戦国†恋姫X 民を護る者   作:『ありす』

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1話 

 ゴーグルに赤い液体が付着。それが仲間の血液だと気づいたのは、視界の片隅で崩れ落ちる仲間達の1人が倒れたからだ。

 慣れたくはないが既に慣れた。また1人仲間が倒れたということだけは理解。それ以上のことを気にしている場合じゃない。今、この時に必死にならなければ自分も同じ末路を迎えることを知っているからだ。

 

 いつものこととはいえ、きっと、終わった後は何もかもを吐き出すことになるのは容易に予想出来た。

 

 緑色の煙が尾を引いて空中で一瞬制止、そして直径3cmほどの玉が爆発した。その爆発音と緑の煙を見て作戦が成功したことを理解。作戦が成功した以上は後は将兵らを1人でも多く生還させることだけを考える。

 

 だが、果たして自分達は無事に生還出来るのか? 指揮官はそんな不安を抱く。

 

 脳裏に過ぎった一瞬の悲劇を彼方に追いやり、声を張り上げる。仮に自分がここから無事に脱出出来なくとも仲間たちは絶対に生還させてみせる。それが自分が考えなければならない責務と言っても良かった。

 

「―――っ、第2部隊を前面に押したてろ! この戦場を離脱する! 作戦は成功した。決死隊の時間稼ぎもここまでだ! ゼノン、任せたぞ!」

 

 疲労からなのか、それとも熱が原因なのか地平線は不安定に揺らめいている。人間の血と切り伏せてきた化物たちの血の匂いを嗅ぎすぎて、嗅覚はもう利かない。切り伏せてきた化物の血でドス黒く染まった愛刀を握る手の握力も残り少ない。

 

 血煙と死骸の中に身長170cmほどの指揮官はいた。混血種にしては珍しい小柄な体型。表情はゴーグルと口元を隠すマスク、そして身体を覆っている黒色のケープで隠されていた。マスクに隠されていてもその声は決して濁っておらず、怒号と悲鳴に埋め尽くされている戦場でも高々と響いた。

 

 ゼノン、と呼ばれた200cmを超え、大木を彷彿とさせる巨体がケープをはためかせながら指揮官の前に躍り出る。

 

「我が麗しき御大将、お任せを! 第2部隊私に続きなさい! ここまで来て死ぬことは私が許しませんっ!」

 

 死地で何度も聞いたその声に力が湧き上がってくる。名将のその激励に兵士たちが応えるように各々の武器を構えて突撃を開始した。

 前方には敵勢の群れ。数え切れないほどの大群。人間と同じように手があり足もあるがその異形はどう見ても人のそれではない。

 

 ゼノンと呼ばれた男よりも遥かに大きい3mを優に超える巨体。丸太のような太さをした手足。ギョロリと剥いた青白い複眼が一対。口にはナイフほどの長さの牙が2本突き出ている。

 胴体には視認できるほどの大きさのウロコが隙間なく存在し、不気味な存在感を醸し出している。さながら身体を守る天然の鎧とでも言うべきか。生半可な斬撃では切り裂くことは到底叶わないだろう。

 手に指というのは存在せず、その代わりに鉤型の形状をした鎌。鎌も同じように赤く濡れており、その赤色が仲間達を切り裂いたという明確この上ない証拠。

 

 それが数万と存在し、鼓膜と大地を震わせるような絶叫、咆哮を上げながら襲いかかってくる。

 

 まっとうな人間なら発狂するか絶望して膝を折るような戦場。地獄と言ってもいい。化物達に包囲されてしまい殲滅されるのも時間の問題。しかし、その戦場で戦い続けている人間たちは誰1人として諦めてはいない。

 

 この戦場で抗い続けている人間たちはこんな戦場など日常茶飯事なのだから。

 

「ンフフフ、中々にタフな戦場ですがねぇ。そんなもので私たちを殺れると思っているんですかぁ!?」

 

