北宇治高校ダブルリードパートへようこそ   作:言巫女のつづら

19 / 26
第19話 よみがえれクラリネット 後編 (クラリネットパート3年・鳥塚ヒロネ 視点)

 ……やっぱりダメだよ。

 

 鬱屈(うっくつ)した感情を抱えたまま入った部活。

 副顧問の松本先生の立ち合いの元、音楽室で行われた合奏の結果は、あまりよろしくない。

 

 いや、滝先生にダメだしされた最初の合奏と比べれば、随分と曲らしいものにはなっている。ただ、これでも合格点はもらえないと思うのだ。

 四日前の最初の合奏では、まとまっているパートと、そうでないパートの落差が激しく、それが合奏の(てい)を為さなくさせていた。今日の合奏では、その落差はかなり埋まっている。だけど今度は、音に生気を感じない。フルートにホルン、そしてトロンボーン。滝先生に厳しくダメだしされたパートほど、そういう傾向は顕著だ。

 どうして音に生気が無いと感じるのか。それは先生に指摘された部分を修正しているだけだからだ。そうでない部分は、ただ機械的に音を強くしたり弱くしたりしているだけ。フレーズにまるで感情がこもっていない。

 

「……あれはサボタージュですね」

「ったく。ガキじゃあるまいし……」

 

 合奏が終わった後、重苦しい空気が漂う中で蔵守がため息をつく。ナックルも苦々しさを隠さない。消極的抵抗に打って出た部員が続出したのは、二人に指摘されるまでもなかった。フルートにホルン、そしてトロンボーンは滝先生をもはや敵とみなしている。理屈では勝てないから、反発の方法もそれだけ陰にこもるという訳だ。

 音楽室に、もう部員はほとんどいない。パートリーダーばかりが、現状の課題を話し合う為に居残っている。といっても、まず課題に挙げるべきは誰の目にも明らかで、問題は誰がそれを指摘するかにある。晴香の視線が泳ぐ中、結局終着点は我らが最高権力者に行きついた。

 

「さて。フルート、ホルン、トロンボーン? 何か言う事あるよね?」

『……』

「黙ってちゃ、何にも分かんないよ」

 

 あすかの声が不快感にとがった。もともと部長の打診を断り、副部長の就任も再三の依頼に根負けして渋々と引き受けた経緯がある。面倒を押し付けた方にも任命責任というものがあるはずだが、その責任を自覚するどころか、非協力的な態度を取る相手に好意的でいられるはずもない。普段であれば、いたずらに人間関係にひびを入れるような酷薄な言動は決してしないけれど、自らの足を引っ張るような真似に対しては、見ていて背筋が寒くなるほど厳格になってしまうのだ。

 

「荒れてますね、田中先輩……」

 

 蔵守が、ナックルに小声でつぶやく。

 

「滝先生のレッスンを順調に消化してる低音は、会議に参加しても何の得にもならないからな」

「損もしないのでは?」

「時間を無駄にするだろ」

 

 確かに、そういう事をとりわけ嫌う子ではある。

 

 今は、滝先生から与えられた課題をこなすしかない。そんな現状で、それぞれの進み具合を先生に報告するならいざ知らず、内輪(うちわ)で報告し合っても余り意味がないように思えた。他のパートは順調なのに、私のパートは遅れててマズイとか、そういう事で焦りを感じるような心境では既にないからサボタージュなどが起きるんだ。

 

「まったく、間に挟まれた俺らはいい迷惑だぜ」

 

 男二人、肩をすくめて愚痴り合っているが、内緒話にしては声が高すぎた。いよいよ烈気を増したあすかの視線が、ぎりぎり糾弾の外側にいるはずの二人にも向いてくる。

 

「蔵守、ダブルリードの状況はどう?」

「え? あ、はいっ。これまでの練習方法の問題点の洗い出しとその改善策の提示。それについては滝先生から了解を得ています。喜多村先輩と岡先輩は姿勢の矯正。自分は独学でやっていた時についた癖の修正、鎧塚さんは……」

