ありきたりリリカル   作:所長

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 おかしいな。初稿では仲良しだったのに。
 あとがきの解説はだいたい独自設定のことだと思います。


アリサVS ――3

 来たる食事会において、アリサが為すべきことは四つ。

 一つ目は、食事を楽しむこと。これは翠屋の料理人たちへ向ける礼儀としての話だ。両親と共に出かけるのが楽しみというのもアリサの本心だが。

 二つ目は、食事を分析すること。使われている食材、調味料、調理法などは連れて行くシェフが語ってくれる。それを自分なりにかみ砕いて理解できればいい。

 三つ目は、二つ目の条件を満たした上で会話に発展させること。応用技法、目新しい食材などの情報があった方がいいだろう。後々のためにも。

 特に、二つ目と三つ目の基礎部分はアリサの自主勉強にかかっている。発展的な内容に踏み込むためにも素早く基礎を習熟してしまいたい。

 

 幸い、はやての教えてくれたレシピは、雑誌に掲載されていたメニューの情報よりかなり詳しい内容と言えた。借りてきた本から該当する部分をピックアップして、はやての情報、お抱えの料理人たちに検証させた情報と付き合わせながら一つずつ記憶していく。

 アリサの天才はこういうところでも遺憾なく発揮された。

 本場のコース料理から日本国内外で見られるアレンジ料理、肉や魚や野菜で細かく異なる調理法などを自分の言葉で説明できる程度まで理解するのにかかった期間、僅か二日。

 はやての助言に従って、イタリアンにも手を伸ばしてもう一日。

 さらに、料理人たちから空き時間に教わった『話の種』を持ち帰り、一日で煮詰めて大人たちを驚かせて「さすがはバニングスの後継者である」とまで言わしめたりしつつ、本番を明日に迎えたのだが――。

 

 ここに至ってなお、アリサは四つ目にして最も注意するべき問題に頭を悩ませていた。

 それは月ノ輪と桃子の二人をバニングス家に引き込む、ないしは関係を強化すること。

 

 こればかりはアリサの一存というわけにはいかない。まずは翠屋で出されるディナーがアリサの両親の心を掴むこと。そして可能ならばバニングス家お抱えのシェフも納得すること。最後に最も大きな問題として、あの二人を頷かせること。ただ、これらの問題は、両親が納得してさえいれば助力が期待できるため、いくらか楽観視している。

 あの『先生』の料理がバニングス家のシェフのお眼鏡に適わないときも、アリサ自身がシェフの知識を中継する形で『先生』にアプローチをかけつつ、その行為そのものを高町なのはへの攻撃に使えばいいだけなので簡単な話だ。

 もっとも、その可能性は低いと見ている。高町桃子という名の大きさを知ったが故に。

 十年前のパティスリー世界大会優勝チームのメンバーであり、世界屈指の菓子職人。少なくとも菓子作りにおいてバニングス家よりも上であることは間違いない。

 

 一方でシェフを唸らせるような料理かつ、バニングスの家への引き込みに失敗した場合は難しい話になるだろう。その場合は、子供の特権を活かし、わがままを言ってでも何度か店へ足を運んで貰うつもりだ。その数度のうちになんとか新たに『先生』の価値を示して両親からアプローチしてもらうか、アリサ自身が新しい手を考える。

 いずれのパターンでも二つ目と三つ目の、料理の分析と会話の発展という目標を達成することはアリサの助けになるはずだ。残るは実践、本番のみである。

 さしあたって、ディナーの席では情報一つすら見逃さないよう注意するべきだろう。さらに敵地であることも忘れるべきではない。

 

 

 夕方六時から始まったディナーも八時過ぎにはおおよそ終わっていた。

 

「……この店は、料理の質だけ見れば、日本最高峰の一角だろう。アルコール、チーズ、コースに見られる気遣いと斬新さ。どれも素晴らしい」

「だけどサービスは、ミシュランでは及第点に届くかどうかと言ったところかしら。アルコールとチーズも質は最高だけど種類は限られているし。ランチと喫茶の客層を切り捨ててサービスを充実させれば二つ星までは難しくないでしょう。現状でも、ゴー・ミヨあたりなら高得点でしょうね。これだけの店が近所にあったことは驚きだったわね」