 朱色の槍が振るわれる。たったそれだけで天然の鎧である鱗を破壊しながら、その下の胴体すらも切り裂いた。ドス黒い血液を全身に浴び、絶命を告げる悲鳴を叩きつけられても顔色1つ変えない。

 

「下がるな! 止まるな! ここで怯めば死ぬぞ! 噛まれた手を守るには手を引くべきではなく、手を喉元に突っ込め! 殺す気じゃ足りん! 皆殺しの気概で進め!」

 

 指揮官は爆発しかねないほどに鼓動が高まっている心臓を抑えながら走り出す。戦闘開始からはや3時間以上酷暑の中、休憩も水分も取れない中で剣を振るい続けている。全身の痙攣や頭痛、意識を強く保たねば目の前の出来事が、現実なのか夢なのか区別も怪しくなってきた。全身に負った傷口の出血もまだ止まっていない。

 そんなことは関係ないと言わんばかりに指揮官の右腕、その袖口から軽音がなりアンカーが射出。コイルが回転しワイヤーが吐き出されていく。

 空気を切り裂きながら化物の群れの中の一体に突き刺さる。そしてワイヤーが高速で巻き戻しが始まり、文字通りの跳躍で身体を宙に泳がせる。

 

「―――っ!」

 

「御大将!?」

 

 集団の先頭に出てきた自軍の司令官を姿を見て驚きの声が聞こえたが、そんな声を聞いている余裕などない。一歩間違えたら死ぬ操作をしているのだから。

 自分の両手に握られる愛刀が届く距離にまで飛び込み、アンカーが袖口の中に戻ってきた。移動の時に発生した慣性を斬撃に相乗させた斬撃は容赦なく生命を刈り取る。

 

「ゼノン! 背中を守り合うぞ! 後は目の前の化物らを切り伏せればいい!」

 

 声を張り上げながら少年のブレードの切っ先が止まることを知らない。振るわれる度に化物らの命を次々と刈り取っていく。そして、その様を見て指揮官の周りにいる兵士たちは僅かながらに力を取り戻す。 

 

「ンフフフ! 畏まりました!」

 

 指揮官の後を続くように仲間達が、精兵たちが、雄叫びを上げながら前進。前進というよりはもはやその突撃と言って差し支えないものであった。小さな熱量が大きな何かに膨れ上がっていく。大きくなるにつれて前進速度が上がる。

 

「皆! 生きるぞ! ここまで来て死んでたまるか!」

 

 作戦が完遂した今、この戦場に生きている者たちは最後まで生きる資格があるのだと指揮官は考えた。そして、こんな愚かな指揮官に最後まで従ったのなら、その最後は老衰で子供達に看取られながら穏やかに逝くのが相応しいと感じる。

 

 愛刀を振り回しながらそんなことをふと考えた。口の端から思わず苦笑が滲み出る。

 

「っ!?」

 

 背筋が泡立つ。

 

 戦場で馬鹿なことを考えて気が緩んだ。普段なら絶対に感じ取れたはずの明確な殺意。それを感じ取るのが僅かに遅れた。この地獄においてその一瞬の緩みがどれだけの愚行か。

 

 痛みはなかった。怒号と悲鳴が一瞬遠くなり、そして砂の地面に叩きつけられて気付くことが出来た。すぐさま立ち上がろうとしたが、全身は脳からの命令を実行できない。痛みも、痺れも、何も感じることはなく、悲鳴を出すことも叶わない。

 

「御大将―――っ!」

 

 背中を預けるに値する副官の声だけがやけに耳を叩く。

 

 何を騒いでいるのだ馬鹿者め。貴公は私が唯一副官に命じた男だぞ。このようなことで騒ぐでない。私が満足に指揮を取れない時は貴公が指揮を取るのだと決めていただろうに。今までも何度も指揮を取っているのだからそんな情けない声を出すな。

 

「―――ご、ふ。ごほっ……ごほ……」

 

