百里奚   作:みくてく

2 / 2
地名などはそれほど重要ではないので、わからない部分はふ~んと思いながら読み飛ばすのがよろしいかと思います。
知ってると楽しいとおもうけどネ。


後編

 理想の君主と政治を求める百里奚(ひゃくりけい)と芭蕉扇は、どこをどう巡ったものか、周の王都である成周(せいしゅう)にあらわれた。百里奚はすでに五十歳である。

 ――管仲(かんちゅう)にまさるとしたら、この健康と寿命しかあるまいよ。

 と、百里奚は空元気で笑った。が、声色は白くかわいている。それにしても芭蕉扇は付き合いのよい女である。このあてのない流泊に苦しげな表情もみせずについてきている。百里奚がそこをいぶかると

 

「あなたに賭けているのです」

 

 と、芭蕉扇はけろりといった。百里奚はくすぐったそうに、白いもののまじった鬢毛(びんもう)を指でかきあげ

 

「そういわれると、ありがたいより、つらいわさ。近頃わしは、自分をそれほどの男とはおもえなくなってきた。賭けるに足らぬかもしれぬよ。それに汝ほどの見識の持ち主なら、りっぱに一国の大臣がつとまろうというのに、わしのせいであらた春秋を無にさせてしまった。すまぬ」

 

 と、いった。かれの正直な気持ちだった。芭蕉扇はしみるような微笑をかえし

 

「なに、わたくしたちの春秋はこれからでしょう」

 

 といい、百里奚にはきこえないほどの声で

 

 

 虫の飛ぶこと薨々(こうこう)たり

 ()と夢をおなじくするを(たの)しむ

 

 

 と、詩をくちずさんだ。

 さて、周の王都・成周は洛陽(らくよう)にあったため「洛邑(らくゆう)」とよばれ、ここより西にあって周王朝に従属している国は、(かく)()(しん)(しん)などで、さほど多くない。周王の直接の支配地でなんとかならないことには、二人の行く国がなくなりそうである。

 ところでかれらは洛邑にきて、あることをきき、腹を立てた。そのあることというのは、晋国の本家が分家に滅ぼされた、ということであり、それはまだゆるされるとして、かれらの我慢ならなかったのは

 

 ――周王が、その簒奪者たる分家の当主を、晋の国主として認めた。

 

 ということであった。世はさらに弱肉強食の風潮である。周王は晋の叛逆者を正統化したことで、自らの権威を失墜させた。

 

「天王も財と力には弱いということですわ」

 

 芭蕉扇の言うとおりであった。周王室は晋からおびただしい賄賂(わいろ)が届き、そのため周王が首を縦に振ったといえなくない。

 

「こりゃあ、天下の紊乱(ぶんらん)を正すには、まず周王室からだ」

 

 と、いっていた百里奚に、周王室にかかわる機会が与えられた。

 周王の弟に(たい)という人がいて、この王子はたいそう牛がすきなため、よき牧人を求めているときいた百里奚が、ためしにでかけていったところ、王子に気に入られたのである。

 もともと羌族は羊を飼いならして中国全土を移動する遊牧民族であった。その民族である百里奚にとって、羊のかわりに、牛をあつかうことは苦にならない。

 ところが、聊爾(りょうじ)なことをきらう芭蕉扇は

 

「周王室といえば、あなたの嫌いな姫姓の宗家ではありませんか。それも牛の飼育のごとき卑官など……とにかく王子(たい)がどれほどの人物であるかわかるまで、仕官はみあわせてください」

 

 と、念をおし、どういう才覚でか、あちこちの屋敷を出入りして情報を集め始めた。その間に周王(釐王)が崩御し、子の(ろう)が次の周王として即位した。芭蕉扇の言もあるので、百里奚は仕官のことは口を濁しながら、王子頹の牛の飼育を手伝っていた。

 ある日、芭蕉扇が眉間にしわをよせて

 

「あの王子頹は第二の公孫無知になるかもしれません」

 

 と、一驚すべき予測をうちあけた。斉における公孫無知の乱のときと、情況がよくにているというわけである。が、ここでは王子頹に心を寄せる大臣は多い。

 

「それだけに大乱になるということですわ」

 

 芭蕉扇にはやがて王都にひびく交戟(こうげき)の音がきこえるようである。しかし百里奚の目からすると、いまの王都はいたって平和であるし、王子頹にいくさを起こすほどの険悪さは見られない。またたとえ周王と王子頹が争うことになっても

 