「あのね。私が聞きたいのは、パー練が順調かそうでないか"だけ"なんだけど」

 

 あすかがピアノにもたれかかりながら、台を爪先で弾いた。苦笑しているその表情からは、苛立ちを(のぞ)かせない。ただ、ピアノを叩く音の強さに、わずかに感情が滲み出ていた。

 蔵守は即座に失策を詫びて報告し直したものの、彼に続く進捗報告ははかばかしいものではなかった。現状のままであれば、どうにか滝先生から合格点をもらえそうなパートが三分の一、ボーダーライン上で予断を許さないのが三分の一、なお改善の余地を多く残す落第点が三分の一といったところだった。

 後者になればなるほど報告は陰気さを増し、口調も錆びついた歯車のように歯切れが悪い。あすかの瞳に静かに、だが確実に充満していく怒気の電光が私を捉えた。

 

「で、クラはどうなの? 一人一人は前より仕上がってるみたいだけど、何だかまとまりがなかったよ」

「……さあ、私には分からないかな。みんなの進み具合を全部は把握しているわけじゃないから」

「……? 自分のパートでしょ。分からないって言い草はないんじゃない?」

 

 半ば投げやりに放った私の言葉に対して、驚き三割呆れ七割といった感じの表情をしたあすがが混ぜ返してくる。

 

「……だから、全部はと言ったでしょ。クラは両手に余る人手を抱えてるんだから、他のパートみたいにはいかないの」

「はあ?」

「田中先輩、それなんですが……」

 

 覚られた時点で隠し立てしても無意味と判断したのだろう。私とあすかの間に漂い始めた険悪な空気を察して、慌てて蔵守が間に入って事情を説明し始めた。

 その様子をどこか他人事のように眺めながら、私の心中は複雑だった。言い訳するのも億劫な私に代わって、事情を過不足なく説明してくれている感謝の念と、頼んでもいないのに出しゃばるなという苛立ちが交差している。最近は、こんな風に相反する感情が同居する事が多くなっている。

 

「……というわけで、クラは人手が多いだけに鳥塚先輩の一存だけではどうにもならないようです」

 

 彼がクラリネットパートが割れている状況を伝えはしたものの、あすかの表情は納得がいったというほどでもなかった。私も、何が何でも苦しい胸の内を分かって欲しいという気分でもない。面倒事ばかりで、きっかけさえあれば何もかも投げ出したい心境だった。

 

「クラはもうダメだよ」

「そんな事言わないで、頑張ろうよヒロネ」

 

 励ましているつもりなのかもしれないが、晴香のその言葉に私の神経がささくれる。パートリーダーになってから、私はずっと頑張ってる。あすかのように思慮分別をわきまえてもいなければ、香織のように良い子でもないこの私に、これ以上一体何を頑張れというのか。私の中のどす黒い感情が、私の体を支配していく。殺気立っていく私を、私が止められない。

 

「……頑張ろう、かあ。そんなありきたりな慰め、晴香にかけてもらえるなんて思いもしなかったよ。晴香も部長を頑張って来たけど吹部はこのありさま。何とかしようとしても何ともならなかった人に慰めてもらうのもおかしな話だよね」

 

 どうしてそんな酷い事を言えるのか、自分でも分からない。晴香は吹部をよくしようと、必死に頑張って来たのに。何もできなかったのは、私も一緒。共に理不尽な日々を耐え抜き、滝先生が来てからは共に厳しい日々に耐えてきた晴香を傷つけなければいけない理由なんて、どこにもない。

 心でそう思っても、出てくる声は晴香を口汚く(ののし)る言葉ばかり。

 

「滝先生流に言えば、無能者同士の傷の舐め合いになるのかな」

「いいんじゃないの? 傷の舐め合いでも」

 

 暴走するもう一人の私を止めたのは、やっぱりこの子だった。

 