「御大将っ!! 我らの声が聞こえておりますか!? 聞こえているのなら―――!」

 

 分かった分かった。待っていろ。貴公がそんな情けない声を出すな。部下達が見ている前なのだぞ。しかも戦闘中にだ。まったく、これではおちおち死ぬことも出来ないではないか―――。

 

――――――――――――

 

「―――あっ?」

 

 思わず気の抜けた声が虚しく響いた。

 

 夕方過ぎだったはずなのに気がついたら辺り一面は暗く染まっていたのだから、ある意味では当然の反応だろう。

 空を眺めると大きな満月が浮かんでいた。それを見て今が夜であることに気付く。その現実にこれは夢なのではないかとさえ考えた。

 冷たく身を切るような空気、満月に照らされた緑の木々、自然のもつ独特な匂いが嫌でも現実だということを知らせる。

 

 ―――どういうことだ。これは。

 

 慌てることもなく冷静に周囲の状態を観察し、現在の状況を把握しようとする。周りの景色や耳に入る音に感覚を集中させ情報をかき集める。普通なら思考停止の状態に陥っても不思議ではないのだが、男は落ち着いたまま思考。理解不能な状況など数え切れないほどあった。今更慌てることもない。

 

 ―――私は砂漠で戦っていたはずだ。そして―――間違いなく切られたはず……。だが、ここはどう見ても森。しかも空気があの辺のものじゃない。澄んだ、綺麗な感じだ。しかも身体の何処にも異常はない。何故だ?

 

 疑問は尽きぬが、まずは装備を確認。

 

 腰に付けられているブレードが2つ。防寒具件防具の役割を持つケープ。食料や着替え、雑貨などが詰められたリュック。両腕に取り付けられたアンカーとコイル。どうやら死ぬ前の装備なのは間違いなかった。

 

 ―――ケープやブレードに損傷が無い、だと? あれだけの激戦をしていたのだぞ? なぜ損傷が無くなっているのだ? いや、それよりもまずは。

 

 装備を確認し終え、指揮官は自分がいる場所を把握するために周りの木々の中から、一際大きな木を見つけて身軽な動きで登る。荷物があることを感じさせない滑らかな動き。

 

 ケープの中から片目で覗ける望遠鏡を取り出す。

 

 ―――……どう見ても私のいた場所、その近辺じゃない。これだけの自然が残っている場所など見たことも聞いたこともない。

 

 あまり倍率の高い仕様、所詮は急拵えの望遠鏡では周りから得られる情報は少ない。幸いなことに満月が一面を照らしてくれているため、予想よりは周囲を見ることが出来た。

 満月から発せられる光の強さも違うことに違和感が膨れ上がる。自分がいた場所は満月があってもほとんど周りを確認することが出来なかったからだ。しかし、空中に含まれている不純物が少ないためかやけに明るく感じた。

 

 ―――……あれは……街か? いや、明かりの規模からすれば村か?

 

 自分より低い位置に見える明かり。点のように存在するその明かりを見て、男は近くに村があることに安堵した。村まで行けば少なくとも情報を集めることは可能だからだ。

 

 ―――少なとも私は背中を切りつけられたはずだ。あの状況から怪我人を連れて脱出出来るとは思えないし、仮に出来たとしてもこんな場所に放置される理由もない。

 

 同時に、村が自分より低い位置にあることで自分が山にいることにも気づいた。木から飛び降りる。

 この闇夜の中では本来動き回ることは決して褒められたことではないが、兎にも角にも情報が一刻も早く必要。自分の感覚に絶対の自信を持っている指揮官は、フードを被り素早く下山に移る。

 暗闇の中、下山を行うのは手間ではあったが深夜の行軍経験に富んだ指揮官からすればそれだけの話だった。下山の途中で十分な整備とは言い難くはあったが、人が利用してる道を発見できたのは幸運。それのおかげで予想よりも下山が終了。

 

 望遠鏡を見ている時は気づかなかったが、どうやら山の麓近くに村があるみたいだった。そのおかげで指揮官は大した苦労もなく村へと歩き出す。

 

 ―――……なんだ? こんな夜なのにやけに騒がしいな。なにかあったか?