「いまの王より、王子頹のほうがましなのではないか。王子頹が立てば、王室はよくなるだろう。それにだ、鳥獣を愛するものにわるいやつはいない」

 

 というのが百里奚の意見である。芭蕉扇はしずかな笑いを口元にふくみ

 

「そうはいかなくなるのが権力の座の魔性というものですわ。悠長なことは言ってられません。挙兵した王子が敗ければ、眷属はことごとく殺戮されますよ。いまのうちに都から去るのが賢明ですわ」

 

 と、せきたてた。

 ――はたして、そうか。

 半信半疑の百里奚の腰は重かった。かれの心はなかば王子頹にかたむいており、やがて王臣となって天下に大道を復活させるべく辣腕(らつわん)を振るう自分を夢想していた。また、王都をさって、この先ゆくところがあるのか、という気重さもある。

 そうこうしているうちに、周王は王子頹に心を寄せる五人の大夫の領地をとりあげ、いよいよ乱の兆しになった。ここが都にいる限度とみた芭蕉扇は、百里奚に詰め寄って

 

「わたくしをとるか、王子をとるか、はっきりしてちょうだい」

 

 とまでいった。百里奚はしぶしぶ腰をあげ、二人は王都をあとにして西へむかった。あとの王室における内訌(ないこう)のなりゆきは風聞でしかわからない。百里奚はできるだけゆっくりと歩いたので、芭蕉扇から

 

「未練ですよ」

 

 と、いわれたが、気になるものはしかたがない。

 このとき紀元前675年の秋である。芭蕉扇が予想したとおり、かれらが出発してから間もなく、王子頹は王に怨みを懐く五大夫とともに挙兵し、王を攻めたが敗退し、いったん()の国へ逃げ、さらに東の(えい)の国に走り、そこで衛と(えん)の軍を味方につけると、冬になって王都へ攻め上り、勝利を得て、周王となった。一方敗れた恵王(閬)は鄭の国へ亡命した。それを耳にした百里奚は

 

「王子頹が()ったではないか。扇よ、たのむ、洛邑へひきかえそう」

 

 と、跪拝(きはい)せんばかりにしてさそった。が、芭蕉扇はあえてひややかな口調で

 

「いまひきかえせば、死ににゆくようなものです」

 

 と、とりあわなかった。

 王子頹の政権樹立には、衛と燕の二国の軍事力が大きな後援をなした。しかしどちらも遠国の兵であるから、それらが王都から引き上げてしまうと、王子頹の防衛力は著しく低下する。一方で敗けた恵王は、隣国の鄭へ逃げ込んだわけであるから、復位には絶好の場所にいて、鄭の軍旅を借りればいつでも王都へ急襲をかけられる。

 ――王子頹の政権はながくない。

 芭蕉扇はそうみている。

 二人は黄河にそって西へゆき(かく)の国にしばらくいた。虢の君主は周の朝廷の首相格である。その虢の国から、突然軍旅が東にむけて発した。なにごとであろうと首をあげた百里奚に、すぐさま芭蕉扇は

 ――これで王子頹はほろぶ。

 と、断言した。そのとおり、虢の軍は鄭の軍と連合し、王都に攻めかかり、王子頹を殺して、恵王を鄭から迎えた。王子頹の政権はまる一年の短命であった。

 

「鄭が――」

 

 と、聞かされても、百里奚の目にはもはや炎は立たなかった。なにか遠い国の名を聞いたようで、不思議な事になつしかしささえおぼえた。それよりも

 

 ――まるで鬼神の目だ。

 

 と、百里奚は芭蕉扇の洞察力に舌をまいた。

 それにくらべて自分の智謀のなさはどうであろう。かれは(はげ)しい自己嫌悪におちいった。そうした百里奚をみかねた芭蕉扇は

 

「智謀などというものは、一種の心の冷たさから生まれてくるのです。万人に通用するものではありませんわ。万人に通じるのは温かい心ですもの」

 

 と、なぐさめてから

 

「これから王子頹の残党の詮議が厳しくなるでしょう。どんな言いがかりをつけられるかわかりません。虢にはいられませんわ」

 

 と(こうべ)をまわした。

 黄河を北へ渡り、虢とは対岸の国というべき()へついたとき、百里奚は黄塵のなかにすわり

 

「わしは運が悪い」

 

 と、うめくようにいい、大地を叩き、掻いて、砂を掴んだ。それはそうであろう。仕えようとした君主が一度ならず二度までも非命に(たお)れていったのである。かれの命運も歳月も、まるで手の中の砂のように、指の間からこぼれ落ちていったにすぎない。が、百里奚がそういうのならば、芭蕉扇とておなじ嘆きはある。しかし芭蕉扇の思考方法は違っていた。

