「言いつけどおり、キーボードを持ってきました」
「ご苦労様です。では早速参りましょうか」
足取りも軽やかに、滝先生は廊下を歩きだす。今日まで
滝先生は、大学ノートをめくりながら呟いた。
「気になっていたのですが、クラリネットの二年生は島さん一人しかいませんね。去年、南中の子達以外も結構入部していたそうですが……みなさん上級生に潰されたのでしょうか?」
なんでそんな物騒な言い方をするんだろう。
「……まあ当たらずしも遠からずです」
どうやら、次のターゲットはクラリネットパートになるようだ。スマホで注意喚起しておきたいところだが、あいにく今は手が塞がっている。
「やる気がある先輩はそこそこいたんですが、クラはとにかくまとまりがなくて。ついていけないと感じた同級生が、多かったみたいです」
「というと?」
「込み入った話になりますが……要約すると内輪もめが絶えなかったんです」
脳みその片隅から去年の記憶をひねり出して、滝先生に去年のクラの事情を大まかに説明した。
……そもそもの原因は、クラリネットパートに部長とパートリーダーが混在していた事にあった。部長がパートリーダーを兼任すれば良さそうなものだが、中間管理職の雑用は嫌がる癖に、自分自身より下手な(少なくとも、当人にはそう見える)相手に対して、世話を焼きたがる人はどこにでもいるらしい。部長も当初は、指導面の負担が減ると、単純に喜んでいた。
破局は、わりと早く訪れた。初心者からすれば、よほど
かくして、初心者部員は空気の悪さを嫌って一人また一人と
「ほう。そんな居心地の悪いなかでも、部活を辞めなかった島さんは、なかなか根性がありそうですね」
「根性があるというより、パーリーの鳥塚先輩に恩を感じていて、困っている先輩の力になりたいと考えているみたいですが」
島も入部直後はトランペットを希望していたそうだが、音出しでしばらくの間、
ハンデを抱えた初心者が選抜を勝ち抜くには、トランペットは人気楽器でありすぎた。数少ないパイの奪い合いに敗れた島はすっかり落ち込んで、塞ぎ込んでいるのを鳥塚先輩が見かねてクラリネットに誘ったと聞いている。それからは鳥塚先輩が手取り足取り親身な指導を行って、島はすっかり先輩の信者になってしまっていた。病気の深さでは、中世古先輩信者の吉川さんといい勝負だろう。
「なるほど、美しい師弟愛ですね」
「……だから、今度はあまり鳥塚先輩に強い言葉をぶつけないで下さい。正直この前の合奏の時も、島が暴発するんじゃないかと気が気でなかったんですから」
「善処しましょう」
善処。本来の意味を離れて、これほど信用が持てない言葉もない。たいていの場合は単なる口約束に終わる。
内心そんな事を思っている内に、クラリネットパートが練習に使っている教室にたどり着いた。去年の顛末の説明でいささか時間を潰したものの、嫌な事を後回しにしたい心境にあっては、パートの説明だけで部活が終わっても一向に差し支えなかったが。
「お邪魔しますよ」
滝先生が扉を開いて挨拶をした途端、教室の中から突き刺さってくる
その余波を浴びる形で、教室に入った自分を鳥塚先輩が
「なんで蔵守もいるの?」
「先生から指導の手伝いを頼まれたんです。邪魔にならないようにするので、自分の事は気にせず、路肩の石みたいなものと思って下さい」
「ふうん……?」
ざっと教室の中を見回した。後方に居座るクラリネットパートの部員達に沿って、譜面台が整然と並んでいる。雑談も聞こえなかった。吹き真似を見破られたのがこたえたのか、真面目にしている。ただ、一部の部員達は、どこかやけっぱちになっている様にも見えた。
鳥塚先輩は手近にいた一年生の楽譜に何ごとか書き込みをしていたが、それを中断して近寄ってきた。
「先生、あれからちゃんと練習し直しました。ご指導、お願いします」
『……お願いします』
