「……城田、朱菜」
小林の呟きに、朱菜と呼ばれたその少女はフッと視線を彼へと向けた。たったそれだけのことで、彼はビクンッ! と肩を跳ねらせて息を呑んだ。
「憶えていてくれたんだね、先生」
朱菜が口を開いた。小林とは結構な距離があり、彼女の声は今にも消え入りそうなほどに小さいのに、まるで耳元で囁かれているかのようにはっきり聞こえた。
「い、今更何の用だ……。もう、5年も前のことだろ……!」
「今更……? 先生がずっとこの部屋に近づかなかったから、5年間何もできずにいたんだよ。5年前も昨日も逃げられちゃったけど、今度はそうはいかないよ」
朱菜が抑揚の無い口調で話し掛けながら、小林へと1歩1歩ゆっくりと近づいていく。床にはガラスの破片が隙間無く敷き詰められているが、ガラスの割れる音どころか物音一つたたない。
「ふ、ふざけるな……! よ、寄るな……!」
小林は震えた声で叫びながら、腰の立たなくなった体を引きずって朱菜から離れようとする。ガラスの破片に手を押しつけ、それによって新たに切り傷ができて血が滲み出るが、今の彼はそれに構っている余裕は無かった。
しかし、
「――『禁』」
その瞬間、小林の体を電流のような衝撃が走った。そして、まるで石にでもなったかのように、小林の体は1ミリたりとも動かなくなってしまった。
「な、何だ……! 何をした!」
「駄目ですよ、小林先生。生徒の話はちゃんと聞かないと」
あやめは上品な笑みを浮かべながらツカツカと小林の元へと歩み寄り、腰を折って彼の耳元に口を近づけてそう囁いた。小林の背筋が凍りつき、体中に脂汗とも冷や汗ともとれる汗がブワッと滲み出た。
「ま、待て――」
「ふふ、そんなに怖がることはないですよ。彼女を気に掛けることができなかったのは、当時担任の仕事で忙しかったからでしょう? 自分は悪くないとあなた自身が思っているのなら、きちんとそれを彼女に説明してあげれば宜しいじゃないですか。――もっとも、彼女がそれで納得するかどうかは分かりませんが」
あやめはそう言い残して、その場を立ち去った。そして彼女と入れ替わるように、朱菜が小林の目の前へとやって来た。
「先生、私、本当に辛かったんだよ? 毎日のように殴られて蹴られて、口に出すのも嫌なこともたくさんやられて……。――でもそれ以上に辛いのは、自分の味方が誰もいないことだった」
「はぁ――はぁ――」
小林は息も絶え絶えに、必死に朱菜を見上げていた。こちらを覗き込んでいるのに自分自身に照準が合っていない虚ろな目、それでいてなぜか笑みを浮かべている口元が、小林の恐怖心をさらに煽る。
「だからあのとき、先生をここに連れてきて、今まで私が受けてきたいじめを全部先生に話した。本当は嫌だったけど、先生に信じてもらいたかったから、わざわざ服まで脱いで傷痕を見せた。――そんな私に対して、先生、何て言ったか憶えてる?」
朱菜の問い掛けに、小林はただ黙っているだけだった。
すると、今まで虚ろだった朱菜の目が、はっきりと小林の顔を見つめてきた。まっすぐ自分を貫いてくる彼女の視線に、小林の眼球がフルフルと小刻みに揺れ出した。
「忘れたなら教えてあげる。『私は色々とやることがあって忙しいんだ。こんな“くだらないこと”に時間を費やさせないでくれ』だよ。よく憶えてるでしょ?」
ふふふ、と朱菜は楽しそうに笑い声をあげた。しかしその目はまったく笑っておらず、むしろ怒りを滲ませるように小林を睨みつけていた。
「ショックだった。いざとなったら先生だけは味方になってくれると思ってたのに、先生は忙しいからって私を見捨てた……! 私なんて先生にとってはどうでもいいんだって分かって、この先もずっと独りぼっちなんだって思うと、何だか凄く怖くなって……」
朱菜の口元に浮かんでいた笑みが次第に消えていき、彼女は自分を抱きしめながらブルブルと震え出した。目の前でそれを見ていた小林は唾を呑み込もうとして、口の中がヒリヒリするほどに乾いていることに気がついた。
「だからあの日の夜、私はここで首を吊った……。遺書も書いた……。私がどれだけ辛かったのか、せめて皆に知ってほしかったから……」
朱菜の目からは涙が溢れ、ポロポロと零れていく。涙は頬を伝い、顎から垂れ、そして床を塗らすことなく消えていく。
