百里奚   作:みくてく

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作中に登場する国

許……百里奚の産まれ育った国。一度鄭と魯の連合軍に攻められ亡ぶが、のちに復興する。
鄭……中華の中央にある大国。荘公の時代に栄華をきわめたが、荘公歿後に後継者争いが起き、許の離反などで著しく弱体してゆく。
魯……大陸東部にある国。元々許は魯の一部であったが、遠くはなれていたがために、鄭との領地交換を行う。が、許がこれに従わなかったがために、鄭と連合して攻め落とす。
斉……太公望を祖とする羌族の国。魯の更に東にあり、海(日本海)に面している。百里奚はここで芭蕉扇、管仲、鮑叔、召忽といった人物と出会うことになる。
衛……許の君主が亡命した国。鄭の東、魯の西ぐらいの位置にある。



前編

 中国の春秋時代、西暦でいうと紀元前694年の話である。

時期的には、少しずつ肌寒さを感じ始める初秋ごろであるが、この日は早朝から下女のけたたましい悲鳴が響いた。

むろん、寒さによるものなどではない。

 

「門前に死人が座っております」

 

というのだ。――死人が座っていられるはずがあろうか。家の主人は苦笑しつつも、門口まで進んだ。するとたしかに1人の男が、土塊のように座っている。その男が若いのか老いているのか、外見では判断できない。なにしろ蓬髪敝衣(ほうはつへいい)で、塵泥(じんでい)をすっぽり被っているので、真っ黒なのである。

 

「おまえさん、生きているのか、しんでいるのか」

 

 家の主人がそう問いかけると

 

 ――生きている。

 

 と、返事をする代わりに、男は(まぶた)を上げ、そして下ろした。

 

「どうしてここにいなさる」

 

 今度は男の唇頭が動いた。

 

「腹が減って動けぬ」

「どこのお方じゃ」

 

 男は瞼を閉じたまま動かない。

 

「ではどこへゆかれる」

 

 するとこんどは男の唇と瞼が同時に動いた。

 

太公望(たいこうぼう)の国へ、だ」

「ほう、斉へゆかれるのか」

 

 この時点より300年ほど前に、新たに王朝をひらいた周の武王・発によって、革命の元勲である太公望呂尚が封ぜられた国が

 

(せい)

 

である。太公望が稀代の謀臣であったことから、その彼を尊崇しているらしいこの幽鬼のような男が、どんな志を抱いているのか、家の主人はおおよその見当がついた。

 ――最近はこの手合が多くなった。

 門地のない男が、舌先をもって立身出世しようというのであろう。が、家の主人はそういう者たちを軽蔑はしなかった。一意をもって、寸陰のごとき一生をつらぬくべきである。斃れてのち已むのも、よいではないか。

 ――この男をみよ。

 と、家の主人は思う。男は空腹で動けぬという。しかし、その舌だけは立派に動いているではないか。男の言葉をきいたわしは、憐憫を覚え、食を与えようという気になっている。これがわしのような邑人(むらびと)ではなく、王侯貴族であったならば、どうであろうか。

 

「言葉だけで国家を、天下を動かせるならば、それほど愉快なことはあるまい」

 

 語り合いたくなった家の主人は、飢渇の男を招き入れ、篤くもてなすことにした。

 さて、この家がある土地は(ちつ)というところである。銍は食至とも書かれる。本来は食と至を併せた一字であるが、変換できないため、ご容赦いただきたい。ちなみに銍は農具のカマのことを指す。

 それはともかく、銍という土地をもう少しわかりやすくいうと、現在の沛県のあたりになる。これでピンとくる方もいるかもしれないが、ここはのちに――といっても400年ほどあとであるが――前漢の高祖・劉邦が生まれる土地である。そう思うと、ここは古くから情誼(じょうぎ)衒気(げんき)に富んだ土地柄なのかもしれない。

 この銍人(ちつじん)はよほど親切なたちなのか、どこの馬の骨ともしれぬ男を屋敷に招いたばかりでなく、

 

「客人だ」

 

 と、家人につげて、男にこびりついた塵泥を落とさせ、さっぱりとした衣類まで用意し、朝食をともにした。

 どうやら男は他人に情を受けたのは初めてらしい。まるで娘のような恥じらいと、戸惑いをみせた。それだけこの男は若いということである。

 ――若いが、ただの馬の骨ではない。

主人はおのれの予感が当たったことに満足した。食事の仕方でその人間の素性はおおよそわかるし、男がすわった容姿も悪くない。ただし目つきの鋭さが尋常ではない。

 ――こりゃあ、憑き物の目だな。

 そこにこの男の不幸がある、と銍人は密かにあわれんだ。

 男は羞渋のかたさがなかなかとれなかったが、食を得て、栄養が体にまわったのか、やがて舌の滑らかさが戻ったように、しゃべりはじめた。

 諸国を遊説してみたものの、結論としては、

 

