夕飯を食べ終えて洗い物をしてから以前のように二人でソファーに座った。練乳を少し入れたコーヒーを運んでソファーの前のテーブルに置く。さあ、話せとばかりに肩をつついてやると小町は少しずつ話し始めた。
「茅ヶ崎くんはさ、お兄ちゃんのことをすっごい慕ってて総武高校に入った時から小町によく話しかけてきたんだ。小町も茅ヶ崎くんの目を見てお兄ちゃんみたいだなって思ったしそれでちょっと話してたんだけど文化祭に実行委員として参加した茅ヶ崎くんが結構仕事をやっちゃっててそのときからお兄ちゃんみたいでいつか助けてって言ってほしいなって思ったの」
小町は照れながらも茅ヶ崎に出会った経緯を話し始めた。それを聞くことによって俺も、茅ヶ崎の人物像を少しずつ補完していく。
おそらく、であるがこのクリスマスイベントのあらゆる問題の中心は茅ヶ崎である。総武高校生徒会の人間関係の中心は間違いなく茅ヶ崎だし他の問題の中心も茅ヶ崎だという確信が漠然と存在している。だからこそその動機を知るために人物像を補完していく必要があるのだ。
「文化祭は一色先輩の力ですごい上手く言ったんだけど体育祭のときは全然上手くいかなくて便りだったサッカー部が手伝ってくれなくなったの。茅ヶ崎くんと小町はそこで生徒会に入ったんだけど小町はなにも出来なかった。でも、茅ヶ崎くんはサッカー部と交渉して上手くいくように調整したんだ。お兄ちゃんみたいな人の気持ちを分かってくれないやり方で解決しちゃったんだけどすごい強くて小町にはなにも出来ないなって思って……」
体育祭で何があったのか詳しく話してはくれなかった。けれども小町の声色に悲しみの色が混ざっていたからそれが相当、酷いやり方である事はわかった。
けれどもそれをできるから強いとかそういうことじゃないのだと思う。少なくとも俺はそうだ。自分が考えて行った行動なのだから行動を見た人間にその行動だけで『強い』と評されるのは納得がいかない。行動だけでその人間の強さが分かる訳じゃないのだ。
きっと茅ヶ崎も俺と同じような信念を持っていたのだと思う。そして今の俺はなくしてしまった信念をまだ持ち続けることが出来ている。だからこそそういう相手の気持ちを考えない行動に出てしまうのだ。
「それからギクシャクしたままクリスマスイベントの準備に入ったのに茅ヶ崎くんが一人で動きたいって言い出してそこから生徒会が分断されちゃったんだ。小町も一色先輩も茅ヶ崎くんと一緒にやりたかったのに小町が弱かったから茅ヶ崎くんが離れていっちゃったんだよ」
それは違う。そういってやりたかったが根拠があるわけではなかったから気休め程度の言葉になってしまう気がしていうことができなかった。いくら論理武装しても根拠に繋がるような茅ヶ崎の情報程、茅ヶ崎を理解しきれていない。ただ、小町が弱いから離れているのとは違うと思う。
そこまで考えが及んで、やっと茅ヶ崎の人物像がはっきりとした。問題の中心がはっきりとしたのだから問題の解を出すべきだろう。もう情報が足りない、と逃げることも許されないし逃げるべきではない。今一度、俺は考えるべきだ。
やっと、動く理由を与えてもらえた。問題が無いと動く事が出来ないほどに俺が弱いのはこの数日で嫌になるほどに分かった。本当は強くならなければならないのも痛いほどに分かっている。それでも一朝一夕たかだか数か月で人間は、劇的に変われない。トランスフォーマーじゃないんだから変われるはずが無いんだ。そんなすぐに変われるならこんな自分になっていない。どこかの少年Aじゃないんだから変われ、変わる、変わらなきゃ、変わったなんて自分に言い聞かせても変われない。嘘ばかりだ。今の自分が間違っていると、分かっていても変われる人間の方が少ないに決まってる。それなのになんで過去の自分を否定するんだ。変われないのにどうして今の自分を認めてやれないんだ。なんで未来の自分なら信じることができるんだ。時間経過で劣化しただけの自分を信じてどうして昔の自分を信じてやれないんだ。
――――だから、強くならないと分かっていても俺は今や昔の、問題が無い自分を信じたい。
その信じている自分からすらば世間一般の最低な手段が最も完璧な手段だ。自己犠牲だなんて呼ばせはしないけれどそんな風に見られてしまう、効率的な手段が最も完璧だ。
ただ、それと同時に理由を与えられなければ動けない自分に与えられた理由がその完璧な手段を否定してくる。目の前で自分たちのやっていたことを見せられてあの時も与えられた理由が俺の手段を否定してきていたのだと理解出来た。今回与えられた動く理由も前回与えられた動く理由も結局のところたった一つのものを創ってしまえばよかっただけなのだ。
