野球の名門、あかつき中学校。
そのグラウンドに立つ二人の男。その一人、鮮やかな薄茶色の髪に整った顔立ち、三年間名門あかつき中学校のエースを務めた完璧超人、猪狩守。
彼と同学年、来季より高校生になる球児達は猪狩を筆頭として優秀な人材が多く、高校に入る前から早くも豊作の年『猪狩世代』などと言われ騒がれている。
「やはり、気は変わらないのか?」
猪狩がもう一人の男に問う。
その男の名前は橘優吾。短く切り揃えられた清潔感のある黒い髪。身長は猪狩よりも拳一つ分高く、その鍛え上げられた肉体には無駄な脂肪など一切見当たらない。
三年に上がってからあかつき中学校の正捕手の座を我が物とし、一年間猪狩とバッテリーを組んでいた。
「ああ、俺はあかつき大付属には行かない」
「なぜだ。キミは僕が認める数少ない選手の一人だ。その才能を腐らせてしまっていいはずがない」
「買い被りすぎだよ。だいたい、あかつきには二宮さんがいるし、来期には進だって入学するんだろ? 俺がいなくたって捕手には困らないだろうが」
「僕は……キミとバッテリーを組みたいんだ」
猪狩はまっすぐな視線で優吾を見つめる。
それを受け、少し困ったような表情を見せた後、優吾はゆっくりと胸の内を明かす。
「俺はさ、自分に自信がないんだ。一年間正捕手としてやってきたけど、今でも正捕手は一つ下の進の方が良かったんじゃないかと思ってる」
「そんなこと……」
「まあ最後まで聞けよ。だからさ、俺は自分に自信を持てるようになりたいんだよ。将来、プロの世界でお前とバッテリーを組む為に」
「!?」
「別の高校に入って、捕手としてチームを引っ張って、今度はライバルとしてお前と正々堂々勝負する。そして自分の力でお前に勝てた時、俺はきっと胸を張ってお前の女房役を務められるようになると思うんだ」
「だ、だとしても! それならこの進路希望はいったいどういうことだ!?」
そう言って突き出した猪狩の右手には教師に提出したはずの優吾の進路調査表。
一番上、第一希望に書かれていたのは『日の坂学園』の文字。
「日の坂学園と言えば来年から開校される新設校のことだろう? 何の下地もなく、生徒は新規入学の一年生だけ。こんなところで……」
「それがいいんじゃないか」
「……なんだって?」
「何もないところで一からチームを作って甲子園を目指す。自分の力を試すにはこれ以上ないってシチュエーションだ」
「馬鹿を言うな! 野球はそんな簡単なスポーツじゃない! 無名の新設校に野球をやりに行く生徒が多くいるとは思えない。下手をすれば野球部を作ることだって困難だ。それに無名校なんてプロのスカウトは目もくれない。プロ入りだって--」
「なんだ、猪狩は名門の後ろ盾がなけりゃプロに行けないのか?」
「ば、馬鹿にするな! 僕ならどんな環境でもスカウトの目に止まってみせるさ」
「だろうな。だからこそ、お前と肩を並べるには俺もそうならなきゃいけねぇんだよ。……わかってくれ」
「……小波といい、お前といい、今年のあかつきは理解できない連中が多すぎる」
「ああ、そういや小波はときめき青春に行くんだったっけか」
小波晴人。あかつき中学校の四番打者で、猪狩、優吾と同様多くの名門高校が注目する猪狩世代屈指の好打者だ。
「まぁ、いい。お前が一度決めたことを絶対に曲げない奴だってことは僕もわかってる」
「わりぃな」
「それならば、僕はそれなりの対応をするだけだ」
「……は?」
「全力でかかって来い。この僕、猪狩守がお前を完膚無きまでに叩きのめし、あかつきに来なかったキミの選択を後悔させてあげよう」
「おーこわっ。でも、いいねぇ。俺はずっと、お前とこういう熱い勝負がしたかったんだ」
「ふん、その減らず口もすぐに叩けなくしてあげるよ」
そう言い残して、猪狩は優吾に背を向け去っていく。
グラウンドに一人残された優吾はその場に落ちていた白球を拾い上げ、遥か遠く、約90メートル先にあるバッティングケージを見据える。
大きくワンステップして投げられたその白球は、バスッと音を立ててバッティングケージのネットに吸い込まれていった。