ザ・ナンパ大作戦!   作:落窪よしお

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前篇

「この状況は(むし)ろ貴重なんじゃないか?」

「は?」

「つまりだ。社会のあらゆる側面を物質主義が支配するこの現代日本において、クーラーの冷気がない夏ってのは却って稀少だと思う」

「稀少なことと価値があることはイコールじゃない」

「いや、普通なら見向きもされないものにこそビジネスチャンスが……」

「言ってろ眼鏡ヤロー。それと寝転がらないでくれる?汗を畳に染み込ませるなら座って、出来るだけ体と畳との接触面を小さくしろ」

「んもう、ゴムタイヤ」

「それを言うなら御無体な」

 

 馬鹿な男二人がいた。

 男共が居る六畳一間、本来ならそこは文明の利器で快適空間と化している場所であった。しかし稼働期間二十五年というそれは、一週間前、プスンという最後の一言を残して永久に労働から解放されたのであった。

 歩いているだけで己の汗でシャワーが浴びられる数日である。クーラー無きこの部屋も当然殺人的な高温多湿にあった。しかし馬鹿で哀れな男二人である。男共はこの部屋を()いて時を過ごすべき場所を知らなかった。

 二人に役者不足な期待を託された扇風機が羽根を鳴らしながら全力で熱気を掻き混ぜる。

「大体よう」眼鏡ヤローと罵倒された、寝転がって漫画を読んでいる男が言った。「夏って…なんでこの国では夏って青春と結び付けられるんだよ」男は読んでいた漫画をこれを見ろとばかりにヒラヒラと振る。表紙には青い空を背景に白いワンピースを来た少女が立っていた。

「そりゃあお前……」窓に向かってパソコンを操作していた男が振り向いて一瞥をくれてやる。「これだけ太陽が照ってりゃ自然と青春を連想するだろう。太陽は何処の土地であっても生命の象徴、その太陽が長く空に燃える季節。誰も彼もが薄着で道を闊歩する…この候が青春に(あら)ずしていつが青春であるというのか」

「むう」

 男はパソコンの画面を見ながら続ける。「それに学校制度が始まってからは文化的な理由もあるだろ。学校が長期休暇になる季節、その分青少年が遊ぶ季節、青春の季節ってな論理よ」

「全く嫌なモンだね」

「お前の読んでいるその漫画、何か心を(えぐ)る描写でもあったのか?」

「この漫画に特有って話じゃないんだが、兎角夏に善男善女がイチャつき青春している物語ばっかでよう。お前ン家にある漫画そんなんばっかじゃねえか」

「まあ王道なストーリーだし…自然に一定程度集まっちゃうんだろ、そういうのは。ま、でもお前の言わんとすることも分からんでもない。切なくなるよな…そういう漫画読むと」

「夏に限らず青春なんてしたことないのにな!」漫画男はキモい笑いを浮かべた。

 思わずパソコン男も身を翻した。「まことに(しか)り。現実では経験したことのない事柄をリアルに妄想させるのは流石プロって感じだよな」暑苦しさを加速させる男らの笑顔であった。

「つうか伊藤、好きな作家の作品ばかり集めんじゃねえよ。満遍なく、少年向けも青年向けも古典も流行も等しく集めろよ。じゃなきゃリサーチにならんだろうが」

「そんなことは分かっている。ちゃんと読みたくない漫画でも目を通しているって。そういうのはこっちに入ってんだよ」パソコン男こと伊藤は黄ばんだパソコンの本体を叩いた。「気に入った作品は紙の本で置いとく主義なの」

