ポケットモンスター -N's story-   作:ロールキャベツ

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VS料理人と大火豚

 そこは島。空と海に囲まれ、ゆったりとした時が流れている、アルトマーレ。ジョウト地方、ヒワダタウンの南の沖に位置し、ヨシノシティの近くからフェリーが出ている。

 

 アルトマーレは水の都とも呼ばれており、その名の通り、水とともに暮らす街として知られている。島には水路が張り巡らされており、物資の輸送や移動手段はゴンドラという小舟で行われている。

 

 世界の様々な場所を見てもアルトマーレのような地域は類を見ず、その珍しさから多くの観光客で賑わうことでも有名だ。

 

 Nはその異国情緒な雰囲気に酔っていた。イッシュ地方、はたまたカントー地方やジョウト地方の町並みとも似つかないその雰囲気はどこか神秘的で、いつまでもそこに留まっていたくなる。

 

 陸地がほとんどない分、先人たちは知恵をしぼり、水路をつくった。そしてその水路を移動するための手段としてゴンドラが生まれた。ゴンドラを操縦するのは水先案内人と呼ばれる漕ぎ手であり、住人はそれに乗って移動する。まるで海の上を進むタクシーそのものだ。

 

 Nは観光も兼ねてこの街を訪れていた。水に生かされている人々の歴史が詰まったこの街に、以前から興味があったのだ。ジョウト地方を訪れた際はぜひとも立ち寄りたい。そう思っていたことが今まさに実現している。

 

「――なるほど。それで漕ぎ手に女性の参入が始まったんだね」

 

 Nはゴンドラの漕ぎ手であるマレに返答した。ショートボブを少し伸ばしたブロンドに緩いパーマをかけた髪型の彼女は、落ち着きがあり、笑顔が素敵である。

 

 ゴンドラ業界には元々、男性の漕ぎ手しかいなかったのだが、観光客の増加や業界に華やかさを持たせるために数年前から女性の参入が始まったらしい。今はまだ人数は多くないものの、女性の漕ぎ手は増えつつあるということだった。

 

「有り難いことに、たくさんの方々が乗りに来てくださるんですけど、まだまだ駆け出しの身なので腕を磨いている最中なんです」

 

 彼女は控えめに話しているがオール裁きは見事なもので、蛇行運転もなく、他のゴンドラとの距離感をきちんと計算して適度な速度で運転している。口と手を同時に動かす姿からその力量が窺えた。

 

「そういえば、あの像はもう見ましたか?」

 

 街を二分するようなS字型の大運河に面した広場の前を差し掛かった時だった。

 

「像?」

 彼女が指差した方向には、二本の円柱がそびえ立っているのが遠目に見えた。それぞれの円柱の頂上には、何やら双翼のようなものを持つ銅像が向かい合うように設置されている。

 

「アルトマーレの伝説に出てくるポケモンです。右がラティオス、左がラティアス。昔、この街を災厄から護ってくれたそうです」

 

「災厄? 自然災害のようなものか何かかい?」

 

「それが何だったのかははっきりとわかりませんが、伝説には空から邪悪な怪物が現れた、と語り継がれています」

 

 Nは空を見上げた。先程まで晴れていたのだが、徐々に曇りつつあった。一雨降りそうである。

 

「ラティオスとラティアスは空から仲間を呼んで、『こころのしずく』という宝石をこの地に持って来させると、邪悪な闇を追い払いました。それからは、『こころのしずく』があるこの島が、邪悪な怪物に襲われることは二度とありませんでした」

 

 ラティオスとラティアス――伝説に語り継がれる二匹のポケモンが、この水の都と人々を邪悪なるものから護った。なぜそうまでして、彼らは護ったのか。島の美しさに惚れたのか、人々の慈愛に惚れたのか、それとも他に護らなければならないものがあったのか。

 

 Nが気にかかったのはそれだけではなかった。『こころのしずく』というものに興味が惹かれていた。もし伝説が本当であるのならば、その宝石を一度目にしてみたいものだ。

 

「このアルトマーレは、ポケモンによって救われたんだね」

 

 Nの言葉に、水先案内人はふふっと笑った。

 

 ふと、香ばしい匂いが潮風に乗って鼻をくすぐった。とても食欲をそそられる香りだ。匂いの元を探して四方に顔を動かしていると、彼女も匂いに気付いたのか、水路を指差した。

 

「そこの角を曲がると、美味しいレストランがあるんです。私のおすすめですよ。ドライブスルーもできますし」

 

「いい匂いだね。寄ってみてもいいかな?」

 

 もちろんです、と言ってマレは水路を右に曲がった。難なく曲がってしまうところが、さすがはプロのゴンドラ乗りである。

 

 曲がった先には、たしかにレストランがあった。正規の玄関は水路とは反対側の道路上にあると思われるが、水上デッキにゴンドラ置き場が設置されているため、どうやらこちらの水路側からも上がれるようだ。

 

 ゴンドラを降りた二人は水上デッキに上がった。デッキには八席ほどあったが、曇ってきたからだろうか、埋まっているのは一席のみだ。

 

 黒のサングラスをかけた女性が座っている。黒いシースルーのワンピースを着ており、袖や胸回り、スカートがレース素材で透けていて上品である。服から覗く腕や脚は白く、それらも相まって美しさを醸し出していた。コーヒーを飲んでいる姿が優雅である。

 

 水上デッキから店内へと続くガラス張りのドアから中をちらりと覗くと、店内は賑わっている様子だった。

 