「でも……、先生は、私のそんな想いまで踏み躙った……!」
「待て、城田! 俺は――」
「黙れ!」
朱菜が叫んだ瞬間、朱菜の足元に落ちていたガラスの破片が1つ、弾丸のように放たれた。それは小林の首を掠め、後ろにあった教卓にドスッ! と突き刺さった。
「はっ――はっ――かはっ!」
心臓を鷲掴みにされているような感覚に、小林は過呼吸気味になりながら、それでも必死に体を動かそうともがいていた。しかし、まるで自分の体でなくなったかのように、彼の体はまったく言うことを聞かなかった。
すると彼は、壁に寄り掛かってこちらを眺めているあやめへと視線を向けた。
「おい安倍、おまえが俺に何かしたんだろ! さっさと術を解いて、こいつを除霊しろ!」
「あらあら、小林先生? 先程まで『幽霊なんて信じない』と仰っていたではないですか。ガラスを割ったのも、彼女の姿も、私のマジックなんでしょう?」
「そんなことはどうでもいい! 殺されるかもしれないんだぞ! おまえはそれを黙って見過ごすっていうのか! 俺がこんな目に遭っているのも、おまえのせいなんだぞ!」
「いいえ、元々の原因は小林先生です。あなたが5年前に犯した罪を、きちんと償わずに放っておいた“ツケ”ですよ。あのとき素直に謝っておけば、このような事態にならずに済んだかもしれないのに」
「――わ、分かった! 認める、認めるから! 城田がいじめられているのも知っていたし、知っておきながら助けなかった! ちゃんと城田や彼女の家族にも謝るし、責任を取れって言うなら教師も辞める! だから――」
「だそうですよ。どうしますか、朱菜さん?」
あやめがチラリと朱菜を見遣ったのに合わせて、小林も彼女へと顔を向けた。
「――――!」
そして、息を呑んだ。
朱菜の周辺には幾十ものガラスの破片がフワフワと浮き上がり、そのどれもが鋭い切っ先を小林へと向けていた。
「ま、待て! 悪かった! 俺が悪かったから! おまえをいじめてた奴にもちゃんと事実を認めさせて、おまえに謝らせるから!」
「はは、確かにいじめられてたときは、そいつらへの恨みでいっぱいだったけど……。先生への恨みが強すぎたのかな? 今となってはそいつらの顔も碌に思い出せないよ」
「と、とにかく、落ち着け! な! おまえは今頭に血が上ってるだけだ!」
「ふーん、幽霊でも頭に血が上るのかな? でも大丈夫、私はとても落ち着いているよ。むしろ自分でもびっくりするくらいにね」
「よ、よく考えてみろ! おまえがやりたかったのは、本当にこんなことだったのか! そんなはずないだろ!」
「先生にも、私の苦しみ、たぁっぷり味わわせてあげる」
「あ、安倍! おまえからも言ってくれ! 俺が目の前で殺されても良いのかよ!」
「…………」
「おい! 聞こえてんだろ! 返事しろ! こ、こんなこと許されると思ってんのか! なぁ、誰でも良いから助けてくれよ! こ、殺される! 嫌だ! 死にたくない! 死にたくない! 死にたくない! 死にたく――
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
長い長い叫び声をあげた後、小林はまるで糸の切れた人形のように、突然バタリと床に倒れ伏した。あやめが近くに寄って覗き込んでみると、彼は白目を剥いて、口から泡をブクブクと吐き出しながら気絶していた。そして彼のズボンは股間の辺りに大きな染みができており、床に液体が徐々に広がっていくのが分かる。
「あらあら、誰も殺すなんて言ってないのに……、随分と早とちりをなさるんですね」
大の大人が泡を吹いて失禁しながら気絶しているという異常極まりない光景に、それでもあやめは何てことないかのようにクスクスと笑ってみせた。
しかしすぐに興味が失せたとばかりに彼から目を逸らすと、そのまま後ろを振り返り、ガラスの破片の散らばった床をパキパキ踏み鳴らして歩いていった。
「終わりましたよ」
そしてあやめは机の脚にしがみついて床に座り込み、ブルブルと体を震わせる清音と春の肩をポンと叩いて、優しい声色でそう呼び掛けた。