 ――運がわるいというなら、公孫無知や公子糺、それに王子頹のほうが、もっと悪い。

 なぜなら彼らは死に、じぶんは生きている。この事実を厳粛にうけとめ、明るく未来に転化していったほうがよい、というものであった。

 ところが、この夫婦(めおと)のごとく切っても切れそうもないほど仲のよい二人に、決別が訪れた。

 虞の大夫の門をたたいた百里奚に仕官の口がかかったのである。芭蕉扇は反対した。虞の国は、北は貪欲な晋と境を接し、南は黄河を挟んで傲慢な虢に対している。

 ――潰されないでいるのがましな国です。

 と、芭蕉扇はいう。

 それでも百里奚は、わしはここで骨をうずめる気だ、と聞き分けのなさを発揮し、芭蕉扇を失望させた。すでに百里奚に顕揚欲はほとんどなくなり、永い流泊に疲れ果てたというべきであった。その点、芭蕉扇の精神のほうが強靭であったといえる。彼女はへたへたと坐り込んで、もはや立ち上がりそうにもない百里奚をみて

 

「では、別れるしかありませんね。もう生きて会えることはないでしょうが……感慨深い旅でしたわ」

 

 と、しみじみといい、断腸の思いで(きびす)をかえした。

 ――扇よ、ゆるせ。

 芭蕉扇を見送る百里奚の目は涙であふれ、無二の友の後姿は滲んで遠く、やがて黄塵のなかに消えていった。

 

 

 

 百里奚が虞で食禄を得てから十四年目に、隣国の晋の大夫である荀息(じゅんそく)が虞の君主に願いのすじがあって拝謁した。その願いというのは、晋軍が(かく)()つにおいて、虞の国を通してもらいたいというものであった。

 晋という国は、黄河の支流である汾水(ふんすい)の上流あたりに興り、黄河高原をどんどん南に伸長してきた武力の国である。晋室の姓は虞とおなじ「()」を自称して、古昔に周王朝からわかれた系譜をつくってしまったが、本当の家系はそんな尊貴な出自ではないかもしれない。それはさておき、晋の宿願は、国の国境が黄河へ到達することである。それにはあとすこしのところまできていた。すなわち、虞と虢を滅ぼせば達成されるのである。そのために、晋はまず虞を抱き込んで虢の攻伐から手がけ、虢を滅亡させたあと、晋に気をゆるした虞をそのままいただこうと計画したわけである。

 そうした陰黠(いんかつ)なたくらみを、虞で察知したものがいなかったわけではない。

 

宮之奇(きゅうしき)

 

 という大夫がそれである。かれの賢明は他国にも聞こえていたが、どんなにすぐれた臣下がいても、君主が暗愚では一国の存立は危うい。虞公は宮之奇の「晋軍に道をかしてはなりません」という諫言(かんげん)もそぞろに聞こえ、晋からの申し出を快諾した。なにしろ晋の使者がもってきた礼物が素晴らしかった。北方の(くつ)の名馬を四頭と、垂蕀(すいきょく)の美玉などであった。虞公は目がくらんでしまった。無理もない。それらは晋公でさえ

 ――わが宝である。

 と、出し渋ったほどの逸物ぞろいであった。すっかり気をよくした虞公は、あろうことか

 

「わが軍も参戦して、虢を伐ちましょう」

 

 と、晋に申し出て、ついに軍旅を催し、この年晋軍ともに虢の一邑を亡ぼしてしまった。

 それから三年後に、晋から――いよいよ虢の首邑を伐ちます。それにつき、このたびも貴国を通行する御許可をねがいたい、と虞は申し込まれた。先年よいおもいをした虞公のことであるから、晋軍の通行を軽諾するにちがいないとみた宮之奇は、最後の諫言として

 

「唇亡ぶれば歯寒し」

 

 と、虞公にいった。唇とは虢であり、歯は虞です。今虢が亡んでしまえば、わが国がどうなるかおわかりでしょう、と宮之奇は虞公の軽はずみを諫止しようとした。が、晋をすっかり信頼している虞公は宮之奇の言に耳を傾けず

 

「わが(いえ)は晋室と同姓ではないか。晋は同姓の国を滅ぼすことはあるまいよ」

 

 と、言って、宮之奇を唖然とさせた。

 まもなく晋によって亡ぼされようとしている虢の室も、姫姓なのである。虢だけ亡んで、どうして虞だけが生き残れよう。そう判断した宮之奇は、眷属をことごとく引き連れて、虞から去った。

