッチ臭さは、一切消えている。
「そうね。まさか、由比ヶ浜さんと比企谷くんが推薦を受けられるとは思っていなかったわ」
一方で由比ヶ浜に答える雪乃下の態度は柔らかく、鋭くなった気がする。っていうか自分が推薦に選ばれるとは思ってたのね……なんという自信。まあ、定期テストがルーティンワーク程度で常に学年総合一位を取っていた雪ノ下だから受験勉強もそこまで苦労していなかったようだし。だから由比ヶ浜みたいに大きな変化も無いんだけど。由比ヶ浜が勉強に励み、面接の練習で言葉遣いも矯正したことで大人びたのに比べたら大きな差だ。
「ホントだよね。ヒッキー、勉強は出来ても普段からの態度が悪いから推薦とか絶対選ばれなさそうだったもんね」
「うっせぇ。俺だってやろうと思えば推薦ぐらい取れる。ぼっちは勉強できるからな。全教科満遍なくやってラスト1年真面目に授業を受ければなんとかなる」
とはいえ、もう面接も終わったこともあり由比ヶ浜も口調が戻って来ている。あの頃に比べれば確かに大人びているが一時期のピークに比べると幼さが戻っている。
「……まあ、そうね。三年生になってから急に真面目になって漢字検定や英語検定、数学検定とか内申点に加点されそうな事を色々やっていたし」
「まあそうだな。小町が受験が大変だって言ってたからだったら推薦受かっちゃったほうが楽なんじゃねぇかって思ったんだよ」
事実、俺は三年生になってから推薦が終わるまでひたすら勉強に明け暮れていた、その理由は、二人に言っているように小町の様子を見て大変そうだ、という風に思ったのともう一つ、言っていないものがある。まあ、それを言うと恥ずかしいしやめとこう。
「一緒の大学には行けなかったけど、ばらばらにはならない……よね?」
「まあどうだろうな。先のことなんか分からん。人生そんなもんだろ。重要なのは今だ」
両手の人差し指をちょんちょん触れさせながら発したその言葉に俺は明確に答えなかった。その代わりに、いつか由比ヶ浜と言っていたことを口走る。確かあれは、マラソン大会が終わって少ししてからだったか。まだ、一年も経っていないことなのに酷く昔のことに感じるのはきっと、この半年間、俺が何かに答えることを放棄したからなのだろう。
――――俺は、あのバレンタインデーの日に二人と話して由比ヶ浜からクッキーを貰って何かを動かさなければならない。そう思っていた。けれどもそれからどうにも照れくさくて或いは、恐ろしくて保留状態にしてしまった。俺が最も嫌っていた欺瞞を完全に形にしてしまったのだ。結果として俺は逃げる口実として推薦を取る為、何て名目を貼り付けたのだ。そしてただ我武者羅にやれることだけをやってやれないことからは目を逸らして、今じゃあの頃の自分とはまるで別人になっている。あのときの俺は間違えた。けれども今の俺は間違える以前のステージにいるのだと思う。何一つ無視して、欺瞞に変えてしまった。
俺も、由比ヶ浜も、雪ノ下も、それぞれの能力に適する大学への推薦入学が決まっている。雪ノ下は持ち前の学力と常日頃からの行いで、由比ヶ浜は努力によって若干底上げされた学力と学校生活の良好な人間関係で、俺は努力によって一気に上昇した学力と内申点上昇のための各種検定を主として推薦を勝ち取った。因みに、今の俺は、漢字検定1級所持、英語検定2級所持、数学検定1級所持と一見すると高スペックになっている。なんなら一見しなくても普通に高スペックである。だがまあ、スペックなんてものは今の俺たちには全くもって関係ないのであろう。
バレンタインデーのあの日以来、俺が二人と面と向かって話す機会は無く……え? 今も面と向かって話してない? ご尤も。俺、人と面と向かって話したこと無いんだよな。人と目を合わせるのはどうにもぼっちには難易度が高すぎる。
じゃあ、言い直そう。俺は、三年生になってからこの部屋に一度も来ていなかった。十二月になれば普通の三年生は引退で俺たちみたいな小規模の部活で、かつ三年生が全員推薦合格しているようなところ以外は一・二年のみで活動している。けれども、俺は三年生がまだ、引退していないうちから部屋に行く事はなかった。そして由比ヶ浜も、前のように誘ってこなくなった。クラスが一緒じゃないんだからそりゃそうか。こんな卑屈なぼっちをわざわざ別のクラスに行ってまで部活に誘う奴はいない。
