知ってると楽しいとおもうけどネ。
理想の君主と政治を求める
――
と、百里奚は空元気で笑った。が、声色は白くかわいている。それにしても芭蕉扇は付き合いのよい女である。このあてのない流泊に苦しげな表情もみせずについてきている。百里奚がそこをいぶかると
「あなたに賭けているのです」
と、芭蕉扇はけろりといった。百里奚はくすぐったそうに、白いもののまじった
「そういわれると、ありがたいより、つらいわさ。近頃わしは、自分をそれほどの男とはおもえなくなってきた。賭けるに足らぬかもしれぬよ。それに汝ほどの見識の持ち主なら、りっぱに一国の大臣がつとまろうというのに、わしのせいであらた春秋を無にさせてしまった。すまぬ」
と、いった。かれの正直な気持ちだった。芭蕉扇はしみるような微笑をかえし
「なに、わたくしたちの春秋はこれからでしょう」
といい、百里奚にはきこえないほどの声で
虫の飛ぶこと
と、詩をくちずさんだ。
さて、周の王都・成周は
ところでかれらは洛邑にきて、あることをきき、腹を立てた。そのあることというのは、晋国の本家が分家に滅ぼされた、ということであり、それはまだゆるされるとして、かれらの我慢ならなかったのは
――周王が、その簒奪者たる分家の当主を、晋の国主として認めた。
ということであった。世はさらに弱肉強食の風潮である。周王は晋の叛逆者を正統化したことで、自らの権威を失墜させた。
「天王も財と力には弱いということですわ」
芭蕉扇の言うとおりであった。周王室は晋からおびただしい
「こりゃあ、天下の
と、いっていた百里奚に、周王室にかかわる機会が与えられた。
周王の弟に
もともと羌族は羊を飼いならして中国全土を移動する遊牧民族であった。その民族である百里奚にとって、羊のかわりに、牛をあつかうことは苦にならない。
ところが、
「周王室といえば、あなたの嫌いな姫姓の宗家ではありませんか。それも牛の飼育のごとき卑官など……とにかく王子
と、念をおし、どういう才覚でか、あちこちの屋敷を出入りして情報を集め始めた。その間に周王(釐王)が崩御し、子の
ある日、芭蕉扇が眉間にしわをよせて
「あの王子頹は第二の公孫無知になるかもしれません」
と、一驚すべき予測をうちあけた。斉における公孫無知の乱のときと、情況がよくにているというわけである。が、ここでは王子頹に心を寄せる大臣は多い。
「それだけに大乱になるということですわ」
芭蕉扇にはやがて王都にひびく
「いまの王より、王子頹のほうがましなのではないか。王子頹が立てば、王室はよくなるだろう。それにだ、鳥獣を愛するものにわるいやつはいない」
というのが百里奚の意見である。芭蕉扇はしずかな笑いを口元にふくみ
「そうはいかなくなるのが権力の座の魔性というものですわ。悠長なことは言ってられません。挙兵した王子が敗ければ、眷属はことごとく殺戮されますよ。いまのうちに都から去るのが賢明ですわ」
と、せきたてた。
――はたして、そうか。
半信半疑の百里奚の腰は重かった。かれの心はなかば王子頹にかたむいており、やがて王臣となって天下に大道を復活させるべく
そうこうしているうちに、周王は王子頹に心を寄せる五人の大夫の領地をとりあげ、いよいよ乱の兆しになった。ここが都にいる限度とみた芭蕉扇は、百里奚に詰め寄って
「わたくしをとるか、王子をとるか、はっきりしてちょうだい」
とまでいった。百里奚はしぶしぶ腰をあげ、二人は王都をあとにして西へむかった。あとの王室における
「未練ですよ」
と、いわれたが、気になるものはしかたがない。
このとき紀元前675年の秋である。芭蕉扇が予想したとおり、かれらが出発してから間もなく、王子頹は王に怨みを懐く五大夫とともに挙兵し、王を攻めたが敗退し、いったん
