一年物語 其の二   作:りろぶこん

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良い子は真似しちゃいけません。
いつも通り多くは後書きにて語るとしましょう。


熱波の九月

 残暑という物は、時に真夏の暑さを超える。数週間前まで熱したフライパンのようだった地表が、じりじりと肌を焦がすオーブントースターのように変わっていた。

 その暑さの中。リュックを背負った文月は短く切り揃えた茶髪を整え玄関にいた。

「いやー、仕事がないって良いねーっと」

 薄手のシャツにショートパンツ。着る者によっては身体のラインが浮き出るわ、汗で透けてとんでもない姿になってしまうわで大変だろうが、生憎貧相な(本人曰くスレンダー)な体型の彼女には関係のない事だった。

 文月が背負うリュックにあるのは水着とその他海水浴に使う道具一式。期待に胸を膨らませ、靴を履いていざ出発……しようとした瞬間にインターホンが鳴った。

「んあーもう、葉月ー?」

 姉貴分である葉月の名を呼びながら、やる気なさそうにドアを開ける。

「仕事だ」

 そこには文月の進路を塞ぐように立つ、凛とした卯月の姿があった。

 

「……」

「何だ」

「あ、いやーその……引き継ぎは後日では駄目かなと」

「駄目だ。今日、今、ここでやる」

 強制的に椅子に座らされた文月は、チラチラと上目使で卯月を伺う。

 ビシッと背筋を伸ばして腕を組む卯月。服装は文月と同じような薄手のシャツから一枚羽織っただけだが、組まれた腕に支えられる双つの果実が胸のイラストを歪ませている。

「文月と言ったか。私がこうするのには訳がある」

「……はぁ」

「はっきり言うが貴様については良い噂を聞かん。仕事は不真面目、遊び呆ける、協調性は皆無。今まで前後が争い事を好まん水無月と親しい葉月であった故に見逃されていたのかもしれんが……私は違うぞ」

 ゴゴゴゴゴ……とオーラが見えそうなくらいに卯月の目が鋭く光る。直感的に命の危機を覚えた文月はよろよろと片手を挙げた。

「あのー……」

「無駄口は聞かんぞ」

「ちょっと……トイレに……」

「……構わん。だが戻ったら即引き継ぎ。そして貴様の行動を一週間監視する」

「げぇっ、あっ、いや何でも……」

 文月は椅子から立ち上がり、忍び足でその場を離れる。

 

 その後暫く腕を組んで待っていた卯月だが、五分経っても十分経っても文月が戻ってくる気配がない。

「……遅い」

 痺れを切らして立ち上がり、大股でトイレの前へ。

「文月、いるなら返事をしろ」

 返事はない。

「三つ数える。その間に返事が無ければドアを蹴破るぞ。ひとつ、二つ……三つだ。ふんっ!」

 バキィ!と木製のドアがノブごと吹き飛んだ。細かな破片が飛び散り内部に飛散するが……、

「なるほど」

 中はもぬけの殻。開け放たれた窓から吹き抜ける風が虚しい。

「そういう事か」

 

 寄せては返す悠久の波。鼻腔をくすぐる潮の臭い。海である。

 全身をピッタリ覆う競泳タイプの水着に着替えた文月は、熱砂にぴょんぴょん跳ねていた。

「これだよこれー!熱い!暑い!でもそれが良い!」

 ごろんと砂浜に転がる。他の海水浴客が奇異の視線を向けてくるが気にしない。

 背中をフライパンで焼かれ、前面をオーブンで焦がされるような感覚。それを暫く味わってから飛び込む海は最高の贅沢だと文月は信じている。

 身体焼きも終わり、さて待望の海へ……と思った矢先。寝そべる文月の頬を掠めて一本の矢が突き刺さった。

「ひいぃ!?」

「こんな所で寝ていては日焼けするぞ……ビーチパラソルでもどうだ?」

 突き刺さったの矢ではなくビーチパラソルだったらしい。そしてその持ち主はもちろん卯月。場所を考えてか、目の覚めるような赤いビキニが周囲の男共の視線をさらっている。

「あはは……どうしてバレた?」

「今日初めて会った時、リュックから水泳道具一式が見えていた。ファスナーはしっかり閉めるんだな」

「ちぇー……」

 口を尖らせながらゆっくりと上体を起こす。

 卯月は嘆息しながらその様子を見て……一瞬の隙をついて文月は海へと駆け出した。

(こんな時まで仕事の事なんて考えてられるかってのー……って追って来てるううううう!?)

