「なぁ、ミッターマイヤー」
ロイエンタールと共にゼーアドラーで肩を並べて酒を酌み交わしていたミッターマイヤーは親友のただならぬ雰囲気にグラスを傾ける手を止めた。
「なんだ」
「たわいもない話を聞いてくれるか?」
「卿にしては珍しいな」
「あぁ」
ロイエンタールはグラスの中身を一息の飲み干した。強いブランデーであったのに、彼の顔色は赤みを帯びるどころか青白さを増したように見えた。それは照明のせいだけではなかったはずだとミッターマイヤーは思った。
ロイエンタールはウェイターをしている幼年学校の従卒にブランデーの代わりを頼んだ。
「或る女がいるとする。そしてその女は男を殺したがっている。女にとっては仇だ。この上ない憎むべき存在だ。なぜなら、女の家族を男は殺したのだからな」
ある女、といっているが、ミッターマイヤーは直感的に感じた。これはロイエンタール自身の問題なのだと。
しかし、ここではなしの腰を折れば、親友は二度と口を開かなくなるだろう。ミッターマイヤーは焦りを見せまいとさりげなくグラスに口を付けた。
「だが・・・・」
運ばれてきたグラスをロイエンタールは手に取り、中の氷をじっと見つめる。
「その女がどういうわけか男に激辛料理を食わせるという心情を卿は理解できるか?」
「は?」
さりげなさは一瞬にして消し飛んだ。ミッターマイヤーの脳裏には最初とたった今聞いた話の脈絡が見いだせないでいた。それはアルコールのせいではないだろう。
「どういうわけか男に激辛料理を食わせるのだ。それも日ごとに度合いを増していく」
「はぁ・・・・」
「おい、卿は奥方といさかいはせんのか。そういった時に奥方は卿にどういう態度をしめすのだ?」
「ロイエンタール、言っておくが俺とエヴァの中は良好だ。喧嘩など一つだってしたことはせんさ。なぁ、ロイエンタール、その女と卿・・・いや、その男とやらはいったいどういう関係なのだ?なぜそんな事態になっている?」
「さぁな。神であろうともわかるまいよ」
親友はグラスの中身を飲み干し、さらに代わりを頼んだ。ミッターマイヤーも追加のブランデーを注文する。
「いいか、ロイエンタール。こういう時は男は無力なのだ。あれこれと想像しても答えなどでんさ。思い切って本人に聞くんだな」
「当人にか」
「あぁ。どうせ今も奇妙な関係なのだ。聞いたところでこれ以上関係が悪かろうはずもない」
ロイエンタールはじっとグラスに目を注いでいた。乾いたグラスには溶けかけた氷が残っている。彼の金銀妖瞳はその先にある光景を、未来を、結末を見通そうとしているかのようだった。
「なるほど、卿の女性談義とやらもたまには聞くべき価値があるということか」
ロイエンタールはそう言うと、席を立った。ブランデーの盃を重ねた体とは思えない。
「少し所用ができた。失礼する」
ミッターマイヤーは肩をすくめ、残っている酒を飲み干した。
* * * * *
「おい」
ロイエンタールは台所に足を踏み入れるなり眉をひそめた。あたりにはそれこそ卒倒しそうなほど危険な香りが漂っている。そしてもっと危険だったのは、台所にいる女がガスマスクをつけていることだった。
シューコ、シューコ、シューコ、シューコ。
不気味な音が漏れ聞こえる様は何かの実験をしているかのようだ。
『待っていたわよ、今日こそお前を地獄に落としてやる』
エルフリーデはゆっくりと振り向き、そして悠然と鍋に向かうと、かき混ぜていたものを皿に空けた。
一目見ただけでその赤さは異常そのものだった。
『天国への階段・・・・この世に存在する最も辛いトウガラシ・・・・そのスープをお前のために作ってあげたわ』
「・・・・・・・」
『さすがのお前も声も出ないわね』
ガスマスクの隙間に見える眼が狂喜の色を見せている。ホ~ッ、ホ~ッと呼吸音が聞こえる。
「お前、なぜこんなことをするのだ?」
『何故?・・・・何故と聞くの?』
眼が狂喜から憤怒に変わった。
『決まっているでしょう。お前がもだえ苦しみ地獄に落ちる様を見届けたいからよ!オスカー・フォン・ロイエンタール。お前は我がエルフリーデ一門を皆殺しにした人でなしなのだから』
「人でなし・・・結構。だが、俺は正々堂々と正面から反逆した。お前たち有害無能が救うゴールデンバウム王朝にな」
『とうとう吐いたわね。お前は反逆者よ。そしてお前には反逆の血が流れている。母親に手をかけられそうになり、その記憶を引きずってさ迷い歩く哀れな男・・・しまいにはお前の主にさえも反逆をするでしょうよ』
ロイエンタールは数歩前に進み出て女の手首をつかんだ。
「一つ言っておこう。反逆者と言われることについてはいっこうにかまわん。だが、俺には矜持がある。反逆をするからにはそれなりの理由目的が常にある。無益なことはせん。お前たちのようにくだらない生を延々と紡ぐくらいならば、死を選ぶこともいとわん」
『それこそがお前の哀れな生きざまよ。このトウガラシスープのように混じりけのないただ哀れな生を生きる・・・お前は可哀想な男。誰もお前を理解しようとは思わない。誰もお前の生に寄り添おうとはしない』
「相手を軽蔑するだけがお前の生の原動力か」
エルフリーデの顔に初めて狼狽の色が浮かんだ。
ロイエンタールはトウガラシスープの皿を無造作につかむと、一息に飲み下した。まったく顔色も変えずに。
そして、呆然としている女のガスマスクを剥ぐと、無理やりに唇を重ねる。
「モガ~~~~~~~~~ッ!!!!」
エルフリーデの口に激辛のトウガラシスープが流し込まれた。
「どうだ?軽蔑しきっている男から受ける最初の接吻の味は」
「モガ、モガ~~~~~~~~~ッツ!!ンンン~~~~~~~~~ッ!!」
エルフリーデは顔を左右に激しく振ったが、やがて引き離すようにロイエンタールを突き飛ばすと、盛大に吹いた。血のように真赤な液体が彼女の口から漏れ出る。
「お前は・・・・お前には勝てない・・・・・」
そううめくと、エルフリーデは盛大に仰向けにひっくり返った。
「それこそがお前の本心だったか」
ロイエンタールは台所に倒れているエルフリーデを一瞥すると、部屋を出た。使用人たちにエルフリーデの介抱をさせるためだった。
「ここまで俺を追い込んだ者はお前が初めてだ。それだけは褒めておこう」
ロイエンタールは悠然と白目をむいて泡を吹いているエルフリーデを見たが、矜持はそこまでだった。こみ上げてくる激動をこれまで鉄壁の精神で押さえつけていたが、それも限界だった。ロイエンタールは次第に早足になり、ついには駆け足になりトイレに駆け込んだ。
10秒後、盛大なうめき声が邸に響き渡った。
唐突ですが今回で完結とします。