「しかし、ここのパティシエールとシェフが『それ』を理解していないとも思えません」

 

 大人たちの発言に頷いた少女が、自分の言葉で感想をまとめる。

 

「――つまり、ここの料理人は超一流。だけど、街の喫茶店としての客層を大事にしてるってことよね」

 

 ブースの入り口脇でそれを聞いていた二人が、顔を見合わせた。

 

「(すごい子だ。なのはも大変かもね?)」

「(ふふ。ですね)」

「失礼します。ご挨拶と共に、食後のお茶をお持ちしました。……こちらの赤いハーブティーは、ストレートとシロップを混ぜた時とで色が大きく変化しますので目でもお楽しみ下さいませ」

 

 挨拶と共にシェフがティーを配り、横に並んだパティシエールがカートからミニャルディーズの菓子を配っていく。

 早速、お茶にシロップを注いだアリサが感嘆の声を上げる。

 両親とシェフもそれに楽しげに続いたところで、パティシエールが一歩前に出た。

 

「ミニャルディーズには当店自慢のシュークリームと宝石グレイスオペラをそれぞれミニサイズでご用意いたしました。……本日の料理は以上となっております。改めまして喫茶翠屋のオーナーでパティシエールの高町桃子です」

「シェフの月ノ輪春樹です。本日はお楽しみいただけたでしょうか?」

 

 アリサの父は背筋を伸ばしてその視線を体ごと月ノ輪へ向けた。椅子に座ったままであったが、決して下には見ていないという意思表示だ。

 

「ああ、とても素晴らしい食事だった。……私は、アリサの父親でデビット・バニングスという。先日は娘が失礼なことを言ってしまったようで、申し訳ない」

「デビットの妻でアズサと申します。私からも謝罪いたします」

「ミスタ・月ノ輪。申し訳ありませんでした」

 

 月ノ輪はまずデビットの言葉で僅かに目を見開いた。そして、立ち上がって頭を下げたアリサの前で前かがみになると、優しく微笑んだ。

 

「ご両親へは、正直に伝えたの?」

 

 アリサは少しだけ顔を赤らめてコクリと頷いた。

 両親を翠屋のディナーに誘うため必要にかられて――という面がいくらかあったのも事実だが、それ以上に、アリサ・バニングスがただただ誠実な少女だったという理由が大きい。

 笑みを深めた月ノ輪が頷く。

 

「そっか。……それは、とても難しくて、とても素晴らしいことだね。……うん。それなら、私はアリサちゃんの決断を称え、過去の君の発言を無条件で許そう」

「あぅ……あり、がと……ございます」

「このように私達の間で決着しましたので、親御様はどうかお気になさらず」

「――うむ、そうか。だが娘を口説くのなら十年待って欲しい」

「あはは。では口づけはお預けにしておきましょうか。さあ、リトル・レディ、お手を」

 

 月ノ輪は笑いながら手と椅子を引いてアリサを座らせる。

 淀みない仕草で誰も止めることができなかったが、その過剰なほどの褒め言葉に、アリサは顔を真っ赤にして微笑んだ。

 

「ありがとうございます、ミスター。お料理も素晴らしかったです」

「ありがとう、レディ。気に入ったメニューはあった?」

「全て。どのメニューにも新鮮な驚きがありました。例えばアミューズブーシュのペティ・パンに使われていたお魚は初めて食べたものです」

「おや、庶民的なお魚だからかえって食べる機会がなかったのかな? あ、でも、加熱して食べるのは珍しくないのだけど、足の早い魚だから生を食べたことのある人は少ないかもしれないね……一流シェフであるミスタ・アレンは、その少数派でしょうが」

 

 月ノ輪の視線に、アレンと呼ばれたシェフとアリサがピクリと反応する。

 

「……カワハギの刺身は、過去に一度だけ。今回は随分と印象の違う扱いでした。塩加減から見て紙塩を当てたのでしょう? ああ、しかし、山椒バターというのは恥ずかしながら全く聞き覚えがありませんでしたね」

