北宇治高校ダブルリードパートへようこそ   作:言巫女のつづら

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第12話 ないすばでぃなバリトンサックス

 新入部員達に腹式呼吸の指導を行った翌日。……というか、海兵隊の合奏日前日。

 

 本気で合奏するつもりなら、いつまでも個人練やパート練で時間を潰してはいられない。さっさと他のパートとも合わせてみた方がいいと思うのだが、どのパートもエンジンのかかりが鈍い。木管と金管の低音組ばかりで合わせる事になったのがようやくこの日になってからだった。

 全く呑気(のんき)な話だが、それもこれも来月頭にサンフェスを控えたこの時期、こんな曲をやらせる先生の意図が分からないからだ。綺麗にまとめるつもりなど更々(さらさら)なく、どのパートにも適当な所で切り上げてサンフェスの練習に移ろうという空気が漂っている。

 

 

「ねえ晴香。臼井(うすい)くんと純子(じゅんこ)は来ないの?」

 

 小笠原先輩に問いかける喜多村先輩の声が、すぐ耳元で聞こえた。

 先輩達のファゴット、小笠原先輩のバリトンサックスと並んでもう一種類。低音域を担当する木管楽器にバスクラリネットがある。しかし、低音パートの面々が待ち構える三年三組に向かう面子に、バスクラ担当の先輩達の姿は無い。

 

「一応声かけてはみたんだけどね。クラリネットの方、まだまとまってないみたい。ほら、クラは人数も多いから。臼井君はやる気はありそうだったけど……今日は見送った方がいいかなって」

「なら臼井だけでも引っ張ってこればよかったのに。相変わらず部長は気が弱いんだから」

 

 悪口にならないよう、言葉選びに苦慮する小笠原先輩。

 しかしそんな配慮なぞ、犬に食わせろと言わんばかりに岡先輩が本音をぶちまけた。

 

「仕方ないですよ。クラ大勢いるのに一人だけ別行動取らせるのもどうかと思いますし」

 

 数少ない男子部員仲間、それも先輩という事もあってどうしても弁護の口調になってしまう。

 クラリネットはトランペットと並んで主旋律(メロディー)を担当する事が多い楽器だが、トランペット程には音量は大きくない。その分は人数で補う事になるが、今のクラリネットパートは新入部員を含めて十三人。北宇治高校の吹部では一番の大所帯だ。

 そのくせ男子は臼井先輩ただ一人。自分よりずっと女子に気を遣わざるを得ない立場だけに、和を乱すような行動を取りたくないと思ってるのは容易に想像がつく。

 多分、小笠原先輩もそれを気にして無理強いはさせなかったのだろう。

 

「そうなの! 私が気を遣ってるのにみんなして早くサンフェスの練習にうつろーとか実力テストならありのままの状態見せればいいじゃないとか言いたい放題言うんだよそりゃ四日で仕上げろなんて無茶だと私も思うよでも合奏が滅茶苦茶だったら先生から怒られるかもしれないんだよそして矢面にたたされるのは部長の私なんだよちょっとは私の立場も考えて練習に身を入れてよ野口君なんか連絡に行ったときパー練ほったらかしで愛衣とイチャイチャしちゃってさあリア充爆発しろってのそう思わない蔵守君!?」

「……ですね」

 

 我が意を得たりと、急に口を(なめ)らかにして自分に愚痴をぶつけてくる小笠原先輩。お世辞にも気を遣っているとは言い難い行動だ。今は主治医の田中先輩がいないし、ちょっと始末に負えない。

 適当に相槌を打ちつつ、早く処方(しょほう)してもらおうと低音パートの教室へ歩みを速めたが。

 

「そういう晴香はサックスの方、ほっといて大丈夫なの?」

 

 同級生なので耐性は自分よりもついているらしい。鬱モード一直線な部長を意に介さず、喜多村先輩が含み笑いしながら軽口をたたいた。

 

「ほっとくって。人聞きが悪いなあ。葵が滞りなくやってるから大丈夫だよ」

 

