ポケットモンスター -N's story- 作:ロールキャベツ
「――では、お預かりします。お気を付けていってらっしゃいませ」
フロントの受付係の女性から見送りの言葉を受け取ったヨシノは心を躍らせながらホテルの外へ出た。通りにはすでに多くのビジネスマンが歩き、車が往来していた。朝の9時から大変である。
さすが、イッシュ地方一の大都会であり、ビジネスの中心街と謳われるだけある。空を見上げると首が痛くなるほどビルが高い。
ヨシノは肩から下げているショルダーバッグからタウンマップを出して広げた。
地図には彼女がいくつか書き記した丸があり、このヒウンシティの近くにも二つの丸が記されている。ひとつはこの街の南にある港付近、もうひとつは北にある砂漠を挟んだ先にあるライモンシティだ。
目指すはライモンシティ。彼女がこの地へ留学に訪れた目的のエリートトレーナーを養成するためのトレーナーズスクールがある。
ライモンシティはバトル施設が数多く立ち並び、多くのトレーナーが腕試しに訪れることでも有名だ。ヨシノがこれから通うスクールでも授業の一環として施設を利用するほどであり、所属するトレーナーの質も高いことから、彼女のようにほかの地方からの留学生も多く、人気である。
さらに近年では、ミュージカルホールや遊園地といったエンターテインメント施設も充実してきている商業都市でもあるので、それも倍率を高くしている要因のひとつである。
実際のところ彼女自身も少しでも早く夢を叶えるためにこの地へと訪れたのだが、やはり年頃の女の子といったところだろうか、商業施設によってきらきらと輝く場所にも十分に魅了されていた。
ここからライモンシティ行きのバスが夕方の5時に出発する。それまでこのヒウンシティを満喫するために、先ほど受付で大きい荷物を預かってもらったのだ。荷物を抱えての移動は大変であるし、なにより昨夜に港へ到着したばかりなので少々疲れてもいる。観光は身軽の方が自由に動き回れる。
ひとまず南にある海沿いの通りへ行くことを決めたヨシノは、タウンマップをショルダーバッグに戻した。バッグのベルトをぎゅっと握りしめ、高鳴る鼓動を胸に、通りの南の方へ向きを変える。
その瞬間、彼女のかばんの中のモンスターボールから手持ちであるポケモン――シェイミが飛び出してきた。頭部から背中にかけて見た目も色も草のようにそっくりな緑色の毛皮で覆い、頭には二輪のきれいなピンク色の花が咲いている。小さくて、とても可愛らしい姿だ。
「あっ! また勝手に出てきて……。ボールに戻って」
しかしシェイミはそっぽを向いている。どうやら主人であるヨシノに対してあまり懐いておらず、言うことを聞かないらしい。彼女にとってはいつものことなので――本当は慣れるところではないのだろうが――もう慣れてしまった。
ヨシノは溜め息をつきながら、いつものようにモンスターボールをシェイミに向けた。いつもシェイミが勝手に出てきてはヨシノがボールに戻すという動作を繰り返す。それだけならいいのだが、たまにどこかへと駆けていってしまうことに彼女は手を焼いていた。
案の定、彼女の手持ちは逃げ出した。
「ちょっと! 待って!」
シェイミは人混みの中に飛び込み、人々の足元を器用に縫って走っていく。
朝から忙しなく歩いているビジネスマンたちは足元を素早く移動するシェイミに驚いて立ち止まり、次いでその後を追いかける少女のために道を開けた。しかしそれでも人は多く、ヨシノもシェイミと同じように人々の間を縫って走っているため、なかなか追いつかずに少しずつ距離ができていく。
イッシュ地方に行く数日前に、ヨシノは家の裏庭で、傷ついているシェイミを保護した。
ほかの野生のポケモンに襲われたからなのか、誰かに捕獲されそうになったために防衛していたからなのかはわからないが、とにかく戦闘によって負傷していた。食料補給もままならなかったのか、衰弱もしていた。
幸いにも同居しているヨシノの祖父が草タイプのジムリーダーを長年務めており、草タイプに関して、草タイプのポケモンに関して知識を深く持っていたため、祖父にその場で早急に治療してもらった。
念のためポケモンの治療や回復を行う施設であるポケモンセンターへ見てもらいに行くと、祖父の適切な治療のおかげもあり、栄養剤を処方されただけで終わった。
その後は順調に傷も体力も回復したが、目に見えるほど元気になったというようには感じられなかった。態度もどことなくよそよそしかった。
シェイミがこれまでどのような環境で育ってきたのかわからないが、シェイミを元気づけたいと思ったヨシノは、そのまま家に置いて行くのも気になったので一緒に連れて行くことにしたのだ。
手持ちに加えてからまだ日は浅く、当然これから長い時間をかけてお互いのことを理解していくことはわかってはいるものの、毎度モンスターボールから勝手に出てきては言うことを聞かずにどこかへと行ってしまう行動にはほとほと嫌気が差してきていた。
なんとか見失わないように走っていると、前方に海と桟橋が見えてきた。先程決めた目的地である海沿いの通りだ。いま走っている通りよりも車の交通量が多い。そんなところへシェイミが飛び出し事故があったら恐ろしいと瞬時に想像力を働かせたヨシノは焦り、より腕を振った。
見えていた海がだんだんと大きくなっていく。
海沿いの通りと走っている通りの交差点をシェイミが右に曲がるのが見えた。ヨシノも数秒遅れてその後を追う。曲がった先にいた人にぶつかり、すみませんと数回連呼しながら頭を下げた。再び後を追おうとするとシェイミが歩道の真ん中で立ち止まっていた。
ようやく逃げることをやめたのか、と息切れを整えながらヨシノは背後に近づく。そのとき、シェイミが前方をじっと見つめていることに気づいた。その視線を辿ると帽子をかぶった背の高い人が立っていた。
特徴的なのは緑色の長髪と、首、両手首、腰に身につけてあるアクセサリー。とくに腰に身につけられたキューブがひときわ目立つ。長髪であることを除けば身長や格好から男性と思われるが、帽子を目深にかぶっていて前髪も長いため顔がよく見えない。その人もシェイミのことを見ているようだが表情がわからない。
ヨシノは怪訝に思いながら、万が一何かが起こったときのためにすぐさまシェイミを戻せるようモンスターボールを手にしながら歩みを進めたが、すぐに立ち止まった。シェイミとその人だけの眼には見えない空間ができている気がしたのだ。
周囲の人は彼らに気が付いて避けて歩いたり、気が付かない人はその間を交差して歩いているが、それでもお互いの視線が揺るがずに繋がっている。
特別にシェイミがその人に対して恐怖しているというわけでも、好意を抱いているというわけでもなさそうで、且つ自分の手持ちであるというのにもかかわらず、今まで会ったこともない人と視線を合致させたまま動かずにいるという光景は異様だった。
一瞬、もしかしたら以前のシェイミのパートナーかとも思ったが、その割にはお互いに何も反応を示していないので、それはなさそうだと考えた。
どれほどの間そうしていたのかわからない。ほんの数秒か数分か。とにかくヨシノは緊張して動くことができなかったが、それを断ち切ったのは緑の髪の人だった。前から歩いてきてシェイミの前で立ち止まると地面から抱き上げた。
「――そうか」
「あの、私のポケモンです」
ヨシノはその人の元へと駆け寄って声をかけた。離れていても背が高いとわかっていたが、近くで見るとより実感できた。そして近づいたことで帽子の下の顔がわかった。とても端整で、男性とも女性とも見て取れるような中世的な顔立ちだ。歳は若そうである。
その人はシェイミから視線を外すとヨシノを見た。彼女が手にしているモンスターボールにも一瞥をする。そしてもう一度、彼女を見た。