 百里奚もそれをみたはずである。が、かれは諫言もせずに逃亡もしなかった。宮之奇のように虞の君主と幼少時代からともに育った大臣の諫言でさえ、しりぞけられたのである。いまさら他国うまれの自分の言が上に()れられるとはおもわれないし、また滅亡を目前にして逃げ出す臣下が、他国で官途につけるはずがない。あるいは宮之奇がもっていたほどの財産が百里奚にあれば、他国で隠棲できようが、それもない。となると

 ――わが骸は虞の土の肥やしになるばかりだ。

 と、かれは観念せざるを得なかった。

 晋軍は虞国を通過して、黄河を渡り、虢の首邑である上陽をかこんだ。虢の君主はたちまち周に亡命してしまったため、四百年ちかく累葉と続いてきた名門の虢はここに滅亡した。紀元前655年の12月のことである。

 凱帰(がいき)の晋軍は虞に止宿し、にわかに起って、虞の宮室を襲い、虞公を捕虜とした。晋公としては、はじめの目論見通り、戦火をたてず、虞一国をやすやすと手中にできたというわけである。馬四頭と玉一つで、二国が晋にころがりこんできたといえる。

 百里奚はこのとき他の大夫と同様に捕縛されて、晋公のまえに曳き出された。

 晋公(献公)という君主は北国の狼というべき、貪婪(どんらん)で酷薄な人柄である。かれはすぐに捕虜を検分したわけではなかった。先にみたのは、荀息が虞の厩舎から引いてきた四頭の馬であった。晋公がいかにそれらの馬を()しんで手放したか、そのことからでもわかる。馬をみたかれのなつかしげなまなざしに、やがて淋しさがまじった。

 

「馬はたしかにわしの馬だが、年をとったものだ」

 

 晋公は笑った。その笑いには複雑な意味がある。虢や虞のごとき小国をとるのに、これほどの歳月がかかったという腹立ちもあったろう。それだけわしも年を取ったという自嘲もあったろう。ほかに彼の笑いを多少なりとも曇らせているのは、前年に嫡子を自殺に追い込み、今年になって他の子を国外に(はし)らせたという事実である。いまかれには寵姫がいる。かの女が生んだ子が身近にいる。溺愛するかれらのために長生きしたい晋公にとって、いくら名馬でも、年老いた馬は不吉であった。

 

「よい、さげよ」

 

 晋公はそういったあと、ようやく捕虜に目をむけた。急に駑馬(どば)をみる目つきにかわった。かれは捕虜を嘲笑ぎみに一瞥(いちべつ)すると

 ――こやつらを、どうしてくれよう。

 と、考えた。あまり利口な連中といえぬが、一国の大臣どもだ、殺すにはもったいない、と吝嗇(りんしょく)な晋公は思いをめぐらせ、かれらを自分の(むすめ)の飾りにつかおう、という奇想に至った。晋公は先年に自分の女を西方の国である(しん)の君主にとつがせている。いま秦公夫人となっている女の召使に、大臣級の人間をつかわせば、秦の君臣はおどろき、わが女の格もあがろうというものだ、と晋公はほくそえんで

 

「わがむすめの(よう)にいたせ」

 

 という一言で、百里奚らは秦国へ送られることになった。媵はふつう侍女をいうが、この場合は付添人といってよく、悪く言えば奴隷であった。虞では殺されなかった百里奚だが、秦国へむかいながら

 ――ああ、扇がいったとおり、虞は亡び、わしは奴隷となってしまった。

 と、はずかしさとくやしさとで、指で顔を(おお)った。わしは牛でも飼って暮らしていたほうが性にあっているのかもしれぬ、とおもうと、短い間ながら王子頹の牛をあつかった周での生活がつよく記憶にあって

 ――この不自由さから免れたら、もはや仕官はしまい。

 と、かれは決心し、脱走を夢みるようになった。

 すでに年は改まった。虞の大夫らの到着は、晋公の見込み通り、秦の君臣をおどろかせた。ついさきごろまで国政に関与していたものが、僕使同然の身分におとされて、踟蹰(ちちゅう)として正室に陪待したのである。が、秦公の正室である晋公の女は、よくできた婦人で、かれらをことさら辱める処遇にせず、それなりに尊重した。

 秦の国は渭水(いすい)の上流域に発し、やがて渭水にそって東にくだり、平陽に遷都した。が、そこから二十七年後にまた遷都して、(よう)に首邑をおいた。以後、戦国期に櫟陽(れきよう)に遷されるまで秦の首邑は雍であり、百里奚らが連れてこられたのも、雍の城である。