「ええ、正解です。山椒はコースの準備のために混ぜ込んだのですが……外国の方のお口には合いませんでしたか?」

「いいえ。素晴らしい刺激でしたよ。口の中の世界から霧を晴らすような絶妙なアクセントを感じました。カワハギの淡白な味わいも、それを確かめるのに最適でしたね」

「私はペティ・パンとチーズにも感動しました。私に出したパンは生地から別に作って焼き上げた柔らかいものなんですよね、ミセス・高町?」

「ええ。よく気付きましたね……すごいわ。焼色まで同じに見えるよう気をつけたのに」

「食感に気を配っているのは、刺身の厚さで気付かれちゃったのかな?」

「ええ、料理人を名乗るなら気付くでしょう。素晴らしい気遣いだと、感動しましたよ」

 

 アリサと、アレン、桃子、月ノ輪の間で会話は弾んでいる。のだが、それは燃え盛る鉄球、あるいは極低温のドライアイスをパスしあう姿を幻視してしまうような、素敵なものだった。

 アリサの父・デビットと、母・アズサは口を挟めなかった。というか、妙に緊迫感のある会話に戸惑っていた。

 

 ――なんでこの人たち真剣勝負みたいな空気なの?

 

 なにより、その空気を率先して作り出しているのが自分の娘というのが、二人にとってはひどく印象的であった。あんまりいい意味ではないが。

 というか教育を間違ったかと若干の後悔とともに静観していた。

 

「そういえば、アントレ・フロワードの野菜チップと塩加減にも驚いていたわね」

「ええ。野菜チップというものの正体はわかりませんでしたが、素晴らしい塩加減でした。あれは水塩ですか?」

「よくお気付きで。野菜チップというのは、プレス機で潰し固めた野菜のことですね。熱を加えながら金属を加工するプレス機で、潰して固めるんです」

「ほう! プレス機。それであの食感と香りが……そんなものがあるのですか……」

「ええ、珍しいでしょう? 元はおやつ用に開発された商品だそうですが、私は一口食べて料理に使えると確信したので、去年、こちらの地元でも製造してもらえるよう特許元までお願いに行ってきたんですよ」

 

 自慢気な月ノ輪の表情に、一同が揃って笑みを浮かべる。質は様々だったが。

 

「……素晴らしい。その行動力は見習いたいものだ。長くシェフを勤めていますと、どうも食材が届くのを待って調理場に篭りがちになってしまう」

「同じように行動した結果が、ブドウエビのアン・コンフィやポワソンに添えた春野菜のエチュベを生んでいるんですよ」

「そういえば、あのスープはまるで海の全てがつまっているようで、一口で虜になってしまいましたわ。使われていたブドウエビってとても珍しいエビなんですよね?」

「その通り。北海道の北で獲れるエビなんだけど、全世界でも獲れるのはそこだけ。一年に二ヶ月ちょっと、一日数百匹しか取れないんだ。このお店ではシーズン中に毎日十五匹だけ提供できるんですよ。ビスク以外には惜しくて使えませんね」

「それはすごい! ああ、しかし。あの甘味はジャパニーズフレンチの渡辺シェフのガスパチョのように、替えの効かないスペシャリテになり得ただろうに……とても、とても惜しいですね」

 

 首を振るシェフ・アレンの目には、いくらかの愉悦が浮かんでいるように見えた。

 

「三つ星レストランと比較していただけるとは、光栄ですね……。次のお皿の、柚子とキンカンのグラニテは桃子の担当です。あまり甘くなかったと思うけれど、アリサちゃんは気に入ってくれたかな?」

「ええ、とても。白ワインと……杏のソースだったかしら。最初に柚子の香り、続いて白ワインの風味とキンカンの甘みがさっと広がってすぐ消えていく中に、杏の香りが残る。でも、次の料理のために主張は控えめでしたね」

「そうね。次はポアソンだったから、薄味で優しい口当たりに仕上げてみたの。僅かな杏の香りに気付けるなんて素晴らしいわ」

「ありがとうございます」

 

 アリサは半ば義務のように微笑み返す。この会話を象徴するように。

 

「イサキのポアレと、イサキの白子と真子のオランデーズソース。かのロブション氏とエチュベの技法について語ったときと同じ情熱を、こちらの春野菜のエチュベからも感じましたよ」