「文のない国は、いかんともしがたい」

 

 と、男は言う。

 

「文」

 

 とは、太公望が生きていた周王朝の初めの頃では、死者を清めるために、死者の胸に描いた文様のことをいう。つまり文とは装飾、という意味であるが、この男のいう文とは、

 

「文化」

 

 のことである。簡単にいえば、人民が最も住みやすい社会を追求することである。

 

「文化とは、また、ことばでもある」

 

 と、男は言う。文のないということばは、ことばのないことと同然で、そういう国ではよそ者のことばは受け容れられない。しかし、周王朝に入貢しない蛮夷の族でさえ、ことばを持っているではないか、と言われるかもしれぬが、それはちがう。あれはたとえば、水の音、風の音などを、人の喉からでる音にすり替えているだけで、そうした国にあるのは沈黙なのである、と男はわかりにくいことを言った。要するに遊説に失敗したのだろう。

 ――この男は()まで行ったのかもしれぬな。

 と、銍人は考えながら、適当に頷いてみせた。この頃の楚は急激に力を伸ばし始めた南方の国である。ただし、周王朝に入貢していないため、中華圏からすれば蛮国といって差し支えない。しかし、楚はあくまで周とは対等と考え、周王に対して楚王を自称している。当然であるが、このときはまだ始皇帝などが生まれるはるか前のはなしであるから、王が至上であり、天を祭り、天の勅命を下すのは周王ただひとりである。そこで王を自称したのであるから、銍のような周と楚の間にあるような土地にいて、少し先が見えるものならば、この二国が近いうちにどこかでぶつかり合うであろうことは、なんとなく予感できる。

 が、この銍人は楚について、あえて問うことはしなかった。

 男は更に語る。

 武が力ならば、文もまた力である。天下国家を統治するには、武の力よりも文の力のほうがうわまわっている。なによりも、

 

 ――武には展望がない。

 

 だから斉へゆく、と男はいうのである。

 ここで銍人は首をかしげた。男が文をめざすというのであれば、なぜ、

 

()へゆく」

 

 と、いわないのであろう。魯は文化国家としては第一級である。対して、斉は法治国家であり、文化の程度はさほど高くない。それに銍からだと、斉よりも魯のほうが近い。と、いうより、斉にゆくには、どのみち魯を通るのである。銍からは泗水(しすい)にそって東北にのぼり、魯の首都である曲阜(きょくふ)を経て、そこから泰山(たいざん)を眺めながらぐるりとまわると、斉の首都、臨淄(りんし)に到着する。

 銍人がその疑問を指摘すると、男の鋭い眼光に赫炎のような色がでた。が、語気としては冷ややかに、

 

「魯は、おのれの文をたのみすぎる」

 

 と、いった。男の説明はこうである。魯の国は周の王室よりわかれた国であるから、先進の国体であるが、魯の宗主、周公・旦がそうであったように、自尊の心が強く、異邦人の智慧など要らぬとする国である。また人臣の上下を峻別するあまり、自国の下層の者の智慧でさえくもうとしない。いうなれば、頭ばかりで生きている国である。下層とは国の足にあたり、人も国も足で立っているということを、魯の大臣たちは忘れている。したがってそういう国は、足が萎えるのもはやく、頭にあたる指導者の血が老いてきて、巡らなければ、どうして立っていられようか、と男の舌鋒はするどい。

 

「つまり、魯の亡びははやいといわれるか」

「いや、大国としての面目を失うのが、ということです」

 

 と、男はいった。大国であり、伝統のある魯のような国は、他国をはばかることがないから、おのずと国際感覚をうしなってゆく、男の言い分は、それであった。魯を遠くから眺めているにすぎない銍人だが、それには内心肯首するところがある。

 ――現に、魯は面目を失ったばかりだ。

 まさにこの年の春頃のはなしであるが、魯の君主はとなりの斉の君主に謀殺された。原因は魯の君主の夫人が、斉の君主と通じていたことで、いわば三角関係のもつれから、そうなったわけだが、痴情がからむと殺人が残酷になるとはいえ、魯の君主の殺され方はいかにも惨烈であった。かれは斉の君主に招かれて酒を飲まされ、正体のなくなったところを、彭生(ほうせい)という大力の男に抱きあげられ、車中に運ばれて、そこでまるで木像が破片にかわるかのように、摧折(さいせつ)された。水母(くらげ)のごとき君主の屍体を下げ渡された魯の家臣は、しかしながら斉の君主を指して、

 ――殺したのはあなただ。

 とはいえなかった。そこでかれらは斉の君主に、下手人である彭生を処断して、魯の顔が立つようにしていただきたい、と申し込んだ。そのため、彭生は斉の君主の命によって殺された。しかし、

 ――これで魯の面目は立った。

 と、思っている民はだれもいまい。むしろ、魯は斉の暴力に泣き寝入りしたという事実だけが世に知られることになった。

 

「魯公はとんだ災難でしたな」

 