「舐め合いついでにお互い情報交換するなりストレス発散するなりした方が、まだしもマシじゃないの? 個々別々に殻に閉じこもって、どうにもならなくなるよりは」

 

 さらりと言ってのけたあすかが、私と晴香の間に立ちはだかる。それだけで私の首筋から背筋にかけて冷たい汗が流れて、思わず二歩後ずさる。

 だめだ。私とあすかでは役者が違い過ぎる。

 

「違う?」

 

 舌禍(ぜっか)の応酬はあすかに軍配が上がった。

 追い詰められていたとはいえ、晴香のこれまでの部長としての頑張りを全否定するかの(ごと)き言動を弄した報いを、私は即座に受ける事になった。

 泣き崩れる晴香と、それを慰める香織を除く全員が、私に冷ややかな視線を向けてくる。その視線から逃れたくて、私の頭は弱々しく沈む。沈んた頭は床と正対し、潤んだ瞳から滴がこぼれ落ちた。自分のバカさ加減への呆れと、晴香を傷つけてしまった申し訳なさで。

 

『見損なったよ、ヒロネ』

 

『見損なったぞ、鳥塚』

 

「見損ないました、鳥塚先輩」

 

 全方位から襲い掛かる非難から逃れたい。なのに体が動かない。うずくまって頭を抱えるしかなかった。もう死にたい。叶うものなら消えてなくなりたい

 

――見損なったよ見損なったぞ見損ないました――

 

 お願い。謝るからもう許して。

 そう言いたいのに、言葉が出てこない。

 

――見損なったよ見損なったぞ見損ないました――

――見損なったよ見損なったぞ見損ないました――

 

 もうやめて。もう許して。

 

――見損なったよ見損なったぞ見損ないました――

――見損なったよ見損なったぞ見損ないました――

――見損なったよ見損なったぞ見損ないました――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もうやめてっ!!」

 

 休眠していた声帯がようやく再起動して、声を枯らすほどの叫びをあげた瞬間、目の前にありえない世界が飛び込んできた。

 周りの視線から逃れたい。そんな願いを叶えるかのように、視界いっぱいに衝立(ついたて)が覆っていて、外からの視線を遮断している。振り返ると背後は壁。そして両手にかかる布の感触。ベッドシーツを握りしめ、私はベッドに横たわっていた。

 ベッドに視界を覆う衝立。とくれば、まず思い浮かぶのは学校の保健室しかない。 

 誰かが、私をここに運び込んだ?

 ベッドから身体を起こし、気を取り直して、今に至るまでの状況を冷静に振り返ってみる。

 

「……こういう場合だと、ストレスで気絶してるうちに保健室に担ぎ込まれた。っていうのがよくあるパターンだけど」

 

 確かに泣き出したくなるような失態だったけど、そのせいで気絶するほど体調が急に悪くなったという覚えは無かった。……むしろ覚えが無いといえば、私はいつの間に合奏に参加していたんだっけ。

 まず今日の放課後、蔵守にクラの演奏を聴いてもらって、彼と話をして、それから教室を出ようとして、気分が悪くなって……。

 うん、そこまでははっきり覚えてる。……その後、彼にどこかに連れていかれたような気もするけど。

 ダメだ。そこから先、音楽室で合奏するまで何をしていたのか、どれだけ頭をひねっても思い出せない。

 

「先輩、大丈夫ですか?」

 

 思考の迷路を彷徨っていると、衝立の向こう側から人影と共に声がした。蔵守の声だ。つい先ほどの、私に対する非難の一翼を為していたその声色に、思わずびくりとする。

 

「凄い悲鳴がしましたけど、入っても?」

「あ……うん、いいよ」

 

 中に入ってきた彼は、具合はどうですかと、はなはだ独創性を欠く気遣いの言葉で会話を切り出して、つい先ほどやって来た晴香と相談して、今日は大事を取って私を休ませようという話になったのを伝えてきた。

 

「今、部長がみんなに伝えに行ってるはずです」

 

