Fate/Grand Order : error/mission 作:変種第二号
マタ・ハリこと『マルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレ』にとっての今回の召喚、今生とは正に奇蹟そのものであった。
生前、十代の頃から男達の身勝手な欲望に蹂躙され、そんな男達へと自ら身体を開く事によってしか生きる道の無かった人生。
愛する者に純潔を捧げ、幸せな家庭を築き、愛しい伴侶と子供達に囲まれた平凡で暖かな生活。
マルガレータにとってのそれは、どうあっても手の届かない夢のまた夢、渇望すれども決して手に入れる事の叶わない、幾ら求めても虚しいだけの幻想でしかなかった。
諜報員としての業績は後世に残れども、一人の女としての彼女を評価する文言は、その優れた容姿と警戒感を抱かせない話術についてばかり。
彼女の望み、一人の女として味わってきた辛酸など、誰も興味を抱いていない。
だからこそ『陽の眼を持つ女』などと祀り上げられ、英霊などという存在と化した後ですら、その肢体でもって男達を手玉に取る娼婦としての現界しか許されないのだろう。
そして、幾ら『聖杯』などという願望器が存在しようとも、並み居る英雄豪傑たちの中から一介の娼婦がそれを勝ち取る可能性など、万に一つも在りはしない。
それを理解しているからこそ、彼女の胸の内には常に諦めが深く根を下ろしていた。
絶望などという輪郭定かな感情は、疾うに色褪せてしまっている。
だからこそ彼女は、何時でも諦観を保つ事ができたのだ。
だが、そんなこびり付いた絶望と諦めの荒野、其処に信じられない現実が飛び込んできた。
それは、現在のマスターによって喚び出され、人類史の救済などという一大使命に係わる事となって暫く経った頃の事だ。
マルガレータと同じく、生前に望まぬ途を強要された幾人かの女性達。
交流の始まりこそ、互いに似た匂いを感じ取ったが故の、単なる傷の舐め合いだったのかもしれない。
だが彼女達との交友は、男性に対して拭い難い不信感を抱くマルガレータにとって、本当の意味で心底から安らげる時間だった。
同情でもなく、自分を卑下するのでもない。
ただ、似通った苦しみを共有する同士としての触れ合いは、世の全てに対して何処かしら距離を置く彼女の中に、何かしらの良性な変化を齎しつつあった。
そうして何時もの様に空いた時間で、フランス出身の英霊達の手によってちょっとしたサロンと化した休憩室のひとつに陣取り、紅茶と菓子を楽しみながら何気ない『恋』に関する雑談を交わしていたところ。
同席していたアサシン『静謐のハサン』が、知らず知らずの内にといった体で呟いたのだ。
『もし、私が山の翁でなかったのなら……』
消え入りそうな声で其処までを口にすると、我に返った様な素振りと共に、彼女は口を閉ざし俯いてしまった。
周囲もまた掛ける言葉も無く、痛ましげに視線を彷徨わせる他ない。
彼女、静謐のハサンの身体そのものが劇毒の塊であり、暗殺以外での他者との触れ合いなど叶う筈もない事を、既に皆が知っていた。
せめてもの救いか、このカルデアには彼女の毒が通用しない人物が、マスターである2人を始めとして複数人存在している。
だが、彼女が望む様な触れ合いが可能な人物が居るかと問われれば、それへの回答は幾らか難しい。
先ず、マスターの片方は女性だ。
彼女は限りない慈しみを以て静謐のハサンに接し、時には友人の様に、時には姉の様に、そして時には母の様に触れ合ってきた。
何気なく行われてきたこれらの触れ合いによって、静謐のハサンがどれだけの救いを得た事か。
しかし当然の事ながら、同性である彼女との間には、それ以上の関係を望む事はできない。
幾ら特別な存在として慕おうとも、異性との間でなければ育めない愛情、間柄というものはあるのだ。
では、もう1人のマスターはどうか。
彼は男性であり、また静謐のハサンにとっての想い人でもある。
これらの事実のみを鑑みれば、彼女が理想の関係を構築すべく動く事に、何ら問題は無い様に思えるだろう。
だが、事はそう単純ではない。
先ず、彼のマスターを異性として想っているのは、彼女だけではないのだ。
それこそ10に迫る数のサーヴァント達が彼を憎からず想い、中には力尽くでも男女の関係に持ち込もうとする者さえ居た程である。