「ケッ、懐古趣味を遥か千年遡って復古主義かよ」

「いつの時代何処の地域でも反文明的な人間はいるものだ」

「下らん!」漫画男は体を起こした。「ところで伊藤、さっきからお前何やってんだよ」

「これ?課長へのレポートを書いているんだが……うっ」男は青ざめた。漫画男がパソコンのディスプレイを覗く。

「…完全に固まってんなあ」

「畜生、駄目だこりゃ」伊藤は白旗を揚げる代わりに両手で頭を掻き(むし)った。「さっきから五分おきにこれだぜ。一応復帰はするんだがこれじゃあ作業にならん」

「熱か」

「熱だな。パソコン自体が旧いってのはモチロン大きいが、それに輪を掛けてこの環境だ」

「コンピュータも糞暑い時は働きたくないんだな…」

「ちょい前に保存はしたし強制的に落としちまえ」伊藤は投げ遣りに電源ボタンを長押しした。「川瀬、テメーがウチに来るのもパソコンが使えなくなるのも全部暑いのが悪い!というか俺は俺としてお前の方は進んでんのかよお、日本近代小説史!次の期日落としたら飛ばされるぞ、お前」伊藤は腹癒(はらい)せに川瀬を睨みつける。川瀬は爽やかさの欠片もないキメ顔でぬめりと質問を流した。

「まあまあ真面目な伊藤クン。これは天が我々に休養を取れと命じているに違いないよ」

「休むべきなのは俺一人だ!お前はもう二日もゴロゴロしっ放しだろうが!」

「伊藤、俺には案があるぜ。この糞暑い中を愉しく過ごす案が。きっと(こん)詰まったお前を癒やすにも最適なのだぜ」

「何」

 きらりと川瀬の眼鏡が光った。

「貴様の自動車免許と中古車は何の為にある?」声を低くして言う。「無論、道行く女の子を誘って車内で良い事する為であろう」

「ちげーよ」

「更に今は夏だ。夏と言えば青春の季節なのだ」川瀬は読んでいた漫画を伊藤の胸に押し付けた。

 二人は互いの目を見る。真剣な表情である。

「ここから導かれる結論」

「我々の為すべきは」

「そう、ナンパだ」

 

 

「あの二人組とかどうだ。大変可愛いが」

「駄目だ。人を説得する時は相手に心理的圧力を加えるのが必須だが、この場で取り得るのは人数で圧倒するという方法だけ――であるから、対象は一人でなくてはならぬ」

「この時間帯にこの場所だと、なかなか一人でぶらついている小娘などいないだろう……あっ、居た」

「ケバいのも駄目だ」

「選べる立場か」

「本屋が入っているのは六階だっけか。川瀬、()こう」

 

 

 制服を着て社会科学書コーナーに立つ高校生など大抵ませてていけ好かない。特に、この平成の世にマルクスの解説書を手に取るガキであれば尚更である。女を探していた折その気に食わぬ光景に出くわした川瀬は、おちょくる心積で、マルクス本を立ち読みする少女の傍らに立ち、これ見よがしに経済学の分厚い本を手にした。ここ数年来騒がれている流行の本であった。俺はお前さんより難しい本が読めるんだぜ――というマウンティングの(つも)りである。

 少女と並んでページを捲ること十数分。伊藤は来なかった。川瀬はふと気が付く、この少女の読み方は目についた本を冷やかすなんてものではなく、随分熱心なものであった。古本屋における漫画の一般的な立ち読みのそれである。

 一つの章を読み終わったらしいところで少女は初めて川瀬の方をちらりと見た。川瀬はこの間、立ち読みに見せ掛けてずっと少女を観察していたのだが、いよいよキタキタとばかりに張り切って高尚な雰囲気が出る様努めた。

 「!」その時である。川瀬に衝撃が走った。川瀬が読んでいる風を装っている本を少女が覗こうとしたのだ。マウンティングの好機である。

「いやーこの本、大学の教授が読めって言うからさあ…。話題の本らしいけどちょっと論理展開が雑すぎるかな。一つ一つの論証は極めて堅実なのにそこから引き出される結論が細部の良さとは似ても似つかぬものになっているっていうか。こんな本が騒がれる様じゃ科学としての経済学もまだまだって感じかなあ――君、この本は知ってる?」