 他国のことではあるが、銍人がいたましげな表情をすると、

 

「あれは災難なんぞではない。おのれが定めた死だ」

 

 と、にべにもなくいった。

 

(おも)ってもみられよ。()くなった魯公が、かつてどのようにして君主の座を襲ったか」

「あっ」

 

 銍人は膝をうった。

 斉公に殺された魯公は、太子のときに腹違いの兄(陰公)を暗殺して、魯の国主におさまったのである。人を殺した者のむくいがそれだ、というわけであろう。が、人を殺した者はろくな死に方をしないという理屈が通るとすれば、魯公を殺した斉公が今度は横死する番だと考えても不思議ではない。いずれ斉は一荒れある、といってよいだろう。それだけに斉の国は布衣の身だけで栄達を目論むものにとって、恰好の場になるかもしれないが、冷静にみれば、

 

「斉公は狂人だ。狂人にまともな弁説が通用するはずがない。斉にゆかれるのはおやめになったほうだよい」

 

 と、銍人は若い遊説者にいってやりたいくらいのものであった。が、この遊説者は斉公については一切批判せず、

 

「ご主人、天のさばきはなんと公平であるか……そうはおもわれませんか」

 

 と、いった。そうは言っているが、この男は内心、天はまだまだ手ぬるい、魯は滅ぶべきだ。いや、魯だけでなく、鄭の国も滅亡させたい、と考えている。

 翌朝、男は銍を立った。

 

「ご恩は一生忘れません」

 

男は懇謝した。事実、この男はのちに人がましい身分になったとき、この時を事を忘れず、

 

「食を銍人に乞うたものです」

 

 と、告白している。よほど、銍人の情が嬉しかったのであろう。

 その銍人は、門の外で、

 

「私が生きている間に、あなたの名が振天するよう、祈っていますよ」

 

 といい、斉国へゆく男の前途をあやぶみつつも、まるで自分の身内を送り出すように、男の未来を祝福した。

 

 ――天はまだわしを見捨ててはいない。

 

 そう思う男の前途は、異様に大きくみえる旭日によって、あかあかと染められていた。

 

 

 

 斉へ向かった男であるが、じつは斉の地を踏むのはこれが初めてではない。

 男の姓名は

 

百里奚(ひゃくりけい)

 

 という。生まれは(きょ)という国である。三國志を多少知っている方であれば、許昌(きょしょう)、という邑の名前を聞いたことがあるかもしれない。曹操(そうそう)という男が、当時漢の皇帝であった献帝(けんてい)を庇護したさいに、献帝を移した場所であり、そのときから曹操の息子、曹丕(そうひ)に帝位を禅譲するまでの短い間ではあるが、漢の首都であったところである。ただし、この時代では許という国は中国に数多とある小国の一つでしかなく、隣国はちょうど中華の中央とも言える位置にある

 

(てい)

 

 という国が、ありこの時期の鄭は栄華を極めていたといってよいだろう。

 その鄭が南隣の許を欲しがった。が、許が小国だからといって、むやみに攻め取るというわけにはいかない。というのも、許は独立国ではなく、許から遠くはなれた魯に服属していた。鄭が許を攻めれば、当然、魯も黙ってはいない。

しかし、鄭にとって都合のよいことに、鄭の直轄地が魯の近くにあった。そこで鄭の君主は、魯の君主に

 

 ――たがいに遠くに土地を持っていても意味はありますまい。交換したいが、いかがか。

 

 と、申し込んだ。この申し入れに魯公はしばらく沈思した。

 

 ――そのようなことを周王の聴許を得ずに、諸侯間で勝手に決めても良いものか、どうか。

 

 ということである。そもそも、鄭が交換を持ちかけてきている土地というのは「泰山の(ほう)」といい、周王の代行で泰山をまつる義務のある鄭の君主に、周王室からくだされた地である。また、魯が持っている許は、魯公が参朝のために王都へ上ってゆくのに、遠くて難儀であろうという理由で、一種の休息地として、周王室からとくべつに下賜されたものである。

 

 ――つまり、この交換は周王への当て付けということか。

 

と、魯公は思い当たった。このころ鄭の君主は荘公(そうこう)であるが、周王の桓王(かんおう)とのあいだはしっくりいかず、いわば冷戦状態であった。が、それと知りつつ、魯公はついに鄭からの申し入れを呑んだ。このときの魯の君主は陰公で、魯の累代の君主のなかでも名君に数えられるひとであるが、この判断ばかりは魔がさしたとしか言いようがない。いずれにせよ、周王を踏みつけにした交換が鄭と魯の間で成立したのである。

 これに驚いたのは許の君臣である。鄭から使者がきて、

 

「今後は鄭に従っていただく」

 