ところが最近はそんな彼女達でさえ、積極的にマスターへとアプローチする事を避けている節があった。
理由は明白だ。
マスターには想い人が居るのだ。
彼が初めてこのカルデアを訪れて以来、ずっと傍で共に歩んできた存在。
現世に生きる存在でありながら『デミ・サーヴァント』等という歪な存在へと変貌する事を余儀なくされ、それでも一途に彼を想い支えてきた彼女。
マシュ・キリエライト。
マスターは、心底から彼女に惚れ込んでいる。
己が半身として、伴侶として、生涯を共に歩む事を望んでいるのだ。
割り込む隙など無い事は、誰の目にも明らかだった。
構わぬ、知った事かとばかりに攻勢に出る者も居たが、彼女達は正面から真摯に断られ、時に受け流され、いずれも実を結ぶ事なく今に至っている。
自身の想いよりもマスターの意向を尊重する傾向の強い静謐のハサンでは、彼女達の様に積極的な行動に出れる筈もなく。
またそうしたとしても、実を結ぶ事はないという結論が先に導かれてしまっているのだ。
少し前であれば、彼女にも可能性は在っただろう。
自身の身体的な問題から、マシュは自らもまたマスターと共に歩む事を望みながらも、その想いを必死に胸の内へと押し込めていたからだ。
たとえ結ばれたとしても、彼女は遠からず彼を置き去りにして世を去ってしまう。
だからこそ、彼女は自らの恋心を自覚したばかりでありながら、その時には既にそれを諦める事を覚悟していた。
していた、筈だったのだ。
職員やサーヴァント達が集まる食堂、其処で何の事はないとでも言わんばかりに、とある一言が放たれるまでは。
『キリエライト、身体は何時『調整』する? 此方は今からでも構わないが』
その言葉が放たれた直後の食堂の空気を、マルガレータは今でも覚えている。
凍り付いた様に動きを止めるマシュ、椅子を蹴倒して立ち上がるマスター、温度の消え失せた瞳で発言者を睨み据えるロマニとダ・ヴィンチ。
そして、何の事やら解らない、マルガレータを含めた大勢のサーヴァント達。
発言者の意図とマシュの身体に関する真実を知ったのは翌日、一通りの検査を終えた彼女が『増設区』より戻ってからの事だった。
その時にはもう、彼女を縛り付けていた死の運命は、影も残さず消え去っていたのだ。
無論、真実を知った皆は、その結果を心から喜んだ。
一斉に歓呼の声を上げ、手を取り合って飛び跳ね、涙を流して喜ぶ者達さえ居た。
肩を組んで歓びの唄を歌い、祝いの酒盛りを始める者達。
大慌てで、しかし心底から湧き起こる喜びを隠そうともしない表情で、料理の為に厨房に飛び込む者達。
素直に祝福の思いを表に出す事も出来ず、或いは興味など無い風を装って騒ぎの中心から距離を置いていた者達も、心底で歓喜を覚えている事は明らかであった。
その思いは、マスターを想う面々も同様だ。
マシュが理不尽な死の運命より解き放たれた事は、間違いなく喜ばしい事である。
しかしそれは同時に、彼女のマスター『藤丸立夏』への想いを封じる枷、それが消え去った事をも意味していた。
自らの運命を縛っていた鎖が消えた去った事を、漸く実感したのだろう。
丸一日を使って行われた大宴会の翌日から、マスターとマシュの距離は目に見えて縮み始めていた。
多くの者が初々しい2人を微笑ましく見守る中で、同じく暖かな気持ちを抱きつつも、何処か寂寥感を覚えている者達も居る。
それが静謐のハサンを含む、マスターを想っていたサーヴァント達だ。
人理修復が完了した後、この場の者達がどうなるのか。
長らく疑問ではあったが、それに対する回答も既に『彼等』より齎されている。
全てが済んだ後、サーヴァント達は真の受肉を果たし、現世に留まることが可能と証明されたのだ。
となると、気の早い話だが、後々の身の振り方を考える者も出始める。
マスターと結ばれる事を諦めざるを得なかった者の中には、いずれ新しい恋を見付けるのだと己を奮い立たせている者も居た。
しかし中には静謐のハサンの様に、己が特性により未来への可能性が狭められてしまう者も居るのだ。
どれだけ誰かを愛そうとも、その身の余すところ無く宿った毒は、常人ならば振れただけでも死に追い遣ってしまう。
それも、彼女当人の意思とは無関係にだ。
一部の英霊を除けば、これまでに毒に侵される事なく彼女と触れ合う事のできた人間は、このカルデアのマスター達2人のみ。