ビクンッ! と2人は肩を震わせると、恐る恐る彼女へと視線を向けて、生まれたての子鹿のようにガタガタと膝を揺らしながらゆっくりと立ち上がった。春に至っては、ほとんど泣きそうになっている。
「あ、安倍さん……。小林先生、どうなっちゃったの……?」
「ただの気絶ですから、心配いりません。おそらく朝にでもなったら、事務員の方が見つけてくださるでしょう。――まぁ、その後のことは分かりませんけどね……」
あやめはそう言うと、にっこりと春に微笑んだ。その笑みに、春はこれ以上何も言えなかった。言ってはいけないような気がした。
「…………」
そして清音はそんな2人の会話に割り込むこともなく、思い詰めたような表情で小林の方をじっと見つめていた。
と、そのとき、
「あの、安倍さん……」
背中から弱々しい声を掛けられ、あやめは後ろを振り返った。
3人から少し離れた所で、俯き加減の朱菜がこちらを見つめていた。
「気分はどうですか、朱菜さん?」
「……よく、分かりません」
5年越しの恨みをようやく晴らせたはずの彼女は、けっして“晴れやか”とは言い難い暗く沈んだ表情を浮かべていた。
「まぁ、そんなもんですよ。――では、約束ですので、始めましょうか」
あやめはそう言って、朱菜の傍まで歩いていった。朱菜は覚悟を決めたように表情を引き締めて、彼女の顔をじっと見つめる。
あやめが朱菜の額の辺りに、右手を差し出した。
「――『葬』」
あやめが呟いたその瞬間、手を当てた箇所から青白い光が放たれ、朱菜の体を包み込むようにして輝き始めた。光はみるみる鮮明になって朱菜を呑み込んでいき、彼女の姿が光に溶け込むように曖昧になっていく。
「――――!」
「これが、除霊……!」
生まれて初めて目の当たりにする光景に、清音も春も固唾を呑んでそれを見守っていた。
やがて、ほとんど朱菜の姿が見えなくなった頃、
「あの、安倍さん」
「どうしました?」
ふいに口を開いた朱菜に、あやめは作業を中断することなく尋ねた。
「“あの世”って、どんなところなんでしょうか?」
朱菜の問いに、あやめは一言だけで答えた。
「さぁ」
* * *
青白い光は天井に吸い込まれ、そして消えていった。朱菜の姿はどこにも見当たらない。まるで、そんな人物は最初からいなかったかのように。
「……終わったの?」
「みたい……」
清音が尋ね、春が答えた。
途端、2人は崩れ落ちるように近くの椅子に座り込み、互いに顔を見合わせて深い深い溜息を吐いた。初めての経験ばかりで自覚する暇の無かった疲労が、ここに来て津波のように一気に押し寄せてきたのである。
「……ねぇ、あやめ」
ふと、清音があやめの方を向いて口を開いた。
「どうしました、清音さん?」
「さっきあの子を除霊するとき、“約束”って言ってたよね? あれってどういう意味?」
「何てことありませんよ。私の除霊を素直に受け入れる代わりに、『小林先生と話がしたい』という彼女の願いを聞き入れただけのことです」
「…………」
清音はちらりと、小林の倒れている方へと視線を向けた。先程からピクリとも動かない彼に、本当に生きているのか不安になってくるが、それを確かめるために彼に近づいていく勇気は彼女には無かった。
「……あやめは、あの子がコバセンを恨んでることを知ってたんだよね?」
「はい、知ってました」
「……もしそんな子をコバセンに会わせたらどうなるか、あやめなら分かってたんじゃないの?」
「はい、大体想像はつきますね」
あっけらかんとした表情でそう言ってのけるあやめに、清音はぐっと拳を握りしめた。
「ちょ、ちょっと、清音……」
「ごめん、春は黙ってて。――じゃ、じゃあ、なんであの子とコバセンを会わせたの? むりやり除霊することはできなかったの?」
「不可能ではありませんが、彼女はもの凄く抵抗するでしょうね。その場合、どこまで被害が出るか分かりませんし、清音さん達の安全も保証できません」
「……だ、だったら! も、もっと穏便に解決することはできなかったのかな? ほ、ほら、納得のいくまで話し合うとかさ! そうすればコバセンも……あ、あんなことにならずに済んだかもしれな――」
「清音さん」
彼女の言葉を遮るように、あやめは一言だけそう呼び掛けると、ズイッと彼女の目の前まで顔を近づけた。
「ひっ――!」