「王子頹が
と、
「いまひきかえせば、死ににゆくようなものです」
と、とりあわなかった。
王子頹の政権樹立には、衛と燕の二国の軍事力が大きな後援をなした。しかしどちらも遠国の兵であるから、それらが王都から引き上げてしまうと、王子頹の防衛力は著しく低下する。一方で敗けた恵王は、隣国の鄭へ逃げ込んだわけであるから、復位には絶好の場所にいて、鄭の軍旅を借りればいつでも王都へ急襲をかけられる。
――王子頹の政権はながくない。
芭蕉扇はそうみている。
二人は黄河にそって西へゆき
――これで王子頹はほろぶ。
と、断言した。そのとおり、虢の軍は鄭の軍と連合し、王都に攻めかかり、王子頹を殺して、恵王を鄭から迎えた。王子頹の政権はまる一年の短命であった。
「鄭が――」
と、聞かされても、百里奚の目にはもはや炎は立たなかった。なにか遠い国の名を聞いたようで、不思議な事になつしかしささえおぼえた。それよりも
――まるで鬼神の目だ。
と、百里奚は芭蕉扇の洞察力に舌をまいた。
それにくらべて自分の智謀のなさはどうであろう。かれは
「智謀などというものは、一種の心の冷たさから生まれてくるのです。万人に通用するものではありませんわ。万人に通じるのは温かい心ですもの」
と、なぐさめてから
「これから王子頹の残党の詮議が厳しくなるでしょう。どんな言いがかりをつけられるかわかりません。虢にはいられませんわ」
と
黄河を北へ渡り、虢とは対岸の国というべき
「わしは運が悪い」
と、うめくようにいい、大地を叩き、掻いて、砂を掴んだ。それはそうであろう。仕えようとした君主が一度ならず二度までも非命に
――運がわるいというなら、公孫無知や公子糺、それに王子頹のほうが、もっと悪い。
なぜなら彼らは死に、じぶんは生きている。この事実を厳粛にうけとめ、明るく未来に転化していったほうがよい、というものであった。
ところが、この
虞の大夫の門をたたいた百里奚に仕官の口がかかったのである。芭蕉扇は反対した。虞の国は、北は貪欲な晋と境を接し、南は黄河を挟んで傲慢な虢に対している。
――潰されないでいるのがましな国です。
と、芭蕉扇はいう。
それでも百里奚は、わしはここで骨をうずめる気だ、と聞き分けのなさを発揮し、芭蕉扇を失望させた。すでに百里奚に顕揚欲はほとんどなくなり、永い流泊に疲れ果てたというべきであった。その点、芭蕉扇の精神のほうが強靭であったといえる。彼女はへたへたと坐り込んで、もはや立ち上がりそうにもない百里奚をみて
「では、別れるしかありませんね。もう生きて会えることはないでしょうが……感慨深い旅でしたわ」
と、しみじみといい、断腸の思いで
――扇よ、ゆるせ。
芭蕉扇を見送る百里奚の目は涙であふれ、無二の友の後姿は滲んで遠く、やがて黄塵のなかに消えていった。
百里奚が虞で食禄を得てから十四年目に、隣国の晋の大夫である
晋という国は、黄河の支流である
そうした
「
という大夫がそれである。かれの賢明は他国にも聞こえていたが、どんなにすぐれた臣下がいても、君主が暗愚では一国の存立は危うい。虞公は宮之奇の「晋軍に道をかしてはなりません」という
――わが宝である。
と、出し渋ったほどの逸物ぞろいであった。すっかり気をよくした虞公は、あろうことか
「わが軍も参戦して、虢を伐ちましょう」
と、晋に申し出て、ついに軍旅を催し、この年晋軍ともに虢の一邑を亡ぼしてしまった。
それから三年後に、晋から――いよいよ虢の首邑を伐ちます。それにつき、このたびも貴国を通行する御許可をねがいたい、と虞は申し込まれた。先年よいおもいをした虞公のことであるから、晋軍の通行を軽諾するにちがいないとみた宮之奇は、最後の諫言として