 と、いきなり言われても、おいそれと承諾できることではない。許は魯に従っていたとはいえ、それは過去の名目上のことで、今は実質的に独立国である。なにせ魯とは数百キロも離れているわけであるから、許にたいしてそれほどの介入はなかったのである。ゆえに、魯の属国でありながら、自主的に国家を運営出来る状態は、許にとってまことに都合がよかった。ところが、それが鄭の属国ということになると、魯とはちがって真隣であるから、鄭の政体に組み込まれることになり、最悪のことを考えれば、植民地とされかねない。心おだやかではない許の君主は、鄭の使者を目前において

 

「さだめし天王(周王)の御令書を、ご持参のことでございましょうな。ならば許は鄭に従いましょう」

 

 といい、鄭の使者の返答をつまらせた。

 結局、許は鄭に従うことをいさぎよしとせず、鄭の高圧的な告諭をつっぱねた。

 その交渉の席に、百里奚の父は許の大夫(たいふ)――簡単にいえば幾つかの邑を取りまとめる領主のことであるが――として列座していた。かれは、許の家老といってよく、国内に名望があった。ただし名はわからない。「春秋左氏伝」に

 

「大夫百里」

 

とあるだけである。とにかく許の主従は

 ――わが国が欲しければ、周王の御許可をとるべし。

 と、正論を振りかざして、鄭にたいして徹底抗戦のかまえをみせた。

 周王がこの件に介入してくることを恐れた鄭の荘公は、すぐにでも許を攻め取りたいのであるが、鄭のみでことを始末すると、あとから周王にうるさくいわれようと考え、

 

 ――許の旧主は魯公どのゆえ、ぜひともかの君民にお諭しねがいたい。

 

 と、魯公の出馬をさそった。これでこの一件の責任は、鄭と魯で分担されることになり、二国は強硬手段をとった。すなわち、許の首都である許邑は大国である鄭と魯の連合軍に囲まれたのである。

 このときが紀元前712年ごろであり、百里奚の歳ははっきりとはわからないが、おおよそ15歳ぐらいであっただろう。かれは大人たちに混じって堵上(とじょう)に立ち、弓矢をとった。

 ところが、敗亡を必至とみた許の君主は、ろくに戦いもせず、邑と人民を捨てて、(えい)の国へ亡命してしまった。

――なんという怯懦な君主か。

 百里奚はあきれ、かれの正義感は傷つけられた。涙はでなかった。

 主君を失った許邑は2日で陥落した。

 百里奚の父は敗戦国民の代表として、鄭の占領軍と交渉することになり、許邑にとどまって最後まで奮戦した許叔(きょしゅく)(許の君主の弟)は人民の助命を願った。幸いにもそれは聞き入れられたが、許邑を鄭軍に明け渡すことになり、許叔は貶流(へんりゅう)されることになった。

つまり、許の君主の弟は、大夫ほどの身分におとされ、許の国民すべては東の辺地においやられて、国境の番人とされたのである。

 そうした戦後処理はすべて鄭の荘公が行った。が、さすがに後味がわるかったのか、許の西部を治めさせることにした公孫獲(こうそんかく)を呼んだ時

 

「ここだけの話だが……」

 

 と、憮然たる面持ちで

 

「許には貴重品を持ってくるな」

 

 と、いった。さらに、わしが死んだら許からすぐに引き上げよ、ともいった。それはいずれ許の遺民が許邑を奪回にくるであろうという、かれの独特の勘がいわせたことであるが、気の強い公孫獲は

 

「許のやからに何ほどのことができましょうか。わが手兵だけで撃退してみせましょう」

 

 と、主人の弱気を嗤うようにうそぶいた。

 鄭の荘公はその慢心を叱り、

 

「想ってもみよ、周の王室をはじめ、わが鄭も、魯も、衛も、周の一族は日に日に衰えてゆくばかりではないか。ところが許は、(きょう)の族で、これから天に見出されるみこみがおおいにある。天に見捨てられようとしているわが族が、天を味方にしつつある許にあたって勝てようか。やめておくことだ」

 

 と、いった。

 この時期に周の族の衰乱と羌の族の隆盛とを予見した鄭の荘公は、やはりなみの君主ではない。やがて羌の族から、春秋の五覇に数えられる斉の桓公(かんこう)が出て、周王にかわって中国をとりしきることになるのである。

 

 ――魯に売られた。

 

 百里奚の父はいった。肩をおとして辺地におもむく敗残の行列のなかで、百里奚は天をにらみ

 

 ――こんな無道が(まか)り通ってよいのか。

 

 と、心中で()えた。天がなにもしないのならば、一生を賭しても、おれが鄭と魯を滅亡させてやる、とこのとき自分自身に誓った。かれはこの時から復讐鬼になった。

 かれのそうした呪いが風に乗って魯に届いたわけでもあるまいが、魯公は許を伐ってから四ヶ月目に、異母弟に暗殺されてしまった。そのうわさが百里奚のいる辺邑にとどいたとき、