 そんな事は、どうでもよかった。晴香の泣き顔が、私の脳裏をかすめる。その場で起こしてくれれば良かったのに。と、理不尽な怒りに駆られる。

 

「晴香に謝らないと……」

 

 私のつぶやきを聞いて、蔵守が首を傾げた。

 

「謝るって何をですか? 部活を休む事ですか? 仮病でサボる訳じゃないんですから誰も文句は言いませんよ」

「蔵守も聞いてたでしょ! 私、晴香に酷い事を……」

 

 私の暴言に対する意趣返しで、とぼけてでもいるのか。シーツを握る手に力がこもる。しかし蔵守は、ますます言っている意味が分からないと言いたげな表情をして口を挟んだ。

 

「吹部に入ってそろそろ一年になりますけど、その間、鳥塚先輩が部長の悪口を言ってるのを耳にしたことなんて一度もありませんよ」

「そんなはず……! だってさっき……! ……あれ?」

 

 何かひっかかる。どこか話が噛み合わない。

 今日は大事を取って私を休ませよう。

 確かに蔵守はそう言った。でもその言い方はおかしい。合奏が済んだ時点で部活は九割方終わっている。まるで部活が始まっていくらも経たないうちに、私は休む事になったような言い方だ。

 

「……ねえ、私って一体いつ倒れたの? そこら辺、ちょっと記憶が混濁してよく思い出せないの」

「自分との話を終えて、教室を出ていってすぐでした。出ていく時の様子がおかしかったので、気になって後を追ってみたら先輩がうずくまっていて。それで保健室に連れて行ったんです。覚えてませんか?」

 

 そういえば、そうだったような気もする。前後不覚になりながらも、どこかに連れていかれた事はおぼろげながら覚えてる。という事は、そこから先は全部夢?

 

「精神的なストレスからくる立ち眩みだそうですよ。ちゃんと休養を取ればすぐに良くなるはずです」

「それじゃ、今日やるはずだった通し合奏は?」

「先輩がこんな状態で合奏もないでしょう。明日以降に延期になるはずです」

 

 本当に夢だったんだ。

 私は、ほうっと心の底からため息をついた。

 見舞いも、病み上がりのところに大勢押し掛けてはかえって私の気が塞ぐだろうと今日はスマホからに留めてくれるらしい(りえちゃん辺りは、ダメって言っても会いにきそうだけど)。

 明日はその分、大勢押し掛けてくると思うので覚悟して下さいよと冗談交じりに蔵守が言ってくるが、その心遣いが今は有難かった。

 

「さっきは随分取り乱してましたね。部長に謝らなきゃって言ってましたけど、今度の夢見は悪かったんですか?」

「……まあね」

 

 このまま横になって寝ていてもよかったけど、またあの夢の続きを見るのだけは勘弁したい。晴香が戻って来るまでの間、雑談で時間を潰すのも悪くなかった。

 

「……という訳なの」

「それはまた、強烈な夢でしたね……」

 

 悪夢を語り終えて、ちょっと喉が渇いたのでペットボトルの緑茶に口を付ける。

 少しは水分を摂った方がいいと彼が寄こしてくれたのだけど、保健室での飲食を勧めてくるのもどうなんだろ。

 

「暴言吐いて晴香は泣かせるし。あすかには説き伏せられるし。みんなからは白い目で見られてヘイト稼ぎまくりだし。人間追い詰められたときに本性が出るって言うけど、私ってここまで嫌な女だとは思わなかったよ」

「夢の中の話じゃないですか」

 

 蔵守が苦笑する。

 

「どうだかね。都合よく体調崩してなければ、本当にそうなってたかも。多数決で全国を目指す方に手を挙げたのに、厳しい事言われるとすぐ前言撤回して反発しちゃうし。あーあ、こんなダメダメな人間、いなくなった方が吹部のためになるかなあ」

「ダメって事もないでしょう。先輩達はこれまで二年間、緩い部活でやってきたんですから。いきなり厳しくなったら音をあげるのも無理ないですよ。だらしないのはみんな一緒です」

