一年物語 其の二   作:りろぶこん

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どこかで見たぜこの展開
いつも通り多くは後書きにて語るとしましょう。


寒風の六月

 朝陽が山を越え射し込んでくる。ここ最近、段々と太陽が出ている時間が長くなってきていることを、肌で感じられる。

 葉月は朝陽が射し込む前に日課であるジョギングを済ませた後、シャワーで汗を流し終えて冷蔵庫の前に立った。

 心なしか少しウキウキとした様子で冷蔵庫を開くと、飲料置場から白い液体の入ったペットボトル容器を取り出す。キャップを捻ると、プシュッという炭酸が抜ける音がした。

 コップに注いで口へ。とろけるような甘さと、シュワシュワと弾ける炭酸がたまらない。かいた汗を温かいシャワーで流した後の火照った体に、キンキンに冷えたジュースが染み込んだ。

「んくっ……ぷはー……息抜きも大事、か」

 以前の葉月なら絶対に口にしなかったような『体に悪いもの』。だが先日とある少女との邂逅を経て、少し自分に『ご褒美』をあげることにした。

 するとどうだろう。今まで事務的にやってきた朝のジョギングやトレーニングが、どんどん楽しくなってきたのだ。『美』という曖昧なゴールに向けて、闇雲に走り抜けていた自分とは違う。目の前にある小さな喜びを目標に、充実した毎日を送っている。

 

 ぽかぽか陽気とはそろそろ言い難くなってきた。夜ですら布団一枚で何とかなる気温である。日中の暑さたるや、少し前まで長袖を着ていたのが信じられないくらいだ。

 そんな中、霜月はぐったりと机に突っ伏していた。

雪のように白い肌と、これもまた真っ白な髪。透き通ってしまいそうな顔立ちが、身に纏う黒い半袖シャツとスカートによって浮かび上がる。

「暑い……動きたくない……」

 十一月を担当する彼女にとって夏場は鬼門である。五月末でこの有り様。本格的な夏が到来すれば、どうなるのかわかったものではない。

 昼はアイスクリームだけで良いかな、などとだらける霜月の耳に、家のインターホンが鳴る音が聴こえる。

「うん……?こんな時期に……?」

 姉である師走は、最近仲良くなった皐月と遊びに行っている。ここに用事があるとすれば……。

 何となく予感はしながらも、家のドアを開ける。そこには薄手のパーカーの胸元をぐぐっと膨らませた金髪の少女が立っていた。

「こんにちは。自己紹介からした方がいいかしら?」

 

 葉月と名乗った金髪美少女を家に通して、霜月はお茶の準備をしているところだった。何分急な来客なので、出せるものといえば冷えた麦茶くらいなものだが。

「ど、どうぞ……」

「ありがとう」

 二つのグラスの内、一方を葉月に差し出す。身をよじった拍子にぽよんと胸が揺れた。紺のホットパンツから伸びるすらりとした脚は、一切無駄な肉はなく引き締まっている。

「どうしたの?私の体、何か変?」

「あっ、いや……なんでもないです……」

 まさか見とれていましたとは言い出せず、すごすごとテーブルを挟んで対面に座る。

 やがて仕事の話が始まったが、霜月は上の空で葉月の体と自分の体を交互に見比べていた。葉月が何かを指す度にぽよん、書類を整理する度にぽよん。

 霜月の交友範囲にスタイルの良い女性がいなかった為、余り意識したことはなかったが、改めて見ると決して自分はスタイルが良い方ではない。こうして目の前で見せつけられると、どうしてもそこを意識してしまうのだ。

「それで……ねえ、聞いてる?」

「ふぇっ!す、すみません!」

 はぁ、と葉月は呆れたようにため息をついた。

「さっきからチラチラ私の体見てるけど、何かあるの?言いたいことがあるなら言いなさいよ」

「あ……いや……その……」

 作業の手を止めて、葉月がじっと霜月を見つめる。とうとう霜月は意を決して言った。

「あの……どうやったらそんなにスタイルよくなれますかっ!」

 一気に言い切ってから、何を馬鹿なことを聞いているのだと後悔した。一笑に付されるか、もしかすると仕事の話はそっちのけでそんなこと考えていたのかと怒られるかもしれない。

