北宇治高校ダブルリードパートへようこそ   作:言巫女のつづら

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第20話 めざせコンサートマスター 前編

 鳥塚先輩はどうにか復調を果たしたが、翌日の部活は綱渡りの状態が完全に改善されたわけでもなかった。

 

 もう今では、滝先生の側でも部員の側でも、明らかな暴言は影をひそめている。吹奏楽の知識に加えて、口の悪さも天下一品の滝先生が得意とする土俵に持ち込まれても勝ち目がない事をみんな悟ったからだが、それでも意図が不明な練習を行う度に、「なんでこんな事するんですか」という意見は出る。それに滝先生が即座に明確な理由を返し、「何年もやっているのにこんな事も知らないんですか?」と(あざけ)りの声(先輩視点)を返す。

 こんな具合で、勉強不足練習不足(滝先生視点)の部員達に対する滝先生の採点は相変わらず辛いが、部員の方でも理論武装して対抗しようとする人も出てきていた。

 見ようによっては、いい傾向と言えるのかもしれない。もっとも、付け焼刃の知識で再反撃したところでたかが知れている。結局その全てが返り討ちに合っているのだが。

 

 いずれにせよ言い負かされた鬱憤は内に溜まっていくばかりで、気力体力ともに摩耗(まもう)しきった部活の後に、それを発散しようとする気はなかなか起きない。多くの人は、「私、疲れてるから話しかけないで」と言わんばかりに前かがみになりながら黙々と家路につく。

 そういう訳で、積もりに積もった不平不満をお互い思い切りぶつけ合う機会には意外と恵まれない。憔悴(しょうすい)したまま家に帰り、食事と睡眠をとり、一夜明けて、ようやく気力も体力も十分に取り戻して登校するころに、不安といらだちがはけ口を求めて彷徨(さまよ)うのだ。どうやら前世の自分は大した功徳(くどく)を積んでいなかったらしい。幸運の女神につれなくされて、不景気な表情を浮かべた登校途中の吹奏楽部員と駅前で運悪く鉢合わせ。朝っぱらからクレーム処理という、およそ爽快感とは無縁な一日の始まりとなっていた。

 

「つまり滝先生の指導が、もう少しなんとかならないかと言いたいんだろ?」

 

 疲れていたとはいえ、一昨日の島と井上に対する応対はまずかった。

 その反省もふまえて、今度はしっかり相手の目を見て相手の言葉にうなずき、相手の言いたい事を要約してちゃんと聞いていますよアピールする。

 

「そう! 分かってるじゃない」

「抗議はしてみる」

 

 結果までは保証できないが。

 

「頼んだからね!」

 

 以上。マシンガンの如く次々に飛び出たクレームの処分完了。

 「滝先生をなんとかしろ」たったこれだけの事を言いたいがために、朝っぱらから十分も潰す方はそれでも気が晴れたようで、せいせいした表情をして去っていく。

 そして貴重な朝の十分を潰された方はげっそりする。

 

 授業が始まってもそれは変わらず、休み時間の度に人の形をした不平不満が教室にやって来ては宥め、廊下に呼び出されれば出向いて諫めの繰り返し。

 言うまでもなく滝先生についていけないという声が多い。当たり前の事で、まだ頑張れる。こういうやり方嫌いじゃないです。そういう人はそもそもやって来ない。弱音を吐く層に対して反感を抱いて、わざわざ愚痴を言いに来るのはごく少数だ。

 それにしても授業の合間ごとに女の子をとっかえひっかえしていると思われて、クラスの男子から妬み嫉みの目で、女子からは冷ややかな目で見られるというのはあまりぞっとしない光景だった。

 こちらの事態も決定的に悪化する前に図書室に逃げ込んだのも、単純に自己防衛の念に駆られたからであって、ことさら勉強意欲に目覚めたわけでもない。だいいち、自分にはまず先んじて片づけるべき課題があった。

 

 

 

 

「……若い内の苦労は買ってでもしろと言うけど、リミッターでも設定してもらわない事にはとても賛同できないな」

 

 昼休み、利用者のいない図書室のカウンターで、そう独りごちた。これは図書当番だからという大義名分がある。教室の椅子よりは上等な、図書室のカウンターの椅子に腰を落ち着けての応対は、いつもであればいい気晴らしになるはずだった。いつもと違うのはカウンターの机の様子で、平積みにした書籍の山である。無論、テスト勉強の為のではない。意見書の校正に使えそうな本を片っ端からかき集めたのだ。