その瞳はたしかにヨシノの眼を見つめており彼女の姿を捉えているはずなのだが、まるで瞳の奥にあるこれまでの自分のすべてを、あるいは別の『何か』を見られている、とヨシノは感じた。気味が悪い。
「キミが、この子のトモダチ?」
一瞬、何を言われているのかわからなかったが、すぐに頷いた。
たしかに友達だ。まだ自分のパーティに入ってから一緒に密度の濃い時間を過ごしたわけではないが、食事をするときは手持ちのほかのポケモンとも一緒に食べるし、寝るときも一緒に寝る。なによりイッシュ地方まではるばるついてきてくれた。
半ば強引に連れてきてしまったためかまだまだ言うことは聞かないし、ときどき勝手にどこかへ行ってしまう行動に振り回されて疲れてはいるが、シェイミを嫌いにはなっていない。お互いの距離はまだ遠いが友達だと思っている。
「そっか」
そう一言つぶやくと、その人は抱き上げているシェイミをヨシノの元へ戻そうとした。ヨシノはほっとして受け取ろうとしたが、シェイミがそれを拒んだ。短い手足をばたばたと動かして彼女の手から逃れようと身体をねじらせている。
「キミはこのイッシュに何をしに来たんだい?」
唐突なその言葉に、ヨシノは固まった。その人を見る。
「キミは、シェイミの〝心の声〟を聴いたことがあるかい?」
意味が理解できなかったが、その言葉は彼女の胸に響いた。おそらく、その人はシェイミとちゃんと向き合っているのかと問いたいのだろう。
思わず黙ってしまったヨシノに対し、それまでじっと彼女のことを見つめていた目つきから一変して、その人は優しく微笑んだ。
「立ち話もなんだし、よければ座って話さない?」
ヨシノはシェイミを見た。あれだけ自分には抱かれるのを嫌がっていたのに、その人には嫌がる素振りも見せていない。怪しい人に変わりはないが、変な人ではなさそうだ。
それにいきなり現れては変なことを言われ、おまけにシェイミの心をあっという間につかんでしまったことに、せっかくのイッシュ地方、一日目の朝から不愉快であった。このまま去ってしまえばもっと気分が悪い。
「――失礼ですけど、あなたのお名前は?」
「ボクはN」
エヌ。N? イニシャルか何かだろうか。変な名前だと思ったが、そんなことを思ってしまっては相手に失礼だと感じ、ヨシノは考えるのをやめた。
「Nさん、ですね」
「うん。キミは?」
「ヨシノと言います」
「よろしく」
Nはシェイミに視線を戻し、口を開く。
「キミは一度、彼女の元に戻るべきだ。大丈夫、彼女は優しいよ」
彼はシェイミに向かって話していた。
ポケモンは、人間の雰囲気や表情などを読み解くことに非常に長けていると言われている。それゆえ、人間の言葉を直接的にではないがおおよそ理解し、感情もだいたい感じ取ることができるとされている。
実際、種族も言語も異なるにもかかわらず彼らは人間を理解し、心を通わせて共存している。だからこそ、人間側もそれをわかって人とポケモンがともに暮らしやすい世界をつくろうと試行錯誤している。
生活のなかでは、少しでも心を通わせようとポケモンに話しかける人がほとんどだ。それによってお互いの間に信頼関係が生まれ、ともに生きることに対しての壁がなくなっていくのだ。
ヨシノ自身もいつも自分のポケモンに話しかけてコミュニケーションを取っているし、野生のポケモンがいれば餌をあげながら話しかけたりして仲良くなろうとする。ポケモンに話しかけることは普通のことなのだ。
このNという青年も、その普通のことをしただけだ。だが、普通のことのようだったが、普通には見えなかった。本当にポケモンの言葉がわかっているかのような、心がわかっているかのような――。
ヨシノの元にシェイミが戻ってきた。驚いたことに、先程とは打って変わっておとなしく素直に抱かれている。このNという青年はいったい何をしたのか、ますますわからない。
「じゃあ行こうか」
困惑しているヨシノをよそにNは歩き出した。その後を慌てて追う。まだついて行くことに返事はしていなかったが、彼のその不思議な力のようなものに引き付けられた。
ヨシノはシェイミを抱きかかえたままNの数歩後ろをついて海沿いの通りを歩く。
ふと海の方を見た。シェイミを追いかけていたりNと出会ったりしてちゃんと見ていなかったが、目の前には広大な海が水平線の彼方まで続いていた。ヒウンシティの港に着いたのも昨夜で周りは暗く、こんなにも街が海に近くて見渡せる場所だとは思ってもいなかった。
海沿いの通りは弧を描くように設計されており、海に向かって船の発着所である桟橋が数本伸びている。そして海沿いの通りから内陸に向かっても同じように数本の通りが伸びて大都市を形成し、それぞれの通りの先はひとつのセントラルエリアというところに繋がっている。
それぞれの通りは多くの車と人が行き来し、店や職場も多いためかとても賑わっていて、喧騒という言葉がぴったりと当てはまる。この海沿いの通りもたしかに車も人も多いのだが、どちらかというと主に車道が面積を占めており、人混みの具合は落ち着いている。
それに海風が気持ちいい。近くを飛んでいる鳥ポケモンのキャモメの鳴き声も心を落ち着かせてくれる。
やっと、これから新しい人生が始まる新天地に足を踏み入れたことをヨシノは実感した。自分が生まれ育った地を離れ、まったく知らない場所でこれから数年間生活する。
これから起こるであろう新しい発見や体験が待ち受けているかと思うと気持ちが抑えられないが、同時に右も左もわからない場所で、しかも異国の地で生活していくことができるのかという心配や恐怖があった。
同じ人間とはいえ、異なる文化や言語を受け容れて生活していかなければならない。もちろんその覚悟を持ってはるばる海を越えてきたのだが、自分のことを受け容れてくれるのかどうかも彼女は心配していた。
「――そういえば」
ヨシノが思い出しかのように言った。
「どうして私が育った土地の言葉を知っているんですか? 住んでいたことがあるんですか?」
前を歩くNの背中に問いかける。
「行ったことはないよ。ただシェイミの育った場所の言葉を偶然勉強したことがあるだけだよ」
Nは振り返ることなく、ただ肩越しにそう答えた。
偶然勉強したことがあるとはどういうことだろう。教科書か何かで勉強したことがあるならわかるが、それだけでここまできれいな発音で流暢に会話ができる水準まで達することができるのだろうか。
それに〝シェイミの育った〟と言った。〝心の声〟というものが本当に聴こえるとして、シェイミがそれをわかったうえで故郷のことを伝えたから、彼はそこの言葉を瞬時に使うことができたのだろうか。ますますわからない。
いろいろと訊きたいことがありつつ考えごとをしていると、Nが角を曲がって一本の通りに入っていったのでヨシノもその後をついて行く。
入った通りは、彼女が最初にいた通りよりも狭かった。それに人通りもそれほど多くない。
よく見てみると、カフェテリアやレストランといった飲食店の割合が多かった。その中でも営業している店と、まだ準備中なのか閉まっている店とで別れており、しかも前者のほうが少ない。現状だけを見ると裏路地という言葉が合いそうな雰囲気である。
それにしてもコーヒーやパンの美味しそうな香りが風に乗ってやってくる。ホテルで朝食を食べたはずなのに、匂いに刺激されてお腹が空いてきた。
通りの半分ほどの距離を過ぎようとしていたとき、Nがひとつの店の前で立ち止まった。
そのこじんまりとした店の上には店名――BW & Ashと書かれた看板が掲げられており、ドアにはまだ営業時間外であることを知らせる札が掛けられていた。窓にはブラインドもかかっていてはっきりと店が閉まっていることがわかった。
閉まっていることを伝えようとしたとき、Nが店と店の間にある脇道に入った。ごみ箱やごみ袋が壁に沿って置いてある。Nはそれらを素通りして、おそらく店の裏口へと繋がっているであろうドアの取っ手を躊躇なく回した。