その内の男性であるマスターと結ばれる事が叶わないのであれば、受肉しても生涯を添い遂げる相手と出会える確率は極めて低い。
それを望む相手を見付けたとしても、毒への耐性か或いは無効化の力を持つ者でなければ、彼女は愛した者をその手に掛けてしまう事となる。
その事実を知っているからこそ、愁いに沈む彼女へと気軽に慰めの言葉を掛けられる者は、茶会の場には居なかった。
同じ休憩室の中、離れた席で何やら話をしていた数名の研究員らしき者達、その中の1人以外は。
『失礼、先程からお話の内容が耳に入っておりまして……どうです? その問題、私共に任せては貰えないでしょうか』
何を言っているのだ、この男は。
それが、マルガレータが最初に抱いた印象だ。
他の面々も同様だったのだろう、カルデア職員の者とは異なる装束に身を包んだ男を胡乱げに見遣っていた。
だが、そんな視線を気にする素振りさえ無く、男は続ける。
『ちょっとしたレイシフトの応用です。『座』に記録されている彼女の情報に、此方で追加のプログラムを書き加える。それだけの事で済みます』
誰もが呆気に取られ、そして数秒後。
ある者は罵声で、ある者は沈黙で。
有り得ない事を言い放った男へと矛先を向け、怒りを爆発させた。
その無分別な発言が、ハサンやこの場に居る者のみならず、このカルデアに身を置く全ての英霊を侮辱するものだと判断したが為だ。
出来もしない事をほざき、希望を持たせた上で奈落に突き落とすものだと判断したが故に。
直接に言葉を向けられた静謐のハサンもまた、怒りか或いは絶望故か、より深く俯いて膝の上に置いた拳を握り締めていた。
しかしそれでも、男は何ら配慮を見せる事もなく、こう続けたのだ。
『何ら対策を講じないよりはマシでしょう。上手くいけば、貴女は次回以降の召喚でも手に入れた肉体を自由に行使できる。失敗しても、現状のままというだけだ。どうです? ちょっとした博打、ローリスク・ハイリターンな賭けだ』
その後の顛末については、特に長々と思い起こす事でもない。
多数のサーヴァントから悪感情を向けられながらも、その男は発言通りの仕事を成し遂げた。
そうして、望外の喜びに咽び泣く静謐のハサンを横目に、男は特に感情の動きを見せる事もなく、呆然と佇むマルガレータ達へと言い放ったのだ。
『それで、次は何方です?』
マルガレータが、無垢で清楚な少女の自分自身を手に入れたのは、その翌日の事だった。
「ご苦労様です。はい、差し入れのレモネードよ」
「ああ、有り難う御座います……少尉なら、今はA4区画に居る筈ですよ」
「あ……ええ、有り難う」
そして今日も彼女は『増設区』へと足を運ぶ。
この『IF』の身体を手に入れる以前からではあるが、個人的に交友していた人物が居る為だ。
互いを初めて確りと認識したのはオケアノスの海、翼竜に支配された島での事だった。
ワイバーンの群れに奇襲された一行は、数の多さに押されて散り散りとなってしまった。
そんな中、マタ・ハリ達は折り悪く一行から少しばかり離れた場所に居り、しかも彼女は突発的な戦闘の最中、その一団からも離されてしまったのである。
ワイバーンの奇襲は止む事なく、寧ろ時が経つにつれて数を増しつつあった。
完全に包囲され、最早これまでかと、無念の思いと共にカルデアへの強制帰還、その直前に襲い来るであろう衝撃と痛みに備え、目を瞑った瞬間。
雷鳴の様な音と共に響き渡ったのは、ワイバーンの断末魔だった。
そして、男の叫び声。
『おいアンタ! 援護する、死にたくなきゃ走れ!』
彼女の周囲を囲んでいた十数匹のワイバーンが殲滅されるまで、其処から2分と掛からなかった。
そうして、合流を果たした恩人に、彼女は自分の名と共に感謝の言葉を伝えたのだ。
2人の交友は、こうして始まった。
「今日は何をしてるのかしら……ミーティングは終わっている筈だし……」
今思えば、その時既にこの想いは、胸の内に宿っていたのだろう。
唯の少女であった頃に読んだ、ありふれた御伽噺の中に描かれた、姫の危機に駆け付ける白馬の騎士。
それと同じ事を、彼は難なくやってみせた。
生憎、彼は白馬にも乗っていないし、輝く甲冑を身に着けている訳でもなく、そもそも騎士ですらない。
全身を状況に合わせて変色する特殊迷彩服で覆い、最新鋭の技術で以て紡がれた耐衝撃・防刃・防弾ベストとアーマーを装着し、特殊電磁コーティングの施された12.7×99mmを放つアンチマテリアルライフルと、サイドアームにサブマシンガンを手にした21世紀の軍事組織に所属する軍人だ。
