「綺麗だな」
────無意識に、言葉が漏れた。
冥界は白玉楼の縁側。枯山水が広がる庭の奥には見渡す限りの桜たち。咲き誇る姿は優雅で、目に映る姿は雄大だ。一人で静かに花見というのもなかなか乙なものだと思うけど、はっきり言うとただぼーっとしているだけなので眠くなってしまいそうになる。太陽の光を浴びているものだから、余計に。
「今年も春が来たわねぇ」
後ろから声が聞こえた。このどこか眠たそうな声──この屋敷では彼女以外に有り得ない。
「幽々子さん」
「最近は暖かくて眠たくなっちゃうわぁ……」
と、言い終える直前に欠伸が出てしまった。余程眠たいらしい。普段の柔らかい声がいつも以上に柔らかい気がする。
「そんなに眠いなら素直に寝ればいいと思うんですけど」
「今日は貴方と話したくって、ふわぁ〜……」
また欠伸。秒刻みで欠伸するくらい眠いのに話すことって一体何だろう。欠伸が終わると「隣いい?」と言って互いの肩が触れるくらい近くに座ってきた。
「それにしても桜が綺麗ねぇ」
「はい、いつまでも見ていられます」
そう言葉を返すと、幽々子さんは微笑んだ。
「貴方が初めて冥界に来た時も桜が綺麗に咲いていたわね」
「……そう、ですね」
「こっちに来てからもう三年くらい経ったかしら」
「もうそんなに経ってたんですね」
時の流れとは早いもので、幻想郷に偶然迷い込んだあの日から三年。ここでの生活は元の世界とは外観や常識など、何もかも違くて驚きの連続だった。しかし、今となっては幻想郷で起こる大体のことに慣れた。三年もあれば人は変わるものだな、と感傷的な気持ちになった。
「幻想郷は楽しいかしら?」
「勿論楽しいですよ。幻想郷は何をするにも飽きない場所です」
「そう、それは良かったわ」
自分の返答を聴いた幽々子さんは嬉しそうに頷いた。
────その時だった。彼女の言葉と同時に、強めの風が吹いた。それは暖かな空間に似つかわしくない冷たい風だった。桜の木々の揺れる音が、桜の花びらが散りゆく姿が堪らなく不安を掻き立てる。そして、少し間を置いて、彼女は。
「────で、外の世界についてはどう?」
その問いは余りにも唐突だった。今まで一度だって問われたことはなかった話。余計な詮索はしないと敢えて聞いてこなかったんだろうけどやはり気になったのだろうか?
「どうして今その話を?」
「ある程度時間も経ったし、そろそろ聞いておこうと思ったのよ」
「そうですか……」
まぁ、三年と言えば人が変わるには十分な時間だ。自分もその例外ではない。だから、恐れずに答えよう。
「……特に未練は無いです。家族はいないし、凄く仲が良い友達もいないし。外の世界にはもう大切なもの、ありませんから」
外の世界のことは正直思い出したくない。自分は酷く口下手で人付き合いが苦手だった。だから友達も少なく繋がりも薄い。中学、高校と上がっていく度に友達は減っていき、高校を卒業してからはいよいよ友達はいなくなった。卒業後は東京の専門学校に入学したが、その数日後に母親が亡くなった。母子家庭で一人っ子だったため、完全に孤独だった。今思えば、自分が幻想郷に来たのは誰にとってもどうでもいい存在だったからだろう。今更そんな世界に戻って死ぬまで独りで生きるなんてとてもできない。
「なので、大丈夫です。これからも答えは変わることはないでしょう」
「そう……」
「とは言っても、時々思い出しちゃうんですけどね。あっちにいた時のこと」
外の世界では色々あった。楽しい出来事も苦しい出来事も。だから、どうしようもなく思い出す時がある。どちらかと言えば苦しい出来事の方が多いけど、これらの体験が今の自身の一部であることに変わりはない。そう考えると、嫌な過去であろうと全てを否定する訳にもいかない。