「ヒッキー? 大丈夫? 寒いの?」
「いや、別に寒くないな。暖房ついてるし俺、別に寒そうにしてないだろ?」
むしろ暖かいくらいだ。部室にはいつしか荷物もたくさん増えてそのおかげで圧迫感がある。暖房もちょうどよく効いているし寒い要素はない。夕日が差し込んで来ているのを見るとむしろ暑いと錯覚してしまいそうだ。
「え? だって何か、ぬぼーっとしてたから」
「何だそれ。俺は冬のパソコンかっつぅの」
「ああ、ホントそれ。冬って朝パソコン開こうとすると起動しない時あるよね」
俺が突っ込むとすかさず由比ヶ浜が会話を広げた。去年の今頃のような壊れそうな距離を保とうと一生懸命な姿ではなくこの瞬間を間違えたくない。そういう姿に見えた。
「そうね。でも部屋を暖かくするといいらしいわよ。私はあまり朝にパソコンを使わないから分からないのだけれども」
「そうだな。あんまり朝にパソコンを使うって言うのが俺も分からんな。あの由比ヶ浜がよりにもよってパソコン何て使うか?」
俺のイメージでは由比ヶ浜はパソコンを使わない、と勝手に定着してしまっている。だから少し以外だった。そもそも平日は、朝にパソコンを使うほど時間が無いはずだ。俺の記憶だと由比ヶ浜は、最近はかなり早く登校していた。俺も推薦のために早く登校していたがそれよりも早かった気がする。休日は三浦や葉山、海老名さん辺りと出かけてるんだろうからより一層時間はなくなるだろう。
「どういう意味だー」
由比ヶ浜は、そういいながら俺の首もとにチョップを食らわせてきた。喉に食らったチョップは綺麗に突き刺さり喉仏にクリーンヒットした。この痛みには見に覚えがある。かの天使戸塚と、初めて話した日に感じた痛みだった気がする。あの時も俺が由比ヶ浜を馬鹿にしてそれに対して由比ヶ浜が怒る。あの時と違うのは雪ノ下がいる点と戸塚がいない点だ。主に戸塚がいないのは大きい。いや、このやり取りした瞬間は戸塚いなかったけど。でもやっぱほら。戸塚の天使オーラがあるじゃん?
「ふえふえ、げふっ! じゃあ、聞くけどお前、朝、パソコン使うか?」
「そりゃ、使うよ。あたしのこと馬鹿にしすぎだから。あたしだって推薦決まってるんだから」
そりゃ意外。どうしても先入観で由比ヶ浜を考えてしまっている。今年の一月は、眼鏡=頭いいっていう馬鹿っぽい発想だったのに今では立派に推薦を取っている。校則を守ってもいなかった由比ヶ浜は、俺がサブレを助けるために車に轢かれたあの日のように髪が脱色されてもおらず、本人曰く染めてもいないらしい。ネックレスも外されスカートも短いとはいえない長さになっている。ボタンだってある程度閉めてある。目立つのはいつかにプレゼントしたブルーのシュシュぐらいだろう。カーディガンだって指定のものになっている。まあ、それでも整った顔は変わらず、むしろそれが引き立っているといえるかもしれない。
「いや、別に馬鹿かどうかを言ってる訳じゃねえよ。色々忙しいだろ? 最近早く登校してるっぽいし休日はどうせ出かけてるんだろうし」
「そうね……確かに最近の由比ヶ浜さんは、かなり忙しそうにしているしわざわざ忙しい朝にパソコンをやるような理由があるとも思えないし」
俺のフォローなんか完全にスルーされたようで、雪ノ下の言葉だけが由比ヶ浜に響いているっっぽい。……え? なんかそれ、酷くないですかね。まあ、天下の雪ノ下さんがフォローしてくれてるんだったら良いんですけどね。
「んー、でも最近は、本当に使ってるよ? 勉強とかは、パソコン使ったほうが効率いい時もあるしよく二人が話してる言葉を理解するために調べたりもするし」
雪ノ下の問いに答えるように由比ヶ浜がいう。その言葉は、あの頃には見えなかった色が見えた気がした。前は、俺と雪ノ下のやり取りをみて入れないと思うなんて言っていた由比ヶ浜が今は俺と雪ノ下のやり取りに入ろうとしているのだ。俺や雪ノ下に少しでも、一歩でも近づこうとしてくれているのだ。
「だから、偶にそれっぽい言葉を口走って困らせてんのか?」
「えぇー、困らせてないでしょ」
「困ってるだろ。戸部とか」
戸部は、本当に困ってたはずだ。何かグループの中で自分が馬鹿っぽくなってる気がするとか言ってた気がする。馬鹿っぽくなってるんじゃない、十分馬鹿だからなどと心の中で突っ込んだので覚えている。