 

 村に近づくに連れて人の声が指揮官の耳を打つ。2人や3人どころではない優に10人以上の声が聞こえる。それも怒声だったり悲痛な叫び声が混ざっていた。

 その声に胸騒ぎを覚えた指揮官は走り出す。何度も聞いたことのあるトーン。あれは明らかに普通なものではない。切羽詰ったそれ。

 村から赤子を抱えた女性が転びそうになりながらも走って出てくる。その表情は今にも泣きそうなもので、必死に赤子を胸に抱えていた。自分よりも赤子を大切にしていることは指揮官にも見て取れる。

 

 明らかに何かから逃げているのは間違いない。

 

 フードを脱ぎゴーグルを外して自分の相貌を露わにする。明らかに尋常ではない空気の中、顔を隠した人間などただの不審者でしかない。色が黒く、ボロボロなケープが不信感を加速させるのも間違いない。が、流石にケープまでは脱げなかった。安全が保証されているわけではないこの状況で防具を脱ぐわけには行かない。

 

「―――……何があった!?」

 

「きゃっ」

 

 震えている足を必死に前に運んでいる女性だったが、指揮官に声をかけられて驚いたのか躓いてしまう。

 転んでしまうところを咄嗟に指揮官が受け止める。受け止めた瞬間、女性の膝から力が抜け落ちて崩れ落ちそうになったがそれを支えた。

 

 全身が震えている。恐怖を感じながらも必死に走ってきたのだろう。異常なまでの発汗。だが赤子を抱えている両腕は力強い。

 

「国軍決死隊軍団長エラだ。あの村に一体何が起こっている?」

 

 安心させるように女性に語りかける。この場で重要なのは自分がどこにいるか? ではなく、今、村で何が起きていることを知ることだった。女性は明らかに平常ではない。まずは安心させることを優先させる。

 

 女性は唇を震わせながら呟く。

 

「お……鬼が……鬼が、出て……村のみんなが……領主様の、人たちもまだ……」

 

 オニ、自分が聞いたことのない単語。その意味は理解できなかったが、女性の状態と村から聞こえる悲鳴や怒声で大凡の予想は立てられる。

 すなわち、オニというものに村が何らかの被害を受けていることを。

 

 それを理解した指揮官の判断は早かった。右手で女性を抱いたまま左手で腰のブレードを引き抜く。

 

「分かった。領主、もしくはそれに準じる者がいる方角は分かるか? 分かるならそちらを目指して移動してくれ。もしかしたらこの状況を何らかの形で知った領主たちがこちらに向かっているかもしれない。ガキと一緒に保護してもらうんだ」

 

 指揮官のその言葉に力なく頷く。

 

「……あなたは? あなたは……どうするの……?」

 

「オニ、というものは分からないがまだ村には人が残っているだろ。なら、避難のための誘導をする。状況によってはそのオニとやらと戦闘を行うしかあるまい」

 

 女性を放し空いた右腕でもう1本のブレードを抜く。もはや迷っている時間はない。今ここで行動しなければ余計な被害を出しかねないことを指揮官は心底理解している。先ほどまでの疑問など些細なこと。

 

 やれることを、出来ることを行う。それだけだ。

 

「行け。絶対に振り返るな。目的地まで全力で走れ」

 

 ブレードを持ったままの右手で女性の背中を押す。

 同時に指揮官は地面を力強く蹴り出し村へ向かって駆け出した。その姿は走る、というよりも疾走というに相応しい速度。

 女性が静止しようと振り返ったら男の姿は既に自分から大きく離れていた。声を張り上げれば届くかもしれなかったが、それで鬼に気づかれることに恐怖した女性は泣きそうな表情のまま走り出した。

 