それを理解できたから変われない今までの最低で弱くて動く事のできないおれ自身がつくってやろうじゃないか。
――誰も傷つかない世界を今度こそ完成させてやる。
万物が流転し世界が変わり続けてしまうのなら、周囲が、環境が、評価軸そのものが歪み、変わり俺の在り方も変えられてしまう。ならば変われない今のうちに、流転する事のない誰も傷つかない世界を作らなければならない。
「小町。ちょっと俺に任せてくれるか? とりあえずクリスマスイベントの件をどうにかする。それさえどうにかすれば茅ヶ崎もクリスマスイベントを理由に逃げられない」
茅ヶ崎清明は、小町から逃げている。クリスマスイベントで生徒会は分かれて行動するという理由をつけて逃げているのだ。それはつまり、小町と関わるのが怖いということだ。その恐怖がどこから来るのかまでは、俺にも分からないが少なくとも傷つけたくないということなのだろう。
ソースは俺。雪ノ下や由比ヶ浜、小町や一色など色んな奴が傷つくところを目の前で見せられてどうしようもないほどの恐怖にさらされた。
「ん……それでいいのかな?」
小町の発言の意味を受け取れないほど俺も馬鹿じゃない。俺に頼ってしまっていいのだろうか、逃げ道を失くしてしまっていいのだろうか、そんな疑念を小町に持っているのだと思う。或いは拒絶されているのに近づいていいものなのか分かりかねているのかもしれない。
ただ、どちらにしたって今はそれを悩むべきではない。とりあえずクリスマスイベントを成功させない事には何をすることも出来ない。
「いいんじゃねぇの。……駄目だったら俺が何とかする。お兄ちゃんだからな」
「何それ」
俺が言うと小町はぶつぶつと文句を言ってきた。でもしょうがないだろ。俺には茅ヶ崎を知ることは出来ても理解する事は出来ないんだから。
「ま、何だ? 俺が本気を出せば土下座も靴舐めも余裕で出来る。最低本気出すからな」
「…………」
軽くかっこつけながらいったのだが、小町にすごい蔑まれた。せめて突っ込んでくれないとマジで泣きたくなるんだよなぁ……。
「……じゃ、お願い」
「おう」
泣きそうになりながらも小町に任せてもらってから、俺は何度か小町の顔をつついてやる。生意気な顔だがやはり可愛いし何? 嫁に出しても恥ずかしくないわな。
部屋で今一度俺は考えていた。先週は考えても分からなかったが今は少しばかり事情が違う。小町のために誰も傷つかない世界を創る、という理由を得る事が出来たし茅ヶ崎の情報を色々と得る事が出来た。先週に比べて確かな情報を多い。色んな条件が思考に有利に転んでいる。今ならば答えを出すことが出来るのかもしれない。もう一度、しっかりと確認するか。
直近での大きな問題はクリスマスイベントである。奉仕部として去年より早い段階で手伝えたし雪ノ下や由比ヶ浜の協力を得ることも出来ている。それでも、今にも瓦解しそうな状況だ。
まだ時間に余裕があるように思えてしまう。二週間あるのだから前回よりはマシだ。それでもおそらくこのままだったら去年と同じ状態になってしまう。そういう空気があの会議室にはある。それもおそらく誰かがいけないというわけでは無い。勿論、海浜高校側があまりにも動く気が無いというのが悪い部分もあるとは思う。だがそれだって深く掘り下げれば海浜高校で起きている事件のせいであって生徒会のせいではない。それを責めるというのは心の無い行為だろう。
それにどうしても不味ければ去年のように別々にやるという手だってないわけじゃないのだ。それなのに俺も雪ノ下もそれを言い出さない――訂正しよう。言い出せないのは、去年と同じ道を通ってしまったら変われない気がしているだろう。そんな傲慢な理由でしかない。
クリスマスイベントの問題をひとまず解決しなければならないのだがそれだけを解決しようとしても考える事はできない。それに付随する数多くの問題を分析しなければ答えを出す事は出来ないはずだ。だから付随する問題を分析していく。
分かりやすく付随してくるのは海浜高校で起きている事件だろう。そのせいで会議を進めない理由が出来てしまい中々進まない。進まなくてもいいのだという認識になってしまっている。こちらとしても強く出れない。全体として失敗してもしょうがないという空気になってしまった。