「どうしたの?」
ヨシノがついて来ていないことに気づいたNが問いかける。彼女は脇道の入り口で佇んでいた。
「いや、その……」
ヨシノは危険を察知していた。人通りは少なかったが営業している店もいくつかあるし大丈夫だろうと思っていたが、まさか営業していない店に連れ込まれるとは思いもしなかった。
それも朝からだ。こんなところで襲われては堪ったものではない。好奇心だけでやはり知らない人にはついて行くべきではなかった、と自分の危機管理能力の甘さを恥じた。
その場から一刻も早く立ち去ろうと一歩後退ると、腕の中のシェイミが彼の元へと行きたいかのように手足を前に伸ばした。シェイミの行動に驚いていると、早く前に進めと言わんばかりにより一層手足を暴れさせた。
「わかったわかった、行くって」
なにもかも訳がわからないまま、ヨシノは渋々Nの元に歩いて行った。万が一襲われたときにすぐに対応できるよう、腰のベルトに装填してあるモンスターボールの存在に意識を集中させる。
ヨシノが入ると、Nはドアを閉めた。
暗い。店に入った彼女が最初に抱いた感想はそれだった。電気は点いておらず、ブラインドから入るわずかな日の光だけでも店内の様子はわかる。しかし、雰囲気が暗かった。今はもうあまり使われていないような、どことなく寂しさが残っていた。
「好きなところに座って」
Nはそう言って階段横の扉を押して中に入っていった。一瞬だったが、中は段ボール箱の山やキッチンらきしものが見えた。厨房のようだ。その横には二階へと続く階段がある。
ひとまず、カウンター席に座ることにした。その席のほかにはテーブル席がいくつか置かれていたが、机上には椅子が逆さにされて乗っていた。
両壁には一枚ずつ絵が掛けられていた。
ひとつは、二人の人物と二匹のドラゴンが描かれている。二人はそれぞれ白いドラゴンと黒いドラゴンの元に描かれており、お互いに顔を背けている。二匹のドラゴンも同じように身体を絵の外側に向けている。その真ん中には一本の塔が悠々と描かれていて、天と地を繋いでいるようにも、その二組を分けているようにも見て取れる。
もうひとつは、雪山で一匹の灰色のドラゴンが天を仰いでいる絵だ。雪で覆い尽くされてしまったそこには何もなく、一匹がそこに描かれているのみだ。
「その絵が気になるの?」
Nがポケモンフーズを盛った皿を持って現れた。それを床に置き、お食べ、とシェイミに声をかける。シェイミはヨシノの腕から飛び出し、ポケモンフーズを食べだした。
「……ありがとうございます」
彼女はそう言うと、絵に視線を戻した。
「この描かれている生き物はポケモンですか?」
「うん。イッシュに古くから伝わる伝説のポケモンだよ。白いのがレシラムで、黒いのがゼクロム。灰色のはキュレム」
「じゃあ、その二人の人間は?」
「彼らもその三匹と同様、イッシュの古い人物で双子の兄弟だよ。〝英雄〟と呼ばれている」
「〝英雄〟……?」
ヨシノは首を傾げた。イッシュ地方を何かから救ったのだろうか。
「こっちの――キュレムはどうして一緒に描かれていないんですか?」
キュレムは一匹だけ、英雄ともほかの二匹とも一緒には描かれていない。雪山で天を仰ぐその姿は孤独そのもので、ヨシノは寂しく感じた。
「それは――」
「それにはわたしがお答えしましょう」
Nがヨシノの質問に答えようとしたとき、ひとりの老人が階段の上から現れた。口周りに白い髭を生やし、白シャツにベスト、黒いチノパン。このカフェのマスターのような恰好をしている。ゆっくりと二人の元に行くと、彼はカウンターの中に入った。
「N様、お越しになるときはご連絡を、といつも言っておりますでしょう」
その言葉に、Nは含み笑いをしただけだった。
ヨシノはすぐにその老人の言い方に反応した。Nは、どこかの子息か何かの人物なのだろうか。それにしては恰好がラフな感じがするが。
「こちらのお嬢さんは?」
「ヨシノ。異国の地からはるばるイッシュへとやって来たんだって」
これまで話していた言語からイッシュの言語に変えてNが答える。ヨシノは軽く会釈をした。
「そうですか。わたしはN様と違って、他国の言葉を話すことができないので……申し訳ありません」
「あ、いえ、イッシュの言語なら勉強していますのでだいたいわかります」
微笑みながらそう答える。同様にその老人もヨシノに対して微笑みを浮かべる。彼はロットと名乗った。
「このイッシュは人もポケモンも関係なく、昔からさまざまなものを受け容れて絶えず変化している場所です。もちろん、ヨシノさんを歓迎しますよ。イッシュ地方へようこそ」
ロットは手際よくコーヒーを淹れ始めた。コーヒー豆のいい香りが部屋を包み込み始める。
「さて続きになりますが、キュレムは〝虚無〟のポケモンと呼ばれています」
「〝虚無〟、ですか……」
「ええ。順を追ってお話しましょう」
レシラムとゼクロムはイッシュ地方の神話に登場するポケモンで、イッシュ地方の歴史に大きくかかわっているという。
二匹は今でこそ対となるポケモンとして知られているが、元々は一匹のポケモンだった。そのポケモンは双子の英雄と協力して新しい国を建国し、それが現在のイッシュ地方の元となっているらしい。
しかしいつしか双子は仲違いをし、兄は〝真実〟を、弟は〝理想〟を求めて対立し始めた。さらにその争いは、一匹のポケモンを分裂させてしまうこととなり、レシラムとゼクロムが生まれた。そのときに抜け殻として残ったのがキュレムであった。
そしてレシラムは真実を求める兄に、ゼクロムは理想を求める弟にそれぞれ分かれて争った。その後、双子の争いは収束したが、彼らの子孫が同じように争いを始めた。そのことに怒った二匹は、イッシュ地方を焼き尽くし姿を消したと言われている。
「イッシュの建国に携わったドラゴンポケモンが、今のレシラムとゼクロムなんですね」
「そういうことです」
「レシラムとゼクロムのことはわかりました。キュレムがどうして虚無のポケモンと呼ばれているのかも。ですがキュレムは、生まれた後はどうなったんですか?」
ヨシノの言葉に、ロットは困ったように微笑んだ。
「それが詳しいことはわからないのです。キュレムに関しての文献はほとんどありませんので……。しかし言い伝えでは、失われた心と体を埋めるために真実と理想の英雄を待つ、と言われています」
真実と理想の英雄を待つ虚無のポケモン。それがキュレム。それが、あの壁の絵によく表れている。伝説とされているポケモンにそんな過去があったとはまったく考えられなかった。
ヨシノが悲しげな表情をしていることに気づいたロットは、何かを察したように優しく微笑みながら彼女の目の前に淹れたてのカフェラテを差し出した。
「どんな人にもどんなポケモンにも、悲しい過去はあります。過去と向き合うからこそ、成長して前に進めるのです。驕りは捨てて、自分の〝声〟を聞いてみてください。そうすれば自ずと周りの〝声〟も聞こえるでしょう」
声……。Nも、〝心の声〟という言葉を口にしていた。おそらく言葉通りの意味だろうが、言い換えれば、普段は口にすることのない、心の奥にしまい込んでいる本当の気持ち、といったところだろうか。
ヨシノは、食事を終えて毛づくろいをしているシェイミをちらりと見た。
彼女は幼いころから、祖父の影響もあってとくに草タイプのポケモンとたくさん触れ合ってきた。おかげで物心がついたときから草タイプのポケモンが大好きで、祖父のように草タイプのポケモンを使わせたら右に出るものはいないと言われるほど強くなりたいと思っていた。
だからこそ草タイプについてはかなり勉強したし、弱点を克服するためにほかのタイプのことに関しても熱心に勉強した。さらにポケモンバトルにおいて手持ちのポケモンの力を最大限に発揮させるために、その生態についても深く勉強した。