 秦室の姓は(えい)といって、このころ()姓や(きょう)姓よりも一段格下にみられていた。が、秦の君主任好(じんこう)は、明徳をこのみ、いまや国運は隆盛にむかっており、はやく中原の先進諸国に比肩しようと、国人も進取の気象に富んでいたため

 

「虞とは伝統のあった国だ。その大夫とはどういう人物であろう」

 

 と、とりざたし、虞の大夫であった者たちと接触しようとした者が何人かでた。そのなかに禽息(きんそく)という秦公の臣がいた。

 禽息はもっとも目立たない百里奚に目をとめ、諸般について語り合ってみたところ、心の底から温かくなるほどの感動をおぼえた。百里奚の風采は地味だが、見識は比類ない。なによりもこの虞人は苦労人らしく、その政見に血がかよっている、とかんじた禽息は

 ――あの欲張りの晋公がこれほどの人物を見抜けず、無償でわが国に送ってくれたのは、天授というほかない。

 と、よろこび、百里奚を活かさぬ法はないと決意して

 

「かならず、わが君にご推挙申す」

 

 と、いった。ところが百里奚はかえって顔を曇らせ

 

「それは無用にお願い致します。わたくしには悲運がつきまとい、この秦にもわざわいをおよぼすかもしれません」

 

 と、辞を低くしてことわった。

 しかしながら、すっかり百里奚に傾倒した禽息は

 ――これは私事ではなく、いわば国の大事である。百里奚どのがなんと言おうと、わが君に申し上げずばなるまい。

 と、上申の機会を伺っていた。そんな禽息を仰天させることがおこった。

 百里奚が逃亡したのである。

 そうきかされた禽息は、しまったと思うと同時に、ああ、これは百里奚どのがわが国に災厄をもたらすことを恐れて逃げだされたのだ、と好意的に解釈した。ことばは悪いが

 ――なあに、いまにつかまる。

 つかまってもらわねばこまるのだ。そのときこそ百里奚を秦公に推薦してみようと楽観していた禽息だが、いつまでたっても官府から捕吏が派遣された様子がないことをいぶかり、係の役人にきいてみると

 ――媵臣(ようしん)一人のことで、官吏をわずらわすにおよばず。

 という、上からの指図らしい。秦公はおそらく、百里奚の脱走さえ知らぬであろう。

 

「なんということだ。わが国は大宝を失ったというのに、あえてさがさぬとは。秦の人臣は愚者ばかりじゃわ」

 

 禽息は声を荒げて、役人をおどろかせた。このままでは事態が好転しないとさとった禽息は、わが君に直訴するほかないと非常な決意をして、秦公の外出を待ち受け

 

(おそ)れながら――」

 

 と、門前で伏謁した。禽息は百里奚の履歴を述べ、その賢哲ぶりを口をきわめて褒称した。秦公はそれを聞き捨てにして、歩を進めようとした。むりもあるまい。秦公にとって百里奚とはすでに忘れ去られた名である。また百里奚がそれほどの賢人であれば、なにゆえ虞の亡びを拱手(きょうしゅ)していたのであろう。臣下としてなすべきことをしていないではないか。なおかつ敵の手で捕獲されるとは、愚者でこそあれ、賢者とはいえまい。秦公は禽息の直情を憐れむと同時にうるさく感じ、これは聴かなかったことにして、通過しようとした。

 が、このとき異変がおきた。

 必死の禽息は頭を地に打ち付け、至情を君主に通じさせるべく、首の骨を砕いて死んだのである。

 普通にかんがえて、頭を地面にうちつけて首の骨が折れるのかという疑問であるし、多少の誇張が混じったことではあろうが、古代の人の喜怒哀楽の表現はいまよりはるかに烈しいものであるのは、彼に限った話ではない。いずれにせよ、禽息の嘆願の凄まじさを知るべきであろう。

 秦公は臣下を我が子のようにいつくしんでいるひとである。出血した禽息をみて、心中おどろきの声をあげ、涙さえうかべた。当然、深く感ずるところがあって、さっそく左右の者に

 

「百里奚の行方をしらせよ」

 

 と、命じた。

 

 

 