 

 ……それは、いわゆるアレなんだろうか。下には下がいるから安心しろ的な。

 どうせ私なんて……的な自嘲が半分、下手ななぐさめはいらない的なやさぐれた感情が半分。つまり100%ヤケになっている私の心境を知ってか知らずか、随分と引き籠った論法でなだめにかかってくるのが小賢しい。

 

「急に部活がしんどくなった時に夢見が悪かったから、先輩はちょっとメンタルやられただけですよ。今日はゆっくり休んで、また明日から頑張りましょう」

 

 頑張ろう。蔵守の言葉が、夢の中の晴香のそれとリンクする。水際で抑え込んでいた鬱屈した感情が、また決壊の気配を見せる。

 

「……結果の出ない頑張りに意味はあるの?」

 

 まただ。心の中の黒い部分が勝手に表に出てしまう。やっぱり夢と同じじゃないか。傷つける相手が変わっただけだ。

 

「結果は出てるじゃないですか」

「じゃあそれを言ってみてよ。どんな結果が出てるのか」

 

 根拠のない気休めなら、口にしないで。もう一人の私を、勢いづかせるだけだから。

 滝先生に何度も論理的にやり込められ、反論もままならない状況に追い込まれている内に、私は先生の発言一つ一つを、注意深く聞き取るようになっている。いい事だと、肯定しきれない。先生の発言の穴を突こうと手ぐすね引いて待ち構えている姿勢が、根っこにあるから。

 普段からそんな後ろ向きな心理でいるので、気分次第で攻撃対象は無差別に拡散する。そういう状況での根拠のない気休めは、私の神経を逆撫でする事にしかならない。

 顔をしかめ、震える声色に僅かに怒りを滲ませたが、蔵守はひるんだ様子もなく口を開いた。

 

「鳥塚先輩、去年のコンクールで北宇治は銅賞でした」

「……? それが?」

 

 どうせ適当な言葉でお茶を濁す。そう思っていた。

 それが案に相違して、いきなり話が去年に飛んで私は混乱した。目の前の後輩が何を言わんとしているか、ぜんぜん分からない。

 

「でも誰も、その事を悔しいとは思ってません。みんな、やる前から諦めてましたから。練習不足でどうにもならない。勝てるはずない。負けても仕方ない。そんな気持ちで、勝負の舞台にあがったようなものでしたから。先輩も、そうですよね?」

 

 (しばら)く考え込んでから、ゆっくりと(うなず)いた。

 

「だけど、今はそうじゃない。滝先生に尻を叩かれてとはいえ、みんな一生懸命、海兵隊の練習をしています。先生にキツイ事言われても、みんな今日まで踏みとどまってるのはこのままやられっぱなしじゃ悔しいから、勝負を諦めてないからじゃないですか? ……部活前は、話の流れでクラはまとまりがない事ばかり問題視する形になっちゃいましたけど。それ込みでも全体としてはずっと良くなってますよ。この調子なら滝先生の鼻を明かしてやれますよ。先生との勝負に勝てますよ。そこまでクラが形になったのは、鳥塚先輩やクラのみんなも諦めずに頑張ったからじゃないですか?」

 

 急に、視界が(にじ)んだ。私の頑張りを認めてくれる人が、ここにいる。私の頑張りを見ていた人が、ここにいる。

 目尻に溜まった(しずく)を制服の袖で繰り返し拭き取るが、後から後から涙は出てきて止まらない。

 

「うっ……、ぐすっ……」

「ちょっ……先輩、なんで泣くんですか。俺、何かまずい事言っちゃいました?」

「泣いてなんかない! これは汗! そう、汗なんだから!」

 

 心配そうに顔をのぞき込んでくる蔵守の頭を掴んで、ベッドシーツに額を擦りつけてやった。

 

「……痛いんですが」

「今は顔見られたくないから、しばらくそうしてて。それとも足で踏みつけられた方がいい?」

 