 ドアの横にはカウンターがあり、キッチンと併設されている。作った料理をカウンターに通すと、すぐに顧客に提供できるという理に適ったものだ。

 

「こんにちは」

 

 彼女はカウンターに近づくと、中に声をかけた。

 

「やあ! いらっしゃい!」

 

 声とともに男性がカウンターの中から顔を覗かせた。茶色い短髪をワックスで固め、ワイシャツ、ズボン、腰に巻いているエプロンは、少しでも汚れを目立たなくするためか、すべて黒で統一されている。顔つきは凛々しく、堀が深い。水先案内人の彼女に見せたその笑顔は、多くの女性を虜にしてしまいそうなほど甘いものだった。

 

「この方は店長のバジルさんです」

 

 紹介されたバジルはNの方に顔を向けた。その瞬間、先程まで彼女に見せていた笑顔とは打って変わり、口元は笑っているものの、目は笑っていなかった。表面上だけ笑顔を見せているのがわかる。理由は不明だが、敵視でもされているかのようだ。

 

「よろしく。バジルだ」

 

「Nと言います。よろしく」

 

 バジルはすぐにマレへ視線を戻し、再び笑顔をつくった。

 

「中で食べていく?」

 

「ごめんなさい。まだお仕事中で……。名物のハンバーガーを買って帰ります」

 

「そうか。ま、いつでも店で待ってるよ」

 

 ちょっと待ってて、と言い残してバジルはキッチンに戻っていった。

 

 注文した料理が出来上がるまでの間、デッキ席に座って待つことにする。

 

 灰色の雲が空を埋め尽くし、天気はすっかり下降気味だ。風も出てきて、少し肌寒くも感じる。

 

「このお店、すごいんですよ。開店したらたちまち人気店になって。噂を聞きつけて国外からやって来る人も多いんです」

 

 マレはそう口火を切った。

 

 バジルは半年前に突然アルトマーレにやって来て、今のレストランを開店したそうだ。彼の料理を食した人はその美味しさに舌鼓を打ち、たちまち口コミが広まって、レストランはアルトマーレの有名店へと変貌を遂げた。

 

 今では観光客にも人気のグルメ店として知られており、連日多くの客で賑わっている。特に夏期時は大変な盛況ぶりで、予約しないと入れないこともしばしばらしい。

 

 また、彼女によると、バジルはカロス地方で有名な凄腕のシェフと交流があるようで、一度彼がお忍びで来たことがあるとの目撃情報も出ていた。その時はバジルの料理を食べた後で、何やら二人で話していたかと思うと突然口論を始め、カロス地方のシェフはさっさと店を後にしたそうだ。

 

 きっと同じ料理人同士でしか理解できないことがあったに違いない。ただでさえ同じ人間同士でも、他者を完全に理解することなど困難な話なのだ。

 

 口論で事が収まったならよい方である。仮にもその場でポケモンバトルなど始めてしまえば店や周辺にも被害が及んだであろう。料理の争いにポケモンの方も巻き込まれてしまってはいい迷惑である。

 

 ハンバーガーを入れた紙袋を持ってバジルが現れた。

 

「マレちゃん、あの野郎の話はしないでくれよ」

 

 困った表情を浮かべながらテーブルに紙袋を置いた。マレが注文したハンバーガーが入っているのだろう。焼いた肉のとても良い香りが袋から漏れている。

 

 バジルは親交のあるカロス地方の料理人のことは口にもしたくないようで、あんな奴よりも俺の方が上だ、としきりに言っている。

 

「それにしても、雨が降りそうだね」

 

 Nの言葉に、マレは顎に人差し指を添えて何かを思い出しかのように話し始めた。

 

「たしか、嵐が近づいているんでした! でも予報だと明日の夜くらいからだった気がするんですけど」

 

 マレは紙袋からハンバーガーを取り出すと、Nに一つ手渡した。

 

「ボクに?」

 

「そうですよ。お店に寄りたいと仰ったのはNさんなので、ぜひ食べていただかないと」

 

 店の雰囲気を見てみたいと思っただけで、食べたいとは一言も言っていないのだがと思いつつも、Nはそれを受け取った。せっかくなので食べることにする。

 

「あっ!」

 

 包み紙を剥がしていざ食べようとすると、マレは小さく驚いて見せた。彼女の視線が水路のある方を見つめていたため、Nもその視線の先を追うと、そこには頭部から巻き毛が飛び出したポケモンが、デッキの下から顔を覗かせていた。

 

「おう。また匂いに釣られてやって来たのか」

 

 バジルはかえるポケモンのニョロトノに話しかけた。ニョロトノは呼応するかのようにひと声鳴くと、デッキの下から上がってきた。緑色の体色に、ぱっちりと開かれた大きな瞳、腹部には渦巻き模様を持ったその小さな身体はどこか愛くるしい。

 

 バジルとマレの表情から見るに、二人は現れたニョロトノのことを知っているようだ。

 

 ニョロトノは近づいてくると途中で立ち止まり、じっとこちらを見ている。いや、その視線はNの手元へ注がれていた。

 

 ハンバーガーをわずかに前へ差し出すと、ニョロトノは舌を伸ばして手元から奪い取った。その動きは素早く、また、小さなハンバーガーを正確に奪取した器用さにNは感嘆した。

 

「まったく。人のものを横取りするなとあれほど言っているのに……」

 

 悪いな、とNに言うと、バジルは困ったように頭をかきながら店に入っていった。作り直して持ってきてくれるそうだ。先程感じた敵意のようなものはどこへやら、その優しさは料理人としてのプライドから来ているのだろうか。