 正気に戻った小笠原先輩はふくれっ面を見せてから、じっと自分の方に視線を向けてきた。

 

「……何でしょうか、部長」

「蔵守君はどうして低音パートに向かってるの? いや、何となく想像はつくけど」

「お察しの通り荷物持ちです。カタが付いたらすぐ戻りますよ」

 

 今の自分は喜多村先輩と岡先輩のファゴットのケースを背中と右手に抱えながら歩いている。ファゴットと楽器ケース合わせて、ゆうに七キロは超える。それが二組もあるのだから重たくてしょうがない。

 

「相変わらずこき使われてるみたいだね」

 

 小笠原先輩が苦笑する。

 片方ぐらい先輩達が持っていけばいいのに。そんな意図も込めて刺すような視線を向けるが、当の本人達は素知らぬ顔だ。

 

「ごめんねー♪ でも蔵守くんにはいい運動になるでしょ?」

「そーそー。あすかのとこのゴーレムと違ってコイツはヤワだから。こき使って鍛える位がちょうどいいの」

 

 ゴーレムって。もしかしなくても後藤の事だろうけど。あいつも変なあだ名つけられたな。

 

「まあ、去年があんなだったからね」

 

 小笠原先輩の何気なさそうな一言も、ナチュラルに心を(えぐ)ってくる。

 

「……先輩達。低音パートには一年生もいるんですから余計な事言わないで下さいよ」

「わかってるって」

 

 岡先輩がケタケタと笑い声をあげている。

 はあ、とため息をついて一人ごちた。

 

「もういい加減、去年の事で茶化されるのは勘弁してほしいです」

 

 去年の傷害事件の後しばらくは、経緯が経緯だけに腫れものにさわるような扱いをされてきた。

 とはいえ、喉元過ぎれば何とやら。三年も引退して部活に顔を見せなくなったのを境に、例の一件は先輩達からのおちょくりのタネにされた観がある。怪我が思いの外軽かった事もあって、女子にノックアウトされたという事実ばかりが部内でひとり歩きしていた。なんとも不愉快な話だ。新入部員にまでその噂が広まったらと思うと気が気でない。

 

「大丈夫だよ。私達も去年の事は一年生にあんまり話したくないし。みんな今までみたいなノリで(いじ)ったりはしないと思う。あれは……蔵守君への気遣いだよ、皆なりの」

「はい?」

 

 何をどう解釈すればそういう結論に至るのか。小笠原先輩の電波な見解に懊悩(おうのう)としていると、先輩はぽつりとつぶやいた。

 

「ほら、去年は私達、三年生が怖くて結局何も出来なかったじゃない。皆その事を申し訳なく思ってるけど、二人みたいに同じパートじゃないから。どう接すればいいかわからないと思うの。かといって何もしない訳にもいかないでしょ。爆弾がついた子は、放っておくといつ爆発するか分からないし」

 

 ときメ○かよ。というか自分は爆弾魔(ボマー)扱いか。そりゃ去年はいろいろあったけど。

 楽器隠されるわ、陰険な(いじ)めを目撃するわ、喧嘩の巻き添えを喰らうわ、聞くに堪えない曲を聴かされるわ。

 

 ……こうして思い返すと、ロクな思い出がない。

 

「先輩達もそうでしょうけど、自分にとっても古傷を抉られる気分なので、もう放っておいてくれという心境なんですが」

 

 悪気は無いのは分かったが、それにしても嫌な気の遣い方だ。

 仏頂面を浮かべると、小笠原先輩が子供をあやすかのように(さと)してきた。

 

「そうかもしれないけど。こういうのって本人よりも周りが気にしちゃうから」

「……それは自分も同じです。結局傘木の力にはなれませんでした」

 

 仲間が困っている時に助けられなかった、という点では同じ穴の(むじな)。先輩達から気を遣われる(いわ)れは無かった。あれから傘木に避けられてばかりの自分は、彼女を気遣ってやる事も叶わない。