『増設区』の科学者達によって、英霊や幻想種とも正面から張り合える武力を手にした兵士達。
彼等はマスターやサーヴァント達と共に特異点へと赴き、立ちはだかる敵を容赦なく死体、またはマナへと変えていった。
彼もまた、そういった部隊の一員であったのだ。
燻る想いは、徐々にその熱を増しつつあった。
しかしやはり、自らの経歴とサーヴァントという人ならざる身の在り方、そして幸福に対する何処かしら恐れにも似た感情。
そういったものが行動を阻害し、一歩を踏み出す事を躊躇わせていた。
だが今や、無限の可能性を手に入れたマタ・ハリ、マルガレータにとって、そんなものは自らの足を止めるだけの傷害には成り得ない。
生前、否、前世では決して手に入らなかった、ごく平凡な幸せ。
それが今、手を伸ばせば届くところに在るのだ。
そう、彼女は正に今『恋』をしていた。
愛する者に純潔を捧げ、幸せな家庭を築き、愛しい伴侶と子供達に囲まれた平凡で暖かな生活。
マルガレータにとってのそれは、どうあっても手の届かない夢のまた夢、渇望すれども決して手に入れる事の叶わない、幾ら求めても虚しいだけの幻想でしかなかった。
だが、もしかしたら。
もしかしたら今度こそ、その幻想を手に入れる事ができるかもしれない。
何者にも許した事の無い無垢な身体、希望を失ってはいない精神、その双方を取り戻したのだ。
山の翁であった少女も、コルキスの王女も、ゴルゴンの姉妹達も、皆が新しい未来を求め歩み始めている。
皆、幸せを掴もうと走り出している。
ならば、自分だけが立ち止まっている訳にはいかない。
少女の様な恋心、初な生娘の様な恥じらい。
端からすればじれったくなる様な、亀の歩みの如くゆっくりと詰まってゆく距離感。
それの何が悪い。
此処に居るのは、その色香で以て数多の男達を手玉に取ってきた諜報員『マタ・ハリ』であると同時に、未だ男を知らぬ『マルガレータ』という少女でもあるのだ。
恋を知らぬ女の『初めて尽くしの恋』なのだ。
恋に燃える女は強い、何時の時代だって変わらぬ事実である。
その歩みを止めたければ、それこそ対界宝具でも持ってくるが良い。
「見付けた……!」
そうして、意気揚々と足を進めること数分。
マルガレータは曲線を描く通路の先にお目当ての人物の背を見付け、逸る気持ちを抑えながら、少し脅かしてやろうと忍び足で近付く。
そんな彼女の耳に飛び込む、第三者の声。
「……今のところ、キリエライトに暴走の兆候は無い。監視は続けるが、既に健康体に到っている事は確実だ」
反射的に足を止め、壁際に身を寄せる。
既に意識は『マルガレータ』から『マタ・ハリ』へと移り変わっていた。
気配を殺し、耳をそばだてる。
続いて聴こえてきた声は、彼女の想い人のものだった。
「そんな事を訊いているんじゃない。俺はアンタがあの子に移植した代物について問い質してるんだ」
「今の答えじゃ不満か? キリエライトは回復し、通常の人間と同じ寿命を生きる事ができる。それで良いじゃないか」
「人間? 人間だと? あんなものに『感染』させられて、それでも普通の人間として生きられると?」
『感染』
その単語を耳に留めた瞬間、マタ・ハリは気配を殺す事さえ忘れて、想い人と言葉を交わす男を視界の中央へと捉える。
『感染』とは何の事だ。
あんなものとは何を指している。
あの男は、儚げなデミ・サーヴァントの少女に、何をしたのだ。
「『アレ』の特性は殺してある。飽くまでテロメアの構造修復と細胞の更新を促しただけだ。『アレ』の特性が発現する事はない……そもそも、制御に関する情報を提供したのはお前だろう?」
「似たようなものと係わってたからな。当然『アレ』のヤバさも理解しているさ。アンタと似た様な事を考えている奴は、俺のところにも居た」
「参考までに訊きたい。ソイツはどうなった」
「死んだよ。馬鹿な野望と一緒に溶岩浴さ」
「最高だな」
一体、何を話しているのか。
マタ・ハリには皆目、見当も付かなかった。
しかし、次いで放たれた言葉は、彼女の背筋を凍り付かせるに充分なもの。
「それで、その先に隠れている女スパイには何時、打ち明けるつもりだ?」
瞬間、彼女は咄嗟に壁際から身を離す。