 山積みにされた書籍の中から、"美しい意見書の書き方! ~最初の原稿が下品に、書き直しが過激になってしまう人の為の、上品で穏健な推敲テクニック~"という酔狂なタイトルの本を取り出し、ぺらぺらとめくる。ペンを構え直して、ノートに筆を滑らせる。みるみる内に紙面が文字で埋まっていくのは、滝先生について回ってクレーム処理に忙殺されたせいに他ならない。おかげで部員達の心情やら各パートの現状やらはよく把握しており、理論武装する為の素材には不自由しなかった。

 

 コンコン

 

 一息つこうと筆をおきかけた時、控えめのノック音がした。職員室でもないのに、わざわざする必要もない行為と共にガラス扉を開いて入ってきたのは馴染みの顔である。

 

「ああ、鎧塚さん。いつもの席なら空いてるよ」

 

 気軽に声をかけると、彼女もこくりと頷く。

 図書室奥の、杭のように片方だけ突き出たスペースは、カウンターや他のほとんどの座席から死角になる。そこが、鎧塚さんのお気に入りの場所だった。昼飯時の教室の喧騒から逃れて、ひとり静かな世界に埋没したがっている時の彼女は、普段であればそこに直行する。しかし今日の鎧塚さんは、本棚の森を越えることなくカウンターの正面に突っ立って、こちらをじっと見つめてきた。

 

「ん? 何? 顔に何かついてる?」

 

 今は一分一秒でも惜しい。学食の炒飯を口いっぱいに頬張ったまま図書室に駆け込んだので、ほっぺに米粒の一つもついてるかもしれない。

 

「……ううん。(目も鼻も口も輪郭も)大したものは、ついてない」

「大したものじゃなければついてるって事?」

 

 口周りをさすっても、特に何かついてる感触はない。気を取り直して鎧塚さんに話しかけた。

 

「でも鎧塚さんもお昼食べるの早いね。昼休みになってから、まだ少ししか経ってないよ」

「……一人でご飯食べてると、周りからいろいろ言われて嫌だから。早く食べる習慣ついたの」

 

 切ない事を言ってくる。食事時の談笑相手に恵まれなかった鎧塚さんは、そのほっそりとした肢体には似つかわしくない健啖家ぶりを披露して、教室からの即時撤収を果たしたようだった。

 

「吉川や、大野さんとお昼一緒にしないの?」

「……勿論してもらう時もあるけど。二人にもお付き合いがあるから。毎日は一緒にいられない。……それに、私は貴方ほど社交的じゃないから」

「うぐ」

 

 鎧塚さんから、冷ややかな視線が注がれる。本来であればポジティブな意味で用いられる言葉が、皮肉なのは明らかだ。

 

「いや、あのですね。社交とは衆に交わると書きまして。今日の、投げてくるボールを受け取るだけのアレは交わるとはとても言えないものでありまして」

 

 なんだか浮気がバレた亭主のような心境で、もごもごと弁解を試みた。

 

「それより返却手続き。早く」

「あ、そうだった。ごめん」

 

 彼女が両手に抱えていた本を受け取って、貸し出しカードをひとつひとつ確認する。一枚、二枚……。鎧塚さんは一度に五冊も借りていた。

 

「一度に随分借りるんだね。ああ、これも滝先生の指導の一環だったか」

 

 鎧塚さんのオーボエの技量は、高校生としては十分な領域に達していた。去年の、神業のような演奏を知る自分等からすれば、若干の物足りなさを覚えはする。だがそれでも、ただ演奏するだけで相手を圧倒させる域にあった。

 滝先生も太鼓判を押していたが、あの人はそれだけでは満足しなかった。

 

――貴方にはそれだけの力があるのですから、ただ吹くだけでは勿体ありませんね――

 

 滝先生はそう言い、鎧塚さんに空き時間を見つけて読書をするよう勧めた。

 

――ただ流し読むのだけではダメです。自分とは性格も、置かれた環境も違う物語の主人公の気持ちになって読みなさい。作曲者がどういう想いで曲を書いたか、楽譜をなぞるだけでなく貴方なりに想像を膨らませて演奏できるように、挿絵の無い小説を、情景を想像しながら読んでみなさい――

 

 指導の仕方にも、いろいろあるものだ。鎧塚さんに手ほどきする滝先生を眺めながら、感心した。

 これがどうしようもない人なら「今の貴方の演奏は、何かが足りてないね」と口を滑らせるだけで終わる。足りない「何か」が、一体何なのか。具体的に伝えられない事には、相手も修正のしようもないし、自らの演奏を否定されたようで、言われた方は愉快なはずもない。言葉で表現するにせよ、実際に演奏して見せるにせよ、足らざる所を相手に伝える術を持たないなら、黙っていた方がマシというものだ。