だからこそ地元では「草タイプしか使わないのにバトルが強い子どもがいる」と呼ばれていてちょっとした有名人だった。そして祖父の後押しもあって、己を強くするためにもここまで留学しに来たのだ。草タイプを極めるための新たな一歩を踏み出せることが決まって意気込んでいた。
しかし、シェイミだけは違った。小さい頃から草タイプのポケモンとたくさん触れ合ってきて、たくさん勉強して、たくさん心を通わせて、彼らの気持ちを誰よりも理解しているつもりだった。だがそのシェイミは心を通わせようとしてくれなくて、反対につい先程出会ったばかりの彼にはおとなしい態度を見せてしまった。
「キミとボクとに対するシェイミの態度の違いは何だかわかるかい?」
ヨシノがちょうど考えようとしていたところで、まるで心を読んでいたかのようにタイミングよくNが質問してきた。彼女は無言で首を横に振った。正直なところ、わからなかった。
それを見て、Nは優しく微笑んだ。
「〝誇り〟や〝驕り〟と言い換えられるかもしれないが、キミの場合は〝過去〟と言った方がわかりやすいかもね」
「過去、ですか……?」
まだそんなに長く生きていないけど……。
「シェイミが、キミが一緒に暮らしているトモダチから、キミのこれまでの出来事を聞いたみたいだ。暮らしていたところでは、キミは草タイプを使うトレーナーでバトルも強かったみたいだね。有名人だったみたいだ」
「まあ、少しだけ……」
「そしてキミのトモダチとの信頼関係は強いようだね。幼い頃から一緒に生活してきて、お互いをよく理解し合っている。だからこそ、もっとほかの、とくに草タイプのポケモンとトモダチになりたがろうとする。自分は草タイプのことを誰よりも知っているから、これまで何度も心を通わせてきたのだから、これでまた極みに近づける、と」
ヨシノはハッとした。思い出したのだ。手持ちのタイプを統一してバトルに勝つというのは簡単なことではない。ましてやタイプの専門家と言われているジムリーダーでさえ、並々ならぬ鍛錬と勉強の結果、あの地位に就いているのだ。
だが彼女の場合は環境も相まって急速に成長することができた。草タイプのことをよく理解していると言われ、ポケモンバトルが強いと言われ、町を歩けば声を駆けられ、いつしか誇りは驕りへと変わりかけていた。
自分でも気づいていた。このまま才能を過信してはいけないとわかっていた。けれど、その強い気持ちを保っていなければ、それを失ったときに自分に何が残っているのかわからない恐怖から、気づかない振りをしていた。
それに、自分の存在を知っている地元という環境が怖かった。急にバトルを申し込まれることが多々あり、こんなところで負けてはいけないという思いから、いつも休まらない心と体を抱えて町を歩くのは大変だった。
そこから少しでも離れたいこともあり、誰も彼女のことを知らないであろうイッシュ地方に、祖父が提案してくれたこともあってやって来た。
「キミは自分の気持ちばかりを考えて、シェイミの過去に心から向き合おうとしていなかった」
私は、自分のことばかり考えていた――。
言葉と考えが合致したとき、ヨシノの目に涙が溜まった。
「キミが優しい子なのはわかっているよ。キミのほかのトモダチがそう言っているし、シェイミもそれはわかっている。ただシェイミは、キミの気持ちを無理やり自分に押し付けられるのが嫌なんだ」
ヨシノは無言でうなずいた。
「シェイミはキミに助けられたようだけど、なぜあんなにも重症だったのか。それは以前のトレーナーがシェイミに酷い扱いをしていたからなんだ」
Nは静かにシェイミの過去を話し始めた。
シェイミの以前のトレーナーは、優しかったらしい。それこそ、今のヨシノのようにほかの手持ちのポケモンにも野生のポケモンにも等しく接していた。そんな姿を見ているのが、一緒に生活しているのがシェイミは大好きだった。
そのトレーナーは、いつしかポケモンリーグに挑戦していた。しかし本選に出場する前に呆気なく敗退してしまった。力の差を痛感し、それからというもの、これまで以上に強さを求めるようになった。
そして当然ながらシェイミも執拗に強さを求められた。少しでも指示通りに動けなければ暴力を振るわれ、罵倒された。それでもシェイミはトレーナーのことが好きだった。ずっと一緒に旅をしてきたから。本当は心の優しいトレーナーの姿を知っていたから。
しかし、トレーナーは以前の姿には戻らなかった。そのうち、これまで一緒に生活してきた手持ちのポケモンを一匹、また一匹と逃がし、新しいポケモンをパーティに加え始めるようになった。次々といなくなっていく仲間の姿を見て、心がはちきれそうになった。どうしてこんなことになってしまったのだろうか、と。
そしてシェイミも例外ではなくなってしまった。突然、「好きなところへ行け」と言われたのだ。訳がわからないまま、去っていこうとするトレーナーの後をついて行こうとすると、いきなり同じパーティにいたポケモンから攻撃されて追い出された。攻撃してきたポケモンも悲しそうな表情をしていた。
それから、シェイミは当てもなく彷徨い続けた。優しかったトレーナーが変わってしまったこと、仲間が去っていってしまったこと、自分が追い出されたこと、すべてにショックを受けて悲しくて、生きる気力を失った。
そんなとき、ヨシノが命を救ってくれた。
「シェイミは、助けてくれたキミに感謝しているようだよ。でも――」
「でもシェイミは、まだ過去を乗り越えられない……」
Nはヨシノの言葉にうなずいた。
シェイミは過去の出来事がトラウマになっていた。ヨシノも今は心優しいが、いつかはあのトレーナーのようになってしまうのではないかと恐れていた。そんなことは二度とあってほしくない。それならば最初から必要以上のコミュニケーションを取らなければいいとシェイミは思っているのだろう。
「どうするかは、あとはキミ次第だよ」
それ以上、Nは何も言わなかった。
ヨシノは椅子から降りてシェイミの前に膝をついた。そっぽを向いていたシェイミが彼女を見上げる。
シェイミの過去を知らなかったとはいえ、彼女は反省していた。正直なところ焦っていたのだ。まだ出会ってからそんなに時間が経っていないが、彼女の今までのやり方なら大抵のポケモンならすぐに懐いてくれた。しかしシェイミだけは違い、懐いてくれる気配すら見せてくれなかった。
こんなところで躓いていたら夢から遠のいてしまう。少しでも早く夢に近づきたいし、これから始まる新生活にも早く馴染みたい。シェイミに手こずっている場合ではないと思ってしまったのだ。
その思いが抑えられなくなってしまい、自分の気持ちをいつの間にか押し付けるような言動をとってしまっていた。
「今までごめんね。あなたの気持ち、ちゃんと考えてあげられてなかった。これからはゆっくり時間をかけて、あなたと仲良くなりたい」
ヨシノはシェイミの瞳から視線を外さなかった。シェイミもまた、彼女のことをじっと見つめる。
「あなたの過去をなかったことにはできないけど、二度と苦しんだりしないよう、私はあなたの過去を幸せな出来事で塗り替えてあげたい。あなたに幸せを届けたい」
シェイミと一緒に旅がしたい。最高の出来事を体験させてあげたいと心の底から思った。
「これから私と一緒に、私のポケモンたちと一緒に、思い出に残る生活をしてみませんか?」
ヨシノはシェイミに微笑んだ。この新しい場所で、自分を大きく成長させたい。それは自分ひとりではできない。ポケモンがいてこそだ。シェイミと一緒に成長したい。
シェイミは俯いて、そのまま固まってしまった。何も動きを見せようとしない。
やはりだめなのだろうかと諦めかけてヨシノも下を向いたとき、膝の上に何かを感じた。小さくて可愛らしいシェイミの手が置かれていた。シェイミが彼女のことを見上げている。