 

「すみません、Nさん。あのニョロトノ、食いしん坊なんです」

 

「大丈夫だよ。それにあのニョロトノ、わざとやっているみたいなんだ」

 

「わざとやっている?」

 

「うん。人間とかかわりたくて、でもコミュニケーションの取り方をどうしたらいいのかわからなくて、照れ隠しのように人の食べ物を取っているみたいだ。それでコミュニケーションを図ろうとしているんだね」

 

「ということは、好きな女子に素直になれずに、ついついちょっかいや意地悪をしてしまう、小学生男子のような感じですね!」

 

 例えがよくわからなかったが、なぜかマレは一人で納得したように頷いている。彼女なりにうまく解釈しているのならそれでいいだろう、とNは口を挟むことをやめた。

 

「ところで、どうしてそんなことがわかるんですか? ニョロトノと話したわけでもないのに」

 

「ボクにはポケモンの〝声〟が聴こえるんだよ」

 

「ポケモンの〝声〟……?」

 

「うん。〝心の声〟」

 

「〝心の声〟……」

 

 マレはニョロトノを見た。ハンバーガーを美味しそうに食べながら、時折Nの様子を窺っている。それはまるで、Nの言うとおり、人とコミュニケーションを取りたがっているかのようだ。

 

「素敵な力ですね。ポケモンのことをより理解できそうです」

 

「でもこの力を持っていなくても、ヒトとポケモンは固い気持ちで結ばれることができる」

 

 Nは思い出していた。ポケモンの〝声〟がわからなくても、わからないからこそ彼らの気持ちを理解しようと人間は語り続け、ポケモンはそれに応えようとする。時々お互いの気持ちが衝突することもあるが、それを乗り越えた先には揺るぎない関係性が築かれる。イッシュ地方で出会った、あの英雄のように。

 

「本当に〝心の声〟が聴こえるの?」

 

 声の聴こえた方を振り向くと、同じデッキ上の席に座っている黒いワンピースを着た女性がこちらを見ていた。

 

「ごめんなさい。会話が聞こえたもので気になってしまって」

 

 女性はひと言謝りを入れた。落ち着いたその挙動は大人な対応である。

 

「私は〝心〟に興味があるの。このアルトマーレに滞在している理由も、それ」

 

「なるほど。〝心の声〟と〝心〟に関連性があるかもしれないと思ったのか」

 

 まぁそんなところ、と彼女はコーヒーを一口飲んだ。

 

「見ることも触れることもできない。ましてや〝心の声〟なんて聴くことすらもできない。それなのに私たち人間は、〝心〟がそこにあるかのように振る舞う。不確かなものを信じている」

 

 女性がニョロトノに目を向ける。

 

「聴こえた〝心の声〟は幻聴でなくて?」

 

「幻聴ではないよ。ボクにはポケモンの気持ちが、考えていることがわかる。彼らが話してくれるから」

 

 サングラスの下の表情はわからないが、女性はNの言葉に微笑んだ。

 

「アルトマーレの伝説を、あなたは知ってる? そこの水先案内さんは当然知っているだろうけど」

 

 ゴンドラに乗っているとき、マレが話してくれた伝説を思い出す。話の中には『こころのしずく』と呼ばれる宝石が出てきた。

 

 女性はその伝説を読み聞かせるように抑揚をつけて話し始めた。

 

 

 昔々、アルトマーレという島におじいさんとおばあさんがいました。

 

 ある日、二人は海岸で小さな兄妹が怪我をしているのをみつけました。

 

 おじいさんとおばあさんの手厚い看護で、二人はみるみる良くなっていきました。

 

 しかし突然、邪悪な怪物が島に攻めてきたのです。

 

 島はたちまち怪物に飲み込まれました。

 

 と、そのとき、おじいさんとおばあさんの目の前でふたりの姿が変わっていきました。

 

 ふたりはむげんポケモン、ラティオスとラティアスだったのです。

 

 二匹は空から仲間を呼び寄せました。

 

 彼らは邪悪な闇を追い払う力を持ってきてくれました。

 

 それは『こころのしずく』という宝石だったのです。

 

 島には平和が戻りました。

 

 それからというもの、『こころのしずく』のあるこの島に、ラティオスとラティアスたちはしばしば立ち寄るようになりました。

 

 この島が邪悪な怪物に襲われることは、その後、二度とありませんでした。

 

 

 

「これが、語り継がれている伝説。『こころのしずく』とは何なのか。それが〝心〟なのか。私はそれを知りたいの」

 

 彼女は〝心〟に捕らわれている。Nはそう思った。〝心〟という言葉を強調しているところを見るに、固執してしまうほど、強力な出来事があったのだろうか。

 

 天候を気にするように女性は空を見上げた。風が強く吹き始める。

 

「あなたには、またどこかで会えそうな気がする」

 

 そう言うと、女性は席から立ち去った。入れ違いでバジルが再び袋を持って店内から出てくる。

 

「なんか、不思議な人でしたね。風のように去って行っちゃいました」

 

「……そうだね」

 

 やって来たバジルから受け取った紙袋に水滴の滲みができる。雨が降り始めた。

 

 今夜は海が荒れそうだということで、マレによるアルトマーレの観光案内は後日ということになった。風も強いため、ゴンドラは店に停泊させてもらうことにし、店を後にする。

 

 帰り際にニョロトノを見るとどこか寂しげな表情でこちらを見ていたが、嵐が来ていることを悟ってか、運河の中へと姿を消した。

 