――非道のむくいよ。

 と、邑の民はすこし溜飲のさがった表情をして、つぎは鄭の君主がしねばよいとささやきあった。が、富み栄えている者を羨み呪うだけのそうした大人たちに、また自分自身にも、嫌気が差してきた。君主が死んでも魯はびくともしないし、一方、自分はこの一壺天(いっこてん)からぬけだせたわけではない。このまま居すくんでいては、いつまでたっても、何も変わりはしないだろう。環境をかえるには、行動しかない。そうさとった彼は厳粛な顔つきで、父に向かって

 

「天はまことにありましょうか」

 

 と、問うた。彼の父は別に驚いた様子もみせず

 

「あるよ」

 

 と、淡としていった。

 

「では、天に力はありましょうか」

「あるよ」

 

 百里奚はここでおもいきって

 

「父上、わたしを学問のために、斉へやらせてください」

 

 と、いった。そのとき彼の背は父の杖ではげしくうたれた。かれは唇を噛み破りそうになった。

 

「天のことを問うたのに、なにゆえ天の力を見極めようとはせぬ。いま斉へゆくということは、敵を前にして逃げ出すのとおなじことだ。どこかの君主のまねをさせるために、おまえを育ててきたわけではない」

 

 斉国は羌族が中国に()てた国のなかでは最大である。そこへ行きたいという百里奚の夢は父の一蹴によってこわされた。が、夢の破片は残った。したがってかれの二十代は

 

――いかに許邑を奪い返すか。

 

 ということに費やされた。許国を再建できれば斉へゆける、その一筋の希望にすがって、かれは黙々とはたらき、皆と同じように鄭の君主の意向に服した。

 

「鄭の虎よ――」

 

 鄭の荘公のことを、百里奚は心のなかでいつもそう呼んでいた。――鄭の虎よ、はやく死んでくれ。かれは密かに叫び続けた。が、かれの願いに逆らうかのように、鄭の荘公は長命であった。鄭の荘公は紀元前701年の夏、病没した。このとき百里奚は二十代の半ばをすぎていた。

 

 ――時がきた。

 

 かれは耳鳴りのようなものを感じた。許叔を奉戴(ほうたい)してことをおこすわけだが、この一挙が失敗すれば、死ぬかもしれない。たとえ死ななくても余生をこの壺の底のような地ですごすことになろう。百里奚は身震いした。

 ――天よ、わが許の族に力をかしたまえ。

 彼は祈らざるを得なかった。が、天に力があるとはじめに考えついたのは周の族であり、許の人間が祈るとすれば、本来は伯夷(はくい)という羌族の神へである。羌族はもともと遊牧民族であり、山岳信仰の一族のはずであった。むろん、百里奚の体内にも、遊牧民族の血は流れている。

 かれらは鄭を伐つべくひそかに武器を整え始めた。

 鄭では荘公の子の(とつ)が国主に即位した。これだけではまだ許の辺邑から立ち上がる訳にはいかない。やがて許の民の群情が天に通じたのか、鄭にお家騒動がおこった。鄭に二人の君主ができ、国力は分裂した。

 

 ――これこそ、回天の機運。

 

許叔は号命した。かれは許邑に攻めかかった。百里奚は雨のような飛矢をかいくぐって、門から邑内に突入した。春秋時代の城の攻め方には定式があり、城門を破るべきであり、城壁を越えてはならないとされている。城壁には除凶のために呪詛に類するものが埋め込まれているからである。そういうわけで、城門が攻防の要点となり、そこよりほかを破壊できない攻撃側は滞陣を覚悟しなければならないわけだが、この場合はちがった。攻める側と守る側とでは気迫の違いがありすぎた。

このころの鄭の兵は諸国にくらべて強豪であったにもかかわらず、かれらは許の軍旅の猛浪をうけて支えきれず、邑をすてて潰走(かいそう)した。

 鄭の兵の去った邑内をしみじみみまわし、廟宇(びょうう)の前の庭に尻を落とした百里奚は、はじめて泣いた。許邑を鄭にとられてから実に十五年目のことである。その年月がかれにおしえたことは

 

「忍耐の成果」

 

 であり、待つことの意義であった。かれはみずからの目で、一国の滅亡と再建をみた。これこそが父が暗黙に授けてくれた学問なのか、と百里奚は想到したが、祖国の再建が成った上は、もう待つことはごめんだという気持ちが強まり、まもなく彼は斉へ旅立った。かれが再び許の土を踏むことはなかったことを想うと、かれは大夫百里の嫡子ではなかったのであろう。

 ――非道な鄭と魯を亡ぼして、天下を動かすのだ。

 かれの気宇からすると、許はいかにも小国でありすぎた。おのれの器量ならかならず斉公の目にとまり、おれが斉を中華一の国にしてみせる、とその自信は過剰なほどであった。しかし、斉にはそういう連中が掃いて捨てるほどいるのである。この高望な男は斉に着いてたちまち困窮した。かれはたまたま

 

「芭蕉扇」

 