 少女はぎょっとして体を強張らせ、たじろいで小さく言った。「いえ…」まるで魔物でも見るかの如き視線である。

 川瀬は幸せな顔をした。「いや~やっぱりそうか。確かに高校生にこの本はちょっと難しいかも知れないな。一般宇宙経済論や心理歴史学の初歩が理解出来ていればそうでもないんだがね。まあそれでも君は年端も行かぬ高校生、崇高で緻密な論文が解せなくとも恥じることは全くないよ。君が手にしているのは解説書…かな、マルクスの。たまにはそういう文献もいいよね、経済学の古代を訪ねてみるというのも全く意味が無い時間の使い方じゃない」

 最初はきょとんとしてたが何をされているのか徐々に検討がついた様で、少女はムッとした。「わ…私、この本買います」そうして川瀬の持つ本に手を掛ける。「私、このビルの近くに良い喫茶店を知っているんです。そこでこの本の崇高さなり緻密さなりについてご講釈願えませんこと?」

 少女の挑む目には自信の色があった。川瀬は不意を突かれた。二三分も話せば化けの皮が剥がれる予感がする。「いやあそうしたいのはやまやまなんだが、実はこれからバレエのレッスンがあって…」

「ウホッ、女の子捕まえられたのか川瀬」後ろからニコニコして伊藤がやってきた。「やあ君、俺は伊藤、このニキビ眼鏡は川瀬って言うんだけど、これから俺達とお茶しない?見知らぬ青年二人からの、心地良い空間と美味しいひと時の贈り物ってことで」用意していたのか、気持ちの悪い台詞を吐く伊藤であった。

 バツが悪いと川瀬は苦い顔をし、少女はじっと二人を睨んだ。「では遠慮なく。そっちの…川瀬さんにお話を伺いたいところですし。喫茶店は私の知っているお店で良いですよね。私はちょっと用事があるので、五分後に一階の入り口で集合ということで」

「ああ、君と同席して喫茶だなんて嬉しいよ…?」攻撃的な少女の口調に伊藤は困惑したが、ともかくもそういう運びとなった。

 

 

「川瀬、お前気が付いていたか?彼女の制服、ありゃここいらでも指折りの優秀校って呼ばれている某校のだぞ」

「通りでねえ。秀才ガールでなきゃ今時の高校生がマルクスなんて読む訳はない」

「なんかあったの」

「ちょっとね。巧く切り抜けてみせるさ」

「彼女、最近の高校生にしちゃ浮ついた雰囲気が無くて、好感が持てるな」

「ガキは浮ついているべきって考えもあるがね」

「俺はああいう落ち着いた娘が好きでね」

「果たしてどうかな」

「ほう」

「お二人、ここです」

 駅近くの巨大商業ビルから徒歩数分、男二人を先導した少女は足を止めた。ビル林の外れにその店はあった。

「何だか伝統ある面持ちだね」それは所謂オブラートに包んだ表現であった。

「お気に入りなんです」

 入り口の扉を開けようとして少女は一瞬躊躇した。どうしたんだいと川瀬が問うと、一歩身を引いて「扉、開けて下さらない?」と言った。レディファーストは自分から求めるものではないんだが――と川瀬は思いながら望むままにしてやる。暑さで店員の頭にも影響があったのか、二人席に案内されそうになったところを注文を付けて四人席に座った。当初の作戦ではナンパした女の隣に一方が座って退路を断つつもりであったが、いざそういう状況になると(よこしま)な考えは薄まった。