礼儀正しく鳥塚先輩が頭を下げて他の部員も追随するが、型どおりの挨拶にもどこか重苦しさがつきまとう。
張り詰めた空気のなか、固い表情で今や遅しと演奏の用意を整えているクラリネットの面々。
そんな相手に向かって、滝先生はまたしても水を差す一言を投げかけた。
「演奏は、まだしなくていいです」
先輩達が石像のように固まる。が、それも一瞬の事で、滝先生に向かって目を
「貴方達はまず、楽譜を暗記するところから始めて下さい。実際に吹きこむなり、頭でイメージするなり方法は任せますが、明日までにはちゃんと暗記しているように」
「どうしてですか! あれからちゃんと練習しました!」
ひとりがそう言い出すと、
十中八九、指導の場は荒れると思っていたが、初手から躓く事になってしまった。
「どれだけ練習しても、方向が間違っていればゴールから遠ざかるだけだからです。貴方達は基礎がなっていません」
その一言で、みんな水を打ったように静まり返った。
「蔵守君。早速ですがキーボードの準備をお願いします」
「はい」
「それと、高野さん」
「! はいっ!!」
先ほどまで鳥塚先輩と一緒にいた初心者の一年生が、名指しで指名されてびくつく。
「音符の下にドレミを書くのはやめなさい。貴方達はまず、書き込みに頼らずに楽譜を読めるようにするところから始めなさい」
「え、でも……」
「貴方は英語の教科書に、カタカナで読みがなを振るのですか? 英文でなく、読みがなを見て発音するのですか?」
「いえ、そんな事しませんけど。でも……」
「貴方がやっている事は、そういう事ですよ。音符よりもドレミの書き込みに目がいくと、いつまで経っても楽譜が読めるようになりません」
「……わかりました」
初心者の一年生が楽譜の書き込みを消していく。そして申し訳なさそうに鳥塚先輩の方を見た。
鳥塚先輩は不服そうにしている。それも道理で、目の前で自身のやり方を否定されて面白いはずがない。誤りを正すにしても、もう少し言い方があるはずだ。
滝先生が、こちらをちらりと見た。
「蔵守君、キーボードの用意はできましたか?」
「はい。いつでも」
この張り詰めた空間では、キーボードを机に置く音ですら怒気を刺激しかねない。なるだけ静かに準備を整え、視線をキーボードに下ろして誰とも目を合わせないようにした。
「ではドレミファソラシドのドから、私の合図に合わせて一音ずつお願いします。いきますよ。一、二、三、四」
♪~
先生の合図に合わせて、キーボードを指先で叩く。ドレミファソラシドの音を一つ一つ出す。その音に合わせて、クラリネットのメンバーが声を出していった。
「今ので一音一音の違いを確認しましたね。では、海兵隊のクラリネットの旋律を、同じようにドレミで歌ってみて下さい」
♪~
また先生の合図に合わせてキーボードを叩いたが、今度は耳にノイズが入り込んでくる。
一年生の初心者の子は無理もなかったが、三年生の中にも音を外す人がいるのだ。やはりこの前の合奏で崩れたあたりから、
「蔵守君。聞いていてどうでした?」
それを自分に言わせるのか。ここで下手な言い方をすれば、クラの面々の恨みを買いかねないのに。
先輩達の顔をざっと見回した。同じ木管楽器。ちょくちょく一緒に練習もするので全員見知った顔だ。それだけに何を考えているか、顔を見ればおおよそ見当はつく。
――ちょっと。分かってるよね――
そんな先輩達の氷点下の視線が痛かった。しどろもどろになりつつも、どうにか言葉を取り繕う。
「ええと……。途中までは綺麗に歌えていたと思います」
嘘は言っていない。
「その先は?」
袋小路に追い詰められて、玉虫色の返答も許されない。
「すみません。ボーとしてて聞き逃してしまいました」
臆病者とでも何とでも言え。和を以て貴しとなす。NOと言わない日本人素晴らしい。
「物見遊山に貴方を連れてきたわけではありませんよ。次はちゃんと聞いていなさい」