「あー、戸部っちは、ほら。戸部っちだから。もうどうしようもないというか」
「相変わらず扱いが酷すぎるだろ。最近、あいつ頑張ってんだからやめてやれよ」
葉山たちは基本的に同じクラスになったのだが、確か戸部と童貞風見鶏の何ちゃらだけは、別のクラスになっていたはずだ。結局あいつは、文系を選んだらしいのだがそれなのに一緒のクラスになれなかった辺り、流石である。
「戸部君の頑張りはどうでもいいのだけれど、確かに戸部くんとあなたが話しているのは見かけるようになったわね。いつも戸塚くんも一緒だったけれど」
「ああそうだ。戸塚に現国を教えてもらうように頼まれてな。あのときの申し訳なさそうな表情といったら可愛くって可愛くって。もうな、あれは天使の領域を超えてるよな。性別とか超えちゃうだろあんなの。頬を紅く染めてな、上目遣いで『八幡。教えて』なんて言って来るんだぜ。やっぱあれだな。『愛さえあれば、ラブ・イズ・オーケー!!』 だったんだな」
思い出すだけで口角が上がってしまう。ああ、マジで可愛かったなぁ……。録音してなかった自分を恨むなぁ、マジで。あ、やべ。涎が……
「え……何? 急にテンション上がったんだけど。ヒッキー、マジキモい」
「は? 何でだよ。俺は戸塚のカンスト天使っぷりを話しただけだろ? 戸塚の可愛さと俺のキモさに何の因果関係がある」
あまりにも冷たく軽蔑気味に言ってくるので反論したつもりだったのだが二人の俺を見る目は何故かさっきより冷たくなっている。あれれ、おかしいよ。何でこんな目で見られてるんでしょうかね。そのジト目やめてもらえませんか?
「あなたは、日に日に悪化していくのね。その目、前に見たときよりも腐っているわよ」
「いや、そんなことねぇだろ。小町にも最近のお兄ちゃんは真面目になってきたって言われてるぐらいに真面目になってるんだぞ、俺は」
雪ノ下の一言は、本来なら耐え難いとどめの一言だが今の俺は昔の俺とは違う。一年間雪ノ下に罵倒の限りを尽くされた俺は、その程度の言葉に傷つかなくなったのだ。いや、でも素直なジト目は結構きつい。やめてもらえませんか、マジで。ぬぼーっという表現にも耐え抜いてるし何ならスルーしてるからな。
「真面目に勉強しているから何とも言えないけれどあなたの場合。生き方が真面目ではないでしょう? 小町さんも可哀想に。きっと諦めてしまったのね」
そういう雪ノ下の目は、俺を見る訳ではなく窓の外の何処か遠いところを眺めているようだ。いや、諦めてるのは小町じゃないだろ、絶対。……そうだよね? 小町はお兄ちゃんのこと、諦めてないよね? それが兄妹愛だよね? お兄ちゃん、信じてる。
希望を胸に、拳をぎゅっと握り締めるとまるでそれが無駄であるかのように急に強い風が窓を叩いた。いや、それは言いすぎだな。
「風、強くなってきたねぇ」
「そうね。今日はかなり風が強くなるらしいから早めに切り上げた方がいいかもしれないわね」
「まあ、そうだな」
机に頬杖をつきながら適当に返事をしながらも今朝、天気予報でいっていたことを思い出す。確かに今年は、例年に比べて風が強く今日なんかは特に風が強いほうらしい。強風注意報が出る程ではないにせよ荷物をしっかり持つように意識しないと危険だのと言っているほどには風が強いようだった。
もう、三年は部活を引退している。葉山辺りは推薦を取っていた気がするが他の三年生は、受験勉強真っ只中。小町の苦しみ方を見るに今は、本当に苦痛な時間を過ごしているであろう。何せ人生が掛かっているのだ。人生二十年も経っていない時点で人生を決める分岐点に立たされ能力によって望まない方向に進められることだってある。それは非常にストレスであるだろう。
どうせ、奉仕部なんて実質、読書をするだけの部活だ。俺だって保留にしてきたものが無ければもう退部しているだろう。三年生になって平塚先生も俺に強引にはならなくなったし奉仕部へ行く理由も消滅した。実際、奉仕部の存在を知っているのなんて三年生がほとんどなのだ。平塚先生が言っていなければ一年生にその存在が知られる事は無いはずだ。
「いやー、フリーペーパーで奉仕部も取り上げてもらえばよかったかな。誰も来ないもんね」