 百里奚は逃げた。

 七十歳をこえた老人とは思えない健脚で、東南にむかって走り去った。行先は決まっている。(しん)という地である。

 申は羌族が南陽地方にたてた国である。残念ながら、この時点より二十二年前に大国・()に亡ぼされ、この時楚の大夫の封地となっていた。といっても、申の羌族は全滅したわけではなく、原住民として、また被治者として生活していた。許や斉の国へ戻る気のない百里奚としては、残る羌族の聚落の地は申のほかなく、そこを余生をおくるにふさわしい地として選んだわけであった。かれは振り返り振り返り、逃げたが、どうやらおってくる人影がいないとわかると

 ――これで窮屈な身分からのがれられた。

 と、ほっとして、難路をものともせず、申へたどりついた。じつに秦の雍から千里あまりの道である。

 が、目的地であった申は楚の植民地といってよく、羌族の人々が跼天蹐地(きょくてんせきち)として暮らしているのをみれば――ここも死所にはふさわしくない、と百里奚は仰嘆した。ここで()る天は、かつて許でみたと同じように、青く澄み、ながくみつめているとわけもなく涙がでそうになった。その天の下でついに身を置く場所がなくなったという絶望感が、かれの五体から活力をうしなわせた。かれは風にはこばれる天蓬(てんぽう)のように南にむかって足をひきずってゆき、(えん)というところで、とうとう楚人に見咎められた。

 ――どこかの僕隷がにげてきたという恰好だ。

 と、百里奚を睨んだその楚人は、このうすぎたない老人を自宅へ連れてゆく気になったのは、牛を飼えるときかされたからであった。百里奚は家内奴隷になった。

 ――いかにもわしの人生の末路にふさわしい。

 百里奚はうっすらと自嘲の笑いをうかべ、蝉蛻(せんぜい)のように風が体内を吹き抜けてゆくのを感じた。かれの目の色は死人のそれとかわりなかった。

 このころ、秦では百里奚に関する情報を猛烈に蒐討(しゅうとう)していた。国内に隠れ住んでいないか捜す一方、百里奚が羌族の出であることがわかると、

 

 ――それだ。

 

 と、秦公は()を叩いて斉や許、それに申へ特命の者を(はし)らせた。それら隠密の者のなかの一人が、ついに百里奚の所在をつかんできた。秦公は

 

「よくやった」

 

 と喜躍したが、

 ――ふうむ、楚人に(とら)われているのか。

 と、考え込んだ。

 楚人には強欲なものが多いときく。なまなかなことでは百里奚をこちらに引き渡してもらえそうにない。さきに禽息(きんそく)が百里奚について

 

「かの者をおそばに置けば、千里をひらくことができましょう」

 

 と、いったことを秦公は想い出し、百里で一国だから、十国の値打ちがあるわけか、と考え、楚人が目のくらむほどの財宝と交換しても損はあるまい、と側近にもらしたところ

 

「そのことが楚の君主に聞こえましたら、とても百里奚をはなさず、必ず重用して、楚が千里をひらくことになりはしないでしょうか」

 

 と、いわれ、秦公はもっともなことだと思い返した。

 

「では五羖羊(ごこよう)にしよう」

 

 秦公はそういって、にっこりした。

 羖というのは、黒い牡羊のことである。黒い牡羊の皮と百里奚を交換しようというものである。それなら目立たず、なんとかその楚人の歓心を買えるのではないか。

 早速、五羖をもった使者が宛へ(はし)った。

 楚人は返答を渋った。そこで使者は腹を立てたふりをして

 ――もともとかの者は、わが公の媵臣であったのですぞ。

 と、強硬に所有権を主張した。逃亡した奴隷は、正当な持ち主なら無償で連れ戻しても文句のでないところだ。それを五羖で買い戻そうというのである。しだいに楚人は弱腰になった。そこを見澄ました秦公の使者は楚人に五羖を押し付け、百里奚の身柄を引き取ることに成功した。

 

「ご健勝で、ようございました。わが君がお()ちです。いざ秦へ――」

 

 使者にそういわれた百里奚は、健勝どころか精神は仮死状態に近かったが、その空虚な頭では、なんのことやらわからなかった。逃亡奴隷として処刑されるにしては、扱いが鄭重すぎる。わかったのはそれぐらいであった。百里奚にとってこの秦への帰途が、秦の宰相への道につづいていようとは、露ほども想わなかった。

 百里奚を迎えた秦公は、いちはやくかれを媵臣の身分から解放して、引見し、

 

「国事について語り合いたい」

 

 と、()き込むようにいった。仕官のことはすっかり頭のなかからなくした百里奚である。まして国政のことを直答することに、恐怖さえおぼえた。

 

「亡国の臣に、はたしてご下問になる価値がありましょうや」

 