「はい……」
クラリネットの指導なのに、自分が真っ先に槍玉にあげられるのは気に入らないが、ここで馬鹿正直に感想を述べでもしたら、たぶん先輩達にフクロにされるくらいじゃ済まない。
せいぜい恐縮しきった
「途中から崩れたのは、貴方達も分かっていたでしょう? それは周りの音に合わせるだけの余裕が、今の貴方達にはないからですよ。楽譜に頼り過ぎてはいけません。楽譜に書かれた情報など頭の中で
ドレミファソラシド。吹奏楽用語で言う所の、いわゆる
部長とパーリーの間の
慣れ親しんだメンバーの下から離れて、新天地に向かうのを承知したはいいが、他のパートに比べて一体感に欠けるのは否めない。意思疎通に
ああいう形で、合奏する事になったのは先輩にとっても不本意であったはずだ。
「基礎の基礎ですよ。何年も貴重な時間を割いて、この部活に
『はい……』
「それで今の様な合唱しか出来ないというのなら、それこそ時間がもったいない」
先輩達が
合奏の時の方が、まだ言葉を選んでいた。今のは、やるだけ時間の無駄だと言っているようなものだ。
去年だけではない。おそらく一昨年も、卒業した先輩に頭を抑えつけられて、今の三年生は不本意な思いをしてきた。そこに
「ですが……!」
「鳥塚さん。人が多いから合わせるのが大変。練習時間が足りない。そんなことは、やる前から分かりきっていた事でしょう。分かっていたのなら、なぜそれを改善しようとしないのですか? 方法が思いつかないなら、私に聞いてきてくれてもよかったのですよ」
何か抗弁しようと、口を開きかけた鳥塚先輩の機先を制する形で、滝先生が追撃をかけた。
本当にこの人は、息苦しい正論をぶつけてくる。人が、そんな理屈通りに行動できるのなら世間を騒がす問題の半分は消え失せるだろう。部活動とて人が集まって活動する以上、人付き合いと無縁ではいられない。十六年生きただけの青二才に過ぎない自分でも、人付き合いは理屈より感情が優先される事ぐらい肌で感じている。女子が相手の時は特にそうだ。
まとまりのないクラリネットパートの取り仕切りだけで四苦八苦しているであろう鳥塚先輩に対して、滝先生の言葉はあまりに思いやりがない。
「言われる前に、行動できるようになりなさい。貴方が反省すべきは、まずそれです」
鳥塚先輩は何も言わない。体を震わせつつ、口をへの字にして、両目から涙がこぼれそうになるのを必死にこらえていた。見ていて、いたたまれなくなる。昨日の合奏そして今日と、後輩達の眼前での叱責だ。自尊心も相当に傷つけられただろう。さすがに表情からは負の感情を隠しようもない。それでも逆上せずに、ひたすらかしこまっているのは、いっそ立派なものだった。
「ヒロネ先輩を悪く言わないで下さい! 先輩はちゃんと私達に指導してくれてます!」
たまりかねたように、それまで黙っていた島が細い眉をつりあげながら大声で叫んだ。彼女の両目に、憤怒の炎が揺らめくのが見える。同級生や後輩以上に、先輩が叱責されている場面など見ていて気持ちのいいものでもない。それが親しい先輩なら尚の事で、島が心穏やかでいられるはずもなかった。
「では島さん、その成果を見せてもらえますか?」
滝先生も
構え方なら、自分も知っていた。クラリネットパートとは何度も練習を重ねている。楽器を交換し合ったりするのは遊びの様なものだ。高校から始めたとはいっても、島も今年で二年目。もう初心者とはいえない。クラリネットの構えは様になっていたが、ただそれだけだった。それ以上でもそれ以下でもない。
「どうしました? その堂に入った楽器の構えは見せかけですか? 喧嘩なら、見せかけだけでもひるむ相手はいるかもしれませんが、音楽はそうはいきませんよ」
この前の合奏の吹き真似を皮肉っている。ひっ、と周りから悲鳴が上がる。
島は負けん気を先生にぶつけて、半ばやけくそ気味にクラリネットを吹き出した。