これに付随して怪盗サンタクロースの問題が絡んでくる。その動機が何なのかは分からないが少なくとも会議の妨げになっている。参加意欲が減ってしまってただでさえ事件のせいでいなくなっている人員が更に削られてしまった。もしも怪盗サンタクロースの予告が実現されるのであればその予防線も張らなければならない。そうすると去年のようなイベントには出来なくなる。茅ヶ崎の書いた小説の模倣犯である事は間違いないと考えるとかなり注意する必要があるだろう。
また、総武高校の生徒会の問題もそこに付随する。一色がどこまで問題に関与しているのか分からないが茅ヶ崎と小町の問題というのは大きい。そこが俺の動く理由になりうる部分でもあるし小町にはクリスマスイベントをひとまず、という風に伝えたし俺もそう思うがだからといって考えない訳にはいかない。クリスマスイベントを成功させるならば生徒会の問題の解決は必要なものだ。ここにも茅ヶ崎が大きく関わってくる。
それらを解決する為にも奉仕部の問題の解決が必要だ。俺が保留し続けたものをそろそろはっきりとさせなければいけない。答えを出さなければきっと解決できないはずだ。何度も頼ってしまって人間関係という麻薬に依存した俺は彼女らの力を必要としている。
だが、力を必要としても答えを出さないままだったら与えてもらえない気がする。いや、由比ヶ浜も雪ノ下も優しいから助けてはくれるだろう。
――――ただ、答えを出さないのに力を借りるのは卑怯だと思う。
ならば考えなくてはならないだろう。効率や損得勘定の計算しか出来ないというのならば計算しつくすしかない。いつまでも動く理由をもらえる訳でないし今の俺のままでいられるわけじゃないのだから今回ではっきりと問題を出さないといけない。
最後の問題について、考えても胸がもやもやするからといって考えるのをやめていた。取っ掛かりを得ようとしても諦めてしまった表情や、無理して明るく振舞う笑顔や彼女ら、平塚先生の言葉がぐるぐると暗転していつまでも思考をループさせるしかなかった。ループを回避するためにも今までとは違うアプローチの仕方が大切だろう。生徒会選挙の件で、アプローチが如何に重要なのかよく分かった。
さて、ここまで問題がはっきりしたのならば、次にこれらの終着点を明確にする必要がある。ゴールがはっきりしている問題は解を出すのも簡単だ。
まず、クリスマスイベントだがこれは、成功さえしてしまえばいい。一色の能力に問題があるわけでもないから去年のようにそれを通じて何かを成し遂げる気は無い。海浜高校で起きている事件についてもそうだ。解決が俺たちの目指すべきものではなく、クリスマスイベントの妨げにならない程度になってくれればいいのだ。だが、怪盗サンタクロースは違う。
あの予告状が冗談なのか本気なのか、悪戯なのか警告なのか。そこまで答えを出さなければ最後まで人員が増えない。逆に言ってしまえば怪盗サンタクロースの犯人を見つけたところでクリスマスイベントが成功するとは言いがたい。確実性に欠ける。故に怪盗サンタクロースの問題は犯人を見つけることではない。その存在をはっきりとさせて会議を安心させることにある。
生徒会の問題についてのゴールをはっきりすることは難しいだろうが、俺からすればそのゴールは小町が取り繕わない心の中からの笑顔で茅ヶ崎と向き合える事だろう。クリスマスイベントの失敗はそのゴールへの道を断つことになる。
これらの終着点の最適解を探さなければならない。全ての問題には共通点がある。残念ながらその共通点は、残念ながら一つではない。二つだ。
一つはクリスマスイベント。これについては言うまでも無いだろう。奉仕部のことだってクリスマスイベントだけに関連するとは言わないがクリスマスイベントにも関連しているといえる。
もう一つの共通点が茅ヶ崎だ。クリスマスイベントにも茅ヶ崎が関わってくるし怪盗サンタクロースの原作だって茅ヶ崎が書いているものだ。海浜高校で起きている事件には怪盗サンタクロースが関わってくる。怪盗サンタクロースの原作ではクリスマス当日に盗む為にその前からどんな根回しでも準備をしていたから関係していると思う。
それら二つの共通点のうちどちらかを切り捨ててしまうとしよう。そうすると全ての問題は茅ヶ崎に集約される。俺にクリスマスイベントを持ち込んできたのは茅ヶ崎だ。
急に俺の前に現れてきて俺をクリスマスイベントに巻き込んだ。生徒会に入って小町との繋がりもあるし過去に俺とも会っている。陽乃さんや葉山ともつながりがあり、更に今回のクリスマスイベントの妨げになっている怪盗サンタクロースを書いた人間でもある。
――――そんな偶然がありうるのか?