「ええ。凍結含浸法という次世代の真空調理法のような技法を使ったんです。加熱時間を最小限に抑えられるので、特に熱で飛びやすい風味を閉じ込めるのに向いています。流石のロブション氏もまだ知らないだろう、とても若い調理法なんですよ」

「なるほど……確かに程よい歯ごたえと新鮮な風味が印象的でしたね。ポアレの加熱具合も絶妙でした。火の通った生のような……高い技術をお持ちのようだ」

「値段以上の技術と思っていただければ幸運ですね。今日はシオデ――山のアスパラとも呼ばれる山菜が手に入りましたから、海鳴の晩春を満喫していただけたのでは?」

 

 笑顔を作ったシェフ・アレンはティーをゆっくり口に運ぶ。

 翠屋は喫茶店だ。ディナーは提供しているが、その立地とサービスは一流店から見れば明らかに格下。つまり、ほとんど料理の価値だけに一人三万円を要求している。請求額からサービスに係る費用を差し引けば、これは三つ星レストランクラスの強気設定だし、シェフとしての彼の経歴でも最上位の店に匹敵している。

 その値段設定を超える技術であるとは、事実ではあったが口にして肯定しがたかった。

 空気を読んだアリサは、あえて流れを読まないことにして身を乗り出した。

 

「ミスタ月ノ輪、その次のお皿では秋を表現してらしたんですか?」

「惜しいね。広島産ウマヅラハギのキモのフォアグラ風アン・コンフィにイチジクと椛のソースをかけて。イチジクと、椛の若葉と、産卵前のウマヅラハギのキモ。どれも秋を思わせる要素のある食材ばかりだけど、全て初夏の幸なんだよ」

「ああ、ソースには熟成したバルサミコ酢を使っていましたね……アントレ・フロワードの皿とは反対に」

「流石、一流の料理人ですね。そこに気付かれるとは……」

「お嬢様は自力で『落ち着きと調和、深みを求めている』と気付かれましたよ」

 

 アリサへと視線が集まり、デビットとアズサは思わず息を呑んだ。褒められているようで戦場の真ん中に放り出されたような、娘を取り巻く雰囲気に複雑な気持ちとなったせいで。

 

「……すごいな。じゃあ、アントレ・フロワードのバルサミコ酢に若いものを使った理由もわかるのかな?」

「野菜の風味にソースが負けないように、躍動感のある若いものを使ったんですよね」

「素晴らしい解釈だね。私が料理に注いだ手間と情熱に答えてくれている」

「ふふ、ありがとうございます。それじゃあ、もう一つ。口直しのシャンパンのソルベと、ヴィヤンドのヴァン・ルージュソースにそれぞれ白と赤のワインを選んでくれたのは、ワインを飲めない私のためですね」

 

 アリサの視線を受けた桃子が目を丸くする。自信と確信に満ちた大人顔負けの視線だ。

 

「……驚いたわ。本当にびっくり。すごい子だわ……」

「正解だね。シャンパンのソルベはまだ分かりやすかったかもしれないけど、ヴィヤンドのルビーポルトはお肉に合わせただけだろうって納得されるかと思っていたよ」

「なるほど。熟成ワインという選択肢が先にあってそのための熟成肉でしたか。良い熟成肉が先にあったのかと勘違いしていましたね」

「いいえ。近江牛の素晴らしい熟成肉があったからこそ、ルビーポルトという選択肢を得られたと言うべきですわ。最初は鳩の肉を考えていたのですから」

「そしてそこから釣り合いの取れる白ワインの銘柄を探していたとき、お好みのワインを聞かせていただいたときに書き留めた、ドン・ペリニヨンのエノテーク・ヴィンテージの名が目に入ったんです。続く仕事は桃子のものですね」

「パンといい、ソルベといい、この店のパティシエールは女性ならではの気遣いでコースを素晴らしく盛り立てていると感じましたよ」

「ありがとうございます。とても、光栄ですわ」

 

 裏を感じさせる、しかしそれが何であるかを悟らせない笑顔で大人たちが視線を交わす。

 デビットとアズサはゴクリと喉を鳴らした。映画のワンシーンのような光景だ。しかも、主演は自分たちの娘。だが喝采を送れない。これはどう対処すればいいのか。

 