 水の都の中は複雑に入り組んでおり、宿泊先まではマレが案内してくれることになった。どこもかしこも早めに店仕舞いをし、人々は足早に自宅やホテルへと戻っていく。野生のポケモンも自然の被害に遭わないよう、自らの住処へ移動している。

 

 宿泊先に着くころには風も雨脚もだいぶ強くなっていた。

 

「明朝にかけて嵐が通過するようなので、お昼ごろにバジルさんのレストランで待ち合わせにしましょう。何かあればまたご連絡しますね」

 

 マレは礼儀正しくお辞儀をすると、雨の中を急いで帰っていった。ここの地理に詳しくないとは云え、こんな嵐の中を女性一人で帰らせてしまったことに、Nは少なからず罪悪感を抱いた。

 

 食堂で食事を済ませて部屋に戻る。部屋にあるのは一人用のベッドとバスルーム、そして机。平凡な個人用の客室である。

 

 机の上には本がいくつか用意されている。いずれも観光客向けのようだ。その中の一冊をNは手に取った。

 

 ぱらぱらとページを捲ると、子どもでも理解しやすいような表現や文章とともに、挿絵が描かれている。読んでみると、昼間に話を聞いた、アルトマーレのおとぎ話を子ども向けに翻訳したもののようだった。

 

 各地に伝説があるが、アルトマーレのそれは興味深い。伝説のポケモンが傷ついていたところ人間の老夫婦に助けられ、その恩返しとでもいうかのように、この島を災厄から護った。そしてその後も、この島は彼らの力によって護られ続けている。

 

 ラティオスとラティアスは、相当高い知能と、人間にほど近い感情を持っているのかもしれない。人間から救われたことを彼らは覚えており、それを仲間に共有することができる。仲間はその出来事を後世へと継ぎ、人間も救われた感謝の念を忘れず、双方は救い救われたこの自然の島で共存している。

 

 まるで模範的な共存の仕方だ。この島はボクの理想の世界に近いかもしれない、Nはそう思った。

 

 他にはどのような本があるのか見てみると、観光ガイドの冊子が目に入ったため手に取ってみる。水上レースの祭りが年に一度の頻度で開催されているらしい。水上をポケモンに引っ張ってもらい、勝敗を競うというものだ。

 

 ページを進めると、アルトマーレが誇る、聖堂も兼ねた博物館の特集が載っていた。いくつかの展示物とそれについての解説が掲載されている。古代ポケモンの化石や遺物、アルトマーレグラスと呼ばれる伝統工芸品のガラス細工など珍しいものが多く展示されていると書かれている。

 

 その中でもひと際大きく写真が掲載されている展示物があった。古代機械という説明書きがある。球体やリング、計測器のような歯車、支えとなる脚のようなもので構成されており、形は歪だが、まるで巨大な天球儀や天体観測器のようである。

 

 それは圧巻の一言だった。錆ついているのか銅製なのか、天窓から差し込む光で鈍色に輝くその姿は、異様な雰囲気を発していることが写真から伝わってくる。

 

 実際に目にしてみたら、きっと空気がずっしりと重くのしかかってくることだろう、とNは想像する。そしてこの機械はいったい何の目的で造られたのだろうか。厳密に説明されていないのが気になるところだ。

 

 地図を見てみると、この宿から展示されている建物まではそう遠くないことがわかった。明日、マレに頼んで連れていってもらおう。

 

 窓に近づき、外の様子を窺った。嵐はかなり荒れており、海は水しぶきを上げ、時々雷鳴が轟く。陸地にも水が流れ込んでいることから、天候は最悪であることがわかる。

 

 こんな天気では景色を楽しむこともできない。別な本を手に取ったNがベッドに腰かけようとしたとき、液体が強くかかる音がした。雨にしてはおかしい。バケツの水を勢いよく壁にかけたような感じで、風に煽られて海水が窓に打ちつけられたのかと一瞬思う。

 

 しかし、同じことがもう一度起きた。窓に放水されているようだ。

 

 窓際に近づいてみると、昼間に出会ったニョロトノが近くの水路から顔を出してこちらを見ていた。ゴンドラをロープで繋ぎ留めておくための杭にしがみつき、必死で流されないようにしている。

 

 Nは部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。宿を出てニョロトノの元へと向かう。

 

 ニョロトノはNの姿を見るや否や、彼に飛びついた。

 

「どうしたんだい?」

 

 Nが問いかける。

 

 ニョロトノは服を引っ張りながらとある方向を指差した。先程冊子で見た聖堂がある方だ。

 

 彼はNに訴えかけた。あの黒い人間が恐ろしいことを考えている。止めるべきだ、と。

 

「黒い人間……」

 

 もしかして、昼間のレストランで近くに座っていたあの女性だろうか。たしかに不思議なことを言っていた。やたら〝心〟という単語を発しているのが印象的だった。

 

 Nも気になっていた。彼女はいったいどういう意図で自分たちに話しかけてきたのか。そして彼女はこうも言った。また会えそうな気がする、と。なぜ彼女はそう思ったのだろう。

 

 とにかく、確かめてみるしかない。Nはニョロトノの後を追うことにして走り出した。

 

 途中、何度も水しぶきがかかる。さらに暴風によって身体が吹き飛ばされそうになるのをなんとか堪えつつ、Nは足を動かした。衣類は水を吸って重くなり、体温が低くなっていくのを感じる。前に進むのがやっとの状態だ。

 