「唇亡ぶれば歯寒し」
と、虞公にいった。唇とは虢であり、歯は虞です。今虢が亡んでしまえば、わが国がどうなるかおわかりでしょう、と宮之奇は虞公の軽はずみを諫止しようとした。が、晋をすっかり信頼している虞公は宮之奇の言に耳を傾けず
「わが
と、言って、宮之奇を唖然とさせた。
まもなく晋によって亡ぼされようとしている虢の室も、姫姓なのである。虢だけ亡んで、どうして虞だけが生き残れよう。そう判断した宮之奇は、眷属をことごとく引き連れて、虞から去った。
百里奚もそれをみたはずである。が、かれは諫言もせずに逃亡もしなかった。宮之奇のように虞の君主と幼少時代からともに育った大臣の諫言でさえ、しりぞけられたのである。いまさら他国うまれの自分の言が上に
――わが骸は虞の土の肥やしになるばかりだ。
と、かれは観念せざるを得なかった。
晋軍は虞国を通過して、黄河を渡り、虢の首邑である上陽をかこんだ。虢の君主はたちまち周に亡命してしまったため、四百年ちかく累葉と続いてきた名門の虢はここに滅亡した。紀元前655年の12月のことである。
百里奚はこのとき他の大夫と同様に捕縛されて、晋公のまえに曳き出された。
晋公(献公)という君主は北国の狼というべき、
「馬はたしかにわしの馬だが、年をとったものだ」
晋公は笑った。その笑いには複雑な意味がある。虢や虞のごとき小国をとるのに、これほどの歳月がかかったという腹立ちもあったろう。それだけわしも年を取ったという自嘲もあったろう。ほかに彼の笑いを多少なりとも曇らせているのは、前年に嫡子を自殺に追い込み、今年になって他の子を国外に
「よい、さげよ」
晋公はそういったあと、ようやく捕虜に目をむけた。急に
――こやつらを、どうしてくれよう。
と、考えた。あまり利口な連中といえぬが、一国の大臣どもだ、殺すにはもったいない、と
「わがむすめの
という一言で、百里奚らは秦国へ送られることになった。媵はふつう侍女をいうが、この場合は付添人といってよく、悪く言えば奴隷であった。虞では殺されなかった百里奚だが、秦国へむかいながら
――ああ、扇がいったとおり、虞は亡び、わしは奴隷となってしまった。
と、はずかしさとくやしさとで、指で顔を
――この不自由さから免れたら、もはや仕官はしまい。
と、かれは決心し、脱走を夢みるようになった。
すでに年は改まった。虞の大夫らの到着は、晋公の見込み通り、秦の君臣をおどろかせた。ついさきごろまで国政に関与していたものが、僕使同然の身分におとされて、
秦の国は
秦室の姓は
「虞とは伝統のあった国だ。その大夫とはどういう人物であろう」
と、とりざたし、虞の大夫であった者たちと接触しようとした者が何人かでた。そのなかに
禽息はもっとも目立たない百里奚に目をとめ、諸般について語り合ってみたところ、心の底から温かくなるほどの感動をおぼえた。百里奚の風采は地味だが、見識は比類ない。なによりもこの虞人は苦労人らしく、その政見に血がかよっている、とかんじた禽息は
――あの欲張りの晋公がこれほどの人物を見抜けず、無償でわが国に送ってくれたのは、天授というほかない。
と、よろこび、百里奚を活かさぬ法はないと決意して
「かならず、わが君にご推挙申す」
と、いった。ところが百里奚はかえって顔を曇らせ
「それは無用にお願い致します。わたくしには悲運がつきまとい、この秦にもわざわいをおよぼすかもしれません」
と、辞を低くしてことわった。
しかしながら、すっかり百里奚に傾倒した禽息は
