外はすっかり日も落ちきって暗くなり、遠くで吠える犬の声が聞こえるほどに静かだった。仄かな月の光が優しく街を照らし、人工的な街灯の光が強く街を照らしている。そしてどちらの光も届かない場所は、全てを呑み込むほどに深い闇に覆われている。
しかし私立
数学の教師である彼はその日、来週行うテストのために夜遅くまで学校に残っていた。ときどき手を止めて何かを考え込んでは再び画面へと視線を戻してカタカタとキーボードを響かせる、という動作を何回も繰り返してている。
やがてそれが数十回を数えた頃、彼はふとその手を止めて背もたれに全体重を掛けるように仰け反った。パキパキと背中から小気味良い音が聞こえ、ギシリと椅子が静かに鳴った。
彼はぐったりと疲れ果てた様子で大きく溜息を吐くと、壁に掛けられている時計に目を遣った。時計の短針は、頂点の12をとっくに過ぎていた。
「もうこんな時間か……」
彼はそう呟くと、慌てた様子で帰り支度を始めた。書類と一緒にノートパソコンを鞄にしまうと、それを肩に掛けて入口へと歩いていく。そして擦れ違い様に照明のスイッチを切ると、パチンという音と共に職員室が途端に闇に包まれた。
そして彼は、そのまま月明かりに照らされる廊下を歩いていった。
こつ、こつ、こつ、こつ――
夜の学校は昼と違って人がほとんどおらず、耳が痛くなるほどに静まり返っている。なので彼のたてる足音が、何物にも邪魔されることなく学校中に響き渡っていた。しっかりと戸締まりがされた校内は風通しが悪く、彼は空気と一緒に気分が沈んでいくような心地になった。
「さっさと帰ろ……」
暗闇を恐れる人間の本能だろうか、彼の足取りが自然と速くなった。
とはいっても、こういう場所では滅多に事件など起こらない。彼は今までに何度も夜遅くまで残業したことがあったが、今まで一度たりとも変わったことは無かった。
今日までは。
――がたんっ!
「ひっ――!」
突然頭上で響き渡った大きな音に、彼は思わず声をあげて足を止めた。
彼は顔を強張らせながら、キョロキョロと辺りを見渡した。こんな時間なので、当然ながら人の姿があるはずもない。
しかし、音がするということは、
「誰かいるのか?」
返事が無いことを願いながら、彼は天井に向かってそう尋ねた。そして彼の期待通り、返事は無かった。
しかし教師という立場上、そのまま黙って帰るわけにもいかない。万が一生徒が隠れていたなんてことがあれば、後日親を呼び出して厳重注意をしなければならない。
「変なのとかいるなよ……」
彼は誰に言い聞かせるでもなくそう言うと、職員用玄関へと向かっていた体の向きを変えて階段へと向かっていった。そして月明かりが上手く届かず廊下よりも薄暗くなっている階段を、1段1段しっかりと踏みしめるように昇っていく。
3階に到達したところで、彼は柱から恐る恐る廊下を覗いた。
「…………」
真っ暗なため、当然何も見えなかった。彼は視線を廊下から離さずに、柱の傍のスイッチを手探りで押して照明を点けた。無機質な廊下が無機質な蛍光灯に照らされ、その姿を表した。
そこには、誰もいなかった。
「…………」
彼は前を睨みつけながら、無意識に前屈みになりながら、ゆっくりと廊下を歩いていった。まだ5月だというのに、彼の額にはじんわりと汗が滲んでいる。
「ん?」
しばらく歩くと、とある部屋から光が漏れているのに気づいた。しかしその光は蛍光灯のような明るいそれではなく、蝋燭のように小さな、しかも青白いものだった。
彼がその部屋のプレートを見る。
そこには、“理科実験室”と書かれていた。
「ここって……」
彼はそれを見て、顔を青ざめた。知らず知らずの内に奥歯をカタカタと鳴らし、膝をブルブルと震わせる。今すぐこの場から逃げ出したい衝動に駆られるが、勇気を振り絞ってそのドアにゆっくりと手を掛けた。
そして、勢いよくドアを開けた。
前方の壁には大きな黒板があり、その前には教卓を兼ねた横長のテーブルがある。さらにそれと同じものが生徒用に12脚並び、奥の壁には蛇口と洗面台、そして実験器具が収められたガラス戸の棚などが設置されている。