 だが葉月の返答は意外なものだった。

「日々の積み重ねよ」

「……え?」

「朝早く起きて、体を動かして、朝昼版の食事に気を配る。地味だけど、それを続けるの」

 案外まともに答えてくれたことに、霜月が拍子抜けしていると、今度は葉月が聞き返す。

「どうしてそんなこと聞くの?」

「ああその……葉月さん、とってもスタイル良いから……羨ましくて、私もそうなるにはどうしたら、って……」

「ふーん……ま、発育には個人差があるから何とも言えないけど、少なくとも体力はつくでしょうね」

 スタイルを褒められて満更でもない様子の葉月。当の霜月はぼんやりと『体力……』と呟いた。

 思い返せばここ数年、毎年のように夏バテしていた。それも自分が暑さを嫌って体力作りをしてこなかったからではないか?

「あの……」

「何?」

「葉月の一日のスケジュール、教えてくれませんか?」

 

 仕事の話もそこそこに、葉月と別れた霜月は、ノートにまとめた工程表とにらめっこしながら布団に転がっていた。

「えーと……朝起きて、走って……」

 葉月から詳しいスケジュールを聞いた訳ではない。ただ大まかには教えてくれた。

 まずは朝起きてジョギングするらしい。だがどれくらい走るのだろう?具体的な時間は聞き損なったが、体を動かすのだからあまり短くても駄目だろう。霜月はノートの一ページに『朝六時起床、その後ジョギング一時間』と書き込んだ。

「それから……朝ごはんか」

 霜月は特に好き嫌いはない。肉、魚、野菜に果物と満遍なく食べているつもりだが、葉月曰く健康にも気を配らねばならないらしい。一行変えて『朝食、健康的に!』と書き込んだ。

「それから……一旦午前中はこれで終わり。体を休めつつお仕事、と」

 休憩時間も無駄にしてはいけない。明日から今までにない予定が入るのだから、その合間を縫って仕事をせねばならない。霜月は『午前中、お仕事』と書き込んだ。

「えっとそれからお昼ごはん食べて……午後はその日次第って言ってたけど、よく人間界に散策行くとか言ってたっけ……」

 午前中で体を休めた後は、雨が降ったり、余程気候が厳しくない限りは軽く紫外線を浴びた方が良いそうだ。これは毎日する必要はないと聞いたが、とりあえず予定に組み込んで良いだろう。『昼食後、人間界散策』と書き込んだ。

「それで……夕食の後はお風呂に入って、しっかり体を温めてから寝る、と。それならしっかり入っておいた方が良いよね」

 霜月は『夕食後、しっかり入浴。就寝』と書き込んだ。

「よーし、明日から頑張るぞー!」

 これからまだまだ暑くなる。夏に負けない体力をつけ、もしかすると少しはスタイルも……と考えながら、霜月は布団に潜り込んだ。

 

 葉月は妙に霜月のことが気になっていた。聞かれるがままにざっくりと一日の行動を教えたが、詳しい時間までは伝えていない。話をする内に以外と真面目な性格なのだろうとは推察できた。だからこそ、言われた通りそのままやってしまうのではないかという不安があったのだ。

 ある程度運動に慣れた葉月だからこそ自分の限界を知り、量をコントロールできるのだ。見たところ今までにあまり運動に縁の無さそうな、それも小柄な少女が急にやりだしたりすれば……。

(まあ……仕事の引き継ぎも全部やったし、私には関係ないわね)

 何かあれば相談しにくるだろう。

 葉月は胸の不安を振り払って就寝の準備を始めた。

 

 午前六時。

 夜が白み始めようかという時間に、霜月の部屋にある目覚まし時計が鳴った。

 チン、と軽い音を鳴らして止める。早起きは別に苦ではない霜月だ。うーん、と大きく伸びをして寝ぼけ眼を擦る。

 窓から見える外の景色はまだ薄暗い、どこか神秘的にも見えた。

「よーし、頑張ろう!」

 

 顔を洗って目を覚まし、上下黒いジャージに着替えた霜月は、家の前で準備運動を行っていた。全身をほぐして、いざ。

「すぅー……はっ」

 トン、トン、と体を弾ませながら足を前へ前へ。

 これまで走ったことがないという訳ではないので、急に走れば横腹が痛くなったりすることは知っている。だが体を鍛える為に運動するというのは初めてなので、加減がわからない。