「パンについていたバターも素晴らしかったですね。チーズが使われていたようですが……」

「無塩バターと生クリームとチーズだね。詳しくは企業秘密で」

「微かにウィスキーの香りがしましたし、ウォッシュチーズでしょう。モン・ドールではないかと思っているのですが」

「うちではお菓子にも使いますし、チーズには凝ってるんですよ」

 

 探り合いのような、自慢のような、きわどい距離感で主役たちが微笑み合った。

 脇役が迷っているうちにもアリサは全力で前に突き進んでいく。

 

「……なるほど。さすがは日本屈指のパティシエールですわね。では、そのあとのフロマージュ、アヴェンデセール、グランデセールは全てミズ・高町の作品なのですか?」

「オレンジソースとミルクムースだけ私が、他は主に桃子が担当だね」

「チョコレートなんかは全て私が準備したんですよ」

「すごかったです。特に、プレスフルーツ・コンポートのショコラ添え! チョコレートの品質も素晴らしくて、ミルクムースも素晴らしくて、あんなに美味しいデザートは初めてでした」

「ありがとう。グランデセールは二人の合作だから、私も誇らしいよ」

「本当に素晴らしいコースでしたわ。パパたちもそう思うでしょ?」

 

 ――来たぜぬるりと。

 

 アリサの母・アズサは、娘からのキラーパスにも狼狽えることなく笑顔を浮かべた。

 自分の娘を中心に渦巻く得体のしれない張り詰めた空気から、言葉は出てこなかったが。

 代わりに口を開いたのはデビットだ。頼りになる男である。

 

「あ、ああ……そうだな。正直、期待よりも素晴らしかった。値段以上の料理だったよ」

「ありがとうございます、ミスタ・バニングス。シェフとして、嬉しく思います」

「ありがとうございます。ミスターにそう言っていただけて光栄ですわ」

 

 デビットは非常に健全なやり取りに、ようやく肩の力が抜けるような気がして微笑んだ。

 それを見たアズサも安堵して微笑み。

 アリサも微笑んで。

 

「ねぇ、パパ。私、お二人のことがとても気に入ってしまったわ。またお相手していただきたいのだけれど、ディナーに来れば会えるのかしら?」

「…………」

 

 デビットは、まだ六歳の娘が何だかとんでもない方向へと成長し始めていると痛感した。

 

 

 ソファーに深く腰掛けて「敵を知り己を知れば百戦危うからず、という言葉がある」と月ノ輪は言った。

 

「? それってどういう意味なんですか?」

「んー。なのはちゃんにもわかりやすく言えば、相手と自分をよぉく理解すれば、どないな戦いになっても危なくないんやで、工藤。という意味やな」

「なんで工藤をつけたの……。ああ、まぁ、大雑把に言えばはやての言う通りなんだけど……もう一つ知っておくべきことがある。相手がいる、ということの意味をよく考えればね」

 

 ウィンクを一つ、月ノ輪はカットグラスを傾けて琥珀色の液体を口に含んだ。ヒントはあげたのだからあとは自分で考えるように、といういつもの合図だ。

 課題を与えられた二人は揃って首を傾けた。

 

「……? ……。……あ! 相手が、私のことをどれだけ知っているか?」

「おぉ! なるほど。さすがなのはちゃんや。相手がどれだけ実践しとるかっちぅことか」

「そうだね。言葉にするなら、相手にどれだけ知られているのか。何を知らせているのか。相手が自分の何をどう見て、どんな戦いにしようと考えているのか。それが、相手を知り、自分を知って戦うということの準備なんだよ」

「そっか……」

「それがわかれば、戦って危うくなることもない、無駄に戦うこともない、戦わずに勝つことすらできるって孫子は言うとるんやな」

「その通り。そして――」

 

 サイドテーブルにグラスを置いて「完全に思った通りの戦いをするというのは、戦わないことにとても似ていることなんだよ」と月ノ輪は微笑んだ。

 

 

 料理に関する会話も弾んだし、またディナーに来る約束も取り付けた。

 目標のほとんどを達成したアリサは手応えを感じていた。

 集中を重ねたディナーを終えて、心地の良い疲れもあった。

 はっきり言って――油断していたのだ。

 