 

「も、もう過ぎた事を悔やんでもしょうがないよ! 建設的な話をしよう! ……例えば、復帰を考えてくれるように南中の子達を説得に行くとか」

 

 塞ぎ込んだ自分を見て地雷を踏んだとでも思ったのだろうか。急にあたふたしだした小笠原先輩があらぬ事を口走ったので、三人揃ってギョッとした。先輩の事だから全くの善意での発言だろうが、いくらなんでもそれはない。岡先輩が慌てて翻意を促した。

 

「止めなよ部長。不発弾の処理だけでも面倒だったのに」

 

 不発弾とは自分の事だろうか。

 

「え、どうして? やっぱり活動がゆるいから?」

 

 その返答も、ちょっと的外れだ。

 拒否されるとは思っていなかったのか、ぽかんとする小笠原先輩の様子に喜多村先輩が頭を抱えている。

 

「そういう事が問題じゃなくて……。ああ、そっか。晴香は去年、南中の子達の慰留(いりゅう)に熱心だったからね。私達とはちょっと感覚が違うのか」

 

 左肩に束ねた髪をいじくりながら喜多村先輩は何か考え込んでいたが、ふと思い立ったようにこちらに話しかけてきた。

 

「蔵守くん、君が吹部の三年から苛められたとするね。それを私や美貴が見て見ぬふりをして何もしないでいたら、苛めがなくなった後も今まで通り付き合える?」

「……状況にもよりますが、多分無理です」

 

 自分とて男。先輩達に守ってもらおうとは思わないが、間接的にせよ何のフォローもないとなれば、さすがに悪印象がつくのは避けられない。中学からの知己であるから尚更だ。割り切れるかどうか、微妙なところだ。

 

「だよね。いじめを受けてる側の心理ってそういうものだもん。そりゃあ、私達も下手に南中の子達をかばって上級生に睨まれたくなかったって言い分はあるけど……。吹部での活動を棒に振る羽目になったあの子達が、そういう事まで気を回してくれるかなあ」

 

 小笠原先輩や中世古先輩の様に、南中出身の部員達のフォローに回っていた先輩は少数だ。その先輩達のお願いとあらば、多少は心動かされるかもしれない。だが、いざ復帰となれば、対岸の火事を決め込んだ部員達とも嫌でも顔を突き合わせる事になる。

 

 

 

 

 ……実際のところ、喜多村先輩が指摘している事も、問題になる時期をとうに過ぎていた。

 

 

 新入部員の仮入部期間中、大野さんと吉川さんが退部した打楽器(パーカッション)の子を復帰させようと、説得に行った事があったのだ。時期的に、戻り易いと考えたのかもしれない。

 自分はたまたまその現場を通りかかって一部始終を眺めていたのだが、結果は惨憺(さんたん)たるものだった。

 

――もうあれから半年以上経つんだよ。私達は軽音部でバンドを組んで、それぞれにやりがいを見出してる。やる気ある先輩達と同級生、みんな一丸になって一生懸命練習して、その成果を披露して。どれも去年、吹部に居たままじゃ出来なかった事。吹部ではサンフェスや演奏会には出場できても、練習量が足りないから音がバラバラ。合奏になってない。コンクールにはそもそも出場する事が出来ない。勝負の土俵に立てない――

 

 嫌な先輩達もいなくなったし、戻ってこない? 二人が最後まで言い終わらない内に、彼女はそう答えた。去年の嫌な思い出が脳裏をよぎるのか、言葉の一つ一つに熱がこもっている。最後の方は声がかすれていた。

 

――もう軽音部にいる期間の方が長いんだよ。軽音部で(つちか)った思い出。人脈。いろんなものを捨ててまで、嫌な思い出しか残ってない吹部に戻りたくない。たとえ吹部の体質が改善しても。絶対に!――

 