偶然だとするならばそれはどれほどまでに奇跡的でご都合主義的なものだというのだろう。
いや、そんな分かりもしない偶然を計算に入れるのはよくない。確実性のあるものだけで計算をするべきだ。だとするならば今回の件は全て必然的なものだったということになる。
茅ヶ崎清明。彼こそが解決すべき問題なのだろう。ただ、茅ヶ崎は俺よりも強い。俺が信じ切れなかったものをきっと茅ヶ崎は信じている。信念が硬い茅ヶ崎を俺がどうにかする事は不可能であろう。じゃあ、どうすればいい? 誰かに助けを求めるか?
幸い、前と違って助けを乞うことの大切さを知った。だが今、実際に助けてもらっている。雪ノ下も由比ヶ浜も手伝ってくれて小町や一色も当事者として働いている。材木座や戸塚、川崎に頼る事は流石にキツイ。高校受験に失敗して滑り止めで受かってもまだ何とかチャンスがあるかもしれないが大学受験に失敗すると就職に直に響く。材木座や戸塚、川崎といった俺の頼れる人間には今は頼れない頼って彼ら彼女らを引きずり降ろすような真似は嫌だ。
だとすれば平塚先生だろうか。平塚先生は、クリスマスイベントにも目をかけてくれてるし奉仕部の顧問だから助ける筋合いもある。だが、平塚先生だって忙しいはずだ。いつまでも見てくれるわけじゃないのに助けを求めればいなくなってしまったときに困る。
じゃあ誰だ? 他に俺は誰を頼れるというのだろうか。めぐり先輩か? めぐり先輩は確かに受験はないだろうからもしかしたら頼れるかもしれない。だが、駄目だ。俺とめぐり先輩とのつながりはもう絶たれてしまっている。結局俺の築き上げたものは卒業程度で壊れてしまう、それまでのものでしかなかったのだ。全て俺が悪い。俺が壊れない関係を築けなくて近づこうとしてくれた人の期待を裏切り続けたのだ。
陽乃さんだっていつまでも俺たちに目をかけてくれはしない。大学で忙しいはずだし立場的にも年末は忙しいはずだ。今、あの人に滅茶苦茶にされるのは更なる問題を発生させる原因になる。それだけは避けなければならない。
だが、俺だけだと雪ノ下や由比ヶ浜の期待をまたしても裏切ってしまう。最低の手しか思いつかない。それでいいのだろうか? 俺はあの時間違えたのにまた間違えるのを本物と呼んでいいのだろうか? きっと答えは否である。
ならば、どうする? また欺瞞を許容するのか? それでいいのか?