――これは私事ではなく、いわば国の大事である。百里奚どのがなんと言おうと、わが君に申し上げずばなるまい。
と、上申の機会を伺っていた。そんな禽息を仰天させることがおこった。
百里奚が逃亡したのである。
そうきかされた禽息は、しまったと思うと同時に、ああ、これは百里奚どのがわが国に災厄をもたらすことを恐れて逃げだされたのだ、と好意的に解釈した。ことばは悪いが
――なあに、いまにつかまる。
つかまってもらわねばこまるのだ。そのときこそ百里奚を秦公に推薦してみようと楽観していた禽息だが、いつまでたっても官府から捕吏が派遣された様子がないことをいぶかり、係の役人にきいてみると
――
という、上からの指図らしい。秦公はおそらく、百里奚の脱走さえ知らぬであろう。
「なんということだ。わが国は大宝を失ったというのに、あえてさがさぬとは。秦の人臣は愚者ばかりじゃわ」
禽息は声を荒げて、役人をおどろかせた。このままでは事態が好転しないとさとった禽息は、わが君に直訴するほかないと非常な決意をして、秦公の外出を待ち受け
「
と、門前で伏謁した。禽息は百里奚の履歴を述べ、その賢哲ぶりを口をきわめて褒称した。秦公はそれを聞き捨てにして、歩を進めようとした。むりもあるまい。秦公にとって百里奚とはすでに忘れ去られた名である。また百里奚がそれほどの賢人であれば、なにゆえ虞の亡びを
が、このとき異変がおきた。
必死の禽息は頭を地に打ち付け、至情を君主に通じさせるべく、首の骨を砕いて死んだのである。
普通にかんがえて、頭を地面にうちつけて首の骨が折れるのかという疑問であるし、多少の誇張が混じったことではあろうが、古代の人の喜怒哀楽の表現はいまよりはるかに烈しいものであるのは、彼に限った話ではない。いずれにせよ、禽息の嘆願の凄まじさを知るべきであろう。
秦公は臣下を我が子のようにいつくしんでいるひとである。出血した禽息をみて、心中おどろきの声をあげ、涙さえうかべた。当然、深く感ずるところがあって、さっそく左右の者に
「百里奚の行方をしらせよ」
と、命じた。
百里奚は逃げた。
七十歳をこえた老人とは思えない健脚で、東南にむかって走り去った。行先は決まっている。
申は羌族が南陽地方にたてた国である。残念ながら、この時点より二十二年前に大国・
――これで窮屈な身分からのがれられた。
と、ほっとして、難路をものともせず、申へたどりついた。じつに秦の雍から千里あまりの道である。
が、目的地であった申は楚の植民地といってよく、羌族の人々が
――どこかの僕隷がにげてきたという恰好だ。
と、百里奚を睨んだその楚人は、このうすぎたない老人を自宅へ連れてゆく気になったのは、牛を飼えるときかされたからであった。百里奚は家内奴隷になった。
――いかにもわしの人生の末路にふさわしい。
百里奚はうっすらと自嘲の笑いをうかべ、
このころ、秦では百里奚に関する情報を猛烈に
――それだ。
と、秦公は
「よくやった」
と喜躍したが、
――ふうむ、楚人に
と、考え込んだ。
楚人には強欲なものが多いときく。なまなかなことでは百里奚をこちらに引き渡してもらえそうにない。さきに
「かの者をおそばに置けば、千里をひらくことができましょう」
と、いったことを秦公は想い出し、百里で一国だから、十国の値打ちがあるわけか、と考え、楚人が目のくらむほどの財宝と交換しても損はあるまい、と側近にもらしたところ
「そのことが楚の君主に聞こえましたら、とても百里奚をはなさず、必ず重用して、楚が千里をひらくことになりはしないでしょうか」
と、いわれ、秦公はもっともなことだと思い返した。
「では
秦公はそういって、にっこりした。