 目の前の人間に言われた通りに自分達の領主がいる城へと。

 

―――――――――

 

 ケープの首元についているマスクを引き上げ口元を覆い、ゴーグルで目を保護する。指揮官が戦ってきた化物の中には人間を凌駕する感覚や能力を持っているのが常だった。

 このマスクはその対策の1つ。呼吸を悟られないようにするため、化物の身体から吹き出る菌を身体に吸収させないためだ。

 装備は万全ではなく、支援も受けられない状況。信じるは己の身体とその技術のみ。今までの戦場に比べればまだマシな部類。怪我もしていないし武器もある。支援を受けられないことなど日常茶飯事。

 村の出入り口に到達した指揮官は近くの建物、所謂長屋と言われる1階建ての建物の屋根に登り上がる。登ったのは村の大きさや状況を少しでも理解するため。村が混乱に包まれているためか、あちこちで火の手が上がっているのが見える。

 

 その少しずつ上がっている炎に照らされた建物らを見て、村の大きさを測る。

 

 ―――この横に長い木造建築の家が多数、これに加えて同じ木造建築ではあるが大きな建物が随所にある。だけど広さで見ればそれほどの大きさではない。この規模なら住民は数百人。全員の避難は難しいか。

 

 端から端まで最短で駆け抜ければ男ならほとんど時間もかからないだろう。

 

 ―――どうやらここは街道沿いにある村だから出入り口が複数存在している。と、なると全員をまとめて誘導するというのは不可能。いや、住民たちも自分の身に危険が迫っていることは理解している。

 

 屋根の上を走り抜け、建物から建物へと跳躍しながら視線を一瞬だけ下に向ける。

 

 村の出口に向かって逃げ出す人々の姿が視線に飛び込んできた。あまりの非常事態だからか指揮官の存在に気づいていても視線を向けることはない。そんなことよりも自分や家族の身が大切だから。

 

 視線を前に戻す。

 

 ―――ならば、そのオニとやらに襲われている人を援護。場合によってはオニの撃破をメインに行動すればいい。その後のことはその時に考えるしかあるまい。

 

 一際大きな叫び声が耳を打った。

 

「……ちっ! そっちか!」

 

 叫び声が聞こえた方角に向かって方向転換し、再度不安定な屋根の上を駆け抜ける。しかし指揮官からすれば屋根による足場の不安定さなど問題にすらならない。これよりも不安定な場所での戦闘など珍しくもなかった。むしろ歩けるだけでも十分と言わんばかりに走る。

 

 村の中心部に近づくたびに音が減っていく。すでに住民たちがどこかへ避難したからだろうか。だが、まだ全員の避難が完了したわけではない。

 

 つまり、村の中心部から聞こえた悲鳴は避難に遅れた、もしくは取り残された人間だということになる。その事実に指揮官の速度は更に上がる。間に合わないかもしれないが、間に合うかもしれない。

 

 ―――……あれか。

 

 長屋から一際大きな建物に跳躍した瞬間にそれが目に入った。その姿形に僅かに眉が動く。

 

 それは少なくとも真っ当な人間には見えなかった。

 

 不気味に輝く眼。丸太のように太い両手と両足。それだけならそこまで気にすることはないが、人ではないと確信させる材料が視界に飛び込んでくる。

 口が左右に大きく避けており、その口から4本の牙が大きく突き出ている。牙に捉えられたら間違いなく裂かれてしまうだろう。

 それに加えて両手の爪。指揮官の知識だと熊よりも何倍も大きく強靭な印象を与えるほどの巨大な爪。真っ向から受け止めるのは困難を極めるだろう。受け止めるつもりはないが。

 

 その爪が尻餅をついている子供に振り上げられていた。

 

「そこのガキ! 頭を下げろ!」

 

 移動している最中、しかも空中に身体が残っている状態。強引に進路変更することも出来ない。なら指揮官が出来ることはただ1つ。指揮官がいる世界の人間からすればさして驚く技術ではないが、今いる世界では奇跡と言わざるを得ない離れ業。