小町のため以外にも、雪ノ下や由比ヶ浜は勿論、一色や茅ヶ崎のためにも。俺の周りの全ての人間のためにも誰も傷つかない世界を創らなければいけない。
しかし、そんなことが不可能なのも知っている。それを目指して成功しているならとっくに実現しているはずだ。実現せずに傷があるから俺はこうして考えているのだ。
だとすれば誰も傷つかない世界に限りなく近い世界はどんな世界なのだろうか。きっと人によって違うのだろう。均等に痛みを分配したり傷を気付かせなかったり色んなものがある。そしてそれは色んな人間と関わる事で変わっていく。
だが、俺の誰も傷つかない世界に限りなく近い世界は変わらない。
万物が流転し全てが変わりつづけるのだから周囲が、環境が、評価軸そのものが歪み、変わり、俺の在り方も変えられてしまう。
だから。
――――だから俺は変わらない。変わらないように行動したいと思う。
「はぁ……」
深いため息をついた。
またその手を使うのか、と自意識の化け物が問いかけてきたが俺にはそれしか選択肢がない。だからより高度にやってやればいい。
ぼっちを舐めるなよ? ぼっちの学習能力は桁はずれてるんだよ。何度も何度も失敗してきたからな。学習能力を上げないと対応できないんだよ。負ける事に関しては俺が最強。だったら俺が負ける策を取ればいい。それこそがこの問題の最適解だ。
放課後の教室。自分の机でぐーっと伸びをしながら策をより緻密に練っていた。頭を掻くと振動が頭に響く。かなり激しい頭痛だが別段、徹夜のせいで免疫が弱まって風邪をひいたわけではない。ただ単に、寝不足で目が覚めていないだけだ。
結局、策を練っていたら明るくなっていたので眠ることが出来ずに学校に向かった。それで授業中に寝ることも保健室にサボりに行くことも躊躇われるので机に突っ伏して何とか眠気に勝とうともがいている。眠気というのは時に人をものすごい力でねじ伏せるもので授業もほぼ聞き流してしまった。目が完全に覚めていないぼんやりとした意識で放課後までの時間を過ごした。
ただ、放課後になった途端、意識がやけにはっきりとしていた。迷いがあるわけでもない、しっかりとした意識の下、人気の無い廊下を歩いた。寒々しさがものすごい気になった。心臓の律動がどんよりとしていて、とても体が冷たい。脳もきれいに冷えているので冷静な判断が出来る。窓を打つ風の音も遠くで聞こえる運動部の声さえも俺の背中を押している。
何度も何度も間違っているのではないかと問いかけた。一度は間違えた答えだからそれを出しても答えにはならないのだと言った。それでも俺にはこれしかないから、ならば間違った答えをもっと上手くまとめるしかないのだと俺の中で決着がついた。何度も何度も言うと決めた言葉を繰り返してその後の返答も計算しつくしていた。
進んだ先には紅茶の匂いがするあの部屋の扉がある。そこで雪ノ下と由比ヶ浜、茅ヶ崎と合流してから会議室に行くので俺の目的を果たすのには最適な目的地だ。
扉の前に立ってからもう一度だけ自分に尋ねたが、それでも答えは変わらなかった。だからそれが俺の答えなのだろう。
深呼吸をしてから奉仕部の扉を開く。ノックをしないのは俺が依頼人としてではなく奉仕部員として部屋に訪れた証だ。むしろ今日の目的に則るならノックをするのはおかしい。
「茅ヶ崎、ちょっと来い」
ドアを開けてすぐに言い放ち雪ノ下と由比ヶ浜の方は見ない。だが、それは別にやましい事をするからではないのだ、と信じておきたい。
俺が今からやるのは誇るべきことだ。それについては俺自身も確証がある。だが、やり方が誇るべきではないし雪ノ下や由比ヶ浜に疑念を持ってほしくない。俺が守りたいもののために誰も傷つかない世界を作ろうとしているのにその邪魔をしてほしくない。
「……了解です。お二人は先に会議室に行っていて下さい。長くなると思うので」
茅ヶ崎は雪ノ下と由比ヶ浜に言うと荷物をまとめて持ってから部屋を出た。おそらく長くなる事が分かっているんだったら俺の用件も分かっているのだろう。手のひらで踊らされているような気がして少し癪だがしょうがない。