 聖堂に着いたとき、凄まじい被害を目にした。聖堂の前は広場なのだが、海水が流れ込んで水浸しになっている。すでに脛のところまで浸水しており、水位が上がっていくのは時間の問題だ。事の真相を一刻も早く確かめねばならない。

 

「あら。こんなところで何をしているの?」

 

 背後からの唐突な声に振り向くと、黒いフードを被った何者かが立っていた。だが、それは聞いたことのある声で、昼間に出会ったあの女性のもので間違いなかった。

 

 しかし、服装が昼間と異なる。見覚えのある黒い外套を纏っており、周囲の闇と同化している。

 

「キミは……」

 

「近いうちに会えるとは思っていたけど、まさかこんなにも早く会えるなんてね」

 

 フードを外しながら、彼女はそう答えた。サングラスはかけていない。その顔立ちは美しく、透き通るような肌の白さだ。

 

 彼女はNの後方にいるニョロトノに気が付くと、なるほど、と呟いた。

 

「昼間のその子が、私の動向に気が付いてあなたに知らせたのね」

 

 彼女はNの横を通り過ぎ、聖堂の前に立つ。

 

「どうしてかしらね、トレーナーでもないあなたに教えたのは。あなたたちの間には何があるの?」

 

「ボクと彼の間にはまだ何もない。でもボクは彼の声を聴き、それに応えた。ただそれだけだよ」

 

「あなたが言っていた〝心の声〟というやつかしら? それを聴いてくれるあなたをニョロトノは信じ、あなたはそれに応じて動いた。そういうこと?」

 

 信じられないとでもいうように彼女は首を横に振った。

 

「そういうキミは、何をしようとしているんだ? 〝心〟にご執心のようだけど」

 

 彼女と視線が交差する。その瞳は美しい青色をしていたが、細められている。

 

 彼女は深く息を吸い、そして吐く。まるで動悸を落ち着かせるように。

 

「私は――いえ、私たちは、ある目的のために動いている。人間の在り方を、ポケモンの在り方を、世界の在り方を変えるために」

 

 Nは眉根を寄せた。自分でも抱いたことのある理念が、彼女から近いものを感じる。

 

「ポケモンの力を不思議に思ったことはない? 自然界をも揺るがすことができる力を彼らは持っているのに、無力な人間に使役され、利用されている」

 

「……だからヒトからポケモンを解放するとでも?」

 

 そんなことではない、と彼女は首を横に振り、笑う。

 

「あなたができなかったことを、私たちができるとでも思っているの?」

 

 彼女の口からは、まるでこれまでのNを見てきたかのように、彼の過去が語られた。

 

 ポケモンの解放を謳い、伝説の英雄を使ってイッシュ地方を混乱にまで陥れた。しかしそれは一般のポケモントレーナーによって阻止されて失敗に終わり、今では国際警察によって極秘に指名手配されている要危険人物であることを。

 

 どこで調べたのか。彼女たちの情報網は侮れない。

 

「ポケモンは本当に人間に使われているだけなの? 本当はいつでも人間に取って代われる存在だと腹の底で笑っているんじゃないの?」

 

「そんなことはあり得ない。ボクは彼らの声を聴いているけど、彼らはそんなことは一度も言ったことがない」

 

「それは表面上の声ではなくて? あなたは彼らの言葉の裏にある真意まで見極めているの?」

 

 Nは黙った。彼女の言葉には何か確固たる芯がある。どのような反論をしてもそれは揺らぐことはない。

 

「私たちは人間とポケモンの関係性を壊して、この世界を変える。そのためにはどんな手段も択ばない」

 

 彼女はモンスターボールを取り出した。半分が黒いそれは、以前にも見たことがある。カントー地方とジョウト地方にまたがるシロガネ山で遭遇した男が使用していたものだ。その男は伝説のポケモンを捕獲しようとしていた。

 

「キミは、この島を護っているという伝説のポケモンを捕まえる気なのか?」

 

「いいえ」

 

 彼女はひと言、短く呟く。

 

 Nは彼女の背後にある聖堂を目にした。ニョロトノがこの場所に連れてきたこと、そしてその場所に彼女がいたことを考えれば、あの聖堂の中に何かがあるに違いない。

 

「アルトマーレの伝説には続きがあるのを知ってる?」

 

 風の強い豪雨の中でも、彼女の声は一言一句耳に届く。

 

 水位が徐々に上がってくるのを感じながら、Nは真っ直ぐに彼女を見た。

 

「おじいさんは『こころのしずく』の力を、この島を、永遠に護るために使うことにした。つまり、『こころのしずく』の力を利用する装置を人間が造り出したのよ」

 

 Nは宿屋で読んだ観光雑誌を思い出した。あの中で最も印象深く残ったものがある。未だ何のために造られたのかは不明であるとのことが書いてあったが、反対にその説明が暗に何かを隠しているかのようにも捉えられた。

 

「古代の機械か」

 

「そう。人間は力を得るために、ポケモンが持ってきた圧倒的な力を利用した。昔から人間は、その存在を誇示し、高めようとした。私たち人間は、もっともっと高く昇れる」

 

 彼女は天を仰ぎ見た。

 

「そしてすべてを愛し、愛される存在へとなることができる。ボスはそう言った」

 

 今度はNが首を横に振った。彼女たちもまた、己の勝手な欲のために、ポケモンを、人間をも傷付けようとしている。

 

 なぜそのような方法でしか世界を変えることはできないのか。その盲目的な崇拝が何も考えていない考えを呼び起こし、この世界を破滅へを導いていしまうことになぜ気が付かない。

 