ヨシノはシェイミを抱き上げると、両腕で優しく包み込んだ。
「ありがとう」
ただひと言、ヨシノは囁いた。シェイミは満更でもない様子でおとなしく抱かれた。
「これから築いていく時間はかけがえのないものになります。楽しいことも辛いことも経験するでしょう。でもそれを一人で抱え込んだりポケモンにぶつけたりせずに、分け合ってください。その中で時間をかけてお互いを理解していってください」
カウンター越しにロットが言う。Nにもコーヒーを淹れた。
シェイミを抱いたまま椅子に座る。冷めてしまったカフェラテを飲むが、美味しかった。ロットの言葉とともに喉を通る。シェイミはすっかりおとなしくなっていた。
「Nさんは本当に心の声が聴こえるんですね。私、疑っていました」
「キミにも聴こえるはずだよ。ちゃんとポケモンたちの声に耳を傾けていれば、聴こえなくても聴こえるんだ」
ヨシノは膝の上で丸くなっているシェイミの背中をなでた。シェイミの頭に咲いている花の甘い香りが鼻をくすぐる。
「私、この子たちと頑張ります。みんなで最高の世界を見たいです」
彼女の言葉に、Nもロットもうなずいた。彼らは優しく微笑んでくれていた。
その後はすっかり打ち解けて、ヨシノは草ポケモンのこと、地元のこと、祖父のこと、このイッシュ地方に来た目的のこと、夢のことなど、自分のことに関して話した。
「ほう、留学ではるばる海を越えてイッシュへとやって来たのですか」
「はい。スクールの開始は二週間後なんですけど、時間があるのでそれまでは簡単にイッシュを回ろうと思っていて。寮の手続きだけ済ませるために早めに来たんです」
「なるほど。留学となると、もしやライモンにある国立のスクールですか?」
「はい、そうです」
ロットは感嘆した。なにせ国立のスクールに入ることは簡単なことではない。国立のスクールは世界共通でルールが決められており、現状では各地方に一つずつしか建立することができない。
これは、ゆくゆくはジムリーダーや四天王、チャンピオンや研究者といった、その国に、世界に貢献する能力をもった人材を輩出することを目的として造られているためである。そのため、その地域の人が入学するのも難しいとされているのだが、留学生ともなると尚更審査が厳しいという噂である。
「それはたまげましたね。ぜひとも頑張ってください」
「ありがとうございます。なので、ここを5時のバスで出発する予定です。それまでは時間もあるし、都会の風を感じようと思っていたんですけどトラブルがあって……」
ヨシノは苦笑いをした。
「なるほど、そういうことでしたか」
「それならボクがこの街を案内しよう」
今まで黙って話を聞いていたNが口を開いた。
「N様、それは――!」
Nの発言に驚いたかのようにロットが話を制する。それからは近くにいるヨシノにも何と言っているのかわからないほど早く小声で二人は会話をしだした。時間とか外に出るなとか、ところどころは聞き取れるのだが全体的な会話の流れが把握できない。
「あの、ロットさんの言葉でずっと気になっていたんですけど、Nさんって御曹司か何かなんですか?」
失礼だろうかと思いつつも彼女は訊いてみた。
二人は会話をやめてヨシノを見た。返答に迷っているような表情をしている。とくにロットの方はなんとも言い難い顔だ。
「まあ、そんなところですね」
明らかに怪しい返事だったが、訊いても何も出て来そうにないと瞬時に判断したヨシノはそれ以上何も言わなかった。
「とにかく、ボクは彼女を連れて出るよ。心配しなくても時間通りの船に乗るから大丈夫だよ」
Nは何かを諭すようにロットを見た。
「Nさんもどこかへ行くんですか?」
「うん、旅をしようと思ってね。まずはカントーへ行くつもりだよ」
ヨシノも一度は旅をしてみたいと思っていた。しかし自分にまだまだ力が足りなく、なにより夢を早く叶えたかったのでスクールに通うことを決めたのだ。ただ入学までにはまだ時間があるためそこでイッシュ地方を知ることも兼ねて小規模な旅のような、旅行のようなことをしようと考えていた。
「だからロットも早くここを出た方がいい」
ロットは何か言いたげだったが言葉を飲み込んだ。
「お店、やめちゃうんですか?」
「ええ、歳も歳ですから……」
だから寂し気な雰囲気が漂っているのか、と理解した。お店に入って来たときからどこかもうあまり使われていない感じがしていた。その理由が閉店のことなら納得がいった。
「わかりました。片付けが終わり次第、わたしもすぐにでも出ましょう」
Nに何を言っても無駄だとでも言いたげな表情をしながら、しかしその眼差しは優しく、どこか寂しく、ロットは答えた。
「しかしその前に昼食を。もうお昼ですし、わたしの最後の手料理をあなた方に奮わせてください」
ロットは奥の厨房へと姿を消した。
「ありがとう、ロット。楽しみだよ」
厨房で作業をしている彼には聞こえないくらいの、ただの独り言のようにNは感謝を述べた。
昼食を終えた二人はモードストリートと呼ばれる通りに来ていた。すでに正午を過ぎており、朝に見たビジネスマンたちのほかに買い物客や観光客も加わって通りはさらに賑わっていた。真っ直ぐ歩くことがますます困難になっている。
昼食を食べ終えて店を出るとき、ロットがNに言っていた言葉をヨシノは思い出していた。「N様、どうかお気を付けて」。たしかにロットはそう言った、心配そうな顔で。やはりNは御曹司か何かなのだろう。
旅には当然ながら危険が伴う。送り出す側としては心配することは普通だろう。しかし彼の言葉にはそれ以上の気持ちが含まれているような気がした。なにか別なことを案じているような……。
「あの、Nさんとロットさんはどういうご関係なんですか?」
「……ボクを支えてくれる大切な人のうちのひとり、かな」
「親戚の方ですか?」
「まあ、そんなところかな」
はぐらかされたことにヨシノは気付いた。カフェでもそうだったが、ロットも今のように返答に詰まるところを見せていた。彼らは何かを隠しているが、それを言えないほどの秘密なのだろう、と彼女は察した。
ふとヨシノは気付いた。彼の素性も老人の素性もまったくわからない。思い返してみると彼らのことは何も知らない。ほとんど自分のことばかりを話してしまっていた。唯一わかっていることはNがポケモンの声を聴くことができるということくらいだ。
しかし不思議と一緒にいても嫌な気持ちにはならないし、むしろこちらのことを話してしまいたくなる魅力があった。聴く力に長けているというか、包容力があるというか。
「カントーへはどうして旅を?」
「……そうだね、なんと答えればいいんだろう……」
Nはヨシノを見て、次いで一瞬だけ空を見た。
「ボクが今まで見ていた世界はあまりにも狭すぎた。それゆえ、目先のことしか見えていなかった」
一拍おいて再び話し始める。
「結果的に、得たものもあれば失ったものもある。そして多くを傷つけてしまった」
ヨシノは黙って彼の言葉を聞いた。
「ボクには自分の眼で見て、自分の耳で聞いて、自分で考える必要がある。この世の真実と理想を確かめたいんだ」
彼の口調から大きな信念のようなものをヨシノは感じ取った。おそらく隠していることに何か関係があるのだろうと考えた。かなり気になるが、おそらく教えてはくれないのだろう。
「イッシュにはいつ戻ってくる予定なんですか?」
スクールには7年間通わなければならないため、その期間内に戻ってくるのであれば旅の話を聞きたい、と彼女は思った。
「それはわからないかな。もしかしたらすぐ戻ってくるかもしれないし、しばらく戻らないかもしれないし」
自分の答えが見つかるまで旅をするのだろうか。しかしそれもそれで悪くない。一ヵ所に留まってくすぶっているよりはよっぽどいいだろう。
「どこかでまた会えたら、旅のお話を聞かせてください。私、7年間はこっちにいるので」