由比ヶ浜が理由を聞こうとしているのを雪ノ下が止めていた。俺の真剣な顔で分かってくれたんだろうか。長い付き合いだし邪魔しないでほしいかどうかぐらい分かってくれると思う。勿論分かってもらいたい訳じゃないけれど。
「じゃ、行くぞ」
「……了解です」
俺が向かったのは校舎と特別棟をつなぐ廊下の四回部分だ。屋根がなく屋上のようになっている空中廊下で、吹きっ晒しの風が俺の肌に当たってかなり痛かった。これだけ寒ければ人もいないだろうし話にはちょうどいい。
去年の上書きがしたい訳ではないのだけれどそれでも自然に去年、雪ノ下が向かった場所に引き寄せられてしまう。それだけ去年の出来事は思い出深い。
西の残照は特別棟に遮られ、夕日は廊下のガラス越しに降り注いでいる。既に暗くなろうとしている東の空が冬であることを象徴している。去年、雪ノ下が寄りかかった手すりに手を付き、深いため息を吐いた。冷たい風が俺のアホ毛をたなびかせている。
「えーっと……お話って何ですか?」
とぼけたように話す茅ヶ崎には苛立ちを覚えた。分かっているのに分からない振りをするので本当にイライラする。だが、俺がここでイライラしてしまってはいけない。
「お前も分かってるんじゃないのか? クリスマスイベントについてだよ」
クリスマスイベントについて。それだけだと漠然としすぎているかもしれない。だから追い打ちをかけるように次の一言を搾り出す。
「お前なんだろ? 怪盗サンタクロースっていうのは」
俺がその一言を発した時、何故か茅ヶ崎は安堵の表情を浮かべた。あまりにも穏やかでだからといって犯人が諦めた、という感じでもない。ああ、やっと見つけてくれた。やっと追いついてくれたと言わんばかりの表情だった。
「流石です、先輩。一週間で気付くなんて。まあ、普通に考えたら俺が一番怪しいんですけど。俺が怪盗サンタクロースを書いたって知ってるのは先輩方だけですし先輩方は基本、普通ないですからね」
茅ヶ崎の腐った目は、真っ直ぐ俺だけを見ていた。そんな視線を向けられた事は人生で一度もなかったしこれからも無い事だ。これからなんて考えるだけ、無駄だけれど。
「確かにそうだな。始めから隠す気ゼロだったしな」
今更になって茅ヶ崎が初日に奉仕部に来たことを思い出してみると自分が怪盗サンタクロースでないことを隠そうとしていなかった。その堂々とした態度の裏を読もうとしてしまったから答えを出すのにここまで時間が掛かってしまったのだろう。
「それで? どこまで分かっているんですか? 聞かせてくださいよ、先輩の見解を」
茅ヶ崎の挑発的な期待に応えるようにして俺は、話し始めた。
此方と彼方を分かつように、俺と茅ヶ崎の差を示すように、冷えた残酷な風が俺と茅ヶ崎の間に吹きぬけた。風に揺られたネクタイが首を絞めているような気がした。気付くと口の中は枯れ果てていた。
茅ヶ崎は、怪盗サンタクロースである。それは今言ったとおりだ。茅ヶ崎も認めているし考えてみれば茅ヶ崎が一番怪しい。茅ヶ崎が書いた小説をもし中学で配ったとしてもそれを一年ぐらい経った今、わざわざ使うほうがありえない。自分が書いた、というのであれば記憶に残りやすいかもしれないが文芸部から買った、という記憶は記憶に残りにくい。一年もすれば消えてしまうだろう。勿論それでも家でたまたま見つかってよかったから使ったという風に考えられなくもないだろう。でもそんな偶然を計算に入れきれない。だから偶然を全て切り捨てて考える。そうすると茅ヶ崎が模倣したというのが一番確率が高い。
そうするとある程度のことは言い訳が出来る。生徒会で別々の行動を望んだのも近づかれすぎてばれる危険性があったから、怪盗サンタクロースとして動きやすくする為、という理由だろう。俺が感じた茅ヶ崎が全ての事に関わっているという感覚も説明がつく。
海浜高校の事件については手を出すのが別高校の人間だと難しい。だから茅ヶ崎は海浜高校の生徒に協力を得たのだろう。それが誰か、まで分かりはしないが茅ヶ崎が指示を出したのは間違いないはずだ。茅ヶ崎が海浜高校の事件について詳しかったのも納得できる。
そんなことを茅ヶ崎に言って聞かせると白い歯を見せてにこりと笑った。