他の学校とほとんど代わり映えのしない、何の変哲も無いごく普通の実験室。
その中に、その少女はいた。
少女は、首を吊っていた。
少女は天井の金具にロープを引っかけて、入口に背を向ける形で首を吊っていた。ロープを支点に首が不自然に曲がり、全体重をロープに預けるようにその体には一切の力が無く、重力に従って手足をだらりと垂らしている。
そしてその少女は、何の照明も無いのに、なぜかぼんやりと青白く光っていた。
「あ……あ……」
彼は言葉にならない声を発し、視線を少女に固定したまま動かさなかった。いや、動かせなかった。そして突然誰かに突き飛ばされたかのように早足で後ずさると、腰を抜かしてそのまま床に座り込んでしまった。
確かに、真夜中の学校で首吊り死体を見つけたのだから、その反応も当然だろう。
しかし、ただそれだけの理由で、彼はここまで怯えているわけではない。
なぜなら、ここにこの首吊り死体があるのは、有り得ないからである。
その少女は、5年前に同じ場所で首を吊ってすでに死んでいるのだから。
「な、なんで……」
彼が搾り出すようにそう呟いたそのとき、突然少女の体がぐるりと回転し、彼へと向き直った。だらりと垂れ下がった長い茶髪の隙間から覗く大きな目が、彼の顔をまっすぐ捉えた。
そして、少女はニタァッと口元を歪ませると、
「苦しいよ――助けて――」
夜の学校に、男の絶叫が響き渡った。
* * *
私立北戸中学校は、生徒数は500を優に超える、市内一の大きさを誇る中学校である。私立でありながら制服が存在しないという自由な校風、また有名高校への進学率も高い進学校ということから、市内ではちょっとした有名校となっている。
現在の時刻は午前8時10分。そろそろホームルームの始まる時間ということもあって、生徒達が続々と教室に集まってきている。
ここ、2年4組の教室でもそれは同様で、彼らはそれぞれ仲の良い友人と集まって気ままに談笑していた。昨日のテレビについて。来週のテストについて。今日の放課後に何をして遊ぶかについて。それぞれ話題に多少の違いはあれど、その内容はどれも取るに足らないような、数分後には忘れているようなものばかりだった。
しかし、教室の隅にいる2人の少女が話しているそれは、他のグループとは少し違っていた。
「転校生?」
「そ、女の子。このクラスに来るの」
「でも今、5月だよ? 転校するにしては、ちょっと中途半端な時期だね」
「ね、珍しいでしょ? 何だか気になってこない?」
得意げな表情で目の前の少女に話すのは、
そしてもう一人の少女は、
「それにしても、そんな情報、どっから手に入れたの?」
「今朝学校に来たときに、見慣れない子がいたからついてってみたの。そしたらその子が職員室に入ってって、先生達と何か話してたみたいだから――」
「それを盗み聞きした、ってこと?」
「うん」
「……相変わらず、嫌な趣味してんね」
春は呆れたように溜息をつくと、清音は「ははは」と笑って頭をポリポリと掻いた。その表情に、反省の色は欠片も無い。
「でもさ、興味を持っちゃうのも仕方ないと思うんだよ。だってその子さ――」
何かを喋り始めた清音の言葉を遮るように教室のドアが開き、担任である森田(大柄で筋肉質な見た目から渾名は“ゴリ田”)が入ってきた。清音や春も含めた教室中の生徒が、慌てた様子で一斉に自分の席に向かう。
全員が席に着いたことを確認してから、森田は口を開いた。
「えー、今日からこのクラスに、仲間が1人増えることになった。1日でも早くこのクラスに馴染めるように、皆協力してやってくれ」
それを聞いた途端、教室中がにわかに騒がしくなった。「どんな奴だろう」「男かな女かな」「不良だったらどうしよう」など様々な言葉が飛び交う。
森田はそれを一旦鎮めると、「入ってきていいぞ」とドアの向こうに呼び掛けた。
1人の少女が、教室に足を踏み入れた。
「綺麗……」
その少女を一目見た春が、無意識にそう呟いた。教室のあちこちで「おおっ」と小さな歓声があがる。