 とりあえず速ければ良いだろうとペースを上げた。

「はっ、はっ、はぁっ……!」

 息が苦しい。当然だ。走っているのだから。

「はぁっ!っはぁ!」

 呼吸のタイミングが乱れる。胸が苦しい。息を吸っても吸っても脳に酸素が回ってこない。

「頑張らなきゃ……はっ……いけないから……!」

 それでもペースを緩めることはない。

 霜月という少女は真面目で、一度やると決めたら最後までやり遂げる。

 良い意味でも、悪い意味でも。

 

 きっかり一時間。太陽が明るく大地を照らし始めた頃に、霜月は家の前にたどり着いていた。

 ポタポタと顔から大粒の汗が伝う。乱れた呼吸に規則性はなく、ただただ酸素を求めて空気を貪っている。

「はぁっ……ひゅ……シャワー……浴びなきゃ……」

 ふらふらとおぼつかない足取りで浴室へ向かう。全身のベタつく嫌な汗を、温かいシャワーで洗い流す。

 それで少しは楽になるかと思ったが、全身を包むだるさはまったく消えなかった。

 一歩が重い。何か朝食を摂らねばとは思ったが、あれだけ動いたのに一切の食欲が湧いてこなかった。

(何か……食べなきゃ……)

 葉月は朝昼晩の食事に気を配ると言っていた。今の食欲不振状態でも食べられそうなものを探して冷蔵庫を漁ると、ちょうど袋詰めのサラダと、パックに入ったミニトマトがあった。

 これなら食べられるだろうと小皿に盛って食卓へ。椅子に座ると、どっと疲れが押し寄せてくる。指一本動かしたくなかったが、体に鞭打ってレタスを口に運ぶ。

「うぅ!?」

 口に入れた途端、猛烈な吐き気に襲われる。口元を押さえながら無理矢理飲み込んだ。

 おかしい、今までこんなことはなかったのに。ならばミニトマトはどうだろう。野菜類の中でもこの瑞々しいミニトマトは好物だ。噛んだ途端に弾けるさっぱりとした酸味がたまらない。

 震える指でミニトマトを掴み、前歯にあてがう。だが噛めない。体が胃に何かを入れることを拒否していた。

「うっ……う……うくっ」

 上下の前歯を閉じる。プチッという音と共に、口の中に広がる酸味が……

「うっ……!お、おげえぇ……!」

 小さなミニトマトのその半分。それが口の中に入った瞬間に、体が霜月の意思を無視して吐き出そうとする。

 霜月は口を押さえて何とか吐き気を堪えた。だがかじったミニトマトはまだ口の中にある。誰も見ていないとはいえ、一度口に入れたものを外に出すのは抵抗があった。

 たっぷり一分以上かけてドロドロになるまで咀嚼し、ようやく喉を通すことができた。

(もう無理……食べきれない……)

 満腹感とはまた違う、食べ物を見ることすら嫌なこの気分。

 サラダにはラップをかけて冷蔵庫に保管し、一旦食事から離れて仕事の方を進めようと書類をテーブルに広げる。六月のカレンダーには祝日を示す赤い日付がない。日曜日だけが縦に綺麗に赤字で並んでいた。

 真っ白な一日の天気表に、手書きで天気を記入していく。六月だからといって急に雨にするのも……と考えていると、ぼんやりと視界の端が白く染まり始める。

(あれ……私……どうしちゃっ……)

 

 その頃、葉月は朝食を摂り終えた後、ようやく太陽が本気を出し始める時間を有意義過ごしていた。

 手にはブックカバーのついた推理小説。時折冷えたミネラルウォーターを口に運びながら、パラパラとページをめくっていく。

(ふむふむ……この村は霜月になると……って)

 パタン、と本を閉じる。思いがけない所でまた思い出させられてしまった。

 担当する月が変わるというイレギュラーは今年限り。十一月担当の月娘のことを気にかけてもしょうがないとはわかっているのだが……。

(ん……もうこんな時間……昼からは気分転換に人間界にでも行こうかしら)