 毅然(きぜん)とした物言いに、大野さんも吉川さんも返す言葉が無いのがひしひしと伝わってきた。

 二人は以前から退部した面々に復帰の誘いをかけていたのだが、言を左右されて承諾を得られずにいた。そこに、この一件だ。

 結局このパーカッションの子を最後に、二人が退部した面々とそれ以上接触をもったとは聞いていない。彼女達の心が完全に吹部から離れたのを悟ったのだろう。これ以上の接触は、お互い嫌な思いをするだけだ。

 

 

 ……流石にこんな事を先輩達には言えない。特に、部長には。過剰な良心を痛める事にしかならない。

 

 

 

 

 

「部長。こっちから話を振っておいて何ですが、傘木達の事はもう考えてもしょうがないですよ。これまでの吹部の実績を考えても、南中の頃より環境が悪い事は入学前に見当ついてたと思います。あいつらにも全く落ち度が無い、ってワケでもないんですから」

 

 部の雰囲気までは無理でも、過去の実績程度なら調べ上げるのは造作もない。

 去年の三年の肩を持つような事は言いたくなかったが、南中出身の部員達の強硬な態度が問題を(こじ)らせたのも確かだった。

 私立であり、他県からも腕利きが集まる立華や洛秋は彼女達から見ても雲の上の存在。しかしこの二校に及ばずとも、万年銅賞の北宇治よりはマシな吹部を擁する学校なんて、いくらでもある。

 傘木以外の南中の面々が北宇治に進学した理由は分からない。あるいは弱小部を自分達の手で変えようという考えからか。それならそれで、一年の時ぐらい我慢して自己鍛錬に励んでいればいいものを、と最近は思わないでもなかった。

 自分も北宇治の吹部で活動していくうちに、思考が毒されてきたのかもしれない。

 

「うん……」

 

 初めは他愛ない雑談だったはずが、なんとなく湿っぽい話題に移行して自分も先輩達も口を閉ざしていく。

 そんな気まずい空気の中、低音パートが練習に使っている教室から単調な音の伸びが聞こえてきた時、何故か救われた思いがした。

 

 

♪~

 

「あすか、お待たせ。練習に来たよ……ってあれ?」

「どうしたの?」

「鍵、かかってるみたい」

 

 首掛けタイプのストラップにぶら下がったバリトンサックス。それを片手に小笠原先輩が再度扉を開こうとするが、なるほど先輩の言葉通り扉はビクともしない。

 首を傾げていると、中から田中先輩の芝居がかった声が返ってきた。

 

「……この三年三組の教室は開かずの間。何人たりとも入れぬぞ……」

「その開かずの間にいる先輩は何なんですか」

 

 一瞬の静寂。ややあって中から返答。

 

「……えっと、妖怪?」

 

 確かに田中先輩は突拍子もない言動を繰り返すし、妖怪じみてはいる。

 

「もう約束の時間よ。馬鹿な事やってないで入れてよ」

 

 小笠原先輩が呆れ顔で、扉向こうのいたずらっ子に鍵を開けるよう促すが。

 

「ちょっと待った! 入りたいなら合言葉を述べよ」

『合言葉?』

 

 何の事か分からず、先輩達と顔を見合わせていると、出し抜けに三つの数字を口ずさむ田中先輩の声が聞こえてきた。

 

「81、60、83」

 

 ……聞き覚えのある三種の数字。頭に浮かぶのは六時限目の化学の授業、先生が雑談半分で話していたある種の元素。

 

「レアメタル?」

「晴香のスリーサイズだね」

 

 確か原子番号81がタリウムで、60は……なんですと?