♪~
直訴するだけあって、さすがに島は楽譜通り音を外すことなく吹けていた。リズムもおかしくない。しかし音色が微妙に汚い。
目を閉じ、腕を組んで彼女の演奏を聴き入る先生も、頻繁に首を
――ちゃんと楽器店に行って、リードを選んだほうがいいぞ――
それを年明け、そしてこの四月。時を置いて二度、言った。三度言う気はなかった。くどいと思われるだけだ。
鳥塚先輩も、どのメーカーのリードが島の楽器に合っているか。それ位は指導しただろうが、所詮リードはナマモノ。当たり外れはある。買い替えの度に、面倒でも楽器店に楽器を持っていって試し吹きをする。その過程を踏んだ上でリードを購入すればベストだが、そこまで手間をかけているようではなかった。
「上手くいかなくても、最後まで演奏しなさい」
先生だけでなく、隣で見守る自分まで微妙な空気を醸し出しているのに心が折れたのかもしれない。誰に言われるでもなく途中で演奏を止めた島に、滝先生は更なる追撃をかける。
「昨日の合奏は途中で止めてたじゃないですか!」
「あの時は皆さんの実力を把握するのが目的でしたから、途中まで聞けば十分でした。今は違います。最後まで演奏しないと、分からない事もあるのですよ」
滝先生の言葉は、いちいちもっともではあった。部分的に演奏した時はできていたのに、合奏では息が続かずバテてしまってうまくいかない。そういう事は往々にしてあり、全体を通して演奏して初めて気付く。
嫌味な口調の中にも、聞くべきことは混じっている。
「私は、確かに上手くありません! でも、真面目にやっています!」
「上手くもなく、遊び半分で全国を目指している吹部なんて、私は知りませんが」
「ぐっ……! この……!」
滝先生の言葉は嫌味以外の何物でもなく、島の態度も恐れ入るようなものとは程遠い。
「この、粘着イケメン悪魔!」
反論というより怒号だな、とはたから見ていて思ったが、とにかく先生の
これ以上滝先生をこの場に留めても、今までとは逆の意味でまともな練習が出来るはずもない。先生の頭の中にどれだけ
「……あの、先生。クラへの宿題が楽譜の暗記だけでいいなら、ここら辺でお暇しませんか? まだ他のパートも回らなくちゃいけないんですし」
二人のやり取りにおそれをなして取り成すと、上級生と顧問の修羅場にびくついていた一年生達が救われたような表情を浮かべた。
滝先生は、クラリネットパートの部員達を
「そうですね。ではキーボードを置いていくので、しっかり楽譜の旋律を頭に入れて下さいね」
それを聞いて、へたへたと膝をつく一年生。うつむいたまま、ぽろぽろと涙をこぼす鳥塚先輩。いろんな意味で痛ましい光景だが、しかし同情している余裕はなかった。今日だけでも、こんな光景を推定あと四、五回は見守らなければならないのだろうから。
早くも付き合いきれなさを覚えながら、いっそ傘木の後を追って市民楽団にでも隠居しようかと、半ば本気で考えた。
「もう来るなぁ!」
般若と化した島の怒声に追い立てられるように教室を後にして、しばし無言だった。
制服のポケットにしまったままのスマホが、振動を続けている。島と滝先生が言い合いになったあたりからだ。部活動中の携帯電話の使用は校則で禁じられているが、状況が状況だ。校則を守る気があろうとなかろうと、状況確認せずにはいられないのだろう。
そして手加減を知らない当の人物はというと、小憎らしいほど平然としながら話しかけてくる。
「良いタイミングで、話の腰を折ってくれましたね。私も少しばかり、口が滑らかになってしまったようです」
あれで少しか。ここに鏡があれば、自分は苦虫の十匹は噛み潰したような顔をしているだろう。
「あそこまで言う必要、あったんですか?」
次なる生贄を求めて、軽快な足取りを重ねる滝先生の背中に恨み節をぶつけた。先生は前にいた学校と同じ指導をこなしているつもりかもしれないが、ここは前の学校ではない。これまでの部活とは内容が180度違うスパルタ指導は、先輩達にとって過酷なものであるはずだ。
