「隣いいスか」
その人は手首にカッターナイフを押し当てている私に言った。まさにこれからリストカットをしようというときに、食堂でとなりの席に座っていいか聞くみたいなノリで言ってきた。
「えっと……」
「荷物とか置きます?」
「置かないですけど」
「そうスか」
置かないなら問題ないと思ったのか、私の隣に腰を落ち着けた。深夜の公園のベンチに男女一組、漫画ならよくあるかもしれない一コマだ。でもいろいろとおかしい。
まず第一に、私はこの人に会った覚えがない。記憶違いでなければ初対面のはずだ。そんな人と一緒に公園のベンチで座っていることがおかしい。
第二に、日付が変わるような時間の公園に来ていることもおかしい。
第三に、私が一番気になっているのは「リストカットしているような人の隣に平然と座ること」だ。
「あの、何か用ですか?」
隣に座って無言を貫いているその人に聞いてみた。第一声から今に至るまで表情が少しも変わらない。ベンチに背中を預けた自然体だ。
「お気になさらず」
私のしようとしていたことを見ているはずなのに反応が薄い。リアクションを取ってほしいというわけじゃないけど、なんだか落ち着かない。場所を変えよう。
「場所を変えてリスカですか?」
私がカッターを仕舞おうとしたのを見て彼は言う。淡々とした言い方で独り言かと思ってしまった。向こうから声をかけてくるとは思わなかった。
「……止めるんですか?」
「止めないです。あなたの自由ですし俺には関係ないですから」
無表情で私を見据えて彼は言う。全部を見透かしてるような目は少し怖い。移動しようと思ったけど、タイミングを逃した気がする。浮かせた腰をまたベンチに落ち着かせて、気持ちを紛らわせるために質問してみる。
「どうしてこんなところにやってきたんですか?」
「なんとなく眠れなかったので散歩に来たんです。しばらく歩いて疲れたので休みに来ました」
「私のところに来たのは?」
「こんな時間に一人で誰かがいるのは気になったので」
「そうですか」
自分から来たのにあまり会話をしたくないのだろうか。私も話好きってわけでもないから無言が続くと困るんだけど。
そんな私の雰囲気を察してくれたのか、今度は彼から質問してくれた。
「何か悩みでもあるんですか」
興味なさげな様子で聞いてきた。たぶん間を持たせるためだけに聞いたんだと分かる。
「悩みっていうか、嫌なことがたくさんあって、ストレス発散で」
「リスカするなら手首はやめたほうがいいですよ」
科学者が実験結果を伝えるみたいな無感情さで言った。
「腕の内側よりも外側のほうがいいです。半袖でなければ外側のほうが周りに気付かれません。病んでいると思われたら手首ばかり見られますから」
淡々とした言い方で長々と忠告してきた。しかも妙に具体的だ。
「え、あの……」
「誰かの気を引きたいなら手の甲がいいでしょう。平と違って隠さなければ誰でも気づきます」
自分の腕や手を示しながら更に説明をしてくる。視線は示している部位を向いていて、私に向けてというよりも独り言みたいだ。
「いったい何の話をしてるんですか?」
「リストカットしようとしている人に助言しているんです」
(何なのこの人)
「変わってますね」
「人のことは言えないかと」
「……どういうことですか?」
「リストカットするような人が普通なはずありません」
この人から普通じゃないと言われるのは納得がいかない。この人と比べたら私はかなりまともなはずだ。
「あなたのほうが変わってると思いますけど。……あなたはしたことあるんですか、リストカット」
「カッターで腕を切りつけていました」
「へえ」
「眠気覚ましに」
「眠気覚まし!?」
「血で固まって効果は薄かったです」
聞いてもいない成果を言ってきたけど、本当にこの人は何なんだ。
「悩みがあるなら聞かせてもらえますか?お互いに害は生じませんし」
多分この人は世間話の延長くらいでしか会話をする気はない。本当に止める気はないんだ。