羖というのは、黒い牡羊のことである。黒い牡羊の皮と百里奚を交換しようというものである。それなら目立たず、なんとかその楚人の歓心を買えるのではないか。
早速、五羖をもった使者が宛へ
楚人は返答を渋った。そこで使者は腹を立てたふりをして
――もともとかの者は、わが公の媵臣であったのですぞ。
と、強硬に所有権を主張した。逃亡した奴隷は、正当な持ち主なら無償で連れ戻しても文句のでないところだ。それを五羖で買い戻そうというのである。しだいに楚人は弱腰になった。そこを見澄ました秦公の使者は楚人に五羖を押し付け、百里奚の身柄を引き取ることに成功した。
「ご健勝で、ようございました。わが君がお
使者にそういわれた百里奚は、健勝どころか精神は仮死状態に近かったが、その空虚な頭では、なんのことやらわからなかった。逃亡奴隷として処刑されるにしては、扱いが鄭重すぎる。わかったのはそれぐらいであった。百里奚にとってこの秦への帰途が、秦の宰相への道につづいていようとは、露ほども想わなかった。
百里奚を迎えた秦公は、いちはやくかれを媵臣の身分から解放して、引見し、
「国事について語り合いたい」
と、
「亡国の臣に、はたしてご下問になる価値がありましょうや」
と、謝した。だが秦公は
「いや、あれは虞の君主が、そなたを用いなかったゆえに亡んだのだ。そなたの罪ではない」
と、いって、百里奚の退席をゆるさず、
――よくも固意なさったことよ。
背筋にふるえのようなものがはしった百里奚は、
秦公と百里奚の対話は一日では足りず、二日におよび、二日でも足りず、三日におよんだ。それがおわったあと、秦公は
「そなたほどの賢人が、五羖とは、随分やすい買い物であった」
と、上気した顔でいった。その機嫌のよさをみた百里奚は、うやうやしく拝礼し
「わたくしごときは、とても、芭蕉扇の賢明にはおよびません」
と、はじめておのれが妻ともいえる友の名をだし、秦公の快心に乗じて、芭蕉扇を推挙した。これまで秦公に述べてきた私見を実行に移すには、秦国にまるで縁のない百里奚としては、百官のあいだで孤立して献策だおれになる可能性がある。どうしても協力者がいるということである。その協力者に芭蕉扇以外の名は頭に浮かんでこなかった。はたして秦公はおどろき
「そなたより賢明な者がいるのか」
と、目を輝かせ、身を傾けた。この時芭蕉扇の
扇
とあるように、干という国にいたらしい。ただし干というと斉国の首都
――奚どのが秦の大夫に……。
虞の滅亡によって百里奚も死んだとばかりおもっていた芭蕉扇は、夢かとばかりに悦び、目をうるませて、あとは絶句した。
「わが君に
使者からいきさつをきかされた芭蕉扇は、はっとした。五羖大夫とは、一種の侮蔑をもって、他の群臣からつけられた
「さあ、まいりましょう」
芭蕉扇は気を引き締めて、秦へむかった。
秦についた芭蕉扇は、彼女を出迎えている百里奚が感きわまったような顔をしているのをみつけると、熱いものが喉につきあがってくるのを感じた。かれらの生涯のなかでこの再開ほど感激的なできごとは無かったであろう。虞で二人が別れてから、実に十九年後の奇蹟である。が、芭蕉扇は感泣ばかりしてはいられない。彼女の独特の勘と分析力で、秦公の器局をはかり、秦国のゆくすえを予見しようとした。彼女のそうした鋭い目と頭とは、秦公に拝謁したおり、秦公をまれにみる徳量の君主としてとらえ、秦国の肥大を予感した。
一方で秦公も、芭蕉扇を接見して
――地中に眠っていた宝刀である。
と、高く評価して、たちまち彼女を上大夫(大臣)に任じた。英断というほかない。
大国でありながら、文化国家としては二流である秦は、百里奚と芭蕉扇とを得ることによって、自他ともに一流として認めうる大国に成長する足がかりを掴んだことになる。秦という国は周王にしたがっているとはいえ、周王しか