 昼食の準備を始めながら、葉月は散策ルートを頭の中で構築した。

 

「……はっ」

 意識が飛んでいた。

 既に太陽は天高く昇っており、嫌でも時間の経過を思い知らされた。

「あれ……私何を……ってもうこんな時間……!?」

 何の気なしに時計を見ると、信じられないほど進んだ針が無情にも十一時を少し回った所だった。

 前後の記憶が曖昧だ。ずっと気を失うようにして寝ていたような気もするし、何度も寝ては起きてを繰り返していたような気もする。体の疲れは一切抜けておらず、ただ無為に時間が過ぎただけだった。

 もう仕事などやっている時間はない。鉛のように重い体を引きずって、霜月は昼食の献立を考える。

(お腹空いてない……あ、これなら食べられる、かな……)

 スチロール容器にラップで包まれた薄切りの豚肉。今肉など腹に入れると間違いなく戻してしまうだろうが、調理法方を工夫すればいけるかもしれない。

 鍋を出して中には水を。それを沸騰させて、薄切り豚肉をさっと茹でてから皿に盛る。霜月の好物のひとつ、豚肉の冷しゃぶだ。

 朝食べきれなかったサラダと一緒に、ポン酢を添えてテーブルにつく。茹でたことで脂が落ち、軽くなった豚肉を野菜と一緒にポン酢で食べると、さっぱりとした味わいとシャキシャキした食感が相まっていくらでも箸が進むのだ。

 だが。

(こんなに……多かったっけ……)

 緑色のサラダの上に盛られた豚肉。普段ならこれくらいペロリと平らげる量なのに、今はとてつもない大盛りに見えた。

 大丈夫、食べきれる。

 そう自分に言い聞かせ、取り皿のポン酢に豚肉をくぐらせる。だが口に運ぼうとすると、それ以上箸が動かない。何度も取り皿と口の間を箸が行き来し、こじ開けた口の隙間に豚肉をねじ込む。

「……うぉぇ……!」

 舌先に肉が触れた瞬間、ほとんど条件反射のように体がそれを吐き出した。腹と胸の間を直接触られたような猛烈な不快感と共に、せり上がってきたものを何とか押さえ込む。

(無理……今何も食べきれない……)

 食器を直そうと立ち上がると、ふらりと立ち眩みがした。咄嗟に食器をテーブルに置いたため割れることはなかったが、バタンと床に這いつくばってしまう。

(動かなきゃ……次の予定は……頑張るって決めたから……)

 力の入らぬ全身に渇を入れ、霜月は再び動き出す。

 

 葉月は人間界のスーパーマーケットにやってきていた。ここらでも一番の品揃えで、その分客足も多い。金髪碧眼の彼女はその中でも目立っていたが、視線を集めるのはいつものことと、気にせず買い物を進める。

「えーっと……今日はこれにしようかしら」

 手に取ったのは濃厚さを売り文句にするフルーツジュースだった。グレープにアップル、オレンジと色々種類があって迷ったが、結局グレープジュースを選んだ。

(後は……ん?)

 視界の端、意識の外に限りなく近い場所、スーパーマーケットの窓から見える外の景色。そこに一瞬だけ、見覚えのある黒い服を着た白い少女が……。

「……まさかね」

 考えすぎだ。と葉月は脳裏の残滓を振り払う。

 だがその少女が今にも倒れそうな表情でふらついていることは、いつまでも忘れられなかった。

 