まさかこの調子で他のパートも炎上させるつもりなのか。その度に火消しをさせられるのはたまらない。そんな事を思いつつぼやいた。
「先生がキツい言い方して、みんなから突き上げをくらうのは勝手ですけど。巻き添えは勘弁して下さい」
滝先生の太鼓持ちと、誤解されるのは御免だ。
「ああ、それなら心配いりません」
滝先生が、涼しい顔をして口を開いた。
「鳥塚さんを
火の元を余所に移すってなんだ。まるで自分が放火魔の片棒を担いでるみたいじゃないか。爽やかな笑顔とは対照的に、滝先生の口から出てくる言葉は不穏極まりない。
「誤解を招くような事は言わないで下さい。何処の壁に耳があるかわかったもんじゃないのに。……というか、早速出歯亀が一匹ついてきてますよ」
「ひゃい!?」
入学して間もない一年生は、まだ校内を把握しきっていない。廊下のつきあたりの壁一面に据え付けられた大鏡に注意が向かなかったのが運のツキ。柱の角から突き出たタコ足が丸見えだ。戻って練習しろと言ったのに、人の話を聞かない後輩である。
「あ、あはは……。ばれちゃいました」
雑な隠れ方をしていた黄前さんが申し訳なさそうに柱の陰から姿を現した。笑ってごまかそうとしているが、自分の言い付けを破った事に言い訳の一つもないのか。
「黄前さん。どうして貴方が此処にいるのですか?」
滝先生が笑顔で問いただすが、それが逆に怖い。もしかしたら怒っていないかもしれないが、叱る時でも微笑みを浮かべている人なので油断できない。
それにしても、ついこないだ入部したばかりの一年生の名前を滝先生はちゃんと覚えている。昨日、自分が先生とサシで会った時は、名前を
「さっきはマウスピースを洗いに来てたね。今度は楽器丸ごと洗いにきたの?」
ちらりと廊下の片隅の流し場に目をやりながら、黄前さんに聞いてみた。
「いえ。今丸洗いしなくちゃいけないほど、ユーフォの状態はひどくありませんよ?」
「そう」
流し場に歩み寄り、蛇口を捻って水を張った。北宇治高校の流し場は幅広い。十分浸かりそうなスペースはある。
「……あの、どうして水を張るんですか? 今の会話の流れで」
それは水に浸すのは楽器ではないからであって。
「うん。人の話を聞かない一年は、水に浸からせてしばいてやろうかなと」
「ひええ!!」
「蔵守君も、冗談はそれくらいにしておきなさい。それで、黄前さんは何故ここに?」
滝先生に諭されて、彼女を土左衛門の刑に処すのは断念した。無論冗談ではあるが、あまり勝手に動き回らないように釘をさしておくのが黄前さんの為にもなる。去年よりは随分マシになっているとはいえ、旧態依然とした上下関係をよしとする気風は、今なお吹部に残っていた。
それはさておき、滝先生は黄前さんがここにいる理由を再度問いただすものの、
あたふたしたままの彼女の返答は
「あすか先輩が怒って出て行って」だの
「後藤先輩と梨子先輩が怯えてて」だの
「みどりも滝先生の指導を見に行きたかったです!」だの
いまいち要領を得ない。一呼吸置いた方がよさそうだ。
「落ち着いて黄前さん、ゆっくりでいいから時系列に沿って話すんだ。はい深呼吸」
「そ、そうですね。スー、ハー。すぅー、はぁー」
「……」
深呼吸しても胸部に大した膨らみは確認できない。やはりAか……。
「ふむ、そうですね。では落ち着くまで15秒の猶予を与えましょう。13、11、7、5、3、2、ゼロ。はい時間切れです」
「うぇぇっ!?」
「……滝先生も黄前さんで遊んでるじゃないですか」
思わず口を尖らせた。
素数を数えても一向に落ち着く気配を見せない黄前さんは放っておく。
「おっといけません。吹奏楽部の空気に染まってない新入部員が純真に見えて可愛くて。あとひと月もすれば生意気になっていくと思うと、ついついいじりたくなるのですよ。こんな事ではいけないと思うのですが」