 距離は約10メートル前後。的はそこらの人体よりも大きい鬼。体勢が不安定だろうが子供が近くにいることなど関係ない。

 

 やらなければ子供が死ぬ。ならば、成功させることしか許されない。

 

 右手に持ったブレードに回転をつけて投擲。

 

 空気を切り裂き、大気を歪ませ音を鳴らしながら一直線に飛んでいくブレード。

 

 ドン、と鈍い音を立てて鬼の額にブレードが突き刺さる。寸分の狂いもなく命中させたその絶技。指揮官を知っている人間がいれば流石と口を揃えて述べただろう。

 

 息の根が止まったかどうか確認したい。しかしそれを確認する余裕はない。今は子供を助けることが最優先。鬼についての情報がほとんどない今、指揮官にとって交戦は極力避けたいだからだ。状況次第では戦闘もやむ無しではあるが、それでも撤退を最優先。撤退が困難な場合のみ戦闘が基本方針に据える。

 

 崩れ落ちる鬼を尻目に大きな建物の壁に『着地』。その衝撃は常人なら最低でも両足が骨折、その怪我は後遺症すらも残したであろう。だが、指揮官にとっては然したるものでもない。そのまま地面に向かって飛び降りた。

 

 子供に駆け寄ろうとしたところで鬼がもう1匹いることに気付く。子供は腰が砕けているのか足を震わせたままそこから動けないでいた。

 

 残りの鬼が雄叫びを上げながらこちらに突進してくる。予想よりもその足は速い。自分1人だけならどうにでもなるが、子供1人を救出しながら逃げるというのは難しい。

 

 ならばやることは1つしかない。

 

 すべきことに気づいた男は再度疾走。ルートには子供がいたがその上を飛び越え、走ってくる鬼を迎撃する。

 

「―――っふ!」

 

 鬼の右手には棒が握られており、それが振り下ろす前にこちらの速度が勝った。左手に持ったブレードで鬼の首を切り飛ばす。肉と骨を切り裂く確かな手応えが左手を通じて絶命したと確信させた。

 首を無くした鬼はしばらく棒を振り上げたままの体勢だったが、やがてその体勢のまま後ろに倒れた。

 

 屠った2体の鬼を素早く確認。指揮官の常識の中では、この手の怪物は首を撥ねたり脳髄を破壊しても動くことなど大して珍しいことはではない。しばらくブレードを構えたまま様子を伺うことでアクションを待つ。

 

 5秒、10秒と時間が過ぎ、微塵も動く様子がないことに短く息を零した。

 

 どうやらこの化物は脳髄を破壊したり首を撥ねれば殺すことができるようだ。そのことを知り安堵する。今の装備ではいくらなんでも対応出来る範囲が決まっている。いくらなんでもブレードだけで跡形もなく吹き飛ばすことはできない。

 

 動く様子がないことを確認した指揮官は鬼の額からブレードを引き抜き、子供に駆け寄り声をかける。

 

「……ガキ。怪我はねえか? 親はどうした? はぐれてしまったのか?」

 

 安心させるように落ち着いた静かな声で語りかける。状況はかなり逼迫しているが、例え子供であったとしてもその口から得られる情報が必要。

 子供は震えており満足に声を出すことも出来ないでいた。こちらの質問に答えることが出来ないほどの恐怖に襲われたのだからそれもやむを得ない。

 それを分かっているからかそれ以上の追求はしない。情報が少しも得られないことは問題だが仕方もないと判断。

 

 素早く周囲の状況を確認。

 

 規模は小さいが建物の一部が炎上。

 

 道や建物には血液が飛び散っていたが、それに反して死体がない。怪我はしたが無事に逃げおおせることができたか、もしくは鬼と呼ばれるものに死体を何らかの形で『処理』されたか。その『処理』の内容次第ではより危険な状況になることも考える。

 