 肌寒い程に冷気の満ちた店内には、共に香ばしさが漂っていた。内装は外見程ボロっちくはなく、ちょっと暗めの調度には長居したくなる雰囲気がある。

「私、コーヒーで」

「甘味はいいのかい」

「お二人が奢ってくれる…つもりなのでしょ?あんまり頼むのは…」

「奢らせてくれよ」伊藤と川瀬それぞれが、勘定は相手のするものと幸せな想定をしていた。

「じゃあ…このワッフルで。これで充分です」

「ならば俺達も同じものを頼もう。いいな、伊藤?」

「そうしよう」

 川瀬が給仕に注文している間、少女が呟いた。「音楽が流れていないのね、レコードが……」

「レコード?」

「ええ、以前私がよく通っていた時は、このお店には沢山のレコードがあって評判だったけど…辞めちゃったのかしら」

 喫茶店でレコードだと?変なことを言う小娘だ。勿論伊藤はおくびに出さなかった。

「ところで、川瀬さん?先程の御本のことですが、まずは著者の主張を簡潔にお教え下さいませんか?」何のことかと伊藤も川瀬に尋ねた。川瀬は頬を引きつらせながら「ああ、勿論だ。どこから説明したものかな」と人差し指で蟀谷(こめかみ)を掻いた。そして意を決した様に、きっと確かな口調でハッタリを述べ始めた。

 伊藤は二人の遣り取りを見ながら、少女は着ている制服に相応しい物言いが出来るのだと理解した。伊藤は議論となっている本がどんなものかは知らなかったが、少女の質問(尋問?)が川瀬の考えを鋭く彫刻しようとしていることは分かる。少女は川瀬の発言のどの部分が件の本に対する川瀬の理解を検証する上で最も重要であるかを理解し、そして川瀬の言が意味を成していない時にはそれと明言して切り伏せた。

 いよいよ川瀬の分が悪くなったというところで注文が運ばれてきた。少女を(なだ)める様にして「さあ一服といこう」と伊藤が声を掛ける。川瀬はほっとし、少女はまだ言い足りない様子であった。

 コーヒーとワッフルを前にして少女は明らかに嬉しそうだった。それを見た川瀬が追撃の(おそれ)も忘れて口を開いた。「常連なんだっけ、この店」

「というよりお気に入り、です。ああ、この香り、とっても懐かしいです」川瀬は伊藤に耳打ちした。「さっきとは別人の愛嬌だね」

「では頂きますね、お二方」少女はカップを手に取った。

 少女は静かにカップに口を付け、フォークとナイフで慣れた風にワッフルを切る。一方川瀬は――伊藤自身が隣にいたということもあるが――はっきりと聞こえる音で口にコーヒーを吸い込み、ワッフルを食べると同時にフォークとナイフでリズムを刻んだ。伊藤もまた、何方かといえば川瀬の如き作法を習慣としていた。

「そういえば名前を聞いていなかったね」伊藤は何気なく言った。

「佳奈江です。福田佳奈江」

「君は中々の秀才と見える」川瀬はリスの様にワッフルを頬張った。

「川瀬さんが不勉強なんです。お二人は――大学生ですか。モラトリウム満喫の」そのセリフに甘さはなかった。

「手厳しいね。阿呆であると、君が実際にコミュニケーションして分かった相手はこいつだけだろう。僕までそんな風に見られちゃ堪らんね」

「それは失礼。でも類は友を呼ぶということもありますよ」

「こりゃ一本取られた」

 川瀬が言う。「まあ大体君の言う様な通りだな。厳密には違うけど。緩い時間の流れの中で文物のリサーチをやっているのさ」

 佳奈江は意外だという表情をしてワッフルを一口喰らった。「じゃあ――学者?まさか」

 川瀬が(かぶり)を振る。「そんな訳がない」

「佳奈江ちゃん、君はどうなんだい。今日は学校ある日だろ」伊藤は正面から佳奈江の目を見据えて言った。

 佳奈江は大きな目をちょっと伏せた。「高校生にそんなこと聞くなんて不粋だわ」

「それは失礼」

「おいおい伊藤、馬鹿なこと言うなよ。佳奈江ちゃん位になると学校なんかいなくたって全然問題ないだろうぜ」

「何でそんなこと言えるんですか」

「だって制服が証明してるだろ」

 (しば)し沈黙があった。川瀬は瞬間に自分が何かおかしなことを言ったことに気がつく。佳奈江は肺の奥から空気を絞り出す様に重く言った。「制服なんて何も証明してはいません。試験で測れることなんて所詮まやかしです」佳奈江の視線はテーブルに向いていた。