その言葉には返事をせず、Nは微笑んだだけだった。
話しながら歩いていると、前方の路上に人だかりができているのが見えた。売店を囲んで多くの人と彼らが連れているポケモンがいる。ヨシノにはそれがいったい何なのか即座に理解できた。
「もしかしてあれってヒウン名物のアイスクリームですよね? 私、食べたかったんです!」
突然の興奮気味なヨシノを見たNは少し驚いた。これまでで一番気分が上がっているのが一目でわかった。
「そうなの? ボクは噂でしか聞いたことがないけど」
「食べたことないんですか! じゃあ、この機会に行きましょう!」
今までNの一歩うしろを歩いていたヨシノが、彼よりも前に出た。滑らかな動きで人の間を縫っていく。つい数秒前まで彼女がいたうしろを肩越しに見やるとすぐにNも追いかけた。
店の周りには商品を購入しようとする人で賑わっていた。特に女性が多い。夏の終わりに差し掛かっているというのに、売れ行きが良いように見える。
そうでなくとも、ここのヒウンアイスはイッシュ名物として知られているためかなりの人気だ。冬は販売していないが、それ以外の季節なら常に人だかりができるほどである。
「さすが名物というだけのことはありますね。買えるかな……」
ヨシノは客の多さに驚いたのか、思わず唸っている。
客は列をつくらず、買う味が決まっている人から注文していた。買う味に悩めば悩むほど後から来た人でも遠慮なく買っていく。
味の種類はかなり豊富だった。バニラやチョコレート、ストロベリーといった定番の味から、味をミックスさせたもの、それはいったいどんな味だと考えてしまうものまで幅広い。全種類食べてみたいという思いにさせてくれる。
何を食べようか悩んでいるとカウンター上のものに目が留まった。白いソフトクリームから手が生えている。思わず隣のNの服を引っ張った。
「カウンターの上にいる、あのソフトクリームみたいなのはポケモンですか?」
「うん。バニプッチという氷タイプのポケモンだよ」
「やっぱりポケモンなんですね! 食べたくなるくらい可愛いですね!」
なるほど看板ポケモンといったところだろうか。ヨシノはまじまじとそのポケモンを見た。食べ物であるソフトクリームに似たポケモンなど今まで見たことがなかったのだ。この地方には珍しいポケモンがたくさんいそうだ、と心が躍る。
二人は無難にバニラ味を頼んだ。アイスが出来上がるのを待っている間、ヨシノは人差し指をバニプッチの顔の前で行ったり来たりさせて捕まらないようにして遊ぶ。Nはその光景をただじっと見つめていた。
アイスを片手に再び二人は街中を歩きだした。夏の日差しがアイスを容赦なく溶かしていく。
その後Nはヨシノに連れ回された。雑貨屋へ行ったり、ヒウンシティで一番高いビルに上ったり、ウインドウショッピングをしたり、食べ歩いたり。
年頃の女の子は流行に敏感で、主に独り言だったのだが、彼女はあらゆるものに対して「可愛い」を連呼していた。もちろん彼にも同意を求めてくるのだが、今まで経験したことのないことばかりで、とにかくすべてのことが彼にとっては新鮮だった。
ヨシノは彼を見ていた。感情を表に出すことがあまり得意ではないようだけれど、彼は楽しんでいる。一つひとつのことに興味を示し、自分のものにしようとしている。最初に出会ったときとは雰囲気が違う、と彼女は感じていた。
しかし彼は時折、周囲を気にするような素振りを見せた。周りを窺って人とポケモンを見ている。人間と一緒にいるポケモンの心の声を聴いているのだろうか。
広い街を歩いていると時間はあっという間に過ぎていった。徐々に日が暮れ出し、街灯がつき始める。
二人は、ヒウンシティのすべての街道が一ヵ所に直結しているセントラルエリアのベンチに座って、缶ジュースを飲んでいた。少し離れたところにはその広場の象徴ともいえる大きな噴水がある。
もうすぐ、この場所からライモンシティ行きのバスが出る。すでにチケットは取得済みで彼女の荷物も預けていたホテルから受け取ってきた。あとは時間を待つばかりである。
「今日はありがとうございました。初対面だったのに、なんだか楽しかったです」
ヨシノは律儀に礼を言った。
最初は本当にNのことを不審者だと思っていた。心の声が聴こえると言っている彼を怪しいと思っていた。だがシェイミのことに関して知っていたことが、彼への見方を変えた。
本来ならついて行かない方が賢明だろうが、今ではその行動は良かったと思える。彼のおかげでシェイミのことを知ることができたのだ。
「私、ちゃんと自分とも向き合いながら、ポケモンたちと向き合っていきたいと思います」
草タイプを極めようとしている彼女にとって、シェイミの気持ちが理解できないのはすごく悔しく、悲しく、もどかしかった。周りからの声援と自分の力に自信を持っていた。誇りを持っていた。その誇りが時に妨げになることを分かっていてもうまくコントロールができず、意地を張ってしまった結果だった。しかしそれを彼が救ってくれた。
「……キミならすぐにシェイミの心の声を聴くことができるよ」
Nは穏やかに言った。ヨシノが微笑む。
「心の声は〝天からの授かりもの〟ですね」
「〝天からの授かりもの〟か……。おもしろい表現をするね」
今まで少し俯いていたNが顔を上げて遠くを見た。その目はどこか寂し気である。何かまずいことにでも触れたのだろうかとヨシノは心配になり、手元の缶ジュースに視線を落とした。
「そうは思わないんですか?」
ヨシノの問いにNは固まった。その答えを知りたいのは彼の方だった。
彼はこの能力が悪用されたことを思い出していた。この能力を使って自分でも良かれと思ってしていた行動は、人もポケモンも傷つけてしまった。なにより彼も傷ついた。彼が思い描いていた理想とは異なり真実は残酷だった。
「――わからない」
Nはひと言、そう呟いた。
「この能力を使って自分が何をしたいのか、どう使うべきなのか、わからない」
Nは目の前の景色を見た。噴水の周りではいろいろな人とポケモンが触れ合っている。彼らは幸せそうで、お互いに繋がっているように見える。姿形も使用する言葉も違うけれど、たしかに見えない何かで繋がっている。
「大丈夫です。きっと答えは見つかります」
Nは隣にいるヨシノを見た。彼女は真っ直ぐ前を見ている。
「Nさんのその力は絶対にNさんの力になると思いますし、誰かのためにも役立つと思います。少なくとも私の助けになってくれました。使い方はこれからの旅がきっと教えてくれます」
ヨシノはベンチ横のごみ箱に空き缶を捨てるために立ち上がった。
「――なんて、ちょっと上から目線でしたか?」
Nは微笑みながら、彼女と同じように席を立った。
「いや、その通りかもしれない」
一陣の風が二人の間を通り抜けた。ヨシノの出発の時間が迫ってきている。
「バトルしませんか?」
ヨシノが思いついたようにポケモンバトルを提案する。彼女としてはこの不思議な青年と勝負しておきたかった。彼は何を考えているのかまったくわからないからこそ魅力的なのであり、どのような戦術を使うのか興味があった。
それに同じポケモントレーナーとして、これがシェイミのことや今日一日のことに対しての一番の礼儀だろうと考えた。
「……キミはポケモンバトルをどう思っているんだい?」
またおかしな質問が来た、とヨシノはふっと笑った。
でも彼はその問題を解き続けることで、彼なりの答えが見つかっていくのだろう。たとえほかの人が疑問に思いながらも口にしないことを彼は口に出す。おかしなところはあるが、彼はきっとこれから成長していくに違いないし、答えを導くためのヒントになりたいとヨシノは思った。
「私は、人とポケモンが絆を確かめ合う方法のひとつだと思っています。トレーナーはポケモンを信じて指示を出して、ポケモンはトレーナーを信じて指示を聞く。それはお互いに信頼関係がないとできないことだと思います」