伸びをしながら言う由比ヶ浜の言葉には後悔がにじみ出ていた。おそらく、フリーペーパーというのは、今年の二月くらいに一色が持ち込んできた生徒会作成のやつの事だろう。本当に大変だったから今でもよく覚えている。一色に脅された記憶も健在だ。あと、戸塚が可愛かった。
「前もそんなに来てなかっただろうが。今日から、奉仕部再開なんだから初日で来られたら堪ったもんじゃねぇ」
マジで働きたくない。もう、今の状況で依頼人が来たらそれは100%平塚先生の差し金で面倒臭そうだから嫌なんだよなぁ。去年だってあれだけ面倒だったのにやってられるか。
「そうね。一色さんも生徒会長をしっかりやり遂げているものね。一色さんの依頼と材……なんとか君の依頼が殆どだった訳だし必然的に仕事は減るもの」
「ああ、働かずに読書だけ出来る空間。マジでユートピアだわ」
最近の小町は、帰りが遅いので一人で本読んでても何も言われないのだがどうにも家にいると読書に集中できない。きっと、由比ヶ浜たちの会話を横目で見ながら時々、話しかけられたり、自ら口を挟んだりしながら読書をするのに慣れてしまったのだろう。あと、雪ノ下の入れてくれる紅茶が美味しいから、というのもある。
「でも、いろはちゃんと小町ちゃんには、本当に感謝しなきゃだよね」
「「え? 何で?」」
浅い思考に潜りながら読書を再開しようとした矢先、由比ヶ浜がぼそっと言った一言二反応してしまった。雪ノ下も俺と全く同じように読書を再開しようとしていたのに反応してしまったらしい。まあ、『何で?』と思うのは当然のことだと思う。
「何でって……だってほら。あたし達が来れなくなって廃部しそうになってた奉仕部に二人とも入ってくれたじゃん。三年生になると部活も設立出来なくなるし廃部したら大変だったよねぇ」
まるで周知の事実のように由比ヶ浜は言っているが俺は聞いていない。おそらく雪ノ下も同じだろう。マジで忘れてたとかそういうノリじゃねぇ。そもそも、だ。俺は小町の兄だぞ? 由比ヶ浜が知ってて血がつながってる俺が知らないってちょっとおかしくない? お兄ちゃん悲しいんですけど。っていうか部長の雪ノ下も知らないってそれはどうなの?
色々言いたい事はあるのだが、とりあえず由比ヶ浜を睨んでおくことにしよう、そうしよう。
「…………」
「由比ヶ浜さん。それは誰から聞いたのかしら」
その声は、マジで氷の女王ってた。なんだそれ。どこの広島カープだよ。そんな俺の心の中での密かなツッコミを気付くはずがなく部室は、一瞬のうちに凍てついた。
「え? ゆきのん……知らなかった?」
「由比ヶ浜さん。もう一度聞くわ。それは誰から聞いたのかしら」
どうやら、一色、小町、由比ヶ浜の輪の中に自分が入れなかったことが相当、お気に召さなかったようだ。吹雪が吹き荒れてるんじゃねぇのってくらい凍てついた空気が部室中に蔓延し流石の俺も耐え難い。堪らず、唯一温かいはずの湯のみに手をつけた。
――――何だよ。雪ノ下も、随分自分を隠さなくなったじゃんか。
ふと、そんな言葉が脳裏に浮かんだ。が、言わないほうが身のためだろう。
「えっと……こ、小町ちゃんだよ。うんそうそう。五月頃だったかな。『私が奉仕部に入るので皆さんは、思う存分受験勉強に励んでください』って言われたんだよ」
「そう……私も小町さんと連絡先を交換していたのだけれど」
由比ヶ浜の言葉にシュンとなる様は、始めて出会った頃には想像も出来ないものだった。まあ、俺相手には今も、そんな姿見せないけどな。でも、輪に入れなくて凹む、というのは本当に考えられないことだ。
「ごめんね、ゆきのん~~」
凹んでいる雪ノ下を見た由比ヶ浜は、何故凹んでいるのかしっかりと理解して雪ノ下に抱きついた。雪ノ下と一緒にいる時間の長さで言えばきっと、家族以外じゃ一番長い由比ヶ浜だ。雪ノ下のことも中々に理解できている。仲良き事は美しきかな。この中で、輪に入れていないのは完全に俺だけのようだ。
「由比ヶ浜さん……暑苦しいからやめて」
「うーん……まだ怒ってる?」
「怒ってはいないわ。ただ少し驚いただけだから。だから離れて……」