「なんでそう思うんだい」伊藤が問うた。

「何故なら人間の本質は学校の勉強では磨かれず、また試験によっては測れないからです」その声は力強くはなかったが、佳奈江はきっぱりと断言した。まるでこれまで散々繰り返してきた言葉を今一度口にした様だと川瀬は思った。

 伊藤は返事に窮して「そうか」とのみ返した。気不味い空気になったと三人共が感じた。佳奈江が俯いたままであるのを見て川瀬が口を開く。

「それはそうと、ここのワッフルは随分美味しいな。自家製なんだろうか」

「そうらしいですよ。以前にマスターから伺いました」佳奈江はすかさず答える。「変わらない味で――余計に色々付けない風味が良いですよね」

「君は良い店を知っているんだね」伊藤は一口コーヒーを啜った。

「昔はよく友達と来たんです、学校帰りに。そのうち一人でも来る様になって…椅子も良いし、前は良いレコードがいつも掛かっていましたから何時までいたくなっちゃって」そう言って白く細い指でコーヒーカップを擦った。

「喫茶店で読書かい?」と川瀬。

「ええ」

「君はどんな本を読むのかな――さっきみたいに学術書ばかり読むのかい」

「普段はもっと軽い本も読みますよ。例えば――」

 

 

 喫茶店を出ると視界は眩さに満たされた。太陽がまともに照らす道路は暫し我慢比べの時間である。

 思いの(ほか)会話は弾んだ。佳奈江は読書の話題となると俄然良く口が回った。その様は流行のファッションについて談義する普通の女子高校生と変わらない。川瀬は先の攻撃的な態度を内心恥じた。

 喫茶店を出て取り敢えず三人は歩を駅前の日光で輝くビル街に向けた。「ちょっと川瀬、いいか」振り返って伊藤。川瀬は伊藤と肩を並べた。伊藤は抑えた声で言う。「この先どうするね」

「適当なところでお開きか」

「ケータイの番号くらい聞いてもバチは当たらないだろう」

「んだんだ」

「よし――」くるりと身を翻して伊藤が言う。「佳奈江ちゃん、今日は付き合ってくれてありがとう。楽しい時間だったよ。なあ川瀬」

「勿論!」

「ついては――」伊藤が二の句を継ごうとした時、佳奈江は落胆にも似た調子で言った。

「え、もうお別れですか…?」

 眠くなる空気の中に立ち止まった川瀬と伊藤は刹那幻聴を聞いたのではないかと疑った。しかしその科白(せりふ)は脳に幾度も反響する。もうお別れですか――

 佳奈江の表情を見る。唇をきゅっと結んで二人を見つめるそれは数年来、ひょっとすると十数年来二人が目にしたことのないものであった。

 一瞬で全身を駆け巡る興奮と歓喜を二人は感じた。熱さで微睡(まどろ)みかけた瞳がかっと開かれる。川瀬は佳奈江の手を取ってはしゃいだ。「きっ、君さえ良ければいつまでも!」

 伊藤も急いて言う。「そうだぜ、どっか行きたい場所はあるのかい」

 佳奈江はにっこりと笑った。「行きたい場所というか、まだまだお話していたくて」二人はにやけた。

 気怠さも熱さも忘れて三人は(きびす)を返しビル街を離れていった。その様子は数時間前に川瀬と伊藤が罵ったそれであることは、街を行く別の川瀬と伊藤が舌打ちをしたことから明白であった。