「まぁ、色々あったので忘れないように心の片隅に留めておこうって感じです」
「……強くなったわね、貴方」
幽々子さんの口から出た言葉は意外なものだった。それがどういう意味なのか分からず「どうしてですか?」と返す。
「会ったばかりの貴方はいつも俯いていて苦しそうだったけれど、今は前を向いて楽しそうに生きているわ。同じ人とは思えないくらいにね」
「そんなに変わったように見えますか?」
「えぇ、妖夢や紫たちもきっと同じことを言うわ」
「まぁ、色々変わったのは事実です。幽々子さんたちと一緒にいるようになってからは毎日が楽しいです。そうやって過ごしていく内に過去のことでずっと悩むのも馬鹿らしくなりました」
母親が死んでからの自分は鬱状態で、抜け殻のようだった。そんな時に幻想郷に迷い込み、幽々子さんと出会った。彼女の楽しくあろうとする姿勢に感化されて、自分は変わることができた。今隣に座る亡霊の少女が、何かを楽しみ、愛し、生きることの大切さを自分に教えてくれたのだ。
「俺が変わることができたのは幽々子さんのおかげです。感謝しても感謝しきれません」
「そうやって褒められると流石に照れちゃうわね……」
珍しく幽々子さんの頬が赤く染まった。冗談ではなく、本当に照れているようだった。
「まぁ、もし辛くなったら思う存分私に甘えなさい。一人で苦しむのはダメよ?」
その言葉と同時に幽々子さんに抱き着かれ、更に頭を撫でられた。彼女の身体は冷たいが、心は温もりに満ち溢れていた。こうしていると不思議と安心感がこみ上げる。
「……努力はします」
「これは命令よ?貴方は形式上私の従者なんだから、ね」
「……こういう時だけ都合良いですよね」
普段対等に接するんだから主従も何もないだろう、と思った。なんだか可笑しくて笑えてくる。
にしても、幽々子さんに包まれているのは心地良い。桜のように上品な匂い、聞くだけで心が安らぐ柔らかな声、火照った身体に効く絶妙な体温、一心に向けられる愛情。春の暖かさも相俟って頭がぼんやりしてきた。
「すみません、少し寝てもいいですか?」
「えぇ、勿論」
柔和な笑みを浮かべて、頼みを聞き入れてくれた。瞬間、全身の力が徐々に抜けていき、幽々子さんにもたれ掛かった。
「おやすみなさい」
と、幽々子さんが耳元で囁いた。直後、朦朧とする意識が暗闇の中に落ちた────。
※※※
「────あら、起きたかしら?」
目覚めると、最初に映ったの幽々子さんの穏やかな微笑みだった。まだぼんやりとする意識が、彼女の声によって徐々に明瞭になる。
「あれ……?」
後頭部に柔らかい感触を感じた。それが幽々子さんの太ももだということに気づくのに時間は掛からなかった。目覚めが良いと感じるのも膝枕によるものだろう。
「寝顔、とっても可愛かったわよ」
優しく、慈しむように頭を撫でられた。その手付きがとても心地良くて、今までの苦労や悩みをつい忘れてしまいそうになる。同時に無防備な姿を顕になっている状況を理解し、恥ずかしくなってきた。
「うぅ……」
熱い、顔が熱い。絶対赤くなってる。自身の表情を見られまいと、腕で目を覆い隠した。
「ふふ、やっぱり貴方はこうでないとね」
「幽々子さん、貴女って人は────!」
気恥ずかしさを抑えきれず、思わず叫んだ。幽々子さんは面白そうに笑っているが、こちらとしては堪ったものじゃない。しかし、この温かい雰囲気がいつまでも続けばいいと思う自分がいるのも確かだった。
心と身体はほのぼのとした話を求めているのに手はシリアスな話を書いてしまうの、本当に救いが無い。次は明るい雰囲気の話を書こうと思います。