明確なビジョンが在った訳ではない。
ただ何か、得体の知れない『恐ろしいもの』が襲い掛かって来るかの様な錯覚が。
壁際に立つ彼女を、背後の壁ごと『喰らわんと』する何かが迫ってきた様な。
そんな漠然とした感覚が、彼女を襲ったのだ。
「ッ……!?」
「盗み聴きか? 別に構わないが、余り過ぎるとアンタもタレットの標的になるぞ」
声こそ零す事はなかったものの体勢を崩した彼女は、その姿を通路の先へと晒してしまう。
視線の先には、無感情に此方を見詰める男と、腰のハンドガンに手を伸ばしている想い人の姿。
彼の視線はマタ・ハリではなく、眼前に立つ研究者風の男へと固定されている。
その瞳から滲む、明らかな警戒と敵意。
研究者の男は、もう用は無いとばかりに踵を返す。
その男の名を、彼女は知っていた。
マシュを救った男、人理焼却の直前に外部機関から派遣されてきたという、生物物理学者。
しかし、それが本当かどうかを確かめる術が無い事も、マタ・ハリは聞き及んでいた。
得体の知れない、何処かしら信用ならない人間。
『アレックス・マーサー』博士。
「お前が自分の情報を開示しようがすまいが、俺の知った事ではない。だが……」
「……アンタの事は別だろ。解ってるさ、俺も其処まで命知らずじゃない」
「どうだかな」
それだけを言うと、マーサー博士は今度こそこの場を去った。
後に残されたのはマタ・ハリと、その想い人のみ。
沈黙を打ち破ったのは、彼の方だった。
「マリー」
「あ……もう、何度も言ってるじゃない。その呼び方じゃ他のみんなが混乱しちゃうわ」
「良いだろ、別に。俺はあの王妃様とは殆ど会った事もないんだから」
「マリーっていうと、大抵の場合は彼女の事なのよ。サンソンやアマデウスに文句言われちゃうわ」
「そしたら白百合の騎士様にチクってやるさ」
冗談交じりの言葉遊び。
しかし其処には確かに、これまでに交してきた会話には無かった、ある種の緊張感が漂っていた。
今までにない、薄い透明の壁が2人を隔てているかの様な感覚。
躊躇し、それでも踏み出したのはマタ・ハリの方だった。
「あの……」
「頼む。まだ待ってくれ」
「あ……」
「近い内に……全て話すよ。だから、今は……」
だがその一歩は、他ならぬ目の前の彼によって拒まれた。
その顔に苦渋の色を浮かべ、絞り出す様に放たれた言葉。
マタ・ハリは、思わず彼へと伸ばし掛けた腕の動きを止め、ゆっくりとそれを引き戻した。
弱々しく微笑み、告げる。
「……いいの……待ってるから」
「……済まない」
「大丈夫。私は大丈夫だから……でも、私だけ……私だけでも良いから」
一歩、距離を詰める。
頭ひとつ分以上に高い位置に在る、彼の顔。
それを下から見上げる様にして、彼女は告げる。
自身の望み、唯の少女『マルガレータ』としての願いを。
「何時かは、教えてね……貴方の事」
そうして再度、微笑んだ。
恋に恋する少女としての微笑み。
幸せな、しかし何処か切なさを含んだそれ。
自身にもどうにもならぬ熱、溢れ出るそれをどうにか逃がそうとするかの様に。
焦がれて止まぬ人、彼女はその名を口にした。
「待ってるわ……『ピアーズ』」
「……ああ」
短く答えた後、彼女から視線を逸らす『ピアーズ・ニヴァンス』少尉。
その仕種に恐れと、どうしようもないという嘗ての自分の様な諦観を感じ取り、彼女は奥底より込み上げてくる何かを必死に堪える。
詰めたくても詰められない、薄壁一枚の距離。
無力感に打ちのめされる彼女の鼓膜を、知った事かとばかりに鳴り始めた警報が震わせた。
『緊急事態。先発調査隊、交信途絶。最終確認地点、ヨーク郊外調査キャンプ。未確認生命体による組織的攻撃を受くとの報告を確認』
『ファーストマスター【藤丸 立夏】のバイタル変動を確認。体組織の23%喪失、重度の放射線被爆を検出』
『セカンドマスター【藤丸 立香】のバイタル変動を確認。遺伝子構造の急激な変性を検出』
この日を境に、カルデアの『悪夢』は始まった。
1stマスター:【藤丸 立夏】男性 人員データ消失
2ndマスター:【藤丸 立香】女性 人員データ消失
実験小隊・B(ブラヴォ)分隊長:【ピアーズ・ニヴァンス】少尉 人員データ消失
増設区B-02エリア・カルデアス生体環境調査担当員:【アレックス・マーサー】研究主任 人員データ大部分消失も一部残存データの遺伝子情報と『合致』