 霜月は家に帰ってくるなりソファに倒れこんだ。

 予定通り人間界の散策を行ったが、余計に疲れるだけで何の収穫もなかった。ただでさえ一番暑い昼時に歩き回ったせいで、体力は限界をとっくの昔に超えていた。

 軽い頭痛もしてくる。だが霜月は、それらをまだ自分の体が慣れていないからだとして無理矢理納得する。

「次は……ああ……まだ仕事も……」

 とにかく全身にまとわりつく嫌な汗をどうにかしたかった。ただ息を吸って吐くだけで汗が噴き出すような感覚。

 霜月はほとんど自分のものではないような体を動かして浴室へ向かう。疲れを取るにはお湯も張った方が良いだろうと湯船に入った。

「はふぅ……」

 全身を揉みほぐされるような感覚に、霜月は脱力して首まで浸かる。

 次の瞬間、喉へ流れ込んでくるお湯の感覚で、ぼやけかけた意識が強制的に覚醒させられた。

「げほっ!?ぐほっ!がはっ……」

 気管に入ったらしく、しばらく咳き込み続ける霜月。どうやら力を抜いた途端に軽く眠ってしまったらしい。

 このまま浸かっているとのぼせてしまいそうなので、体を洗って風呂から上がる。最近は陽も長くなって時間を勘違いしがちだが、そろそろ夕食といってもおかしくない頃合いである。

(ご飯……ご飯かぁ……)

 倦怠感が押し寄せ食欲を削り取る。ほぼ丸一日何も食べていないのだから、普通なら空腹でたまらないはずなのに。

(……寝よう。明日も早いから)

 火照った体を冷蔵庫の水で冷ましてから、霜月は早々に寝床を準備した。

 

 葉月は、いつも通り夜空が白み始めた頃にジャージを着てジョギングの準備運動を始めていた。

 脳裏に過るのはどうしても霜月のことばかり。自分が余計なことを教えたばかりに無理をしてしまっているのではないか……そんな考えが頭から離れないのだ。

 こんな雑念だらけでは効率も悪くなる。ずっとこのことを気にしていては日常生活にも支障が出るかもしれない。

「……ああもう」

 ストレスは美の大敵。

 決して霜月のことが心配だからではないと心で連呼して、いつもとは違うジョギングコースを走る。

 

 結局いくら寝ても疲れはほとんど取れなかった。むしろ日中に中途半端に寝てしまったせいで眠りが浅く、夜中に何度も目が覚めた。

「走らなきゃ……」

 ジャージに着替えた霜月は、ふらつきながらも玄関前に立つ。

 足首に鉄球つきの足枷でも繋がれてもいるのではと思うほど足が重い。一歩、また一歩。遅々として進まぬペースに自分で自分に苛立つ。

(もっと……もっと速く……)

 大きく踏み出した途端に足が絡まった。まともにバランスを取ることもできず、そのままバタリと倒れこむ。ひんやりとした感触が霜月を包み込んだ。

「霜月!」

 誰かが自分の名前を呼んだ……そんな気がした。

 

 ふと目を覚ます。まず目に映ったのは見覚えのある自宅の天井だった。

「あ……れ……」

「気がついた?勝手に上がらせてもらったけど、緊急事態だったから許してよね」

 これもまた聞き覚えのある声だった。声の方を向けば、そこにはジャージ姿の葉月がいた。

「葉月……さん……?」

 ようやくここで、自分がソファに寝かされているのだと気付く。体を起こそうとしたが、葉月に手で制された。

「あんまり動かない方が良いわよ。どうせそんなになるまで動いたならほとんど何も食べてないんでしょう?」

 図星を突かれて霜月は黙りこむ。自分で頑張って、いずれ葉月に努力の成果を認めてもらおうかと思ってもいたが、すぐに迷惑をかける結果となってしまった。

「キッチン借りるわよ」

 霜月の了承も待たずに、葉月は何やらごそごそとキッチンで調理を始める。

 長かったかもしれないし、短かったかもしれない時間はぼんやりしているとあっという間だった。やがて葉月が盆に皿を乗せて霜月の元へやってくる。

「はいお粥。いきなり固形物なんか食べたら戻すだろうから」

「あ、ありがとうございます……」

 礼を言って盆を受けとる。とろりとしたお粥に種を抜いた梅干しが置かれている。スプーンで一口掬っておそるおそる口に入れると、しっかりとした塩味が口いっぱいに広がり、一気に唾液が溢れだす。

 食べたら吐いてしまうかも、ということは考えなかった。ほぼ一日ぶりの食事を品もなくがっつく霜月を見ながら、葉月は手に持ったノートをパタパタと振る。

「テーブルに起きっぱなしだったから、失礼ついでに読ませてもらったけど」

「んぐ……」

「まずジョギング一時間って何?朝からマラソンする気なの?そんなに走ってすぐにご飯が喉を通る訳がないわ。それですぐに仕事?ろくに休憩もせず根詰めても逆効果。どうせこの調子で昼も夜も食べきれてないんでしょうけど。私言ったわよね?運動も大事だけど食事にも気を配れって」