 遠い距離から人々の怒号や叫び声はまだ終わらない。

 

 まずは子供を安全な場所にまで連れて行く。いくらなんでも身動き取れない子供を置き去りにするわけにはいかない。

 

「―――ガキ、背中に乗れ。親は後で探してやる。今は安全な所にいくぞ」

 

 背中を子供に向けて促す。

 

 子供は少しの間、動くことも出来ないでいたが男の言葉は安心できるものだと思ったのか、ぎこちない動作で指揮官の背中にしがみついた。子供の両手が首に回される。

 

「絶対に離すなよ。さっきのオニとやらが出てきたら、場合によっては戦うことになるかもしれん。そうなったら支えることもできん」

 

 言いたいことを終えた男は左手に持っていたブレードを鞘に収める。

 

 空いた左手で子供の左手を掴んで支える。

 

 すかさず跳躍。子供1人分の重さは少々動きを制限されるものではあったが、気になるレベルでもない。男は再び屋根の上に登る。

 

 ―――安全な場所、か。状況からすると少なくともこの村から離れた方がよさそうだが……。

 

 しかし、指揮官はこの辺の地理や情勢をまったく知らない。あの鬼という化物が村の周辺にいないとも限らないのだ。こちらに限界がある以上、迂闊に動き回って体力を削るのは下策。せめてこの辺の地理に明るい人間がいればどうにかなるのだが。

 

 どちらにしても今いる場所が安全ではない以上、行動を再開する。素早く移動を開始し、今いる場所から1番近い出入り口を目指して走り出した。

 

 屋根の上を走りながら周囲や道の状態を確認する。先ほどに比べて悲鳴や怒号の類の人の声が聞こえない。

 

 ―――無事に脱出できたか、それとも……。

 

 そこで気づいた。

 

 出口の近くに視線を彷徨わせている老人がいることに。足腰が弱いのか杖をついていた。

 危険だと分かっているのにそこにいるのは何かを探しているのは明白だった。

 老人も気付く。誰かが屋根の上を走っていることに。

 そして、見たことのない誰かの背中に小さな子供がいることを。

 子供も老人に気付く。

 

「……おじいちゃん!」

 

「永吉っ」

 

 その言葉に2人が祖父と孫の関係なんだと気付く。

 身を翻して老人の目の前に飛び降りる。

 男が身を屈めると背中から子供が飛び降りそのまま老人の胸に飛び込んだ。

 

「すまないが状況がほとんど分からん。爺さん、他の住人は避難したのか?」

 

 子供とその家族が会えたことに安堵はしているがまだ安全な状況ではない。話しながらも周りの状況を細かく確認する。住人や鬼の姿は見当たらないからと言って、まだどこかにいる可能性は充分にあるからだ。もし、このタイミングで鬼が出てくるなら護衛と避難、場合によっては戦闘も決断しなければならない

 

 孫を抱いたまま翁は喋る。

 

「お、おう、そうじゃな。突然のことじゃったから全員そうかは知らぬが、この町の住人のほとんどはもう避難が終了しておる。多分、わしらが最後のはずじゃ」

 

「どこに向かった? ここからは近いか?」

 

「ここからじゃと南東の方角に皆向かったわい。そちらは武田様の躑躅ヶ崎館があるからの。たまたまこの町に視察にきていた馬場さまが誘導しておる」

 

 ―――タケダさま? ツツジガサキヤカタ? ババさま? 聞いたことのない場所と名前だな。これくらいの規模の領地を持っているなら名前もそれなりに知れてるはず。オレが知らないというのはあの後に領主になったのか? いや、今は―――

 

 考え事はひとまずは頭の片隅に置いておき、今はしなければならないことを考えなければならない。町にまだ避難が出来ていない人がどれだけいるのか。鬼がまだ村にいる危険性だってある。目の前2人だけで避難が出来るのか。

 

「爺さん、そのババサマというのはそのツツジガサキヤカタに向かっているんだな?」

 