任好は百里奚と芭蕉扇を左右にしたがえ、東隣の大国・晋を滅亡寸前までおいこみ、翻っては西方の異民族を平定し、十二国を併呑して、ついに千里をひらいた。歴史的にみれば、これが秦の中華統一への第一歩であったといえよう。また秦は外国人を首相にすると発展するという縁起を任好と百里奚がつくったといえる。とにかく任好は西方の覇者となり、周王から慶賀の使者を迎えるという栄光のうちに薨じた。死後かれは
話が前後するが、百里奚はすぐに秦の宰相に任じられたわけではない。おそらく快事はかれが芭蕉扇と再開してほぼ二十年後のことである。ということは宰相就任時のかれは九十歳代でのことになる。信じがたいことではあるが、「史記」の記述を信じれば、そうなる。
百里奚の政治原理は「徳」である。徳とはみえにくく、わかりにくいものだが、あえて言えば「許す」ということであった。
たとえばこういう話がある。
隣国の晋が二年つづきの不作となり、秦に窮状を訴え、穀物を請うた。
秦公はまよった。晋の君臣はそろって礼を欠くことがあるため、たとえ晋に穀物を輸出しても、与え損でおわってしまいかねない。それゆえ、二人の臣に輸出の是非を問うた。二人のうち一人が百里奚である。まず一人の臣は、輸出には一応賛成で
「こちらが施した恩に、晋が報いなければ、晋の国民が君主から心を離すに違いありませんから、そのとき、晋を討てばよい」
と、いった。恩を損益に換算したのである。が、百里奚はつぎのようにいって、輸出を大いに勧めた。つまり、秦公に許すことを勧めた。
「天災は、どこかの国で、かわるがわるあるものです。災害にあった国をすくい、その国民をあわれみ助けるのは、人のおこなうべき道です。この道を行えば、福にめぐまれるのです」
秦公はこの言を善しとして、晋へ穀物を送った。次の年、秦が不作になったので、晋へ穀物を請うたが、断られた。秦公はその無礼をも許した。二年後、秦と晋は戦争を行った。そのとき晋公が乗った戦車の車輪がぬかるみに落ちて抜けなくなる不運があり、晋公は捕虜となり、晋軍は大敗した。百里奚のいった福は、まさしく秦公にさずけられたのである。
考えてみれば、徳でおこなう政治とは、斉の管仲が行った法で国民をしばる政治と、みごとに対立する。許す政治と許さない政治の違いといってもよい。
激情を抱いて諸国をさまよった百里奚を、そこまで寛容のひとにかえたものは何だったのであろう。時のながれが、かれの不純な感情を浄化し、人や国の栄枯盛衰を見続けてきたすえに確立した人格を、洗い出してくれたとしかいいようがない。
百里奚が秦の人臣の頂点に立った時、かれを怨むものはたれひとりとしていなかったと伝えられる。男の嫉妬が身にしみてわかっていた百里奚らしい登高のしかたである。また宰相となったかれは、いくらつかれても老人用の座席のついた車にすわらず、いくら暑くても車に
百里奚が宰相の位にあったのは、六、七年ほどで、その短期間で異民族が続々と秦に国交を求めに来たことは特筆に値する。
それゆえ百里奚がしんだとき、秦国の男女は涙をながし、子どもは歌をやめ、臼をつく者も掛け声をやめて哀悼した。大夫の死にこれ以上の礼はあるまい。百里奚の前半生は不運続きであったが、一旦幸運をつかむと、こんどは幸運ばかりつづいた。長生きはしてみるものである。
百里奚の卒去の年は明確でないが、おそらく秦公・任好の死に先立つこと数年、紀元前でいえば625年前後ぐらいである。ということは百里奚は百歳をこえていた。秦の始皇帝が中国統一を果たすほぼ四百年前のことである。