 次々とダメ出しを食らい、霜月はしゅんと肩を落とす。気の毒と思ったのか、少し口調を柔らかくした葉月が言う。

「……とにかく、自分の限界もわからないならやめなさい。体を壊すだけよ」

 葉月はそう言い残すと、霜月に背中を向けて玄関へと向かう。

「ま、待ってください!」

 反射的に呼び止めていた。面倒そうに葉月が振り返る。

「何?」

「それじゃあ……一緒なんです。今までと……また夏場にバテて何もできない自分は嫌なんです……!だから……だから……」

 だから、の次の言葉が見つからない。早くしないと葉月が呆れて行ってしまう。何か、何か……。

「似てるわね」

 口をパクパクさせる霜月に向き直り、葉月の方から話しかけてきた。

「似てる、ですか」

「目指すゴールが違うみたいだけど、その姿勢がね。前の私に似てるのよ。私も以前はオーバーワークで体を壊しそうになった時もあったし」

「そう……ですか……」

「でも無理はよくないって気付いたわ。ううん、気付かされたっていうのが正しいのかもね」

「気付かされた……?」

「教えてもらって私も変われたわ。貴女も変わりたいっていうなら付き合ってあげる」

「本当ですか!」

 ただし、と葉月は前置きし、

「ちゃんと私の指示に従うこと。良い?」

「はい!」

「それじゃ、また明日六時にここにくるから準備して待ってて。今日は体を休めなさい」

 言い終えると、葉月は今度こそ出ていった。恐らくジョギングのコースを変えてまで様子を見にきてくれたのだろう。

 葉月の気遣いに感謝しつつ、明日に向けて静かに気合いを入れる霜月だった。

 