 という名家の次女と知り合いになり、やがて爾汝(じじょ)の親しさになった。はじめ芭蕉扇は、許からでてきたこの自信満々な男をからかって

 

「百里奚とは珍しい姓名ね。でも奚は、奴隷のことですから、貴方はいつの日かその名のように、奴隷の身分に落ちることになるかもしれませんよ」

 

 と、いった。

 

「なにを――」

 

 百里奚は芭蕉扇の肩につかみかかり、

 

「奚とは、わが羌族の髪型をいうのだ。(なんじ)も斉にいるのなら、それぐらいはおぼえておけ」

 

 と、怒鳴った。芭蕉扇は羌族の出ではない。

 このとき芭蕉扇は百里奚を見直した。なかなか学識はありそうで、胆力も優れている。しかし、十五年も亡国のつらさを耐え忍んで、許の国を復興させた群臣の1人にしては短気である。

 ――よい男だけど、短気なのが玉に瑕かしら。

 と、芭蕉扇はこの快男児をおしんだ。百里奚が鄭や魯に復讐するために斉へきた、という動機も不純である。この男は胸のなかの怨恨の炎が静まったとき一流になれる、芭蕉扇にはそれがわかる。しかし、生涯そこに気づかなければ、この男はどこかで野垂れ死ぬしかない、ということもわかる。

 百里奚は芭蕉扇のもとに寄寓するようになった。

 

「いま周王朝をひらいた文王や武王のような名君がいれば、おれは太公望ほどの名相になれるというのに、どれも人の見えぬ暗君ばかりよ」

 

 百里奚の不平はいつもそれであった。またかれは

 

「わが許国の滅亡を、あのとき傍観していた天王では、もはや諸侯をまとめてゆけぬ。これからは、おれを宰相にむかえた君主こそが、周王にかわって中原で覇業をなすのだ」

 

 と、大きいことをいっていた。芭蕉扇は憐憫を交えて苦笑しつつ、百里奚の猟官運動を見守った。ところが百里奚はいくら奔走しても仕官の口はみつからないようで、ある日

 

「なんじの家のすじから、おれを斉公に、いや斉公でなくても公子のどなたかに、推挙してもらえまいか」

 

 と、芭蕉扇はたのまれた。彼女は眉をひそめ

 

「仕えるのがだれでもよい、というのは、まるで餌を漁る野犬とかわりありません。そのような卑しさで仕えた君主が、このさき覇業をなせるはずがありませんわ。太公望がきいてあきれます」

 

 と、少々厳しい事を言った。――そう焦ってはいけません、という芭蕉扇のほうが、待つことを知っているようであった。

 野犬とののしられた百里奚はさっと顔色をかえて

 

(うぬ)のように食うに困らぬものには、おれの必至な(おも)いなどわかりはせぬ」

 

 と、いい、斉の首邑から姿をけした。

 ――どこかに文王や武王のような英主がいるはずだ。

 百里奚は南方諸国を遊説した。が、彼が得たのは失意だけであった。南方諸国はどこも排他的である。ついでながら、この排他性が、南方から中国統一をなしうるほどの英傑をださなかった原因のひとつともいえる。春秋・戦国期をすぎて、秦末期になっても、それは楚の英雄である項羽の精神の風土となってあらわれており、よくいえば、南方の人間の特性というべき純粋さが、雑嚢(ざつのう)のような劉邦の気量に押しつぶされたといえよう。

 百里奚は北の天を仰ぎ見た。

 ――おれが活きるとすれば、やはり中原しかないのか。

 といっても、()姓の族(周の族)の国へは仕官する気はない。そこでかえる家を思い出した犬のように、かれの足はおのずと斉へ向いていた。その帰途で、とうとう飢渇してしまい、運よく銍人にすくわれたというわけであった。

 

 

 

 ようやく帰り着いた臨淄(りんし)の入り口で、百里奚は検問に引っかかった。

 

「他国からまいった者は、都内に身元を保証するものがいらないかぎり、通さぬ」

 

 というものものしさである。こういうときには役人に袖の下を使えば、通過できることをしっていても、いまの百里奚にはなんのもちあわせもない。

 ――ええい、いまいましいが……。

 と、舌打ちしつつ、かれは芭蕉扇の名をだした。

 

「まあ、生きておられたのですね」

 

 芭蕉扇はにこにこして迎えに来てくれた。

 

「天があるかぎり、おれは不死身だ」

 

 百里奚はにくまれ口をきいたが、内心はほっとした。

 

「なんだこの厳戒ぶりは」

「どこかでお聞きになりませんでしたか。わが(きみ)が鄭の君主を伐ち果たしましたから」

 

 今年の四月に魯公を殺したばかりの斉公は、こんどは七月に、以前から仲のわるかった鄭の君主の子亹(しび)を、諸侯会同の地で、兵を伏せ暗殺してしまった。そうしたもめごとがあっただけに、斉では他国者の入国を要心しているというわけである。

