「なるほど、その子は野球部のチームメイトで朝ロードワーク中に偶然会って一緒に走って、汗をかいたからシャワーを貸していただけ……と」
「正確には部員がまだ集まってないから部ではないんですが、概ねその通りでございます」
ひとまずみずきを部屋の中に招き入れ、終始正座の体制で事情を説明し終えた優吾。その隣で何故か翠もきちんと正座して表情を硬くしている。
「はぁ……急に一人暮らしするって言って家を出て行って、学校もあかつきでもなくおじいちゃんの聖タチバナでもなく野球部がない新設校に行って、どうしてるかなぁと思って様子を見に来てみればこれだもの、お父さんとおじいちゃんになんて報告してやろうかしら」
「何でもしますからほんとそれだけは勘弁してください」
深々と頭を下げる優吾。最早男としても兄としてもプライドなど微塵も感じられないすがたである。
「へぇー、何でもしてくれるの?」
「まぁ、俺に出来ることなら」
「そうねぇ、じゃあお兄ちゃん今すぐ聖タチバナに転校して」
「はぁ!?」
「えぇ!?」
これには大人しく縮こまっていた翠も堪らず立ち上がる。
みずきはそんなことは気にも留めず続けた。
「うちが最近野球部に力を入れてることはお兄ちゃんも知ってるでしょ? 今年の一年は私を含めかなり良い線いってるのよ。ただ肝心の扇の要が弱くてね、その点お兄ちゃんが入ってくれれば盤石ってわけ」
「いやいやいや、そんな急に言われても! だいたい俺は……」
「そ、そんなのダメですっ!!!!」
「っ!?」
お隣さんまで響いたのではないかと思えるほどの大声をあげたのは、いつもは大人しい翠だった。
突然のことにこれまで優先だったみずきが呆気に取られるも、すぐ様持ち直し翠を睨みつける。
「川奈さん……だっけ? これは私とお兄ちゃんの問題であってあなたに口出しされる言われはないと思うんだけど」
「た、橘くんは大事なチームメイトなんです! それに、橘くんがいないと私は投げられません。橘くんじゃなきゃ、ダメなんです……」
「川奈……」
あの大人しい翠がここまでハッキリと物を言う。そのことに驚いたと同時に、自分を心から必要としてくれている翠に答えたい。優吾は改めてそう思った。
「……お兄ちゃんも、同じ気持ちなの?」
「……ああ、出会ってまだ数日しか経ってないけど俺は川奈のことを信頼してる。こいつとなら甲子園だって夢じゃないって本気で思ってるんだ。俺は日の坂高校で甲子園に行きたい。だから、ごめんなみずき」
「ん……まぁそう言うだろうとは思ってたけどね」
「橘さん……」
「みずきでいいわよ。橘だとお兄ちゃんと被っちゃうし」
「あ、じゃあ、みずきさん……ありがとう」
「お礼を言われるようなことはしてないと思うんだけど……変な子ね」
くすくすと笑うみずき。
ふぅ、と一つ息を吐いた後、みずきは優吾に向き直って再度訪ねた。
「お兄ちゃん俺に出来ることなら何でもするって言ったよね? じゃあ一つお願いしてもいい?」
「ん、さっきの転校みたいなのじゃなければいいぞ」
「転校してくれたらそれが一番楽だったんだけどね。リトルリーグの時にした約束、覚えてる?」
「六年の最後にしたやつか? もちろん覚えてるよ」
「そっか……覚えててくれたんだ。……うん、覚えててくれたならいいのよ。じゃあその約束、これからも忘れないでね」
「ああ、ん? お願いってそれでいいのか?」
「うん、満足したから私はそろそろ帰るわ」
「そっか、送ってこうか?」
「私はいいからちゃんと翠ちゃんを送ってあげなさいよ。まさか家に泊めようとか思ってないわよね?」
「ばっ、ちゃんと家まで送り届けるよ!」
「なら良し、それじゃあまたね。翠ちゃんもばいばい」
「あ、はい。ばいばい……です。みずきさん」
「気をつけて帰れよ」
玄関先でみずきを見送る優吾と翠。
時間にすれば一時間もないくらいだったが、優吾にとっては嵐のようなひと時であった。
「あの、橘くん、……みずきさんと昔どんな約束したんですか? あ、聞いちゃいけないことだったら答えなくていいんですけどっ!」
「ん、ああいや別にそんな大層な約束じゃないからいいんだけど……俺とみずきは小学生の頃同じリトルリーグのチームで野球やっててさ、中学が別だったからリトルリーグの最後の大会が終わった後みずきにお願いされたんだよ」
「お願い?」
「ああ、『もしまた同じチームで野球ができるようになったら、また私とバッテリーを組んでね』ってさ」
ーー優吾の家からの帰り道、みずきは何かを企むような、実に楽しそうな表情を浮かべていた。