 翌日早朝。

 ジャージ姿で玄関前に立つ霜月の元に、朝靄の中から同じくジャージ姿の葉月がやってくる。

「おはよう。よく眠れた?」

「おはようございます!昨日はしっかり眠れました!」

 嘘は言っていない。一日ぶりの食事を終えた後、体を休めつつも順調に仕事をこなし、冷蔵庫に残っていた冷しゃぶとサラダを完食できるほどにまで回復していた。

「それじゃ、行きましょうか」

「はい、お願いします!」

 霜月は気合いを入れて走り出した葉月の後を追う。

 トントントンとリズムよく走るが、一向にペースを上げようとしない。ともすれば霜月が葉月を追い越してしまいそうになるほどだ。

「あのぅ、葉月さん」

「どうしたの?」

「その……こんなペースで良いんですか?もっと速い方が……」

「……少し勘違いしてるみたいだから言っておくけど、ジョギングはね、速さを求めるんじゃないの」

 軽く額に汗を浮かべながら、だが会話する余力を残す絶妙なペースを維持して葉月は続ける。

「闇雲に走っても疲れるだけで何の意味もないわ。それに、楽しくないでしょう?」

「はぁ……」

 葉月はもっと機械的というか、事務的にこなしているだけという印象だった。そんな彼女から『楽しい』という単語が出てきたことに少し驚く。

「前は日課だからって続けてたけどね。最近はそうでもないの」

「あ、飽きちゃったんですか?」

「飽きた……?くす、それは違うわね」

 葉月は小さく笑って否定する。初めて見る笑顔に、霜月の心が弾んだ。

「ずっと遠くを見据えて走るより、目の前を見た方が楽しいって気付いただけ。綺麗になりたい、美しくなりたいって気持ちは今も揺らいでないし」

 霜月から見れば葉月は十分に綺麗だし美しい。だが本人は現状に満足していないらしい。

 憧れるだけなら誰でもできる。だがそれに向けて努力できるのはどれほどいるだろうか。霜月は素直に尊敬の念を抱く。

「はい、この辺で上がり」

「はぇっ?まだ十五分くらいしか走ってませんけど……」

「言ったでしょ、一時間も走るなんてマラソンだって。バテない程度に汗をかくのが目的なんだから」

 言われてみれば、全身に汗をびっしょりとかいている。だが以前のような不快感ではなく、爽やかな疲れが霜月の身を包んでいた。

「それじゃ、汗流して休憩ね」

「はい!」

 ふらつきながらシャワーを浴びた一昨日とは違い、しっかりとした足取りで浴室へ。

 葉月の肉感的でありながら、引き締まった肢体に赤面しながら一緒にシャワーを浴び、用意しておいた薄手の普段着に着替えて浴室を出る。

「じゃあ私、朝食の準備を……」

「待ちなさい」

 葉月に呼び止められ、霜月は顔に?マークを浮かべて振り返る。

「走った直後ってほとんど食べきれないでしょう?少し休憩しなさい」

 促されるままに揃ってソファに身を預ける。心地よい疲れがどっと押し寄せ、思わず大きくため息をついた。

「貴女……本、読むの?」

 横を見れば、葉月が本棚を指差していた。

「はい。といっても結構偏ってますけど……」

「読んでもいい?」

「どうぞー」

 葉月が立ち上がって一冊取り出す。ブックカバーがかけてあって内容はわからないが、小説ではないようだ。

 ペラペラと適当にページをめくる。どうやら写真集のようなものらしく、どこかの景色が解説付きで紹介されてある。

「うっ……」

 その内容を認識した途端、葉月が顔を青ざめて固まった。ただならぬ様子に、霜月も慌てて駆け寄る。

「葉月さん!?私ホラー系とかは置いてなかったはずですけど……」

 勝手に葉月をホラー系が苦手ということにして、開かれているページを覗きこむ。

 だがその本は霜月お気に入りの一冊、『日本雪景色百選』だった。日本各地の雪景色がプロのカメラマンによって撮影され、幻想的な雰囲気を醸し出す。いつか行ってみたいものだと時折開くのだが……。

「……体冷えたわ」

「ええっ!?これ写真判定ですよ!それに冬って最高じゃないですか!雪は綺麗であのパリッとした寒さが」

「冗談じゃないわよ!冬が最高!?あんな外に一歩出れば凍え死ぬような季節のどこがいいのよ!」

 葉月との距離は縮まったと思っていたが、どうも根本的に譲れない部分があるらしい。

 

 適度な休憩を挟んで朝食の準備である。霜月は冷蔵庫からサラダを出して並べようとしていた。

「まさかそれだけのつもりじゃないでしょうね」

「えっ……あんまり食べない方が……」

「何事にも限度ってものがあるの。キッチン借りるから」

 葉月は冷蔵庫をごそごそ漁ると、中から鶏のモモ肉だった。

 フライパンに火をかけ、油でさっと焼いてからレモン汁を振り掛ける。香ばしい臭いに、霜月の口に唾液が溢れた。

 あらかじめ炊いておいた白米と、鶏肉のレモンソテー、サラダという朝食内容だ。

「あの……お肉なんて食べたら」

「まんま昔の私ね」

 葉月はそれ以上何も言わず、いただきますと手を合わせてから食事を開始した。

 かくいう霜月もしっかりとお腹は空いている。肉は駄目なのではという気持ちと空腹せめぎあい、結局空腹に負けてレモンソテーを口に運ぶ。

「んん……!」

 美味しい。

 噛めば噛むほど溢れる旨味とレモン汁が絶妙に絡み合い、いくらでも箸が進む。サラダも美味しい。懐かしいシャキシャキした食感が子気味よく響く。ミニトマトも瑞々しくて酸味の中にある甘味までしっかり味わった。

 そうこうしている内に、皿が空っぽになっていた。こんなに食べて大丈夫なのだろうかと今更悩んでいると、一足先に食べ終えていた葉月が口元を緩めながら問いかける。

「美味しかった?」

「は、はいとっても……お腹空いてて」

「それでいいのよ。朝はしっかり食べなさい。約束よ」

「わかりました!」

 姉と食事をするのも楽しいが、葉月と食事するのも楽しい、そう思い始めていた。

 

 午前中は葉月に手伝ってもらいながら仕事をこなし、アドバイスをもらいながら昼食も終えた。

 これからどうしようかと考えているところへ、ぽんと霜月の頭に手が乗せられた。

「よく頑張ったわね」

「はわ……ありがとうございます……」

「この後時間ある?連れていきたい場所があるの」

「……?わかりました」

 