「それを確かめることのひとつがポケモンバトル?」
ヨシノは頷いた。
そうか、とNは小さく呟くと彼女から背を向けて歩き出し、少し進んだところで立ち止まり再び彼女の方に向きを変えた。その手にはモンスターボールが握られている。
その絆というのを見せてくれないか、と無言で問いかけられているのをヨシノは瞬時に悟った。自分の発した言葉が、これまでの経験が確かめられようとしていることに武者震いをする。
「使用ポケモンは一匹、道具の使用はなしのシンプルなバトルでいいですか?」
ヨシノの問いにNが頷く。
腰のベルトに装填してあるモンスターボールは三つ。彼女はシェイミをモンスターボールから出した。シェイミは状況が理解できていないのか周りを見た後ヨシノを見上げた。
「シェイミ、お願いがあるの。あなたに私がこれからするバトルを見てもらいたいの」
彼女は自分のバトルスタイルをシェイミに見てもらいたかった。どれほどポケモンを信頼しているのか、ポケモンの方もどれだけ自分のことを信頼しているのか。
その関係を築いていくのはこれからの生活であることをシェイミに理解してもらいたかった。困難などが待ち受けていても一緒に乗り越えて、楽しく笑い合いながら強くなっていきたい。彼女は思いを届けた。
シェイミはNを見た後、ヨシノに対して力強くうなずいた。
「ありがとう」
ヨシノはシェイミをなでるとNの方に向き直った。手には別なモンスターボールが握られている。
「私と一番長く一緒にいるこの子で勝負させてもらいます!」
彼女のモンスターボールからは、しんりょくポケモンのリーフィアが出てきた。様々なタイプに進化するイーブイの草タイプの姿である。
彼女の言う通り、そのリーフィアはよく鍛えられているのが一目でわかった。筋肉のつき方、眼力、体毛の艶やかさ――。すべてが美しくて力強い印象を受ける。ずっと一緒にいるだけあって、ものすごくケアをしてきたのだろう。草タイプの世界一を目指しているだけのことはある。
Nは向かい側の女の子とそのポケモンを交互に見る。可愛らしい彼女の姿からは、ポケモンと同じく本気で満ち溢れていた。
帽子を目深に被りなおすとNはモンスターボールを前方に構えた。その中から出てきたのはばけぎつねポケモンのゾロアーク。ゾロアというポケモンが進化した姿である。
当然ながらヨシノにとって彼が使うポケモンを見るのは初めてだった。狐のような顔をしていて全身は黒で染まり、たてがみは紅い、二足歩行のポケモン。見た目からして悪タイプであることは予想できるが、技や能力、戦い方はまったくわからない。決して気を抜けない戦いである。
先に攻撃をしかけたのはヨシノだった。彼女の指示に従い、リーフィアは尻尾を鋭く尖らせながら相手へと駆けていく。〝リーフブレード〟という技である。
しかし、Nの指示でゾロアークにその攻撃をかわされる。すぐさまリーフィアは反撃されないように間合いを取った。
「キミのリーフィア、なかなかの素早さだね。」
「この子は私が小さい頃からずっと、イーブイの時から育てているんです。言わば私の半身みたいな子。強いですよ!」
そう言った彼女の瞳は燃えていた。よほどそのポケモンには思い入れがあるのだろう。止めどない自信が彼女から溢れているのをNは感じた。
「次はNさんからどうぞ」
「――それじゃあ遠慮なく行かせてもらうよ。ゾロアーク、〝つじぎり〟」
駆け出したゾロアークは相手の元まであと半分というところで高く跳躍し頭上から鋭い爪を振り下ろした。その攻撃は見事に当たり、リーフィアは衝撃で後方に吹き飛ばされる。
「……やりますね」
「ボクもキミと同じように、このゾロアークには思い入れがあるんだ。やるからには負けられないよ」
そこから二匹の技の押収が始まった。リーフィアは〝リーフブレード〟を、ゾロアークは〝つじぎり〟の技をひたすら打ち続けている。攻撃して、受けて、かわして。ただそれだけのことのように見えるがポケモンバトルは奥が深い。
漠然と技を放つといってもそれにはたくさんの種類がある。まずはそのポケモンの能力から始まり、そのポケモンが何に秀でているのかを見極める。
例えばリーフィアなら物理的な攻撃能力が高い。そこで物理技を中心に相手と戦うわけだが、相手とのタイプの相性も考えながら技を出していかなければ決定的なダメージは与えられない。
他にも変化技というのがあり、相手をまひ状態やねむり状態にさせ、こちらに有利な状況をつくりながら戦う方法もある。
しかし何よりも重要なのはポケモントレーナーの観察眼と適切で的確な判断を下すことである。バトルを行っている地形や天気といった環境を最大限に生かしながら戦うには常に戦闘場所の全体を見通せることが重要である。それを頭に入れながら、相手の動き方から死角を探していく。
そしてどのような場面でどのような技を放つのかといったタイミングの判断。トレーナーはポケモンが動くたびに、これらを瞬間的に頭の中で展開しながらバトルの流れを読み、ポケモンを戦わせる。
単純そうに見えるかもしれないが、実はかなり頭を使う競技なのである。そうでないと、ポケモンをただ傷つかせて終わってしまう。
「リーフィア、〝シザークロス〟!」
ゾロアークの懐に飛び込んだリーフィアは技を放った。これは虫タイプの技であり、悪タイプのポケモンに与える効果が大きい。
しかしゾロアークは地に膝をつけるもまだ耐えている。
「……そんな技まで覚えているなんてね。出し惜しみしないで最初から出せばいいのに」
Nが少し驚いた表情で言った。
「とっておきは最後に出すものです。それも戦略の一つですから。でも本当は今の一撃で決めるつもりだったんですが、さすがに都合よくはいきませんでしたね。それでも今の攻撃は効果があることがわかりました」
ヨシノはゾロアークの俊敏な動きに内心、驚嘆していた。リーフィアの技が当たる直前、ダメージを軽減するためにわずかだが身体を後方に逸らしていた。
それさえなければ勝負をつけられたのに、と悔しがるが表には出さない。冷静さを欠いてしまうと判断に支障をきたすほか、それがポケモンにも伝わって焦らせてしまい、その結果調子が崩れて負けてしまうということはよくある話だからだ。
それでも勝ち誇ったような笑みをヨシノはつくった。相手の体力はダメージの蓄積量と疲労、さらにこちらの効果が抜群である技が当たったためにすでに限界で、もう一撃を与えれば確実に勝負がつくことは目に見えている。
おまけにこちらはリーフィアが誇る防御力のおかげで相手よりもまだ体力がある。分はこちらにある。
「……悪いけど少し侮っていたよ」
「その侮りが命取りになることを私は地元でずっと見てきました。いろんな大人が子どもを舐めてかかってくるんですから」
少女の顔は再び真剣な表情に戻る。最後の一撃を放つ構えだ。
「最後です! 〝シザークロス〟!」
緑色の閃光が、夕日を背に相手の懐に飛び込んだ。
勝負は決まったと思われた。しかしその瞬間、Nは左の口角を上げた。
リーフィアはかわすことのできない至近距離から熱線状の炎を受けて勢いよく吹き飛ばされた。地面を転がり立ち上がる気配はない。戦闘不能だった。
ヨシノは驚きを隠せずにその場に立ち尽くした。何が起こったのか未だに把握できていない。〝最後の一撃〟で勝ったと思っていたからだ。
ヨシノは倒れているリーフィアから攻撃を行ったゾロアークに視線を移した。
大きな黒い狐は方膝をついたままだった。だがその口からは炎の攻撃をしたと思われる残り火が漏れていた。
「〝かえんほうしゃ〟……?」
ようやく口を開いたミドリは炎タイプの中でも有名な技名を呟いた。
その言葉にNは微笑んだ。
「そう、草タイプに効果のある炎タイプの攻撃だよ」
彼女は自分が繰り出した、とっておきの攻撃を最後まで残していたことを思い出した。彼も同様に最後まで手の内を明かさなかったのだ。