 ちらりと背後を見れば、無表情に僅かな怒りが混じった表情の卯月が美しいフォームで追跡してきている。はちゃめちゃな走り方の文月が不意打ちでつけた差などぐんぐん縮まり、このままではビーチフラッグよろしく砂浜に身体を削られてしまう。

「観念しろ文月!」

「い、や、だああああ!」

 卯月の指先が触れる寸前、文月は砂浜を蹴って海へと飛び込む。

 文月の真価は水中にて発揮される。起伏のない身体は水の抵抗をほとんど受けず、好きこそ物の上手なれで上達した泳ぎには絶対の自信を持っていた。

 だが、

「な……何でついてこれるの……!?」

「武芸十八般、水泳も入っているのでな」

 互いに乱れのないクロール。技術で優劣がつかないのなら後は環境や道具に左右される。

 競泳水着のように全身を覆う水着に対し卯月は決して全力での泳ぎには向かないはずのビキニ。さらに胸やら尻やらの余計な志望が邪魔するはずなのにこのスピード。誰にも負けないと自負していた物をあっさりと破られ、軽い絶望感が文月の胸に去来する。

 それが隙となり、力強く水を捉えた卯月が片手で文月の右足を掴んだ。ガクンとスピードが落ちる。片足を封じられては思うように動けない。

 これまでかな……等とは文月は思わない。既にここは彼女のテリトリーだから。

「はぁ……ふっ!」

 大きく息を吸い込んで頭から水中へ。もう両者共に足がつかない海域だ。

「ふん……潜水か」

 卯月も負けじと息を吸って、二人の姿が海面から消えた。

 

(長すぎる……)

 水中で文月の足を掴んだまま引っ張られる卯月は、かれこれ一分程続く潜水に限界が近付いていた。

 片足を掴まれ、バランスが取れないままこれだけのスピードを出すのは相当な体力を消耗するはずだ。だが文月は後ろを振り返ってニヤリと笑う余裕さえ見せつけてくる。

 そして角度が変わる。地面と平行に泳いでいたのが水面へ。キラキラと輝く太陽の光が目に入り、卯月は思わず最後の息を吐き出した。それを見て文月が白い歯を見せる。

 怪訝に眉を寄せたのも束の間、水面すれすれで再び角度は水中へ。

「!?がはっ……!」

 息継ぎができると思った卯月の肺には空気が残っていない。

 再び遠ざかる水面。肺が不自然に収縮するような感覚。あまりの苦しさにもがけばもがく程に残り少ない体力が削り取られていく。

(やむを得ん……か……!)

 ここで溺死でもすれば一生の恥。

 卯月は忌々しげに足を離すと、文月とは逆に水面へと向かう。

「ぷはっ!はぁっ!はぁっ!くっ……精進が足りんか……」

 精進も何も水泳、特に潜水に特化した文月にガチンコ勝負で勝てるはずがないのだが、意外に負けず嫌いな卯月は悔しそうに水面を叩きつけた。

 バシャン、と水飛沫が上がる。肩で息をする卯月の視界には広大な海。砂浜は遥か遠く、そこにいる人間が豆粒のようだ。

 はぁ、と大きく息を吐く。ふと視線を上げれば、遠くに何かぽつんと浮かぶ漂流物が見えた。初めは流木か何かと思ったが、それは波に流されているにしては速すぎるスピードでこちらに向かっている。

 目をこらし、そして認識する。

 鮫だ。

 

 ここは周りに何の遮蔽物もない海。砂浜は遠く、叫んでも聞こえるはずがない。

 そんな孤立した場所で、海は生身ひとつで鮫と対面する。

(くっ……鮫だと……?泳いで逃げ切れるはずがない!)

 僅かな逡巡の間に、鮫は卯月を標的として捉えた。

 海面に浮かぶ三角形の背鰭が明確にこちらを向く。速度は文月以上。海洋の捕食者は孤立した卯月の肉の味を考えているのだろうか。

「……仕方あるまい」

 普通の人間なら発狂し、滅茶苦茶に泳いで結局捕食されるだろう。だが卯月は覚悟を決めると、立ち泳ぎの格好で鮫と向かい合う。

 大きい。想像の二倍はある。卯月の身体程度なら一呑みで食らい尽くせそうな程の巨躯。

「はあああぁぁぁ……!」

 鮫が射程に入る直前。水の抵抗も考えて早めに繰り出した蹴りだが、踏ん張る大地がない水中では驚く程弱々しかった。

 それでも蹴りは見事に鮫の顔面を捉え、進行方向をずらす事に成功する。身体に触れる程近くを鮫が通り過ぎ、背筋に冷たい物が伝う。

 痛い。蹴りを入れた右足の甲が、じわじわと染みる痛みを伝えてくる。

 鮫肌。鮫の皮膚はワサビのすりおろしにも使われる程に頑丈でざらついている。これに向かって人間と変わらない柔肌がかち合えば、擦り傷を何倍かにしたような怪我になるのは当たり前だ。

