微笑みの戦士-ベルゲは往く- 作:Wojtek
しほとみほが激突したその日の夜、みほはひさしぶりに目が冴えて眠前薬の頓服も効かず、布団に入ったまま天井の一点をじっとみつめていた。
いろいろな考えが浮かんでは消え、不安の中で空回りする。
薬のせいでぼーっとした頭の中で、焦りだけがはっきりした形を取っていた。
眠らなきゃと思えば思うほど、眠気は遠のく。
結局この晩みほが入眠したのは、ほとんど夜明け前だった。
そしてまた夢を見た。
またあのときの夢だ。意を決して自分の戦車を捨てて川に飛びこもうとするみほ。
もう試合なんてどうでもいい。助けに行こうと決心したみほの脚を、車内からつかんで離さない者がいる。それは黒森峰のタンクジャケットを着た母だった。
「お母さん!」
「みほ、言ったはずです。西住流は勝つことがすべて! あなたを行かせはしない!
さあ、指揮をお執りなさい。私が教えたとおりに。そして敵を撃て!」
「お母さん、私を離して。あの人たちを助けに行かせて!」
「誰が離すものか。敵は目のまえです。戦いなさい!」
そしてとうとうⅢ号戦車は完全に沈み、川底に引きずり込まれてしまう……。
「――いやあああぁぁぁ!」
みほが泣き叫びながら目を覚ましたのは、もうすでに太陽が天に高くかかっている午前10時過ぎだった。
「みほ、どうしたんだね?」
ドアの外から父の声がする。
おそらく階下にまで聞こえるような大声を上げてしまったのだろう。
「何か食べられるかい?
食べられるようなら下に降りておいで。私もこれからなんだ」
みほは子どものころから、父母と食卓を囲んだことはなかった。
姉や師範、門弟たちと冬でも板の間に正座して、同じ食事を取る。
一家団欒で同じ食卓を囲む同級生たちをうらやんだものだった。
母は、地方やときには都会の政財界人、あるいは戦車道界の人物と会食することが多かったし、自分たち姉妹は朝早く起きると定規で測ったようにきれいにすばやく布団をたたみ、住み込みの門弟たちと朝餉を食べてすぐに朝稽古と言う日々だったので、それも仕方ないことだった。
父母の食事は女中頭の菊代が、使用人を使って用意していた。もっともこの夫婦は職業柄すれ違いが多かった。父が異風者でなければ、形式だけの夫婦になって、父はもう家から出ていたかも知れなかったと、みほは思っていた。
常夫は「陶芸家、鑑定家」という職業から感じられる厳格で微塵の妥協もない人物像からかけ離れている。すくなくともみほにはそう見えた。陶芸の大家なら焼き上がりの作品をみて、納得いかなければそこで壊すが、彼はそういうものでも自分の銘は入れないだけで、日常品の値段で安く卸したり、学校の茶道部や料理学校にただで寄贈したりした。
「自分の力だけで作ったのではない、自分の手を借りて生まれてきたものなのだから、何か役割をあたえてあげるのが自分の責任だ」と常夫は言う。彼の同業者たちからは、母が持っているような峻厳さが垣間見えたが、常夫は誰が相手でも西住常夫その人だった。
父と一緒に朝ご飯を食べるのは、みほにとっては本当にひさしぶりだ。
だからみほは部屋着に着替え、広いがいまの時間は誰もいない階下に降りていった。
その父は、いつも着ている作務衣ではなく、めずらしく洋装だった。
ふだんは嫌がるネクタイまでしているところをみると、おそらくこれから東京の彼の店に行くのだろう。そうなると2週間は帰ってこない。
だからみほが起きてくるまで、食事を待っていたのだろう。
そして食卓には、まだ食器しかならんでいない。
「いまから作るから、みほも手伝ってくれないか?」
そう、常夫はひとり暮らしを始めた時分から、朝ご飯だけは自分でこさえていたのだ。
彼は門弟たちのための大きな炊事場とは別に、この洋間の隣にしつらえた最高師範および来客用のキッチンにみほを連れて入っていった。きちんと前掛けもしている。
「お父さん、まだ私、以前みたいにはできない……」
「だろうね。
君はバケットをブレッドナイフで切って、オーブンで軽く焼いてくれないか。
あと、サラダ菜をちぎって皿に盛って」
そういう彼は玉子をボールに割って、塩とこしょう少々を振ってから泡立て器でかき回す。純銅のフライパンにはすでにベーコンをいれて焼いている。油は使わずベーコンから出る脂だけでいためているのだ。