 それは、レジカウンターの横に現れた。

 貸し切りとなっている二階へと続く階段の下。

 白い長袖のフリルブラウスと、黒っぽいキュロットとハイソックスという落ち着いた組み合わせながら、元来の可愛らしさが過ぎて、作り物のような印象を与える少女。

 何よりも印象的だったのは、その透明な笑顔だったが。

 

「こんばんは、アリサちゃん」

「! 高町なのは……っ」

「――こんばんは、アリサちゃん」

「っ、く……こんばんは、高町なのは」

 

 何か高度な駆け引きがあったらしい、と大人たちは思った。

 というか、さっきまで街のオシャレな喫茶店にいたはずなのに、今や月明かりに照らされた夜の廃教会に迷い込んだような緊張感が漂っていた。

 殺し合いでも始まるというのか。

 

「ディナーは楽しんでもらえたかな、アリサちゃん?」

「……ええ、とても。落ち着いていていいお店、だった(・・・)わ」

「…………よかったの。気になることがあったら何でも言ってね? 大きくなったら私が継ぐお店だから」

「あははっ――無理じゃないかしら? だって、私でも食べたことがないくらい素晴らしいお料理だったもの」

「無理じゃないと思うの。だって、私が一歳の頃から食べ慣れてるお料理なんだよ」

 

 火花が、散っているかのようだった。あるいは恐ろしく鋭利な刃物の素振りをしているような。

 

「…………」

「…………」

 

 親たちも固唾を呑んで見守るが、笑顔で向き合い、表面上は穏やかなだけに止めづらい。

 

「……食べ慣れていることは作れることとイコールではないわ」

「……食べたこともない料理を作ることに比べたらとっても簡単だと思うの。それに私、きちんと勉強してるもん」

「あら。私だって勉強したのよ。この前いただいたオムライスが美味しかったから、興味を持ってしまったの」

「あはっ――と、ごめんなさい。そういえば、ブレゼのお勉強はできたのかなって」

「っ、ええ。おかげ様で――貴女の助力が必要ないくらいには」

「……ふぅーん」

「ふふ……」

 

 ここしかない、とデビットは思った。なるべく刺激しないようこの子たちを引き剥がさなければならないと。親としての使命感から。

 

「ああっと、アリサ。すまないが、紹介してもらえるかな?」

「……クラスメイトの、高町なのはよ」

 

 不本意だったが、しぶしぶ絞り出した、そんな言葉だった。一応、紹介はしておく、それだけの言葉だ。

 次はどんな風に高町なのはを攻めるべきか。あるいは回避か?

 そんなことばかり考えていたアリサは果たして、次の言葉で強制的に意識を引き戻された。

 

『申し遅れました。私はアリサさんのクラスメイトで高町なのはと申します。この店、喫茶翠屋のパティシエール・高町桃子の娘で、シェフ・月ノ輪春樹の教え子に当たります』

 

 気取った言い回しと、やはり教え子だったのかと、そちらの情報に気を取られていたアリサは、肝心なことに気が付いて愕然とした。

 英語である。しかもアナウンサーが話すようなジェネラル・アメリカン。

 なんら違和感のない、ネイティブのような発音だった。

 バイリンガルのアリサには全く自然に聞こえていたため、英語だと気付くのにいくらかの時間が必要だったくらいだ。

 ……もはや振り返らなくてもわかる。デビットとアズサは大いに感心しているだろう。

 アリサのとった態度と比較すれば勝敗など明らかである。いや、アリサの態度があったからこそ勝敗が生まれ、そしてその落差は大きい。

 

「た、高町、なのは……」

 

 アリサは目を見開いた。

 見開いていたがために、透明な笑顔を浮かべた高町なのはの目に、一瞬の愉悦が浮かんだことをアリサは見逃すことができなかった。

 そうしてアリサは初めて気付く。

 牙を研いでいたのは、自分だけではなかったと。

 高町なのはもまた、アリサが隙を見せるのを待っていたのだと。

 アリサのペースだった。介入の隙もなかった――はずだった。確かになかった。食事中、そして食後も、乱入してくるような真似はされなかった。

 ただアリサが食事を終えたあとの店内で会って会話して、そして自己紹介しただけだ。食事会を逸脱するような行為ではない。むしろ、欲張って当初の目的から逸れようとしていたのはアリサの方だった。