教室に入ってきたのは、染み1つ無い白い肌に艶やかな長い黒髪の映える、まるで高級な日本人形のような少女だった。パッチリとした目を俯かせて澄ましているその様子は、どこかの絵画かと思わせるほどに様になっている。以前通っていた学校の制服と思われる黒のブレザーを着ているが、さぞ着物が似合うだろうと、見たこともないのに確信できてしまう。
「それじゃ、みんなに自己紹介して」
森田に促されると、少女は顔を少し上げて前をしっかりと見据えた。生徒達は無意識の内に、少女の声を聞き漏らさないようにと息を呑んで注目する。
「京都から来ました、安倍あやめといいます。皆さん――」
その外見と違わない清流のように涼やかな声で挨拶を始めた少女だったが、そこまで喋ったところで突然ピタリとそれを止めてしまった。生徒だけでなく、隣でそれを聞いていた森田さえも不思議そうに首をかしげた。
あやめと名乗ったその少女は、クラスメイト達の目の前で、自己紹介の真っ最中にも拘わらず、ボーッとしたように窓の外を見つめていた。
「……安倍?」
「あ、すみません。――皆さん、宜しくお願いします」
森田の声にハッと我に返ったあやめは、挨拶が途切れたことなど初めから無かったように深々とお辞儀をした。見る者が惚れ惚れとするような、完璧な所作だった。
最初の内は生徒達も戸惑っていたが、1人が拍手をすると瞬く間に教室中が拍手で包まれた。それが止み始めた頃になって、あやめはようやく顔を上げた。
その後、彼女は生徒達全員の視線を浴びながら、森田が指差した席――最も廊下に近い列の一番後ろに着いた。そこはちょうど、清音の隣だった。
「よーし、それじゃホームルームを始めるぞ」
あやめが座ったことを確認した森田の声に、ほとんどの生徒が一斉に前を向いた。
そしてただ1人清音だけが、すぐ横にいるあやめへと顔を向けた。
「私、松山清音っていうの。宜しくね。安倍さんのこと、“あやめ”って呼んで良いかな?」
「……はい、構いませんよ。宜しくお願いしますね、清音さん」
あやめがニコリと優雅に微笑むと、清音は満足げに笑みを浮かべて頷いた。
そして、ずいっ、と彼女に顔を近づけてきた。
「ところでさ、さっきのは何だったの?」
「さっきの?」
「挨拶の途中で急に黙っちゃったじゃん。しかも、窓の方をボーッと眺めてたし。緊張で台詞がとんじゃったようには見えなかったけど」
「あぁ、あれですか? ……別に、何でもありませんよ」
「ふーん……、まぁ、いいや。何か訊きたいことがあったら何でも言ってよ。この学校のことなら、大抵は知ってるから」
清音は自信たっぷりにそう言って、自分の胸をドンと叩いた。少し力加減を間違えたのか、小さくケホッと咳き込んだ。
その言葉に、あやめは数秒考える素振りを見せて口を開いた。
「……では、一つ尋ねて宜しいですか?」
「いいよ」
「以前この学校で、何か事件でもありましたか?」
「……何か?」
「そう、何か」
あやめは真剣な表情で、清音の目をまっすぐ見つめている。その迫力に圧されたのか、清音はあやめから逃げるように視線を逸らした。
「うーん、別に何も無かったと思うけど」
「最近ではないかもしれません。例えば、数年前とか」
間髪入れずに、あやめは再び尋ねた。
清音は先程にも増して、眉間に深い皺を刻んで考え込んだ。そしてしばらくしてから、何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば、5年くらい前だったかな? この学校で女の子が自殺したっていうのを聞いたことがあるよ」
「自殺、ですか? 原因とか分かりますか?」
「うーん、そう言われてもなぁ……。いじめじゃないか、っていう噂もあったみたいだけど、結局は分からなかったらしいよ。遺書も無かったみたいだし」
「そうですか。ありがとうございます」
あやめは短く礼を言うと、もはや清音には興味が無いと言わんばかりに、ふいと前を向いてしまった。そしてその後、彼女がこちらを向くことは無かった。
あやめの横顔を眺めながら、清音は不思議そうに首をかしげた。