(不運……と嘆いて良いかもしれんな)

 大きく弧を描いて鮫は再び卯月へ突進する。

 脳裏に浮かぶのは走馬灯。色々な思い出が浮かんでは消え、それを振り払って卯月はしっかり鮫を見据える。

「私の肉と命などくれてやる!だが冥土の土産にその両目、貰い受ける!」

 卯月は両腕を引き、その指先を鮫の眼球に向ける。

 だが海が血で染まる事はなかった。ペコン!と、ともすれば間抜けな音が響き、鮫が激しく水飛沫を上げて進路を変えた。

「いやさー……普通に逃げようよ。何まともに戦おうとしてるのさ」

「文月……」

 いつの間にか文月が卯月の横に浮上していた。その手にはカヌーで使うようなオール。それが半ばでへし折れていた。

「うーん、やっぱりこんなおんぼろで鼻っ柱叩いただけじゃ駄目だね」

「何を、した」

「んー?鮫にはね、鼻先にロレンチーニ器官っていうのがあってさ。それを……っと、また来るよ」

 一度水中に身を隠した鮫が、三度その巨躯を翻す。

 一噛みで腕や足の一本は持っていかれるであろうその大口を開けて。

「これ、持って」

「何だこれは」

「さっきのオールと一緒に底に落ちてた銛。結構錆びてるから使えるのは一回きりだと思うよ」

 軽い調子で文月が手に持った一メートル程の銛を掲げる。極端に錆び付いているが、それでも先端の鋭さは失われていない。

「武芸十八般だっけ。それには槍ってある?」

「槍術か。まああるにはあるが……」

「そりゃ良かった。これ、鮫に突き刺すよ」

「突き刺す……?その……ろれんなんたらにか」

「ロレンチーニ器官。でも流石に水中で鮫肌突き破ってピンポイント直撃は難しいかな。仮に当ててもこの銛が折れる」

「ならばどうする」

「あたしが角度調整するから。力と技術は任せたよ」

 二人は半身の姿勢になって互い違いに銛を持つ。

「戦うな、逃げろではないのか?」

「そりゃ生身で戦う奴初めて見たからさ……ま、考えてみれば逃げ切れるはずないよね」

「成功する可能性は」

「五分五分」

「何故自分だけ逃げなかった」

「目の前で鮫に食われるの見たら一生の寝覚め悪いっての。ほら行くよ」

 先に文月が、続いて卯月が水中に沈む。

 実際にその巨体を目の当たりにすると、どうしても逃げ出したい衝動に駈られる。

 怖い、逃げたい。そんな気持ちを圧し殺して、二人は視線を交わした。

「ゴー!」

 大量の気泡が文月の口から漏れる。狙うは土管のような口の上部。その先には脳がある。

「がばっ、ああああああ!」

 文月が調整した角度を正確になぞり、渾身の一槍が繰り出される。

 ボキッ、と銛が折れる。だがそれは確実に口内に突き刺さり、赤黒い靄を出しながら鮫の動きが止まった。

 

「改めて……礼は言っておく」

「あいよー」

 太陽が傾き、オレンジ色の陽射しが私服に着替えた二人を照らす。

 右足の甲を包帯で巻いた卯月と、ニコニコと楽しそうな文月は並んで歩いていた。

「そういえばまだ聞いてなかった。何て呼べば良い?」

「卯月。それ以外の名を持たん」

「ん、じゃあ卯月で」

 ひゅう、と涼しい風が頬を撫でる。気持ち良さそうに文月は目を細めた。

「それで、だ文月」

「なーに?」

「私が何故貴様に会いに来たのか、忘れてはいまい」

 ぎくぅ、と文月が固まる。

 一時より随分と涼しくなっているはずだが、彼女の頬には大粒の汗が流れていた。

「あのさ……ほら、命を助けてあげたじゃん?それに免じて」

「感謝はしている。この大恩を生涯忘れるつもりはない。だがそれとこれとは話は別だ」

「こっ、このわからず屋ー!」

「むっ!逃げるか文月!」

 だだだだっ!と突然走り出す文月。それを追って卯月も走り出す。

 僅かに潮の香りを乗せた風が、二人の間を吹き抜けた。




まずはここまで読んでくださった皆様に感謝を。
作中に出てきたロレンチーニ器官ですが、実際に鮫と対峙した時はそこを攻めるのが有効みたいですね。まあ人を襲う鮫なんかと対面して冷静に狙えるかどうかは別として。
文月はお馬鹿さんに見えてお馬鹿さんです。しかし行動力や胆力には目を見張るものがあり、たとえ相手が鮫でも立ち向かう勇気を持っています。でもお馬鹿さんです。
今回はこの辺りでお別れです。機会があればまた次回お会いしましょう。
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