 と、謝した。だが秦公は

 

「いや、あれは虞の君主が、そなたを用いなかったゆえに亡んだのだ。そなたの罪ではない」

 

 と、いって、百里奚の退席をゆるさず、諮問(しもん)の口をきった。秦公のやろうとしていることは、昨日までの奴隷に国事を問うという、かなり危険な果断なのである。まかりまちがうと他国の笑い(ぐさ)になりかねないことだ

 

 ――よくも固意なさったことよ。

 

 背筋にふるえのようなものがはしった百里奚は、(まぶた)を熱くした。むろん、このとき百里奚は、禽息が命を賭してまで自分を推挙してくれたことを知らない。かれがいま拝見している秦公こそ、芭蕉扇とともに永年求めてきた君主でなくてなんであろう。そう感じた百里奚はここで毅然(きぜん)として、自身を真摯と熱弁のなかに投じた。

 秦公と百里奚の対話は一日では足りず、二日におよび、二日でも足りず、三日におよんだ。それがおわったあと、秦公は

 

「そなたほどの賢人が、五羖とは、随分やすい買い物であった」

 

 と、上気した顔でいった。その機嫌のよさをみた百里奚は、うやうやしく拝礼し

 

「わたくしごときは、とても、芭蕉扇の賢明にはおよびません」

 

 と、はじめておのれが妻ともいえる友の名をだし、秦公の快心に乗じて、芭蕉扇を推挙した。これまで秦公に述べてきた私見を実行に移すには、秦国にまるで縁のない百里奚としては、百官のあいだで孤立して献策だおれになる可能性がある。どうしても協力者がいるということである。その協力者に芭蕉扇以外の名は頭に浮かんでこなかった。はたして秦公はおどろき

 

「そなたより賢明な者がいるのか」

 

 と、目を輝かせ、身を傾けた。この時芭蕉扇の招聘(しょうへい)は決まったと言って良い。さて、このとき芭蕉扇はどこにいたのか、はっきりとしたことはわからないが

 

 扇(かん)()りて、干亡び、秦に処りて、秦覇たり。

 

とあるように、干という国にいたらしい。ただし干というと斉国の首都臨淄(りんし)にあった地名で、斉国がこのころ亡んだわけではないから、別の干というところにいたようだが、詳しくはわからない。ともかく、秦から特派された者たちは、この雲をつかむような捜索を難なくやり遂げ、芭蕉扇を発見した。秦公は使者に(へい)(贈り物)をもたせて芭蕉扇を招いた。

 ――奚どのが秦の大夫に……。

 虞の滅亡によって百里奚も死んだとばかりおもっていた芭蕉扇は、夢かとばかりに悦び、目をうるませて、あとは絶句した。

 

「わが君に五羖(ごこ)でかわれましたので、百里どのはご自分から五羖大夫と名乗られているのですよ」

 

 使者からいきさつをきかされた芭蕉扇は、はっとした。五羖大夫とは、一種の侮蔑をもって、他の群臣からつけられた綽名(あだな)であろう。それをあえて自称してみせる百里奚の秦における立場の微妙さが、芭蕉扇には直感されたと同時に、昔の百里奚とはちがう、頭の低さと腰の低さとで、慎重に国政にあたろうとする百里奚の矍鑠(かくしゃく)たる姿を脳裡に描きだすのに、時間はかからなかった。

 

「さあ、まいりましょう」

 

 芭蕉扇は気を引き締めて、秦へむかった。

 秦についた芭蕉扇は、彼女を出迎えている百里奚が感きわまったような顔をしているのをみつけると、熱いものが喉につきあがってくるのを感じた。かれらの生涯のなかでこの再開ほど感激的なできごとは無かったであろう。虞で二人が別れてから、実に十九年後の奇蹟である。が、芭蕉扇は感泣ばかりしてはいられない。彼女の独特の勘と分析力で、秦公の器局をはかり、秦国のゆくすえを予見しようとした。彼女のそうした鋭い目と頭とは、秦公に拝謁したおり、秦公をまれにみる徳量の君主としてとらえ、秦国の肥大を予感した。

 一方で秦公も、芭蕉扇を接見して

 

――地中に眠っていた宝刀である。

 

 と、高く評価して、たちまち彼女を上大夫(大臣)に任じた。英断というほかない。

 大国でありながら、文化国家としては二流である秦は、百里奚と芭蕉扇とを得ることによって、自他ともに一流として認めうる大国に成長する足がかりを掴んだことになる。秦という国は周王にしたがっているとはいえ、周王しか(まつ)ってはいけないとされている「天」をひそかに祀っていたように、歴代の君主は天下に大望があり、このときの君主・任好(じんこう)も例外ではなかった。