本当に暑苦しそうにする雪ノ下だが、その表情は何処か穏やかでうれしそうなものだった。暖房が効くようになって部室が暖かくなったのは確かだがそれでも人肌によって発する熱というのは普通とは違う暖かみがある。"温もり"というやつだ。さっきまでの凍てついた空気から一変、部室は太陽に微笑まれたような暖かい空気になった。去年の今頃、プレゼントされた湯呑みを置いて読書を再開した。
保留しているこの関係は、ぬるま湯だ。おかしくなりそうなほどに居心地がいい。折角出来た居場所だから安住してしまいたいと思ってしまうほどの、麻薬みたいな関係だ。誰かに与えられるこの居場所が欺瞞であることなんてとっくに分かっているのにそれでもここに甘んじてしまいたいと思ってしまうのだ。タロットの『力』は、ライオンを手懐ける女性が描かれる。その絵と『力』というタロットは、どうしても自分のことなんじゃないかと思わずに入られない。八幡の八が、ウェイト版の『力』の番号であるから、ということもあるがそんなのは本当に小さな事で、大きいのはその絵と今の自分が一致していると感じるところだろう。
ライオンを手懐ける女性。それが由比ヶ浜と雪ノ下だろう。だとすればライオンは俺であるか。答えは否だ。俺にはライオンのような強さはない。だからライオンを挙げるなら俺ではなく俺の中にいるであろう自意識の化け物だ。自意識の化け物が何かをしようとしていても俺が押さえつけられなどしない。押さえつけくれているのは由比ヶ浜と雪ノ下だ。だから、俺は『力』を自分であると思ってしまう。それが酷く傲慢だと分かっているのに。
だが、いつまでも頼っていてはいけないのだろう。自分で自意識の化け物を押さえつけられるようにならなければならない。葉山たちの関係は"それまでの関係"じゃなかったのだろう。だから戸部が同じクラスじゃなくなっても今までと変わらない関係を保っていられる。けれども今、俺が保留してしまっている関係性はきっと"それまでの関係"でしかない。ならそれは……
「そういえばヒッキー、何を読んでるの?」
深い思考に潜りかけていると左側に急に温もりを感じた。ほのかに香るさわやかな匂い。これは香水だろうか。そこまでどぎつい感じも無くナチュラルなものだ。
俺をヒッキーと呼ぶのは由比ヶ浜だけなので100%由比ヶ浜だ。他にお俺の周りにここまでボディータッチが激しい人間は一色と小町くらいのものだ。しかし今日二人は来ていない。あざとさが無いことから考えても由比ヶ浜である。Q.E.D証明終了。
「最近買った小説だ。有名どころって訳じゃねぇよ」
近い近い。左肩に掛かってくる体重が生々しくて変な事考えちゃうからやめろよまじで。全く推薦取る為に真面目になったとはいえこの無邪気な行動は直らないんですね。全く、大人になった由比ヶ浜が心配すぎる。絶対もてない男を振りそう。
「んっ……」
むず痒かったので下手に唸り声を挙げてみたのだがなかなか気付かれる様子はない。この子は人の話を聞かないなぁ……。そういう無邪気な行動がですね、多くの男子を勘違いさせ、結果死地へと送り込む事になるんですよ? わかったら、今後、『ボディタッチをしない』『休み時間や放課後、男子の席に座らない』『忘れ物しても男子から借りない』、以上のこと二気をつけて行動してくださいね。マジでやめて、ほんとに。
「オカリナの慟哭? 変な名前。どういう系?」
俺の指摘は全く無視されているようだ。いや、口に出してないから当然何だけど。こいつら、エスパーになってくんないかな。マジ不便なんだよなぁ。わざわざ口に出して『何、意識してんのださっ』となるのは嫌だから口には出すなんて愚かな事、するはずが無い。負けることに関しては最強の俺は、自ら死地には行かない。
「恋愛系だな、おそらく」
「何、おそらくって。でも、ヒッキーがそういうの読むって珍しいね」
「そうね。この男のことだから恋愛小説を読んでから全力で叩くのではないかしら。いつか、映画で会った時もそんなことを言っていたし」
確かに全力で叩く為に映画を見ることもあるから否定できませんね、はい。