 

 喜多村先輩の返答はしっかり正解だったようで、教室の扉がガラガラと開く。

 そして未だかってない加速で教室に飛び込む小笠原先輩。顔は真っ赤っ赤。

 

「ちょっとあすか! 男子がいる前で何言ってるのよ!?」

「いや~他のパートとのセクション練習って、一年生達は今日が初めてでしょ? 親しみやすい先輩って感じのアピール、みたいな?」

 

 スリーサイズをアピールする事で得られるようなものなんだろうかそれは。

 

「おっぱい部長……」

「憧れのCカップ……」

 

 ものほしそうな様子で小笠原先輩の胸を凝視する、聖女の子と黄前さん。その一言で、彼女達のカップサイズもなんとなく見当がつく。揃いも揃ってプライベートな情報をぶちまけすぎじゃなかろうか。部長はともかく、新入部員二人に関しては身長とか誕生日とか、好きな食べ物とか趣味とか、そういう無難な個人情報をすっ飛ばして最初に手にした情報がカップサイズである。

 後輩達の視線を察してか、小笠原先輩がバリサクで胸を隠しながら田中先輩を怒鳴りつけた。

 

「もう! 合奏は明日だよ! 遊んでる暇なんて無いんだから、真面目にやってあすか!」

 

 部長。口喧嘩してる暇も、本当はありません。

 

「はいはい。こっちは準備できてるから、いつでも合奏できるよん」

 

 言い争いを続ける我らが幹部二人を尻目に、教室に入って後藤と長瀬さんと軽く挨拶を交わした。低音パートはほとんど全員揃っている。中川の姿だけがない。もう帰ったのだろうか。

 空いている机にファゴットケースを置いて一息つくと、背後から騒ぎ声。先輩達は一年生との初顔合わせで早速盛り上がっているようだった。

 

「低音には一年生が三人入ったんだよね。楽器振り分けの時に聞いたと思うけど、改めて自己紹介するね。私は喜多村来南。来南でいいよ」

「私は岡美貴乃(みきの)。名前は美貴乃だけど美貴でOK。ぶっちゃけ美貴乃って名前あんま好きじゃないの。語呂も悪いし」

 

 お相撲さんみたいですもんね。

 

「み、美貴先輩!」

 

 そんな事を思っていると、聖女の子が急に岡先輩に駆け寄ってきた。

 

「ん? なに?」

「私、川島緑輝(サファイア)っていいます! 私もサファイアって名前で呼ばれるのが嫌なので、みどりでお願いします!」

「う、うん。わかった……」

 

 ふんっ、と鼻息を荒くする川島さんの気迫に、若干引き気味の岡先輩。

 それにしても凄い名前の子だ。名前のせいで小中学校ではいじめられたりしなかったのだろうか。ご両親はどんな考えでこんなキラキラネームつけたんだろうか。そもそもサファイアというと青のイメージだが。

 どこからツッコむべきか悩んでいると、岡先輩がこづいてきた。

 

「ほら、蔵守も自己紹介する。まだこの子とは話してないんでしょ?」

 

 岡先輩に腕を引かれながら、こちらをじっと見上げる川島さん。楽器振り分けの時も思ったが、本当にちっこい子だ。

 

「いや……自分オーボエですし、全体練習以外じゃ低音パートとあんまり一緒になる事ないですよ」

「どうせ今後も荷物持ちで顔合わせるんだから、ちゃんと覚えてもらった方がいいじゃない」

「今年も荷物持ちさせるのは決定事項なんですか」

 

 思わぬ臨時収入もあった事だし、ここは辛抱しておくか。

 我ながらさもしい思いを抱えながら、表面上はにこやかに川島さんに接した。

 

「昨日の腹式の指導で黄前さんと()()は知ってると思うけど改めて。自分は蔵守啓介。聖女みたいな強豪とは縁遠い中学に通ってたから、機会があれば練習方法とか聞いてみたいな。よろしくね、川島さん」

「はい! よろしくおねがいします、蔵守先輩!」

 

 ちゃんと名前で呼んでくれた事に何故が胸が熱くなる。当たり前の事なのに。

 

「……なんで久美子とみどりはさん付けで、私は呼び捨てなんですかー」

「さあなんでだろうね」

 

 人を風船呼ばわりする後輩に、敬称をつける必要性は感じない。

 