「そこまで分かっていらっしゃるとは。おみそれしましたよ。流石、俺が目をつけただけの事はある。それで? 動機は何だと思いますか?」
動機。茅ヶ崎がそれを聞いてきて、俺は答える事ができなかった。残念ながら俺はそれについての解を持っていない。考えても答えが出なかったし結果さえ出てしまえば動機を求める必要が俺にはない。考えたって理解できないのだから考えるだけ無駄だ。
「分からない、ですか……そうでしょうね。先輩はもう、失くしてしまったんですから分かるはずないですよね」
分からないし必要がないから考えなかったのに、分かるはずがないだなんて面と向かって言われたら苦しいのは何故なのだろう。そんなことを考えながらも胸の痛みを消して次に紡ぐべき言葉を伝えようとした。
「俺は試したかったんですよ。俺の持ってる関係がそれまでのものではないのか。小町さんとの関係が一番大きかったですかね。クリスマスイベントで困って、俺が突き放して。そうしても壊れないほどに強固なものなのかどうか」
茅ヶ崎の言ったそれは俺が確かに信じていたものだ。葉山にだって堂々と言い放った言葉だし何度も何度も確かめていた言葉だ。けれども信じ切れなくて諦めてしまったものだ。ひねくれた虚実で目を背けていたものだ。
「まあ、残念ながらそれまでのものだったんで――」
「そうじゃねぇよ」
気付くと、俺は紡ぐはずの言葉を紡いでいなかった。予期していなかった言葉だけを無意識の内に話していてそれがどうしても去年と似ているように思った。
結局のところ俺は何一つ変われていない。ただ、俺が話したかったことじゃない方向に話が進んでしまいそうだったからって理由だけじゃ片付けられない胸の高ぶりがあった。
「茅ヶ崎。そうじゃない」
さっきまで冷え切っていた脳も、体も驚くほどに熱を帯びていた。心臓の律動が秒針を追い越してしまって血の流れが早くなっている気がした。血が沸騰してしまうほどに体が火照って脳もオーバーヒートしている。まともな言葉を出せるとは思わない。
「そうですかね? 間違って無いと思いますけど」
冷たくて虚ろで、残酷に否定するだけの言葉。しかしその言葉があまりにも虚ろだったから茅ヶ崎の真意がもっと別のところにある気がした。
「いや違う。茅ヶ崎は間違っている」
さっきから何度同じような事を言っているんだろう。愚か過ぎる自分に呆れて言い訳も出来ないけれど言葉を紡ぎたくて、もっと言葉を紡ぎたくて。だから俺は声を出していた。
仮初めででたらめな関係を本物として容認してしまっても俺は許すことが出来る。許しても結局容認した人間が欺瞞に生きる事になるだけなのだ。けれども本物を仮初めででたらめだと言う事を俺は許すことが出来ない。俺は本物を持ち合わせていないから本物を持っている人間に嫉妬しているだけなのかもしれない。だとしたら何て醜いのだろう。
それでも、小町が本物だと信じて手を伸ばしているものを偽物だというのなら俺は黙って見ていることができないし見ていたくない。
「確かにお前は今の関係を欺瞞だと思うかもしれない。それまでのものだと思うかもしれない。そんな大きすぎる違和感を抱えてるのかもしれない。でもなぁ……」
俺も、茅ヶ崎も甘えているのだろう。思考を停止するとアイデンデティが消失してしまうから本物を偽物だと言って。或いは本物を拒絶する振りをして。或いは偽物に安住する振りをして。それで俺たちは考え続ける自分に酔っていたのだ。
目尻が熱くなっていて気付くと頬には一筋の涙が伝っていた。その瞬間は異常なほどに涙もろくなっていて息を呑むだけで涙があふれ出てきた。
「お前のそれはただの甘えだ。それまでのものなのか確かめたいならそういうやり方じゃない。自分で選べ。相手に選ばせるんじゃなくて選ぶんだ。保留じゃなく前に進もうとしろ。それで拒絶されたとき本当にそれまでのものなのか分かるんだよっ!」
珍しく俺らしくなくなっていることに気付いていた。キャラ崩壊もいいところだ。だが、お兄ちゃんは妹のためなら最強になれるんだよ。お兄ちゃん力を舐めるな。熱くなろうと思えば太陽よりも熱くなれるんだ。今だけはリア充みたいに叫んでも自分を嫌悪せずに済むんだよ!