「キミたちは、キミたちのボスは、いったい何をしようとしているんだ?」

 

「……それを知るには、まだ早すぎるわ」

 

 彼女はモンスターボールを前に構えた。その中から飛び出してきたのは見たことのないポケモン。人間、それも女性的な容姿で、一見するとほうようポケモンのサーナイトのような姿をしているが、サーナイトの頭頂部にはない器官のような突起があり、さらに両肘には刃物のような突起もある。

 

 Nはその赤い瞳孔を覗き込むように見た。

 

「……やはり、二つの声が聴こえる」

 

「そう。サーナイトとエルレイドの力を持った、キメラポケモンのヴァルキリア。私はそう呼んでいるわ」

 

「美しくない数式だ。命を軽んじているにも程がある」

 

「なら、どうする?」

 

「キミを止めて、古代の機械へは近づけさせない」

 

 まるでその言葉を待っていたかのように、彼女の顔からは嬉しさが満ち溢れる。

 

「では、闘いましょう! 私のヴァルキリアが、あなたの闘いを見定めるわ!」

 

 白く煌めくヴァルキリアが戦闘態勢を取る。

 

 Nもモンスターボールを構えようとしたとき、今まで状況を見守っていたニョロトノが彼の前に飛び出し、ヴァルキリアと対峙した。

 

 優しい人間のいるこの美しい都を汚させはしない。彼からその思いがひしひしと伝わってくる。

 

「そうか。キミも怒っているんだね。ならば一緒に闘おう!」

 

 その言葉を合図にニョロトノは勢いよく駆けだした。あっという間に距離を詰めると拳を放つ。しかしそれはヴァルキリアの伸縮自在の肘の刃によって防がれた。

 

 すぐさま距離を取ると、〝ハイドロポンプ〟で水を激しい勢いで発射した。

 

 ヴァルキリアは〝サイコキネシス〟で水流を四方に分散させて攻撃を防ぎ切ると、水面を滑るように移動した。

 

 サーナイトとエルレイドはともにエスパータイプの力を持つポケモンだ。二匹の力が合わさっている今、サイコパワーで浮遊し水面を移動することなど造作もないことだろう。

 

 凄まじい速さでニョロトノに近づくと、鋭い刃で〝つじぎり〟をする。ニョロトノは思わず膝をついた。

 

「あなたのことを調べてとても興味があったのだけれど、見込み違いだったかしら。ポケモンを傷付けるだけのポケモンバトルは嫌い。以前にあなたはそう言っていたようだけど、今のあなたは正にそれ。ポケモンの〝声〟が聴こえるはずなのに、その力を活かしきれず、ニョロトノを傷付けさせている」

 

 ポケモン勝負とはポケモンを傷付けること。たしかにそう捉えて忌避していた。

 

 しかし、そんな単純なものではないと僅かでも感じたからこそ、その真実を解き明かすためにこうして旅に出た。世界を、自分を変えるための数式がどこかにあるはずだと思ったのだ。人工的にポケモンを造り出し、命を弄ぶ所業をしている奴らに言われる筋合いはない。

 

 Nは何も言わずニョロトノの前に立った。それを見た彼女は可笑しそうに笑う。

 

「まさか。無力な人間が、ポケモンからポケモンを守るわけ? あなたはそれほどまでに愚かな人だったの? イッシュの伝説のポケモンは、どうやら英雄を択び間違えたようね」

 

 彼女の指示により、ヴァルキリアが胸の前で電気エネルギーを生成し始める。

 

「最後だから、私がここに来た目的を教えてあげる。これを使って古代の機械を動かすためよ」

 

 彼女は純黒の球体を取り出した。妖しげに青黒い輝きを放っている。

 

「これは私たちが科学技術で作り出した『こころのしずく』。これを古代の機械で動くかどうか確かめるの。そして人もポケモンもこの島も、すべてを変えることができたら、ひとまず目的は成功ということになるわ」

 

「……そんな方法で世界を変えても、良い結果にはならない。ボクが断言する」

 

「そんなこと、知ったことではないわ。私はただ、あの人について行くだけ」

 

 彼女は一度目を瞑り、何かを決意したように再度目を開いた。

 

「私はグレイ。さようなら、N。もっと違うかたちであなたに会いたかったわ」

 

 その言葉を合図に、ヴァルキリアは〝10まんボルト〟をNに向けて放った。闇夜の中を一筋の青白い電気が走る。

 

 しかしNに直撃する寸前、その攻撃は横から放たれた火炎放射によって防がれた。

 

「おい、何やってる? 死ぬ気か」

 

 衝突した攻撃の爆風の中から現れたのは黒服のバジル。昼間のレストランの経営者兼料理人の男が煙草を口に咥えて立っていた。

 

 その横には〝かえんほうしゃ〟という技を放ち口元から火の粉が漏れている、おおひぶたポケモンのエンブオーがヴァルキリアに対して睨みを利かせている。

 

 本来、この豪雨のような状況であればほのおタイプのポケモンは活動力が低下する。だがその影響を微塵も見せず、あの電撃を掻き消すほどの火力を放った巨体の首周りからは荒々しいほどの炎が燃え盛っている。逞しいという言葉が相応しい出で立ちだ。

 

「アナタこそ、ここで何を?」

 

 偶然通りかかったんだ、とあり得ないであろう返答をバジルは煙を吐きながら答えた。次いでグレイを見る。

 

「昼間の麗しいお姉さんですね。よくわからないが、その黒い球で良くないことをしようとしているのだけは理解しましたよ。綺麗なだけに非常に残念です」

 