ただ一つだけ違うとすれば彼女は一撃で仕留められず、彼はそれができたということだ。
「……騙していたんですね」
「とっておきは最後に出すものだ、と言っていたのはキミだよ。ボクは好機を待って手の内を明かした。キミも同じだ。ただそれだけのことだよ」
Nはゾロアークに近づき、撫でながら言った。
「私は……知らないうちに助言を与えてしまっていたんですね」
ヨシノもリーフィアを抱き抱えた。リーフィアは負けたことを申し訳なく思っているのか落ち込んでいる。
「落ち込まないで、リーフィア。よく頑張ったね」
リーフィアをボールに戻すとヨシノはNと向かい合った。
「ありがとうございました。負けてしまいましたけど、楽しかったです」
「ボクの方こそありがとう。バトルしてわかったよ、キミとリーフィアがどれだけの時間を過ごしてきたのか」
Nはゾロアークを見た。彼もまた、ゾロアークと過ごした時間が長い。特別に思い入れがあり、だからこそ負けてほしくないし傷ついてほしくもない。
「ボクはね、ポケモンバトルが好きではないんだ」
「……どうしてですか?」
「トモダチを傷つけてしまうからだよ」
ヨシノは黙った。たしかにポケモンバトルはポケモン同士を戦わせる競技だ。ポケモンが傷ついてしまうことはわかる。
だがポケモン自身もそのことを理解しつつ、ポケモントレーナーの指示に従ってくれる。だから必要以上にポケモンを傷つけないようにするためにも、トレーナーは適切な指示を出す勉強をいつもしている。
「でもキミを見て、バトルも悪いものではないかもしれないと思ったよ。リーフィアがキミの気持ちに応えようとしていること、そしてキミの的確な判断があること。お互いに信頼しているからこそ任せられるといった感じかな」
ヨシノは足元にいるシェイミを抱き上げた。
「キミみたいなトレーナーをもっと見てみたいよ」
Nはシェイミをなでた。シェイミの瞳には力強い意志が宿っていた。今のバトルを見ていて感化されたのか、これまでヨシノに抵抗していたときとは一変して、何かを決意したような表情をしている。
「シェイミはキミとやっていくことを望んでいるみたいだね」
ヨシノは彼の言葉を聞いてほっとしたような顔をした。今のバトルで自分の気持ちが伝わったのならそれでいいと思った。これからはシェイミを含めてもっと楽しい生活が送れそうだ。
少しだけ、二人の間に沈黙が生まれた。周りの音がよく聞こえてくる。人の話し声、子どもたちの笑い声、ポケモンたちの鳴き声、車の走行音、涼し気な風の音、そしてバスのクラクション音。
時計を確認すると5時になる五分前だった。バス停に向かわなければならない。
「行く時間だね。キミに出会えてよかったよ」
Nの言葉でヨシノは実感した。彼と会うのはこれが最後かもしれない。初めての土地で初めて出会った人との別れがこんなに胸を苦しくさせられるとは思わなかった。出会いがあれば別れもあるとはこのことかと思う。
「私も、Nさんに会えてよかったです。またどこかで会いましょう。旅、楽しんでくださいね」
ヨシノが右手を差し出す。
Nはそれがどんな意味なのかわからなかった。彼女が握手を求めていることはわかったが、誰かと握手を交わしたことがない彼にとってはすぐに反応できることではなかった。
ゆっくりと、彼女の様子を探りながら握手を返した。
ヨシノは笑顔でありがとうございます、と言った。一礼すると大荷物を抱えてバス停の方へと急ぎ足で歩いていった。
Nは彼女の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。その背中はすぐに人混みでわからなくなった。
彼女と握手をした右手をみつめる。今まで経験したことのない感情が溢れているのが自分でわかった。
なんと表現すればいいのかわからないが、とても温かい気持ちだった。
これまではポケモンたちとしか向きあってこなかったが、これからは人とも向き合っていきたい。ほかにはどんなポケモントレーナーが世界中にいるのが楽しみで仕方がないと感じていた。
時計を確認すると、彼が乗る予定の船の出航時間も迫っていた。噴水の方をちらりと見る。ヨシノとNが到着すると同時にサングラスをかけた男が噴水近くのベンチで新聞を読み始めていたのだが、未だに読んでいる。
「さて……少し走らないとね、ゾロアーク」
Nは意味あり気な含み笑いをして帽子を目深に被りなおすと、ゾロアークと共に雑踏の中へ駆けていった。
その行動に気が付いた男もまた、ベンチから立ち上がるとすぐさま跡を追いかけてきた。
街道は真っ直ぐにもかかわらず人の多さが邪魔をしてなかなか直進できないが、Nにとっては予想の範囲内だった。ゾロアークに目配せすると彼は近くの裏道に入った。壁に背を付け帽子を目深に被る。
その横を男が通り過ぎていった。うまくゾロアークを追ってくれたようだ。それを見届けると、そのまま裏道から桟橋へと向かった。
客船が桟橋に停泊しているのが見えた。多くの人が船に乗り込んでいる。二つあるチェックゲートのうち、ひとつはすでに閉められていた。出航まで時間がないことがわかる。Nは急いでゲートまで駆けていった。
Nがゲートまで行くと、ひとりのスタッフが手を振ってきた。その者の元へと行く。
「N様、お待ちしておりました。すでに手筈は整っております」
「ありがとう。助かるよ」
スタッフはNをゲートへと誘導しながらパスポートと乗船チケットを渡した。
「乗船時のデータは書き換えてあります。これで安心してカントーまで行けるはずです」
「ボクのために危険を冒してくれてありがとう。必ず戻ってくるから」
出航の汽笛が鳴り、Nとスタッフが客船を見る。まるで早く乗れとでも急かしているかのように重く腹に響く。
「私たちの心はN様と共に」
Nに早く乗船するようスタッフが促す。Nは頷くと急いで船に乗り込んだ。
長く重く汽笛を鳴らすと、客船はイッシュ地方の海を走り出した。
そのとき、帽子をかぶった一人の青年が桟橋を駆けてきた。彼は軽快な身のこなしでゲートの柵を超えると人間とは思えないほどの跳躍力で船のデッキに飛び乗った。周囲の人たちは呆気に取られていたが、次第に何かのパフォーマンスとでも思ったのか、拍手をし始めた。
そしてその後からサングラスの男が息を切らしながらやって来た。追っていた人物が船に飛び乗ってしまい追跡は不可能だと悟った彼はその場のベンチに座り込んだ。
走る速度といい船に飛び乗った芸当といい人間ではない。思い返してみると一緒に走っていたゾロアークがいつの間にかいなくなっていた。
モンスターボールに戻した? いや、たしかイッシュ地方には何でも化けたり幻惑を見せることができるポケモンがいると聞いたことがあるような――。
どちらにしろこれ以上の追跡は不可能だった。
男は懐から携帯端末を取り出すとどこかへと電話を掛けた。
「ハンサムです。申し訳ありません、取り逃がしてしまいました。――はい。では、そちらは一度お任せします。詳細は追って連絡します」
男は電話を切り、サングラスを外して溜め息をついた。
「ひとまず、七賢人の情報を探るか」
ハンサムと名乗った男は再びサングラスをかけると桟橋を後にした。夕日が彼の背中を少し寂しく照らしていた。
バスに揺られてライモンシティへと向かっているヨシノは飲み物を取り出そうとショルダーバッグを開けた。
そこには見慣れない紙袋があった。疑問に思いながらも袋を開けるとちょうちょポケモンであるアゲハントの羽をモチーフにした髪留めが入っていた。
一瞬驚くも、すぐにNの仕業だと察した。いったいどのタイミングで購入して鞄に入れたのかは検討もつかないが、彼なりの優しさに微笑んだ。
ふと窓越しに空を見上げると、ヒウンシティに向かって一本の白線が暗くなりかけている空に描かれていた。