 連れてこられたのは、花が一面に咲き乱れる花園……の中心にある甘味処だった。

 二人で席につくなり、葉月は店員を呼び止めて注文する。

「すいません、チョコレートあんみつ二つ」

「はぁ……二つも食べるんですね」

「何言ってるの。片方は貴女の分よ」

「はぇ!?」

「お金は心配しないで。私の奢りだから。といっても大した値段でもないけどね」

「いや……そうじゃなくて……」

 聞き間違えでなければ、葉月は『チョコレートあんみつ』と言った。あんみつというだけでもカロリーが高そうなのに、それにチョコレートもコラボするとなれば何日分の努力が吹き飛ぶのだろうか。

 霜月の心配をよそに、チョコレートあんみつが二つ、二人の前に差し出された。フルーツはともかく、少なくとも見るからに健康に悪そうな食材のオンパレードだったが、葉月は気にせず口に入れて口元を綻ばせた。

「……」

 意外とこう見えてヘルシーなのかも?と淡い期待をよせながら、霜月もチョコレートがたっぷりかかったアイスクリームを口に運ぶ。

 甘かった。とんでもなく、甘く、とろけて、健康に悪そうで、そして美味しい。

 そこから霜月は無言でスプーンを動かし続けた。フルーツもチョコレートも白玉もアイスクリームも、甘味に飢えていた霜月の体は次から次へと求め続けてた止まらない。あっという間に皿を空にすると、自分がしでかしたことにわなわなと震えだす。

「美味しかったでしょ?」

 まだ皿の半分ほどを切り崩しただけの葉月が聞く。

「わ、わた、私……こんなの食べちゃって……」

「前にも言ったわよね?根詰めても逆効果だって。約束して。少なくとも三日に一回はこうやって息抜きの日を作ること。それから一週間に一日は何もしない日を作ること」

「でも、継続しないと……」

「ふふっ……」

 堪えきれないといった風に葉月が笑う。同時に何かを懐かしむような視線を添えて。

「確かに言ったわね。でも私は息抜きをするようにしてからとっても調子がいいわよ?」

「そ、そうなんですか?」

「ええ、続けることも大事。でも、休むのも大事。わかった?」

「は、はい……」

「よく言えました」

 にゅっと葉月の手が伸びて霜月の頭を撫でる。くすぐったいような、恥ずかしいような感覚。それでも不思議と、嫌だとは思わなかった。

「どうして葉月さんは、私にこんな優しくしてくれるんですか?」

「……似てるから、かな」

「似てる?」

「昔の私にそっくり。ただやればいい、続ければいい。甘いものは駄目、肉はほとんど食べちゃ駄目、ってね。結果的に失敗だった訳だけど」

 皿に残った最後の白玉を掬いながら、葉月は続ける。

「そして貴女が同じようなことをし始めたから、ね。私が余計なことを教えたからかもしれないけど、それで無理しすぎて壊れちゃったら……って何言わせるのよ」

 恥ずかしそうに葉月がぷいっと横を向く。その横顔に陽射しが当たってキラキラと輝いた。

 嬉しかった。自分のことを気にかけてくれる存在が姉以外にもいることが。

「……ありがとう、ございます」

「れ、礼を言われることじゃないわ。これあげる」

 葉月がスプーンに乗せた白玉を霜月の前に差し出す。顔はそっぽを向いたままだが、時折ちらちらと目線がこちらを見ていた。

 霜月には姉がいる。そそっかしく、慌てん坊だが、常に自分を思ってくれている。

 そして今日、もう一人の姉ができた。

「……いただきます」

幸せな甘さが、口いっぱいに広がった。




まずはここまで読んでくださった皆様に感謝を。
はい、頑張る霜月のお話です。頑張りすぎて倒れました。助けにきました葉月ちゃん。どこかで見覚えがありますね。はい、長月と神無月。
結局周りに興味なさげでも、やっぱり気になってしまう葉月と、憧憬を情熱に変えて努力できる霜月。今回は今までと少し趣向が違いましたが……いかがでしたでしょうか。
今回はこの辺りでお別れです。機会があればまた次回お会いしましょう。
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