 これは、アリサの油断という他ない。

 勝利を目前にしたことで、戦いが終わってもいないのに気を抜き、敵地の中で隙を晒し、一撃で逆転された。

 アリサの戦争でアリサが無様を晒してしまったとしたら、誰がそれを挽回すると言うのか。その答えがこれで、孤立無援の今だった。

 

「お引き止めしてごめんなさい。アリサちゃんとの会話が楽しくて、つい……」

「なっ――あ、貴女……!!」

 

 ふざけるな、とアリサは思った。だがそれは、当人にも定義できない感情から来る台詞だ。

 アリサは適当な文句が見つからず口をパクパクと開閉するしかできない。一秒でも早く立て直すべき場面であったが、アリサは明らかに経験不足だった。次々に襲い来る事象に自らの立ち位置を見つけ出せず、混乱が加速する。

 

「それじゃあ、アリサちゃん。すずかちゃんを待たせちゃってるから、続き(・・)はまた明日、学校で。――さようなら」

 

 別れの挨拶を突き付けられたことで、アリサは唐突に敗北を悟った。

 出遅れた。これでは、高町なのはの英語が付け焼き刃かどうかも確認できないではないか。

 もっと早くに英語で話しかければよかった。会話に引きずり込めばすぐにわかったはずなのに、できなかった。それはアリサを会話に引っ張り込むための罠ではないのか、と。疑心暗鬼に陥り、解決法を模索している間に主導権を握られた。

 評価が定まってしまった今、付け焼き刃であったかどうかなど確かめる意味もない。

 もし仮に彼女の英語がここ一週間ほどで身につけただけのものであったとしても、最も効果的なタイミングで最適量を使用されたそれは、アリサの学習結果よりも効率よく自分を苦しめていると言えるし、なによりアリサの耳にもよく出来た英語に聞こえていたのだから、評価が落ちるということもありえないだろう。

 そして、もし先ほどの英語力が付け焼き刃でないとしたら――事実を確認しようと見苦しく食いついたアリサが、逆に大火傷を負う可能性すらある。

 ゆっくりと階段を登っていくその後姿が、もはやアリサを誘う罠にしか見えない。というより、その先に月村すずかが待ち構えているのなら、ほぼ確実に罠である。

 逆転に賭けるには、危険に過ぎた。

 自らの迂闊さを呪う。臆病さに腹が立つ。

 だが、もはや流れに乗るほかない。――アリサの敗北が決まった、この流れに。

 

 

 アリサは部屋に戻るなり、お気に入りの名刺人形『ベイトマン』を本気で殺しにかかった。

 

 人間には現在は無論大切ですが、どうせなら過去の結果としての現在より、未来の原因としての現在を、より大切になさるべきでしょうな。

 




 アリサは大人びた天才児。そしてお嬢様らしいディナー。これもありきたり。
 しつこいくらいの料理描写は全カット。1万字くらい書いてたのに。ありきたりじゃなかった!
 笑顔の裏に緊張感。目が笑っていない会話。とてもありきたり。
 金髪の子かわいそう。上げて落とす、ありきたりな金髪いじめ。
 ベイトマンはアメリカ系ナルシストの名刺。骨白人。
 ケッセルリンクにまで慰められる金髪の小娘。愛され系である。
 ちなみにシェフの名前はポール・アレンということに。独自設定です。
 ポイントカードは、こんなこともあろうかとディナー客用会員カードを用意しておいた!

 リトル・レディ。聖母マリアのような無垢なる女性、小さな淑女、かわいい娘、未熟な小娘。といった比喩を含む表現。今回のアリサはリトル・レディでした。
 英語力。なのはの英語力は高い。なぜならお兄ちゃんのお嫁さんがイギリス人であるから。英国には毎年遊びに行っており、短くても2週間は英語漬けの生活を送る。ジェネラル・アメリカンは得意というわけでもないが方言レベルなので問題ない。英国淑女の教えを受けたものとして、韻を踏んだ皮肉などは得意。アリサは噛みつかなくて正解だった。
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