 

 

 もう二時間は歩いただろう。汗を拭うことも脚の疲れも忘れて三人は話し込んでいた。佳奈江が実に生き生きと喋るのである。まるで人との会話に(かつ)えていた様であった。佳奈江が喋ると共によく動く両の手の白い指を見て、伊藤は美しいと思った。

「でですねー、私はそれを読んだ時は雷に打たれた思いでしたよ。過去の時代、親の世代がおかした過ちを乗り越えて、我々が真の民主国家日本を作らなきゃならないんだって!」

「随分な意気込みだね」川瀬も佳奈江も赤い顔をしていた。

「川瀬さんは読んだことありますかっ」ぐいと佳奈江は川瀬の顔を覗き込んだ。

「いいや、ないね」

「伊藤さんは?」

「同じく」

「そんなんじゃ駄目ですよ、良い本を読んで勉強しないと」

「どうやら我々は佳奈江ちゃんの口癖を増やしてしまった様だぞ、川瀬」佳奈江を挟んで二人して笑う。

 三人はこの地域では有名な神社で休憩していた。都市部からそう遠くない位置にあって、それでいて清らかな空間を今に残す立派な神社である。そして無論、そうした神社には夏の参拝者に安らぎを与える大樹があるのであって、三人はその日陰にいた。しかし歩き詰めであったから流石にくらりと来るものがある。三人は喫茶店を出てから何も口にしていない。川瀬がベンチから立った。「自販機で何か買ってくるよ。佳奈江ちゃんは何がいい?」

「では――」佳奈江は少し躊躇するかの様な顔をした後に「では、コーラで!」と注文した。

 川瀬を待つ間、二人は喋らなかった。舌休めである。佳奈江は神社の参拝者らを見ていた。この時間帯は親子連れが多いらしい。広い境内を楽しげに幼子が駆け回っていた。

 セミの鳴声を聞きながら伊藤は隣に座るこの少女のことを考えた。福田佳奈江。優秀と名高い某校の夏服に身を包んだ女子高校生。スカートは生真面目に校外であるというに裾が膝の高さよりやや下になる様着ている。傍目に(すべ)らかな黒髪を肩上三センチのところで切っている。大きな目を更に強調するかの様に長い睫毛。肉付きは健康的で細いということも太いということもない。額を、頬を、首筋を落ちる汗がこの清廉潔白な少女の肉体的な健全さを声高に主張しており、近くに居る者をして心拍数を上げさせずにはいられない(しかもこの熱さがただでさえ軽装である少女をより(さら)け出しているから尚更である)。趣味は読書。学術書も嗜むが小説も読む。但し読書遍歴や好みが古い。それも五年十年の古さでは利かない。まるで丸々一世代前の本を好いているかの如きである。ちょっと意外だがかなりのお喋り好き――それもナンパしてきた男達と態々(わざわざ)過ごしやすくもない環境の中で談に花を咲かせる程に。駅近くの喫茶店についてよく知っている模様云々。

「なあ佳奈江ちゃん」

「はい?」

「君って何だか不思議だよ。話を聞いていると――誤解しないでほしいが――まるで堅物だって気がする、志向というか考え方がね。だけど学校サボって俺達と一緒に過ごしてくれて…矛盾する様で捉え所がない」

「………」

 伊藤は佳奈江の目を見つめた。その奥は何処までも深く、それ故惹きつけられる気がした。

 その瞬間である。佳奈江の瞳が動いたと思ったら伊藤の背筋には冷たい衝撃が走った。振り返るとそこには三つのコーラを持った川瀬がいた。

「佳奈江ちゃんに合わせて俺達もコーラだ。はい、これ佳奈江ちゃんの分」

 川瀬から缶を受け取った佳奈江はそれをまじまじと観察した。「これがコーラですか…」プルトップを開けてもいきな飲もうとせずに小さい穴から中の様子を伺う。

「?コーラは茶色だぜ」ほれと川瀬は自分の手の平に少量のコーラを(こぼ)した。それを見た佳奈江はなるほどと興味深げに頷いた。そして姿勢を正したかと思うとその小さな口にそっと缶を当て手を傾ける。