突然の行動に清音は驚き、彼女が言いかけた言葉は喉の奥へと引っ込んでいった。
そんな彼女の文字通り目の前で、あやめはニッコリと笑みを浮かべると、
「そんなの、無理に決まってるじゃないですか」
「――――!」
清音の言葉をバッサリと切り捨てたその一言に、ぞくり、と清音の背筋が凍った。
「小林先生本人にも言ったことですが、彼女の話を真摯に聞いていれば、あるいは彼女が自殺したときに素直に罪を認めていれば、このような結果にはなりませんでした。小林先生が彼女から逃げ回っていた5年もの間に、彼女の怒りはどんどん膨れ上がっていき、そして歪んでいきました。言うなれば、もはや“手遅れ”だったんです」
「で、でも、だからって――」
「私がこれまで出会ってきた幽霊の中には、今回のように“手遅れな問題”を抱える人も珍しくありません。私と関わっていると、今回みたいなことに出くわすのも一度や二度ではないでしょう。もしそれが嫌だと言うのなら、今後は私につきまとわない方が得策ですよ」
「ま、待って! 私は――」
「申し訳ありませんが、私は清音さんと議論をするつもりはありません。明日、家に着く頃には今日になっているでしょうが、学校があるので早く帰って眠りたいんです。――という訳で、私は帰ります」
あやめはそう言い捨てると、これで終わりだと言わんばかりにクルリと踵を返し、スタスタと部屋を出ていってしまった。
「ちょ……! 置いてかないで、安倍さん!」
春が悲痛な叫び声をあげて、不安そうな表情で彼女の背中を追い掛けていった。
1人取り残された清音は、床に転がったまま動かない小林をしばらく眺めていたが、やがて彼から視線を外すと、そのままゆっくりとした足取りで部屋を出ていった。
小林1人を残した理科実験室は、どこまでも深い静寂に包まれていた。
* * *
月明かりで薄ぼんやりと照らされる廊下を、あやめ達3人は歩いていた。といっても3人並んで歩いている訳ではなく、先を行くあやめの背中を、清音と春が少し離れたところから追い掛ける形となっている。
部屋を出てから、3人は無言だった。元々積極的に会話をする方ではないあやめはともかく、普段やたらと必要無いことまで喋る清音も顔を俯かせて口を閉ざしており、会話する相手のいない春も自然と喋らなくなっていく。3人の周りには、コツコツと足音だけが響き渡っていた。
しかし、先頭のあやめが昇降口に差し掛かったとき、ふと清音が口を開いた。
「春……。私、決めた」
「……何を?」
春がそう尋ねると、清音は部屋を出て初めて彼女の方へ顔を向けた。
そのときの彼女は、真夜中で薄暗い廊下でも輝いて見えるほどに眩しい笑顔だった。
「私、やっぱりあやめと友達になりたい」
「……まだ幽霊に興味があるの? あんな怖い体験しておきながら」
春が呆れたような視線を清音に向けると、彼女は「うーん」と小さく唸って、
「目の前で誰かが傷つくのを見るのは嫌だし、できれば二度と体験したくないよ。でもだからといって、幽霊への興味が無くなった訳じゃないよ。それに……」
「それに?」
「あやめ自身にも、すっごい興味があるんだよね」
「……でも、安倍さんは私達と関わりたくないみたいだよ? あの部屋に私達を招いたのだって、怖い思いをさせて私達を自分から遠ざけるためだろうし」
「だろうね。でもね、春」
清音はそこで言葉を句切ると、春の前に躍り出て、
「私、今まで友達になれなかった人はいないんだよ」
清音はそれだけ言い残すと、「あやめー!」と声をあげながら彼女の元へ全速力で駆けていき、彼女にタックルする勢いで抱きついた。「ちょ、何するんですか!」という彼女の抗議の声が聞こえるが、清音がその手を緩める気配は無い。
「……正直、私はもう幽霊とは関わりたくないんだけど」
ギャーギャーと騒ぐあやめと清音を眺めながら、春は小さく呟いた。
とはいえ、あやめとも関わりになりたくないかというと、そんな考えは微塵も浮かんでこなかった。なぜかと問われると春本人も上手く説明できないが、ひょっとしたら自分も清音と同じく、あやめに対して興味を持っているのかもしれない。
「私も人のこと言えないなぁ……」
春はクスリと笑みを漏らすと、両腕で清音を突っぱねているあやめの元へと早足で駆けていった。