だが、俺自身はそこまでマイナーなものが嫌いな訳ではないのだ。平塚先生から高二病といわれた事はあるがかといってマイナージャンル以外が嫌いな訳ではない。むしろ人々がそれに好意を持つ、というのならそれがどれほどのものなのか、何故人々からそこまでの好意を得ることが出来るのか。気になる部分があるから読みたくなる。その中で出会う名作って言うのも勿論ある訳でその逆も然り、というだけのことだ。一期一会、出会いもあれば別れもある。一般的な見方をしてしまった時、愛していた作品が愚作に見えることもあるし一般的な見方をすることで愚作だと思っていたものが名作に見えることもある。原理は一緒だ。
「ま、否定できないんだが。でも、俺だって普通に恋愛ものを読むことぐらいある。ラノベとかは恋愛部分が入ってるっていうのも多いしな。最近のラノベはヒロインが可愛きゃ何でも許される部分があるし」
「だから中二のあれは面白くないの?」
この場にいたら『ぐふっっ』とでも聞こえそうなほどの辛辣な意見だった。やっぱり素直な毒舌が一番きついなぁ。本人じゃない俺だって今のは流石に言いすぎだと思ったぞ。
「そうかしら……あれは、ヒロインが如何こうという次元じゃないと思うのだけれど」
やめたげてよぉぉ。材木座のライフはもうゼロよ。雪ノ下さん、ちょっと酷すぎませんかね。まあ、事実なんですけど。本人がいたら始めのころみたいに部室を転がって掃除してくれるんじゃねぇの。流石の俺も胸がズキズキ痛む。いつも、メールで材木座の依頼を受けている反動かもしれない。働いた反動とかマジ働きたくないわ。
「まあ、あれはラノベとは、いわねぇよ。ラノベは誰でも書けるがその中であんなのは駄作中の駄作だ。今度貸してやるから読んでみろよ」
「機会があればね」
お前、去年の春にそれ言ってから読んで無いだろ、とは口が裂けてもいえなかった。昔の事を覚えているっていうのはもう恥ずかしいし言ってまた部室が凍てついた空気になるのはごめんだ。
「ゆきのん、あたしも何冊か友達にお勧めされて読んだんだけど結構面白かったよ。今度、あたしん家で一緒に読もうよ?」
身に覚えのあるやり取りだと思ったのだが由比ヶ浜の行動が違ったようだ。前は居なかったんだけどなぁ。左肩に掛かっていた体重は、気付くとなくなっていてまるで犬が散歩をせがむかのように雪ノ下を誘っていた。ああ、よかった。
「あ、えっと……そうね。そのうち――」
「じゃあ、いつにする?」
やはり雪ノ下は由比ヶ浜に弱いなぁ。背景に、猫が犬に追い掛け回されてる絵が浮かぶ。勿論声に出したら睨まれそうだから言わないんですけどね。
だがまあ、何? あの頃みたいにお互いに気を遣い合うって事は、無くなってんじゃねぇの。よく分からんけど。でも、去年の今頃よりはずっとマシな気がする。適当なことを言い合って絶対役に立たない事ばかりなのに血が通ってるっていうか。リア充ってほどじゃないけどこれも間違ってはいないのではないだろうか。勿論、これが本物なのかどうかは言及しない。
「はぁ」
温かな吐息を漏らしながら密かに時計を見た。もう、気付けば一時間も経っている。何かした訳では無いのにはっきりと時間は経っている。しかも、憂鬱だから外とシャットダウンして長く感じる昔とは違う。とても鮮やかに見える瞬間だ。湯呑みに口をつけながらそんなことを考えた。
少しだけ心地いい。そんな風に思ってしまうのはよくないのだろう。与えられた居場所に安住するのは大罪だ。俺に居場所を持つ資格はないだろうしもし、資格があったとしてもそれは自分で手にしなければならない。自分で掴まない居場所なんて欺瞞だ。欺瞞の塊で本当に気持ち悪い。
あの時、苦しんでそれで出した結論でさえぼやけているのだから、もう今の俺に答えなんか出せるはずが無いのだろう。何度も問いかけてくれた平塚先生も、何度も否定してくれた陽乃さんも今の俺に対して問いかけたり否定したりしてくれない。平塚先生はもう、俺を見てはいない、いつか言っていた『叱られることは悪いことじゃない』という言葉が今になって響いている気がした。確かに、叱られる事は悪いことじゃないのかもしれない。誰かに見てもらうことだけが正しいことじゃないと思いながらも、自分一人でもやっていけると思いながらも。いつも一人だから大丈夫だと思っていても結局、平塚先生に問いかけを貰わなければ俺は、何も出来ない。問題を与えられなければ、理由を見つけることが出来なければ、動き出せない人間がいる。今の俺は、何かをしなくてはならない。そこに理由があるわけでもなくただ、無造作にやらなければ、という意思だけが蠢いている。だが……