話をするまで、もしくは私がここから離れるまで。話す必要はないんだけど、このまま無視して移動するのは何か違う気がする。
「…………」
「話すことに戸惑っているのなら提案ですが」
彼は立ち上がって私の正面に立ち、私に向って手を伸ばしてきた。離れたところにあるものを取るようにまっすぐと伸ばされる。人差し指と中指が額に当たって彼は言葉を続けた。
「一度死んでみますか?」
「え?」
気が付くと私はどこかに立っていた。思わず身震いするような寒い空気が身をすくませる。唐突に吹き抜けた風は強くて足が思わず動いてしまう。
「わっ、わあ……!?」
どこかの大きな橋、の端みたいな鉄骨の上に私は立っていた。今は夜のようで、下は真っ暗、かろうじて分かるのは海らしいということだけ。
平均台に乗っているみたいな不安定な足場にどうして、私はさっきまで、
「まずは溺れ死にからですかね」
私の背後からそんな声が聞こえてくる。振り返って説明を求め
「じっくり体感してください」
振り返ろうとした、相手の顔を見る直前に私は突き落とされた。身体の軸辺りを押されたはずなのに、押された感覚があるのに感じた圧力は強い風に吹かれてバランスを崩したような感覚があった。
「お、落ち……!」
自由落下していく身体に夜の冷たく強い風が吹き抜ける。強い風が胸を圧迫して呼吸がしずらい。腕も足も自由が効かなくて身体は勝手に大の字になる。肌に容赦なくぶつかってくる風に思わず身をよじらせると、私の視点は海から空に向いた。
「あ、ああ……っ!」
言葉を発しようにも言葉にならない。私が落とされたであろう場所にはさっきまで話していた男が落ちる私を見下ろしている。完全にパニック状態で何を言えばいいか分からず、そうしている間にも男との距離はどんどんと広がっていく。表情は分からない、それくらいに距離が開いてしまっている。風で空に上がった腕は何も掴めない。
「…………!」
全身に思いっきり叩かれたような衝撃が身体に響いた。衝撃のあとに全身が一瞬だけ柔らかい感覚に包まれる。
思わず瞑った目を開くと、目の前には揺れるガラスがあった。耳に届く波の音がなければただのガラスと思ったかもしれない。おぼろげな光が視界いっぱいに見えてとてもきれいだ。強すぎず、決して弱くない光は本来であればとても落ち着くものである。自由落下で知覚出来ていなかった心臓の鼓動はわずかに落ち着く。しかし、
(く、苦しい……っ)
小学校の時にプールで潜水をして上を見たときの鼻の痛さはない、身体は浮かぶことなくゆっくり沈んでいく。胸が圧迫される、落ちているときとは違って誰かが押さえつけているみたいだ。圧力はどんどん強くなって、落ち着いた鼓動が早くなっていくのが嫌でもわかる。
身体を浮上させようと腕を動かしても手ごたえはまるで感じられない。動かせば動かすほど苦しさは増し、意識を保とうとする、でも、保てない。
「(誰か、助けて……。死にたくない……。)」
綺麗な光は小さく、遠くなっていく。視界はどんどん黒で埋められていく。身体が沈んでいく、意識が沈んでいく。やがて私の脳は考えることをやめた。
「…………っ!」
気が付くと私は座っていた。公園のベンチだ。周囲は暗くて、街灯の光は頼りない。意識が途切れる前に見た光とは違う、日常的な明かりが不思議と安心する。
「人の死はあっさりとしていて、思っているほど劇的じゃないんですよね」
隣から男の声が聞こえてきた。声の方向に視線を向けながらベンチから急いで立ち上がる。
「……あなた、なんなんですか」
男はさっきと変わらない無表情、ベンチに背中を預けた自然体、全てを見据えているような視線、まるで機械のようだ。「私が見たものは夢だった」と言われたらそれまでになりそうなくらい変化がない。服は濡れていないし、動悸は普段通り、周りは見慣れた公園だ。
「通りすがりの一般人です」
「ふざけないでください!さっきのはなんなんですか!」
叫ぶような問に、男は淡々とした口調で言った。手元の原稿に書かれた質問の答えをそのまま答えるがごとく。
「死なせたがりですよ。死にたがりのためにいる存在です」