「それじゃ自分はこの辺で。練習に戻りますね」

「ああ、蔵守。戻る前に一度合わせるから聞いてってよ。気になったトコあったら教えてちょーだい」

 

 雑用も済んで教室を後にしようとしたところ、田中先輩に引き止められた。

 

「え? 鎧塚さん待たせてますし、指導なら畑違いの自分より田中先輩の方が適任でしょう?」

「まぁそうだけど。たまには別な視点から意見聞きたいの。そんなに長くはかからないからさ」

「一度だけですよ」

 

 メトロノームのテンポを調整し、机に置かれた予備の楽譜を開きながら席についた。

 たまには低音パートの練習に参加するのも悪くない。この短期間で、どこまで形になっているか興味もある。

 合奏の準備が出来たのを見計らい、机を指先で叩きながらリズムを取った。

 

「一、ニ、三、ハイッ」

 

 

♪~

 

 

「……まあいいんじゃないんですか? 自分的には特に問題無いように思えます」

 

 合奏を一通り聞いた後、つぶやいた。

 さすがに田中先輩の御膝元だけあって、低音パートは真面目にやっているらしい。

 喜多村先輩と岡先輩も、細かいところは別として明らかなボロは見受けられない。

 

「みんなうまいです……。私は全然思ったように吹けないのに」

「葉月ちゃんは初心者だからしょうがないよ。私だって去年の今頃はそんな感じだったよ?」

 

 初心者まで合奏に参加する必要は無い、とは滝先生の言でもある。自分の隣で一緒に鑑賞していた加藤がため息をつくと、長瀬さんがすかさずフォローした。今この場にいる面子の中で、加藤以外に高校からの吹奏楽スタート組は彼女しかいない。初心者だった頃を思い起こさせて、放っておけないのだろう。

 

「でも~、私演奏以前に音もまだ安定して出ないんですよ」

 

 やる気が空回りしているのか、加藤が顔を曇らせる。まだ入部してからいくらも経っていないのだから、気にせず気長に取り組めば良いと思うが。

 ……少し、稽古つけてみるか。

 

「ほら加藤。笑顔笑顔! そんな暗い顔してちゃ出る音も出なくなるぞ」

「いえ、今はそんな気分じゃ……」

「先輩命令。四の五の言わずにとっととやる!」

「は、はいぃ! これでいいですか?」

 

 即座に返事をしてくれる加藤。昨日のオイタが効いたようで大変結構。だがまだ笑顔が固い。

 

「そうじゃなくて、こう。頬の筋肉をしめて口角(こうかく)をちょっと上げて。……そうそう、微笑むみたいな感じで」

「こ、こうですか?」

「よし。その顔のまま、正面に向かって吹いてみて」

 

 加藤は狐につままれたような視線を向けながらも、チューバを抱えて大きく息を吸い込んだ。

 

♪~

 

『おおー』

「で、出た! 出ました!」

「葉月ちゃんすごいです!」

 

 自分と加藤のやり取りを面白そうに眺めていた外野から感嘆の声が漏れ出す。

 友達がぶち当たった壁を突破して、気分が高揚しているのだろう。川島さんが我が事のように満面の笑みを浮かべて、加藤の手をとってブンブンと振り回している。

 

「うん、いい音だったよ。笑顔って、口周りの筋肉がもっとも柔軟に動いてる状態だからね。吹く時はそのあたりを注意するといいよ」

「はい、ありがとうございます!」

 

 上手くいけば儲けものと思っていたが、これで少しは先輩の威厳を見せられたかもしれない。

 ふと視線を感じて振り返ると、田中先輩が怪訝(けげん)そうな面持ちでこちらを見つめていた。

 

「……」

「田中先輩? どうかしました?」

「えっ? ああ、ううん。しかし蔵守もやるねぇ。ここのところ後藤も『音が出ないからって唇に無理に力を入れるな』とか『息を下向きに』とか、つきっきりでレクチャーしてたんだけどなかなかうまくいかなくてねー」

「手間かけさせてすまん……。俺の教え方が拙かったのかどうも上手くいかなくてな」

 