 鄭は荘公がしんでから難つづきで、一気に国の威勢はうしなわれた。中華ではかわりに斉公が主導権をにぎろうとしているが、そのやり方は酷薄で手荒い。

 芭蕉扇から事情をきかされた百里奚は、なんの感懐ももらさず

 

「ふん」

 

 と、鼻先で嗤っただけであった。それをみた芭蕉扇は、諸国を巡っても鄭や魯を憎む気持ちに変わりがないことにがっかりした。

 百里奚はまた芭蕉扇のもとに身を寄せた。

 

「ことわっておくが、おれは汝の臣ではないぞ」

 

 と、うそぶき、客人づらで無為徒食の日々をおくりはじめた。芭蕉扇の不思議なところは、その威張った食客にいやな顔をむけるわけではなく、また、

 ――はやく主持ちになれ。

 と、奨進(しょうしん)の話をもってくるわけでもなかった。他人には無関心な百里奚も、これにはさすがに考えさせられた。

 ――この女は無欲なのか。それともなにかを待っているのか。

 芭蕉扇という人間が身近にいるだけに、かえって百里奚にとってはつかみどころがなかった。

 斉は翌年から、臨淄の真東になるの国を侵略しはじめ、三年後にはほぼ併呑(へいどん)した。そのように斉は確実に領土を拡大しつつあったが、風雲は国外からではなく、国内からおころうとしていた。

 百里奚の(よわい)はまもなく四十にとどこうとしていた。ある日かれは芭蕉扇を捕まえて

 ――これで汝の扶養にならずにすみそうだ。

 と、破顔をみせた。芭蕉扇がそのわけを問うと

 

「公孫どのに仕えることがきまった」

 

 と、うれしげにいう。

 

「公孫というと、あの公孫無知ですか」

 

 芭蕉扇は眉をあげた。公孫無知は先代の斉公の弟の子で、いまの斉公のいとこにあたる。芭蕉扇は公孫無知がちかごろ人を集めていることをうすうす知っていたが、なにやら怪しげな密事に百里奚が引き込まれていると感じ、胸が騒ぎ

 

「死人に仕えるつもりですか」

 

 と、日頃の彼女に似ず大声をだした。てっきり芭蕉扇がよろこんでくれるものとおもっていた百里奚はむっとした。

 

「死人とはたれのことのだ。公孫どのはちかごろとみに評判のよいお人よ」

「死人といってわるければ、あれは羊の皮をかぶった狼です。貴方はしらないかもしれませんが、あの方は、先君に実の子以上にかわいがられ、なんでも自分の思い通りになると信じて育ってきたゆえ、昔は随分と酷な所業をしておりました。いまは人気とりに生来の貪戻(どんれい)さを隠していますが、あれはやがて人の手にかかって果てる相です。そんなものと一緒に犬死などしてはなりません」

 

 と、芭蕉扇はいい、この話、あなたからでは断りにくいでしょうから、といって公孫無知の宅にゆき、仕官のことは破却してしまった。百里奚は怒るというより、呆れて物が言えない。かえってきた芭蕉扇は

 

「あのような凶徒のところへゆくのなら、なにゆえ公子(きゅう)のところへいかないのです」

 

 と、なじった。公子糺は斉君の弟君であり、性格は穏健で、いまの斉公が淫乱暴恣(ぼうし)であるため、その歿後には、国主の座に付く可能性がたかい。しかし百里奚は横をむいた。

 

「公子糺の母は魯からきた女だ。ゆくものか」

「では、その弟の公子小白はどうです」

「あの公子の母は衛からきた。どちらも姫姓の血を引いておるわ。ごめんだな」

「どうしてそうつよがるのです。どちらからも断られたのでしょう」

「お見通しか……」

「当然でしょう……いえ、でもどういうことかしら。公子糺はだまっていても斉君の位になれますから、人が要らないのはわかります。でも、公子小白の場合は兄を凌がなければ斉君にはなれませんから、人材が必要なはずでしょう。小白には鮑叔(ほうしゅく)というよくできた人物がついていたはずですが、貴方ほどの人材をどうして断ったのです」

「両家とも、おれを断ったのはという男よ」

 

 と、百里奚は不思議な事をいった。

 はじめ、百里奚は公子糺の屋敷へゆき、召忽(しょうこつ)という重臣とかたり、仕官の話がまとまりかけた。そこへ管仲というもうひとりの重臣があらわれ

 ――この者、当家に益をもたらすものではありません。

 と、容喙(ようかい)したため、召忽は説き伏せられ、話はこわされてしまった。次に百里奚は公子小白の屋敷へゆき、鮑叔と語るうちにかれに気に入れられ

 ――当家で奉公する気がおありなら、公子にご推挙申そう。

 とまでいってくれた。が、そのとき隣室から現れたのは管仲で、鮑叔の耳になにごとかをささやくと、鮑叔はしぶい表情になり、どうかお引き取り願いたい、と急にそらぞらしい口調にかわって、ここでも管仲によって壊されたというわけであった。