 昼間のNに対する態度とは打って変わり、とても紳士的な物腰になる。

 

「見た目が綺麗だからといって、中まで綺麗だとは限らないわ。それに女はみんな、秘密を抱えているものよ」

 

 グレイは鼻で笑い、バジルの言葉を一蹴した。

 

 仕方ない、と言ってバジルは煙草を放った。煙草はバジルの足元に落ちると、ジュッという音ともに水に呑まれて消える。

 

「女性とは争いたくない主義なんだが、今回はこのアルトマーレのために闘うか。協力しろよ」

 

「……言われなくとも」

 

 ニョロトノとエンブオーが雄叫びを上げる。それぞれ〝ハイドロポンプ〟と〝かえんほうしゃ〟を放つ。

 

 ヴァルキリアは〝サイコキネシス〟で二つの攻撃をぶつけ合わせて相殺させた。水と炎の化学反応により、辺りに水蒸気が広がる。一瞬お互いの姿が見えなくなるも、すぐさまサイコパワーで水蒸気を吹き飛ばす。

 

 吹き飛ばしたのも束の間、眼前にはエンブオーがその拳を叩きつけようと振り上げていた。ヴァルキリアは両肘の刃を伸ばし、その攻撃を防ぐ。その強くて重い拳を受け止めた衝撃で、ヴァルキリアの足元が沈み、衝撃波により水飛沫が起こる。

 

 目を見開いたヴァルキリアはその超念力によりエンブオーを吹き飛ばした。しかしその後ろからニョロトノが飛びかかってくる。

 

 ニョロトノは手刀を振り下ろす。〝かわらわり〟という技だ。ヴァルキリアも刃を鋭く尖らせて対抗する。

 

 サーナイトとエルレイド、異なる遺伝子を持つヴァルキリアはやはり相対的にその能力が上がっているようだ。Nはシロガネ山で出くわした男と、そのポケモンのことを思い出していた。

 

 キメラポケモン――異なる遺伝子を持つ二匹のポケモンを掛け合わせて造られた、生命倫理に反するポケモン。人間の私利私欲のために生まれ、利用されている。

 

 以前闘ったのは、もうかポケモンのバシャーモとれっかポケモンのファイアローの力を持った、イカロスというポケモンだった。それぞれの身体的特徴を引き継ぎ、源となる炎の威力は、いくら相性があったとは云え、あの伝説のポケモンであるフリーザーを負かすほどに絶大なものだった。

 

 あのヴァルキリアは、ほうようポケモンのサーナイト、やいばポケモンのエルレイドの力を宿しているとグレイは言っていた。両ポケモンは進化の過程で分岐するが、種族的には同じである。力の使い方は異なるが、元々同じ力を宿しているだけに遺伝子同士の適合力が高く、また安定した力を発揮できているのだろう。

 

 サイコパワーは反則級に高く、戦闘を開始してからその力により攻撃をまともに喰らっていない。さらには遠距離攻撃と近接攻撃のどちらもできるために、全くと言っていいほど隙がない。その可憐な姿から想像できない勇ましいほどの戦闘スタイルは、まさに戦乙女と言えるだろう。

 

「もう終わりにしたら?」

 

 グレイが呆れたように二人に問いかける。ニョロトノもエンブオーも身体を大きく上下させるほどに息遣いが荒く、今に倒れてもおかしくない状態だ。

 

「――ったく、バカにされてるぞ。だがそれもそそられるものがあるな」

 

 この状態でよくわからない発言をするバジルをNは横目で見つつ、状況を打破するために周囲を見渡し、解決策を必死で考える。

 

 そのとき、バジルが声をかけてきた。

 

「一瞬でいい。あのポケモンの動きを止めてくれ」

 

 その声には何かを仕掛けようとする考えが読み取れた。Nはわかった、と言いニョロトノに指示を出す。

 

 ニョロトノはヴァルキリアの元へ向かっていくと、〝かげぶんしん〟により自身の分身を数十匹生み出した。その分身がヴァルキリアの周囲を囲う。分身が飛びかかった。

 

 本来であれば、分身と言えど、これだけの数を相手にするのも難しいところであるが、ヴァルキリアはいとも簡単にその刃で分身を掻き消した。マキシスカートをはためかせ、刃を煌めかせながら闘う勇猛な姿は目を見張るほど美しい。

 

 分身が消される寸前、ニョロトノは死角から〝れいとうビーム〟を放ち、ヴァルキリアの足下を凍らせた。一瞬、ヴァルキリアの動きが封じられる。

 

 その一瞬の機を逃さず、エンブオーが攻撃を仕掛ける。

 

 首周りの炎をさらに燃え上がらせて身体に纏い突撃する技、〝フレアドライブ〟。威力が大きい代わり、その技の反動を自らも受ける決死の攻撃だ。エンブオーの屈強な身体から放たれるそれは猪突猛進という言葉が相応しい。

 

 足下を凍らされたヴァルキリアは脱出が遅れ、その巨体に弾かれる。

 

 そしてトレーナーであるグレイの意識がそちらに向いた一瞬の隙をつき、ニョロトノは彼女の手から鈍く輝く『こころのしずく』を蹴り落とした。黒い球は壁にぶつかり砕け散る。

 

 そこで彼女の想いも潰えた。

 

「よくやった、ニョロトノ」

 

「いや、俺のエンブオーの活躍のおかげだ」

 

 二人して顔を見合わせ、ふっと笑う。

 