 任好は百里奚と芭蕉扇を左右にしたがえ、東隣の大国・晋を滅亡寸前までおいこみ、翻っては西方の異民族を平定し、十二国を併呑して、ついに千里をひらいた。歴史的にみれば、これが秦の中華統一への第一歩であったといえよう。また秦は外国人を首相にすると発展するという縁起を任好と百里奚がつくったといえる。とにかく任好は西方の覇者となり、周王から慶賀の使者を迎えるという栄光のうちに薨じた。死後かれは穆公(ぼくこう)(おくりな)され、殉死者が177人もでたということは、秦の遺風もあったにせよ、いかにかれが人臣したわれた名君であったか、わかろうというものである。

 

 話が前後するが、百里奚はすぐに秦の宰相に任じられたわけではない。おそらく快事はかれが芭蕉扇と再開してほぼ二十年後のことである。ということは宰相就任時のかれは九十歳代でのことになる。信じがたいことではあるが、「史記」の記述を信じれば、そうなる。

 百里奚の政治原理は「徳」である。徳とはみえにくく、わかりにくいものだが、あえて言えば「許す」ということであった。

 たとえばこういう話がある。

 隣国の晋が二年つづきの不作となり、秦に窮状を訴え、穀物を請うた。

 秦公はまよった。晋の君臣はそろって礼を欠くことがあるため、たとえ晋に穀物を輸出しても、与え損でおわってしまいかねない。それゆえ、二人の臣に輸出の是非を問うた。二人のうち一人が百里奚である。まず一人の臣は、輸出には一応賛成で

 

「こちらが施した恩に、晋が報いなければ、晋の国民が君主から心を離すに違いありませんから、そのとき、晋を討てばよい」

 

 と、いった。恩を損益に換算したのである。が、百里奚はつぎのようにいって、輸出を大いに勧めた。つまり、秦公に許すことを勧めた。

 

「天災は、どこかの国で、かわるがわるあるものです。災害にあった国をすくい、その国民をあわれみ助けるのは、人のおこなうべき道です。この道を行えば、福にめぐまれるのです」

 

 秦公はこの言を善しとして、晋へ穀物を送った。次の年、秦が不作になったので、晋へ穀物を請うたが、断られた。秦公はその無礼をも許した。二年後、秦と晋は戦争を行った。そのとき晋公が乗った戦車の車輪がぬかるみに落ちて抜けなくなる不運があり、晋公は捕虜となり、晋軍は大敗した。百里奚のいった福は、まさしく秦公にさずけられたのである。

 考えてみれば、徳でおこなう政治とは、斉の管仲が行った法で国民をしばる政治と、みごとに対立する。許す政治と許さない政治の違いといってもよい。

 激情を抱いて諸国をさまよった百里奚を、そこまで寛容のひとにかえたものは何だったのであろう。時のながれが、かれの不純な感情を浄化し、人や国の栄枯盛衰を見続けてきたすえに確立した人格を、洗い出してくれたとしかいいようがない。

 百里奚が秦の人臣の頂点に立った時、かれを怨むものはたれひとりとしていなかったと伝えられる。男の嫉妬が身にしみてわかっていた百里奚らしい登高のしかたである。また宰相となったかれは、いくらつかれても老人用の座席のついた車にすわらず、いくら暑くても車に(ほろ)をかけず、国内を巡視するときは、供の車をつらねさせることはせず、護衛の武士に(たて)やを立てさせなかった。かれのそうした謙譲の態度は万民に好感をもたれ、「五羖大夫」はいつしか秦国はじまって以来の名宰相としてたたえられるにいたった。

 百里奚が宰相の位にあったのは、六、七年ほどで、その短期間で異民族が続々と秦に国交を求めに来たことは特筆に値する。

 それゆえ百里奚がしんだとき、秦国の男女は涙をながし、子どもは歌をやめ、臼をつく者も掛け声をやめて哀悼した。大夫の死にこれ以上の礼はあるまい。百里奚の前半生は不運続きであったが、一旦幸運をつかむと、こんどは幸運ばかりつづいた。長生きはしてみるものである。

 百里奚の卒去の年は明確でないが、おそらく秦公・任好の死に先立つこと数年、紀元前でいえば625年前後ぐらいである。ということは百里奚は百歳をこえていた。秦の始皇帝が中国統一を果たすほぼ四百年前のことである。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。