「? そうじゃ。まだそこまで時間が経っているわけじゃないからまだ近くにおるはずじゃ」

 

 ―――近くにいる、とはいっても老人と子供の足じゃ合流は難しいだろうな。合流するまでの道中に危険もある。となると……。

 

 少し考え、今はこの2人の誘導を優先するべきだと判断。見えない人間のことよりも目の前の人間を優先すべきだと考える。人手が足りず情報も足りない今、出来ることを確実にこなす必要があった。

 

「分かった。爺さん道案内を頼む。私があんたらをそこまで護衛する」

 

「……見たところ、あんたこの町の者じゃないだろう? 旅の者だと思うのじゃがなぜワシらを助けようとするのじゃ?」

 

 所謂余所者。老人の中ではどうして目の前の人間が危険を犯してまでなぜ助けようとするのが不思議でならなかった。自分の孫を助けてくれたことは純粋に感謝しているが、それとはまた別の話。

 

「あ? 何言ってるんだよ。私たち軍人は民間人を守るのが当然だろうが。早く私に乗れよ爺さん。ガキと一緒にそこまで運ぶから―――っ!?」

 

 言葉を最後まで述べることは叶わず、背中に感じたその気配に臨戦態勢に移行。左手は逆手でブレードを引き抜き、その場で勢い良く振り向きながら右手に握られたブレードの切っ先を向ける。

 

 ―――……ちっ、どうしたものか。

 

 『オニ』と呼ばれる異形の化物が目に見えるだけでも10体以上。散らばっていた化物らがこちらに集まってきたのか、それとも自身の考えが的中しているのか。どちらにしてもこちらにとっては洒落にならないことは確か。

 1体1体共通した特徴はあるが、体格の大きさが違う以上それぞれ能力が違うと考えるのが普通だろう。となると、ここでの問題がただ1点。

 

 ―――この2人を抱えて離脱することは可能なのか―――?

 

 遮蔽物も少なく、村の外はもっと遮蔽物は少ない。下手をすればただの平原だ。相手を足止めする罠も仕掛けることも出来ないし、存在しないだろう。相手の走力は不明。だが個体差がある以上、足の早い『オニ』もいると考えるのが普通。この状況で2人を抱えて自分の走力で振り切れるか……。

 だが、一個だけ恵まれた条件がある。それはここが村の出入り口であるということだ。つまり、指揮官たちの両側には建物が存在する。『オニ』は指揮官と違って建物の上を走って移動する習性もない。要は1つの方向からくることしか出来ないのだ。

 

 ―――どっちだ? 戦闘? 離脱? いや、今なら確実に先手が取れるということは確か―――!

 

「爺さん! ガキを連れてここから離れろっ!」

 

 背後にいる2人に罵声を浴びせ、返事を聞くこともなく疾走する。『オニ』から見て人間は餌の1つに過ぎない。そんな餌が飛び込んできて『オニ』は雄叫びを上げながら喰らおうとする。

 

 だが、この場において餌は果たしてどちらだったのか。

 

 そして、指揮官からすれば『オニ』と呼ばれている化物はただの化物にしか過ぎない。不利な状況下から自分の職務を真っ当する。

 

 疾走を見て翁と子供、そして『オニ』は驚きを隠すことが出来なかった。

 

 文字通り指揮官の姿が『消えた』からだ。ずっと見ていたはずなのに自分たちの視線から消え去った。

 

「―――っ!?」

 

 ただ、気がついたら1体の『オニ』の首が宙に舞った。月下に照らされたブレードは血に塗れている。ブレードと同じようにケープは返り血によって、黒色から赤に染まりつつある。この戦闘が終わる頃には黒色は少しも残っていないだろう。

 

「……次!」

 

 ないない尽くしの状況。だが、指揮官は己の全てを賭して後ろの2人を守るために全能力を回転させ、鬼の群れに飛び込んでいった。

 





 読んでくださってありがとうございました。

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