 グレイは雨で濡れた髪をかき上げた。雷光が彼女の顔を照らす。その表情は怒りではなく、ひたすらに相手を蔑むものだった。

 

「そんな表情も美しい……」

 

 バジルの呟きに、やはりこの男の思考はよくわからない、と思っていると、グレイは静かにひと言指示を出した。

 

「やりなさい、ヴァルキリア」

 

 グレイの感情を読み取ったのか、ヴァルキリアは最大限の力を発揮するかのように、腕を大きく勢いよく広げて体現した。今まで以上の超念力でニョロトノとエンブオー、後方にいたNとバジルまでをも弾き飛ばした。その力は凄まじく、衝撃で建物の窓ガラスが割れ、亀裂が走り、一部が破損する。

 

 水に沈み、さらに服がずぶ濡れになる。肺に水が入り込み、咳き込む。全身が鞭打ちしたように痛み、立ち上がるのも困難を極める。

 

「やってくれたわね」

 

 グレイとヴァルキリアが近づいてくる。今にも止めを刺さんとする顔だ。

 

「悪しき者が『こころのしずく』を使うとき、こころは穢れ、しずくは失われるだろう。この島とともに」

 

 不意にバジルが何かを唱えた。その眼は彼女を捉えており、彼女に向けて放たれた言葉であることがわかる。

 

「……伝説の一説ね。それが何か?」

 

「こんなことはもうやめましょう。あなたの心は穢れていないし、これからも穢れはしない」

 

「……その根拠は?」

 

「俺の作った料理を美味そうに食べていたからです。美味そうに食べる人の心は穢れてなんかいないし、悪しき者でもない」

 

 意味のわからないことを、と彼女は舌打ちをする。

 

「私には心そのものがないのよ。楽しいという感情も、怒りという感情も、すべて作っているに過ぎない。何も感じないの」

 

 そして彼女は淡々と続けた。

 

 〝心〟とは何か。それを知りたかったために、今回の任務を引き受けてこのアルトマーレにやって来た。

 

 『こころのしずく』の伝説が残るこの島で、人工的に作り出した『こころのしずく』を使った実験をすることで、〝心〟が引き起こす現象を見てみたかった。

 

 それで〝心〟が何かわかると思ったのだ。

 

「でも実験は失敗。しずくは破壊された。だから最後に、あなたたちだけは逃さない」

 

 グレイがすっと右腕を上げる。ヴァルキリアの両手の間に電気エネルギーが収束されていく。電気の弾ける音が鳴り、眩い光が辺りを照らす。

 

 止めを刺される。そう思った。

 

 しかしその攻撃は、突然の上空からの攻撃で不発に終わった。一瞬のうちに周囲が青白くなり、同時に熱を感じる。蒼炎が広場に落下してきた。

 

 ニョロトノは水の壁を、エンブオーは炎の壁を、ヴァルキリアは超念力でその攻撃からトレーナーを守る。

 

 蒼い炎は水を呑み込み、一瞬のうちに蒸発させた。辺りに水蒸気が立ち込める。

 

 ヴァルキリアの念力により、水蒸気が霧散される。広場の状況は酷いものだった。地面は割れ、凹んでいる。瓦礫があちこちにあり、蒼炎の種火が燃えている。これまでの闘いの傷痕や嵐による被害が色濃いだけでなく、たった一度の攻撃で状況を一変させるほどの力が漂っている。

 

 広場に日差しが降り注いでいる。見上げると暗雲に巨大な穴が開いていることがわかった。そしてその光を纏い神々しく飛翔しているのはイッシュ地方伝説のポケモン、レシラム。蒼い炎を操りし主がこちらを見下ろしている。

 

「……なるほど、主人を助けに来たのね。いくら何でも不利ね」

 

 グレイはNを一瞥し、変わり果てた広場を見た。瞬時に戦力差を悟り、深追いすべきではないと判断を下すと、ヴァルキリアの〝テレポート〟により戦線を離脱した。

 

 レシラムはゆっくりと広場に降り立った。

 

「ありがとう、レシラム。ボクのトモダチ」

 

 Nが駆け寄り、レシラムの頭を撫でる。

 

「こいつはたまげた。すごいな」

 

 バジルがレシラムと広場の惨状を交互に見ながら感嘆する。

 

「すまない。美しいアルトマーレをこんなかたちにしてしまった」

 

「……俺が言えたことじゃないが、なんとかなるだろ。元々この島は水とともに生きてきたんだ。これくらいの被害は何度も経験している筈だ。この島の人はみんな優しいし、今更とやかく言う奴なんかいねえよ。全部嵐のせいにすればいい」

 

 その言葉にNはふっと笑う。レシラムの背中に乗り、空を見上げる。

 

「ボクはもう行くよ。ここにはいられない」

 

 バジルを見ると、彼と目が合った。

 

「また、キミの料理を食べに来るよ」

 

「二度と来るな。そいつを連れて早く行っちまえ」

 

 バジルが顎で示した方を見る。Nの後ろには一緒に闘ってくれたニョロトノがちょこんと座っていた。その丸々とした瞳で、Nのことをじっと見つめている。

 

 Nは口角を上げながら帽子を目深に被りなおすと、新たな仲間を加え、レシラムとともに飛び立った。

 

 暗雲に開いた穴に消えていくのを見送ったバジルは懐から煙草を取り出した。濡れてしまった煙草になんとか火を点け、深く息を吐き出す。

 

「……さて、何も見なかったことにするか」

 

 バジルは傷ついたエンブオーを支えながら広場を後にした。

 

 

 


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