俺は。
俺は、問題を与えられなければ、理由を見つけることが出来なければ動き出せない人間なんじゃないだろうか。問題を提示してもらってそれに答える段階は、もう過ぎてしまったのだろう。確証ではないけれどおそらく、過ぎてしまっているのだと思う。子供みたいに問いかけてもらって答えを引き出してもらって答えを否定してもらえる時期は過ぎた。今年の四月にもう少し踏ん張っていたらまだ、過ぎていなかったのかもしれない。でも俺は逃げた。あれだけ決意して言ってはならないであろう言葉を発して彼女達の決意を、結果を欺瞞であるといったのだ。ならば、その分、俺は責任を取らなくてはならないと思う。たとえ俺の言葉が真理だとしても人の平和を踏み躙ったのだから責任を取る事は義務だろう。それでもそれが果たせていないのならそれはどう考えたって逃げだ。何も出来ないから、問題を与えられないからしょうがない。そんな言い訳の方がずっと欺瞞だ。それでも、逃げるというのなら
――――あの頃の俺は、どこに行ってしまったのだろう。
馴れ合いなんてものに頼らなくて躊躇う事も無く自分を捨てられて守るべきものを持たなくて。弱点が無いほうが強いと思って熊になりたいなどとのたまわっていたあの頃の俺は、消えてしまったのだろうか。
制服のズボンをぎゅっと握り締めて唇を噛んだ。問題が欲しいなんてどこかで思っている自分が本当に憎い。
気付いた頃には湯呑みの中の紅茶はもう、無くなっていた。本を読む手も無意識の内に進んでいてもう、俺が読んでいたところとは程遠いところまで進んでしまっていた。かなり日が落ちて部室に差し込む夕日も少なくなってきた。時計を見ると十分程度考え込んでいたのが分かる。
ぼっちは思考の達人。それだけはまだ健在のようだが答えを出す事はやはり出来ない。ただ、深い思考の海に潜り込んでしまったようだ。
「それでさ、優美子たちが忙しくて出掛けられないらしんだけどお勧めのお店を教えてくれて。ゆきのん、一緒に行かない?」
「考えておくわ」
相も変わらず由比ヶ浜と雪ノ下は、話していた。雪ノ下は穏やかな表情をしていたが去年の今頃のように何かを諦めてしまったようなつくり笑顔ではなく、しっかりと友人と楽しげに話しているような、しっかりとしたものだ。その笑顔には安堵を得てしまう。
「あっ――」
何かに気付いたように立ち上がり、俺の席に近づいてきた。何だろう。俺が二人のやり取りを見ていたのが不快だったんだろうか。でもそればっかりは俺がいけないわけじゃ無いと思うんですよ。あなた方が百合百合しいオーラを放っているから気付くと目が引き寄せられているというかですね……何それキモい。
「紅茶のお代わり、飲みでしょ?」
「えっ、ああ、そうだな。すまん」
俺の湯呑みにまた、温かい紅茶が注がれた。流石、というべきだろうか。飲み終わって置いたタイミングに欠かさず入れに来るとかどこの執事だよ。……あ、メイドじゃないことに他意はナイデスヨ。本当だよ? ハチマンウソツカナイ
「っていうかヒッキー、さっきから何で唸ってるの? ちょっと不気味なんだけど」
雪ノ下が自分の席に戻るタイミングを見計らって由比ヶ浜が俺に言ってきた。悪気がある訳ではなくただ純粋に疑問に思っているようだった。そういうのが一番キツイ。
「由比ヶ浜さん、あの男は不気味なのがデフォルトなのよ。それ以上言わないであげて?」
「あ、そっか。ヒッキー、ごめんね?」
ちょっとー雪ノ下さん? 何でそんな嘘つくの。……嘘だよね?傍から見たらいつも不気味とかそういうこと無いよね? 由比ヶ浜も否定しろよ、おい。納得するな深刻そうな顔するな俯きながら謝るな。こっちが悲しくなる。
「お前が謝れっての。俺は、不気味なのがデフォルトな訳じゃない。お前らとはクラスが違うから分からないかもしれないがクラスの中じゃ、俺は結構明るいぞ。戸塚と話してる時とか」
「ヒッキーはさいちゃんの前だけじゃん。っていうかそれも明るいのとは違うし」
え? 違うのか? 知らなかった。俺、ずっとあれで明るく出来てると思ったんだけどな。明るいって何なのだろうか……戸部? いや違うな。その論法だと禿げてしまえば明るくなれるみたいになる。……別に戸部の頭部について何か思うことがあるわけじゃないですよ?