「俺もお前もは言葉が欲しいんじゃない。俺たちが欲しかったものは確かにあった。それはきっと、分かり合いたいとか、仲良くしたいとか、一緒にいたいとか、そういう事じゃない。俺は分かって貰いたいんじゃない。俺たちはは分かりたいのだ、分かりたい。知っていたい。知って安心したい。安らぎを得ていたい。分からない事はひどく怖い事だから。完全に理解したいだなんてひどく独善的で独裁的で傲慢な願いが……本当に浅ましくておぞましい。そんな願望を抱いている自分が気持ち悪くて仕方がない……!だけどもしも、もしもお互いがそう思えるなら、その醜い自己満足を押し付け合い、許容できる関係性が存在するなら。そんな事、絶対に出来ないのは知っている。そんなものに手が届かないのも分かっている。それでもな。そこまで考えが及んでいてどんなに策を練ってもそれでもお前と俺の願いは変わらないんだよ。俺は、俺たちは本物が欲しいっっ!」
俺も茅ヶ崎も。きっと雪ノ下も由比ヶ浜も小町や一色だって同じものを求めているのだ。それでもその形が不定形だから思い描く形が違くて、そのせいで求めているものが違うように見えているだけなのだ。
まだ、結論を述べられていない。あの日のようにあまりにも不完全すぎる感情任せな答えでは茅ヶ崎になにも伝えられない。届かない。届かない祈りも届かない言葉も確かにあるけれど今は届かせなければらないのだ。
言葉無しに伝えられない俺が。言葉があるから間違えてしまう俺が。そんな俺に何が分かって何が伝えられるのかわからない。あの時も今も、比企谷八幡が欲した本物がどんなものであるのかしっかりと文章に出来ないでいるけれど、今、こうして醜態を晒しながら流している涙が思い出させてくれるのだ。
本物を欲して本物が何かわからないといったあの夕方だけは俺の人生で唯一、間違えてなんかいなかったのだと。だからこそ、あの夕方を思い出すようにしてオレンジ色の空を見上げた。
やはり、空は滲んでいた。
言葉にならないこの言葉を言ってしまったら死にたくなる程恥ずかしいと、一度経験しているからこそわかる。それでも、絶対に言わなければならないと思う。
「…………」
「……お前の持ってるそれは本物だ。それをお前だって分かってるはずだ。それでもお前は信じられなくて試したいと思うんだろう」
どうしても本物があると信じられないその姿はまるで陽乃さんだ。あの人も本物を信じられなくて何度も何度も試し続けている。けれども陽乃さんと違うのは茅ヶ崎があの人と違って俺に心のどこかで助けを求めている点だろう。
「だから、そんなお前に言ってやる……」
言ってやる? 俺は茅ヶ崎に何を伝えたい? 何を伝えることが出来る? 自分の願っているものですら明確に説明できない俺に何が言えるというのだろうか。
嘘みたいに甘い果実を与えてやれないしすっぱくて不味い果実を与えることも出来ない。味がなくて中身のないちっぽけな言葉しか言うことができない。
それでも言葉を発することに意味があるというのなら。
「世界の全てをとは言わない。近づいてくる全ての人間とは言わない。優しくしてくる奴全員とも言わない。だから、信じろ。誰かとか、皆とかじゃなくていいから。信じてもいいと、ほんの少しでも思えた相手だけを信じろっ!!」
ああ、信じろだなんて。何て傲慢な言葉なのだろうか。俺自身何度も嫌って否定してきた言葉なのに何で今更になって自分で正当化しているのだろう。
自分の中の矛盾さえ抑えきれていないのに届くはずがない。歯がゆい思いで一杯になりながらも滲んだ目の前の世界を見ていた。
「…………」
滲んだ世界の手前の方には俯いた茅ヶ崎が映った。俯いているせいで腐った目が見えなかったが俺のものではない嗚咽の音が聞こえた。――え? 俺のものじゃない?
「……流石、ですよ……先、輩。それが聞きた……かったんですよ」
茅ヶ崎は涙を隠すようにして目をぱちぱちとしながら言った。ぽろぽろと涙を流している茅ヶ崎の目は腐っていたけれど確かに澄み切っていて素直だった。由比ヶ浜が流した涙と同じものではないがそれでも確実に偽物ではなかった。
偽物ではないそれを本物だと信じることが出来なくとも、俺はそれを守りたいと思えた。
この涙のためにも俺は誰も傷つかない世界を創る。
「そこで、だ。お前に提案がある」
今、この瞬間だけは間違えていないのだと。俺は信じていたい。