ベーコンがカリカリになると火を止めて皿に移し、フライパンをきれいに洗って、今度は発酵バターを熱している。頃合いと見ると溶き卵を入れ、数回菜箸でかきまわして広げると、あとは右手でもった柄を左手で叩いて、オムレツの形にまとめていく。
器用な人は何でもできていいなあ。とみほは思っている。その上「いまはたまにしか家事ができなくて寂しいよ」なんてことまで言う。
「ああそうだ。ミルで豆をひいておいてくれ。ドリッパーでコーヒーを淹れるから」
こんなことまで自分でやる人間だとは、雅号でしか父を知らない人はおもわないだろうなあ。と考えると、何かおもしろい気分になる。
そうしているうちに、みはは昨晩あったことをいつのまにか忘れていた。
食卓に並ぶカップや皿といった洋食器も、瀬戸物のたぐいは常夫が焼いたものだ。
店で骨董クラスの洋食器をあつかったとき、その美しさに惹かれてこっそり見よう見まねでいろいろ作ったのだ。
本人に言わせれば「マイセンのバチモンのさらに贋作」という程度で、「やはりモチは餅屋、本物はすごいね」とぼやいていたが、来客にだしても「アマチュアの作品」と見抜いた者はいなかったらしい。
「お父さんの修行って、結局どんなことをしたの?」
食事が終わって、二人だけでシンクで洗い物をしながら、みほはたずねてみる。
「ん、そうだね。
結局ひたすら一流のものを見て、聞いて、読んでってことだね。
私の師が私にやらせたのは家事雑用と窯焚き、あとは休みの日に「ここに行って来い」だった。そして私に何をどう感じたのか語らせた。私が見るべきものを見てこないと、雷が落ちたよ。絵、音楽、演劇、あと本もいろいろ読まされた。
そしてものを作るのは、作るのではなくてそこにすでにあるものを、無心になって見いだすってことなのかな。とにかく気持ちも雑念もなくして心を空っぽにして土に向かうだけだね」
みほはそれをきいて、もしかしたら父なら自分が整理の付かないことに答えをもたらしてくれるかもしれないと思った。
「お父さん、あのね……」
「……なんだい?」
「あのね、お父さん……
お父さんから見て『戦車道』ってどう見えるの?」
常夫はしばらく考えていた。
もしかしたら、考えているそぶりをしていたのかも知れないが。
数瞬のあと結局彼が口にしたのは「私には武道のことはわからないよ」ということだけだった。
常夫は、昼前には西住家を出て、熊本空港から羽田行きの国内線に乗る。
羽田に着いた頃には、もう夕方と言っていい時間、空にはもう薄暮がしのびよる。
彼はモノレール経由でJR山手線の浜松町から東京駅へ行って、地下改札で降りる。
すぐそばに東京メトロ丸ノ内線の東京駅がある。その改札を電子マネーで通ろうとしていた常夫に、「よう」と声をかけてきたものがいた。
「兄さん?」
「久しぶりだな。常夫」
「いや、本当にひさしぶりだね。今日はどうしたの?」
常夫から「兄」と呼ばれた男は意味深な笑みを見せた。
「お前こそ、今日も下水道を見に来たんだろう」
「それもあります。
で、兄さんはお仕事は?」
「まだまだこれからさ。俺の職場は不夜城だ。
……それに最近、排水口に良く泥が詰まる」
ふたりは並んで、電車を待っている。
丸ノ内線は常時数分間隔で電車を運行している大都市東京の巨大インフラだ。
電車を一本のがしたところですぐに次の電車が来る。だから駆け乗りなんてことは誰もしない。
「兄さんは婿入りしてから『文民』になったのに、あいかわらず海軍士官のようだ」
「お前こそ中学を出て『横須賀』にいく寸前に逐電して、いつの間にか陶芸家に弟子入りしていたじゃないか。お互い親不孝者さ」
いまは「堀」姓になっている彼の兄は、そんなことを言っている。
彼らの旧姓は「西住」、彼らも熊本の人間だった。
彼らは次の銀座駅で電車を降りた。堀はここで銀座線に乗り換えて、虎ノ門駅まで行くのだ。
二人はホームで顔を見あわせただけで別れる。
常夫は改札をくぐり、そのまま地上へ、銀座の街へと歩みを進める。
「ふむ、今度は長くなりそうもないな」
常夫は独りごちると、彼の店舗と居室があるビルの玄関からうしろをふり返る。
そこには看板も表札も何もない殺風景なビルが人目を忍ぶようにひっそりと建っていた。もう夕闇が支配する時間なのに、その建物には明かりはともっていなかった。