 なんか今、とてつもなくイケナイ事を口走ってしまったような。さっきまでの負の感情が一気に発散された影響だろうか。

 ……そうか。私は今、嬉しいんだ。嬉しくてたまらないんだ。これは嬉し涙なんだ。

 

しばらくご無沙汰だった心地よい感傷に浸っていると。

 

「ヒロネ先輩ッ!」

 

 保健室の扉が轟音と共に開いて、やはりというかなんというか、りえちゃんが息せき切って駆け込んできた。よっぽど私の事を心配してたのか、血相変えて突っ込んでくるし。私は逃げも隠れもしないんだからそんな慌てなくてもいいのになあ。

 

「きゃう!?」

 

 って、言ってるそばからつまずいたし。そのまま体勢を崩して慣性の赴くまま突進してくるし。

 ……突進?

 え、なんでそんな猛スピードで近づいてくるのそして後輩クンもどうして避けるのちょっと待ってってば。

 

 ボコッ!

 

 ベッドの上の鯉状態の私は、勿論とっさに避ける事も受け身を取れるはずもなく。脳内に投げやりな肉と肉の衝突音が響く。

 

「ぐげふっ」

 

 ……これは、鳩尾(みぞおち)に直撃っぽい。

 また気を失いかけそうになるけど、そこは踏ん張って意識を集中。深呼吸して一息つくと、漂白されていた視界も元通り。そして目の前には加害者のりえちゃんが涙目になって私の手を取ってる。

 いつの間に。

 

「先輩が倒れたって聞きましたけど大丈夫ですかあの粘着イケメン悪魔のせいですか

コイツに保健室に連れてかれたって聞きましたけど何か変な事されてませんかお母さまに連絡しましょうか帰るなら(かばん)持ってきましょうかいえ持ってきますのでどうかご許可を」

 

 りえちゃん、私いま一応病人なの。気を遣ってくれるのは嬉しいけど、それならまずダメージを与えてこないで。

 

「……島、先輩は聖徳太子じゃないんだぞ。質問は一つ一つに、だな」

 

 後輩クンも、気を遣ってくれるならまず私の盾になって。

 そんな事を想いながら、早口でまくし立ててくるりえちゃんの質問に一つ一つすらすらと答えて見せる。伊達に北宇治吹部随一の大所帯であるクラリネットのパートリーダーはやっていないのだ。

 

「むう……、さすが鳥塚先輩。人伝(ひとづて)に先輩は耳が良いと聞き及んでいましたが、これほどとは」

 

 確かに私は耳が良いけど、そういう良いじゃないんだけどなー。

 

「ヒロネ先輩」

「うん?」

 

 りえちゃんが、泣き腫らして赤くなった瞳をめいっぱい開いて、背筋を正した。

 

「私、先輩が吹部を辞めるなら、一緒に辞めようと思うんです」

「おい島、いきなり何を……」

 

 りえちゃんは彼を一瞥してから、言葉を続けた。

 

「ここで部活を辞めれば、先輩の事を全国目指す方に手を上げたのに根性無しとか、後に残される人の迷惑考えろとか言い出す人が絶対出てくると思うからです。これまでの先輩の頑張りなんか知らずに! 自分の練習だけじゃなくて、後輩の指導とかパーリーとしての練習の調整とか。そういうのひっくるめてヒロネ先輩以上に頑張ってる人がこの吹部にどれだけいるって言うんですか! それを認めないで陰口叩くような部活なら私も辞めます。先輩だけ、悪者にはさせません!」

 

 りえちゃんがぷるぷると震えて、絶叫にちかい声で叫んでる。自らの言葉にこらえきれなくなったのか、眼を伏せるとまた涙が一滴、音を立てて床に落ちた。

 

「……でも、もしも先輩が部活を続けようと思うなら、私、少しでも先輩が楽できるように何でもやります! だから何でも命令してください! あと、私、バカですけど。バカなりに先輩が楽できるように率先して行動します!」