 

「管仲が鮑叔のところに……」

 

 芭蕉扇はしばらく考え込んでいたが、

 

「奚殿、斉はひょっとすると、管仲と鮑叔の時代になるかもしれませんね。じつに面白くありません」

 

 と、本当におもしろくなさそうな顔でいった。が、仕官の話を壊された当人である百里奚のほうがもっとおもしろくない。

 

「あの高慢ちきで、おせっかい野郎の管仲とは何者だ」

「かなりのやり手のようですわ。なんでも潁水(えいすい)のほとりの出身で、商人あがりだとか。鮑叔とは親交があり、他国で勤めを失敗して斉に流れてきたと聞きました」

「ふん、それで、おれを買うに値しないと踏んだわけか」

「いえ、そうではありませんわ。それなら鮑叔が貴方を買おうという時に、管仲が口出しする必要はないはずです。貴方は管仲に嫉妬されたのですよ」

「嫉妬だと――」

 

 百里奚は今日の芭蕉扇の思考の飛躍についていけない。

 

「そうでしょう。あなたが公子糺の家で仕えるようになれば、管仲としては自分の値がさがり、公子小白に貴方がつかえるようになれば、公子糺の家門の値がさがる、と見抜いたと思いませんか」

 

 百里奚はおもわずにやりとした。芭蕉扇の言うとおりなら、管仲こそ自分にもっとも高い値をつけてくれたということになる。

 

「こういうときに笑ってはいけません。いつものあなたらしく怒ってくださいまし。それにしても、わずかな時のずれで、百里奚が管仲に、わたくしが鮑叔になれていたかもしれませんのに」

 

 芭蕉扇は深刻に残念がった。そのうちに彼女は、

 ――旅にでましょう。

 と、しきりに百里奚の尻をたたきはじめた。

 今更諸国を流浪して、なんになろう。旅の辛さをいやというほど味わったことのある百里奚は生返事をくりかえした。かれは斉が好きであった。というより、斉をはなれて、他の国で身を立てられるとはおもえなかった。斉の地に自分の骨を埋めたいとおもうことは、羌族の一人として自然な願いであったかもしれないが、この時の百里奚は自分の志望ばかりみつめて、たびに出たいといいだした芭蕉扇に止む得ない事由があるのではないかと、おもいやることを忘れていた。

 芭蕉扇にしても、百里奚が腰を上げないかぎり、一人で旅立つほどの思い切りはなかった。

 そういう状態で一年がすぎた。

 斉に大事件がおこった。公孫無知の謀反であった。かれは宮中に攻め入って斉公を殺し、国主の地位についた。それもつかの間、次の年に、遊渉中に地下(じげ)の者の手にかかって、横死した。そのために空位になった斉の首座に、亡命していた公子糺と公子小白とが、どちらがさきに坐るかという競争になったが、小白のほうが先に帰国して斉公となり、またたくまに国内の混乱を匡矯(きょうきょう)して、兄の公子糺を撃退してしまった。なおかつ、公子糺の英明ぶりは、敵にまわった管仲を、鮑叔の進言を容れて、助命したばかりか、宰相に就けたというところに鮮烈にあらわれた。

 ――小白とは、なんと大度の君主であることよ。

 百里奚は目が醒めるようであった。かれは芭蕉扇の肩をたたき、――みよ、みよ、今度の斉公を、これからの斉はとてつもなく大きく強くなるぞ、あの斉公が諸侯の長となるのは間違いなく、羌族が天下を動かすことになるのだ、といい、ひとりで悦に入っていた。

 このころ芭蕉扇は鬱々としていた。かれは百里奚のあまりのはしゃぎぶりに、水をさしたくなったのか

 

「今の斉公の位も、武をもって争い奪ったものです。武には展望がないと言っていたのは貴方ではありませんか。なら、斉公の最期はおおよそ知れていますわ。それに管仲にいかなる大計があるとしても、それは斉にとって百年の計になっても、千年の計にはならないでしょう」

 

 と、いった。

 百里奚はかっとして芭蕉扇にくってかかろうとしたが、急に口をつぐんだ。芭蕉扇の目をみたからだった。そこには暗い哀しい色が浮かんでいた。

 ――ああ、この目は、かつて許の辺邑で祖国の再興を必死に願っていたころの、おれの目とおなじではないか。

 百里奚は胸を突かれた。

 

「汝の言うとおりかもしれぬ。よし、旅に出よう。が、斉公と管仲がどんな政治をはじめるのか、この目で確かめてからにさせてくれ」

 

 そういった百里奚は、斉公(死後、「桓公」とよばれる)と管仲のコンビになる富国強兵策を目の当たりにすると、深くうなずき、芭蕉扇とともに斉を離れた。道すがら、芭蕉扇は、はればれとした顔つきにもどった。

 

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