 少し飲んだだけで佳奈江は口から缶を離した。「変な味です」

「佳奈江ちゃん、コーラ初めてかよ」川瀬は驚いて言った。

「初々しい反応だね」と伊藤。

 佳奈江はまた一口、恐る恐る飲んだ。「喉への刺激が強すぎます」

 そもそも炭酸飲料が初体験なのか――今日日の高校生が?伊藤は益々不可思議だと感じた。

「そういえばもう中高生の下校時間みたいだな。制服を着たガキ共――おっと失礼佳奈江ちゃん――が歩いているのを見たぜ」川瀬が言う。

「随分お喋りしていたみたいだな」伊藤は空になった缶を意味もなく振る。

 佳奈江は思う。こんなことはこれまでなかった。今日は滅多無い特別な日だ――それが吉日であれ厄日であれ。転機は外からやってきた。ならば、今度は私からおかしなことをしよう。

「ねえ、お二方?」やおら佳奈江は立つ。「私の母校を見にいきませんか」

 

 

 二人は知っていたが敢えて口に出さなかった。佳奈江の母校は三人が立ち寄った神社から実はそう遠くないのだ。自分達とは反対方向へ騒ぎながら去っていく高校生を尻目に三人は歩いた。

「私は図書室の司書さんと仲が良くって、よく本をリクエストしていました。だって既にあった本だけじゃ満足出来なかったんですもの。私だけじゃないわ。同級の子も先輩も、皆知識を求めていたんです」

 三人は佳奈江の母校の南から少しの、ちょっとした丘の上にある公園に来た。そこからは高校のグラウンドがよく見えた。双眼鏡があれば窓から教室の様子も覗けるだろう。陽は橙色を帯びつつあり高校全体を照らしていた。遊び場を求める子供達や散歩に訪れた爺さん婆さんに紛れて、三人は最もよく高校が見えるベンチに陣取った。グラウンドではサッカー部が練習をしている。雄叫びにも似た声がここまで聞こえてきた。「このクソ暑い中、よくもまあ殊勝なもんだね」川瀬が言った。

「俺達とは鍛え方が違う。彼らにとっちゃ天候の良し悪しなど気にするに足らぬのだろう」事実、生徒のものと思われる複数の叫び声が常に聞こえてくる。熱中症対策に煩い昨今、彼らは体を酷使することでその風潮に対するアンチテーゼを体現しようとしているに違いなかった。

「高校生が元気なのは良いことです。それも部活で元気だなんて称賛され推奨されるべきことです」

「………」

「私達がここから見えるのは健康な高校生達です。部活に勉強に――そうあるべきでしょう、高校生なんて……難しいことを考えるのは高校を卒業してからだって全然遅くはないんです。解決出来ないことに思い悩んだって無意味なんです、だって何も為すことが出来ないのだから。その点、彼らは極めて理に適った生き方をしています。彼らからしたら色々悩みの多い日常でしょうけど…本当に、彼らは健やかです」

 佳奈江が目の前に見える光景だけを見ているのではないことは明らかだった。

「お二人共、今日は付き合ってくれてありがとうございました」

「それはこちらの科白だ」伊藤が言う。

「こんなに人と喋ったのは本当に久し振りで――だから最後にもう一つだけお話したいことがあるんです。出会って数時間で変かも知れないですけど」

 川瀬は肩を(すく)めた。「ここまで来たんだ。話してくれよ」

「では――」佳奈江の視線は依然、学校に注がれていた。

「聞かれなかったので敢えて言うことはしませんでしたが――実は秘密にしていたことがありまして」

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