 つきっきりで、というあたりが世話焼きな後藤らしかった。

 自分ならそこまで面倒は見ない。自然に近い口の形で、いろいろ吹いてみろと言うだけで、後は放っておく。口の形が人それぞれ違うように、楽器の吹き方のコツも人それぞれ違うのだ。最後は自分自身でベストの方法を見つけるしかない。

 

「長瀬さんの時はそれで上手くいったんだろ? 別に後藤の教え方が間違ってた訳じゃないさ。加藤の場合はたまたま自分の教え方の方が合っていただけで」

 

 責任を感じているのか、うつむいた後藤の肩に手を置いて慰めた。

 

「それに、今のやり方も加藤にとっては多分ベストって訳じゃないから。他の金管パートとの練習の時に、先輩達に『楽器の吹く時の口の形ってどうしてるんですか?』って聞いて参考にするのがいいんじゃないかな。な、後藤」

 

 ここから先は木管の自分が事細かに指導するよりはいいだろう。そう思って確認を取ってみたが、後藤の顔色は冴えない。

 

「いや。そっちはあんまりアテにしない方がいい」

「うん……。私達はちゃんと練習できてるけどね」

 

 長瀬さんも奥歯に物が挟まったような口振りだ。

 

「どうしたの長瀬さん。『私達は』って」

「えっとね。セクション練習のこと、一昨日のうちにホルンにも知らせてたんだけどね。なにか煮え切らない反応で」

「私がさっき呼びに行った時は、教室はもぬけの殻でした」

 

 黄前さんがバッサリ言ってのける。

 

「ああ、そうなんだ……」

「帰ったんだろ。もう五時だし」

 

 教室の時計を確認すると、後藤の言葉通り。確かに五時を過ぎている。部活の時間を過ぎている以上、引きとめる理由もなかった。

 

 今の吹部の活動時間は平日の放課後、午後四時から午後五時までのわずか一時間。朝練や休日練習なんて勿論無く、時間外の練習は個人の裁量に(ゆだ)ねられている。

 吹部の活動時間としては明らかに短いのだが、何十人も部員がいれば部活に対する温度差も相当なものになってくる。去年の温度差については思い出すまでもないが、今現在もこの問題は解決しているとは言い難い。部員の皆が皆、強豪校のように意識が高い訳でもないので仕方のない事だった。

 とはいえ吹奏楽が団体競技である以上、それを放置したままでは去年の失敗を繰り返す事になる。先輩達だって、そこは考えている。

 数度にわたるパーリー会議の結果、束縛時間を短くして、限られた時間だけでも真面目に練習しようという事に落ち着いた。

 そういう事情があるので、コンクールで使う曲の練習ならともかく、サンフェスに使うかどうかも分からない海兵隊の演奏が形になっていないから部活時間外も練習しましょう!……とはとても言えるような事ではなかった。下手をすれば去年の二の舞になる。

 

「あすか先輩、明日は合奏なのに大丈夫なんでしょうか?」

「どーだろーね。部活時間中はちゃんとやってるんだし、無理にやらせてもしょうがないし」

 

 長瀬さんが不安そうに尋ねるが、田中先輩もフォローする気はないようだ。

 先輩の言うように、部活時間中はちゃんと練習しているだけまだマシだ。去年はそれすらできていなかった。ただ、問題は。

 

「それなんですけど、五時帰りってのをあの先生がどう思ってるんでしょうか」

 

 前々から思っていた不安を口にした。

 忙しいのか、滝先生は初顔合わせの日から部活に姿を見せていない。が、五時を過ぎれば途端に大人しくなる音楽室や各パートの教室の様子に、気付いていないはずはない。居残りは強制では無いとはいえ、演奏が形になっていなければ何と言われるか。

 

 合奏よりもその後の展望の方が、不安でたまらなかった。

 




 
小笠原先輩のスリーサイズは公式記録が無いので(当たり前だ)、適当です
 

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