「……生意気言うんじゃないの。初心者のクセに」

 

 りえちゃんが、私の事を慕ってくれているのは前々から察していた。でもここまで捨て身になってくれるほどとは思わなかった。また涙腺が緩んできそうになって、私の声にもいくらか嗚咽(おえつ)が混じる。でもそれを指摘するほど無粋な人も、この場にいない。もちろん、負の感情からくる嗚咽じゃない。

 

「もう二年目です。先輩はいつまで私を初心者扱いするんですか」

「そうだねえ」

 

 膨れっ面のりえちゃんに微笑みながら、ベッドから起き上がった。

 私の事を見てくれる後輩がいる。私の事を案じてくれる後輩がいる。もしかしたら、それは凄く恵まれている事ではないだろうか。

 私の為に力を尽くしてくれる人達の為に、私も力を尽くしたい。

 底の底まで沈みきった私の闘志に、再び火がついていく。

 

「さて、それじゃ部活に行こうかな」

 

 私がそう言うと、二人が目を丸くして互いの顔を見合わせた。

 

「無理しないでください。もう連絡は出してありますし、今日は大事を取って休んだ方が」

「そうですよっ!」

「大丈夫。合奏が延期になっただけで時間は無いんだし。ほら、二人も私の事を気にしてる暇あるんならさっさと部活行くっ!」

『は、はい!!』

 

 左手で後輩クンを、ふしくれだった右手でりえちゃんを保健室から押し出しながら、子供のころ気紛れに読んだ本の一節を思い出した。

 虎は、どうして美しさと強さを兼ね備えていられるのか。それはもともと強いから。

 弱いものが強くなるには、自らをいじめ傷つけ、鍛えぬくしかない。

 もう一度、自分の右手をかえりみる。クラリネットを支える右親指は度重なる修練で太くなり、腫れあがって女性的なたおやかさのかけらもない。凡人でしかない私が、あの先生のやり方についていこうとすれば、この手はもっと醜くなるだろう。

 でもそれでもいいんだ。コンクールのためじゃない。二人の為に、もっと強く、もっといい演奏がしたくなったから。

 

――ホントに何もしてないのよね?――

――してないっつーの。人目があるのに変な事できるか――

――人目がなかったらやってたの!?――

――突っかかるな!!――

 

 眠っている内に、夕焼け色に染まった廊下に伸びる影は長い。

 やいのやいの言い合いながら駆け去ってゆく二人の後ろ姿を眺めながら、私は口角を上げた。

 

「ありがと。私の、最高の、後輩たち」

 

 




没ネタ
――鳥塚ヒロネと島りえの馴れ初め――

一年前。楽器振り分け後、某教室でのやり取り。

「これからよろしくお願いします……(トランペットを出来ない事を引きずってる)」
「そんなかしこまらなくていいよー。ところでりえちゃんは初心者だったね。誰から教えをウケたいかな? ちなみに私のおすすめは怖い先輩か意地悪な先輩なんだけど、どっちがいい?」
「……」
「あれ、顔が固まっちゃったよ。どっちも嫌だった? じゃあ滅多に喋らない先輩と、滅多に教えてくれない先輩ならどっちがいい?」
「何でさっきからロクな形容がつかない先輩しか紹介してくれないんですか!? 普通の先輩をお願いします!」
「普通? じゃあ、頭の悪い先輩か、どんくさい先輩が好みなの?」
「何でそれが普通になるんですか!?」
「りえちゃん。頭が良いとか、要領がいいとか、もうその時点で普通じゃないっ!」
「……う。そ、それはそうですけど! じゃあ頭がそこそこで、器用とも不器用ともいえない先輩をお願いします!」
「そんな都合のいい先輩、こんな弱小部にいるわけないじゃないかっ!」
「威張るような事かああああ!」

こうしてりえちゃんは、ヒロネ先輩に篭絡されていくのです( ^∇^)σ)゜ー゜)





▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。