「でも、確かに明るくはなってるかもしれないわね。死んだ魚のような目で明るく振舞うから逆に不気味だけれど」
「なっ……そうだった」
雪ノ下の的確すぎる指摘に俺も声を失ってしまう。なるほどなぁ。俺は明るく振舞うと駄目なのかぁ……じゃあどうすればいいんだよ。もう、俺は悪くないだろ。俺のこの死んだ魚のような目が悪いだろ。
「ヒッキー、また目が腐ってきてるよ」
「あ、ああそうだった。んんっ」
危ない危ない。本気で廃れてしまうところだった。咳払いをしてもどうにかなる訳じゃないのだけれど、とりあえず咳払いをするしかないだろう。もうね、人生やってらんない。
「それよか、そろそろ終わりの時間じゃねぇの? 早く帰ろうぜ、依頼が来る前に」
「そんな目的のために切り上げる訳ないでしょ? 今日は、平塚先生が生徒を連れてくるそうだからそれまでは帰らないわよ」
「えぇ~~」
なんと言う事実。酷すぎる。平塚先生が最近大人しくなってきたと思ってたんだけどなぁ。駄目だったか……。期待した俺が馬鹿でした。全く、もう。嫌な予感しかしないなぁ。季節的に考えてもいい思い出がないんだよな。幸い、今年の一色は生徒会長を続投することになり、しっかりと仕事をしてくれてるからな。文化祭も体育祭も俺たちが手を出す必要が無くことが進んだ。そういうのを見ると、俺が文化祭や体育祭の時に手を出したことの意味も見出せなくなっている気がする。
だが、問題はそこではない。この時期に依頼。それだけ聞くと本当にあの禍々しいクリスマスイベントを思い出す。たしかあの時は、一色の依頼が来たのだが、俺の深読みによって一色の依頼を俺単体が受ける、という結論にたどり着いた。しかし結果的に上手くいかなかったんだ。
今回と前回で異なっている点は二つ。まず平塚先生が連れてくる、という点だ。奉仕部の部室の場所は以前と変わっていない。一度来た事のある者ならわざわざ平塚先生に連れられてくる必要は無い。平塚先生だって暇じゃない。一度来た事がある者の我侭で付き添うほどの時間はないはずだ。
そして、もう一つの大きな点。それこそが、前もっての通知があると言う点だ。今までもメールが届いて、その後に部室を訪ねてくる、というパターンがあった。だが、そういったときと今回は、明らかに異なっている。本質的に違う。今までが一応匿名であったのに対して今回は。平塚先生という名前がある。これによって今日、逃げる事は許されていない。それは今日でなければならないという急を要することであることを示しているだろう。
それらから導き出される結論は、単純明快。否、それらから導き出さなくても分かっていることであろう。即ち――――面倒な案件だ。
「俺、急用思い出したから帰りたいんだけど」
「あなたに急用なんてあるわけないでしょ。小町さんにもいってあるから早く帰ったら怪しまれるわよ。下手すれば戻ってこなければならなくなるかもしれないわね。家に入れない、なんていうのもあるかもしれないわ」
「…………」
酷い。これはもう、脅しだ。急用が無いって言うのは事実だし年中急用なんて無いからそこに対して文句を言う気はない。何が酷いかって俺の小町への超兄妹愛を利用しているのが一番許せない。本当に酷すぎる。総武高校に無事入学してからというもの相手にしてくれなくてもそれでも消えなかった愛が今、消えかけている。
「……分かりました、はい。すいません、小町にはこの件を黙っておいて頂きたいのですが」
「ヒッキーがお父さんみたいになった」
消えかけた愛を取り戻すには精神誠意謝るしかない。なんかの番組でそんなことを言ってた様な気がする。っていうか俺の態度はまだしも由比ヶ浜のお父さんみたいって何だよそれ。社畜なんだろうか……確かに夜な夜な聞こえてくるよね『上司には内密にお願いいただきたいのですが……はい、すいません。ありがとうございます』みたいな声。ほんとに聞いてて悲しくなってくるもんなぁ。
「失礼な事をいうな。俺は、働かないがお前のお父さんは社畜なんだろ? お父さんにも失礼だし何より俺の超ひも理論に失礼だ」
びしっと効果音がなりそうな感じで由比ヶ浜を指して軽いキメ顔を作った。やばい、何これ。小町が見たら感動するレベルにカッコイイんじゃねぇの。
「そんな破綻寸前な理論を気持ち悪い顔で自信満々に言うのはやめなさい」
「てか、ヒッキーの方が失礼じゃん。そろそろ働かないとか言ってられなくなるよ?」
お二人からの厳しい意見、参考になります。しかし、俺は絶対に働かない。そこそこの大学で貰ってもらってそこから主夫ロードを突き進むと決めているのだ。完璧な理論は破綻寸前などではないのだ。破綻寸前に見えるとしたら見る側が悪い。
「いいや、俺は働かない。専業主夫に俺は――」
俺は、超絶的な名言を言ってやろうかと立ち上がった瞬間、部室のドアが叩かれた。風というわけではないようでノックされてすぐにドアは開いた。