「思ってても言わない方がいいですよそういう事」
楽器の持ち方も知らない初心者が、一通り手ほどきを済ませて、簡単な曲の一つでも吹けるようになる頃には生意気になる。自分もそうだったから、滝先生の言う事も良く分かる。
とはいえイケメンでなければキモいと引かれる事請け合いの発言でもある。先生にもこんなお茶目な面があったのかと関心しつつも、関心している場合ではない。混乱状態のままの黄前さんを、先生と自分で合わせて三度目の
ようやく落ち着いたらしい黄前さんは、胸に手を当てながらつぶやく。
「ふー、答えるの待ってくれて助かりました。教室に居ても苛々するから個人練行ってくる。出番近づいたら連絡寄こせなんて本当のこと先生にバラしたら、後であすか先輩から使えない奴ってネチネチ嫌味言われそうですし。かといって黙ってたら私が先生に怒られちゃうし。あらかじめ教えられた言い訳を思い出す暇もなく返事を急かされると、どう答えていいかパニクッちゃいますよね」
「全部バラしてくれてありがとう。そういう事情だったのか……」
黄前さんはまだ平静に戻っていないのか、それとも普段から思っている事をそのまま口に出してしまう性分なのか。胸以外隠れんぼに向いてなさそうな体躯といい、田中先輩もとんだミスキャストだ。
時期もまだ五月前。直属の新入部員が使えるかどうかのテストも兼ねているのだろうか。……あの人ならやりかねない、という気もするが。
「何故このタイミングで田中さんは機嫌を損ねて個人練に出たのでしょう?」
「……そりゃあ、楽器の音より部員の悲鳴怒声が廊下や隣近所の教室まで飛び交ってて、気が散るからでしょう」
個々のパートが使っているのは普通の教室で、音楽室のような防音は無い。
やんわりと叱るのならばいざ知らず。あそこまでくそみそに
「では田中さんが落ち着くまで、低音パートは後回しにして他を先に回りますか。せっかくです。黄前さんもついてきなさい」
「うぇぇっ!?」
滝先生の勧めに、黄前さんが本日何度目になるか分からない奇声を上げる。まったくもって、割のいい役目でないのは確かだ。先生と先輩達の間で何かあれば、怒りの余波を向けられかねないのだから。そんな役目を押し付けられる彼女も可哀そうだが、このさい自分としては、弾除け役が増えるなら良心を居眠りにつかせてでも賛成したい心境だった。それに木管ならともかく金管の事となると、
「でもいいんですか? 新入りの私がそんな出しゃばって」
ふむ、と滝先生が
「蔵守君。そこのところ、貴方から見てどうですか?」
「田中先輩から頼まれたと言えば、誰も文句は言わないと思います。自分も、異論はありません」
滝先生の問いに太鼓判を押した。肩書こそ副部長でも、部内ヒエラルキーの頂点に立っているのは田中先輩だ。その田中先輩の意に異議申し立てをして、好き好んで波風を立てようとする人など、この部にはいない。
「あすか先輩って、人望あるんですね」
「……ま、それについては黄前さんもおいおい分かると思うよ」
「?」
首をかしげる黄前さんから目をそらして、これ以上この話題に深入りするのを避けた。
田中先輩は確かに人望はある。あるけれど。それは中世古先輩のように人柄の良さから来るものばかりともいえない。頭が良いから。演奏が上手いから。そういう能力の高さからくる、よく言えば頼りになる、悪く言えば敵に回さない方が利口な類の人望もかなりを占める。
そしてそれを、黄前さんも今後の部活動で思い知る事になるだろう。
長らく更新が滞り、申し訳ありませんm(_ _;)m
創作意欲が下がっている訳ではないのですが、スランプ状態が長引いており、
投稿開始時のような頻度で投稿するのが難しくなっています。
今後も亀更新が続くと思いますが、ご理解頂ければ幸いです。