 

「で、具合はどう?」

「まだまだ。登場人物の立場になるって、思ったより難しい。普通に読み進めるより時間がかかる。今はこれをメインに読んでるんだけど……」

 

 そう言って鎧塚さんが貸し出しカードと共に提示したのは、栗〇薫女史執筆、グ〇ン・サーガ。……の第一巻。

 

「……本編外伝合わせて百五十巻に及ぶ大長編をチョイスするとは、気合の入った事だね」

「……図書委員さんから薦められたの。そういう事なら登場人物のいろんな側面が見れる、ボリュームある方がいいって」

 

 ボリュームあり過ぎである。誰だ鎧塚さんにこの本を薦めた奴は。

 

「今年のコンクールに間に合うかなあ……」

 

 一日一冊読破するにしても、全巻読破は五ヶ月後。じっくり読み進めるとなると、もっとかかるだろう。中途で挫折するか、コツを掴むか、どちらが早いのやら。

 

「あと、これも。こっちは興味本位で読んでみただけ」

 

 そう言って鎧塚さんが差し出したライトノベルのタイトルは

 

"築5分・駅から5年のマイホーム。田舎で始めるスローライフ"

 

 どんな家だ。いや、どこにあるんだその家は。

 

「おかしいでしょう。こういうタイトルの本って、思わず手を伸ばしたくなる」

「ふうん。鎧塚さんって童話系が好きそうで、そういう軽いノリの本はあんま読まないかなと思ってたけど、割と雑食なんだね」

「もちろん童話も好き。でもそんなに選り好みしない。それに、一番好きなのは希美の卒業文集。次が、希美と班が一緒だった時の交換日記。どちらも希美と私の、吹部での思い出の日々が詰まってるの。あと、希美の自分史。南中では毎年三年生がやっているんだけど……、頼み込んで希美のをコピーさせてもらったの」

 

 本なのか? それは。

 二人が知り合ってからどれだけ経つか知らないが、鎧塚さんはこれまでに溜めこんだ傘木絡みのアイテムのことごとくを紹介しだした。頬杖をつきながら彼女の語る様を眺めていくうちに、紙面に文字という最低限の本の体裁もすっ飛ばして、アルバムやら卒業式で傘木と一緒に食べた紅白饅頭やらにまで話は飛んでいく。

 

「いやな事、辛い事があっても、おうちに帰ってそれを眺めていると気分が落ち着くの」

「ふーん。傘木との思い出が詰まった品は、鎧塚さんにとって宝物なんだ」

 

 上の空で相槌を打った。

 こくり、と頷き目を閉じて胸ポケットに両手を当てる鎧塚さん。きっとその中には、傘木と彼女の二人きりの写真が納まった生徒手帳が入っているのだろう。ちょっと愛情が重いかな、と思わなくもないが。そういう一途な思いを見守ってあげたいとも思う。遠くから。

 

「うん、だから何もなくても毎日眺めないと落ち着かないし、少し苦しくなる」

「一度病院で診てもらった方がいいんじゃないの」

 

 もはやストーカーの一歩手前である。そのうち傘木の古着をどこからか調達して、くんかくんかしたりして。

 

「傘木の事が好きすぎてしょうがないんだな。鎧塚さんって、ほんとどうかしてるよ」

「……どうかしてる。そうかも。希美は明るいから、私がこんな重い女だってわかったら嫌われる」

「今まさに自分の中で、鎧塚さんがいまだかつてないほど重い女だと刻まれているけどな」

 

 もっとも当人にとっては、傘木以外の人物からどう見られようと興味はないのだろう。

 おそらくは中途で(さじ)を投げた読者の方が多かろう大長編の第一巻から第三巻。吹奏楽関連の書籍一冊。そして船も通わぬ離島にテントでも張って暮らすのか気になるラノベの返却手続きを済ませていると、鎧塚さんのつぶやきが聞こえてきた。

 

「……一冊だけ、残ってる」

 

 彼女の視線は、カウンター脇の新刊コーナーに移っていた。

 

「ああ、あれはタイトルが童話っぽいから。あんまり興味をそそられないみたいなんだ」

 

 北宇治の図書委員の特権に、四半期ごとに問屋で調達する新書について、自分達の希望の書籍を選べるというものがある。無論、事前に司書の目が入るので、漫画やエロ本なんか希望してもその場ではじかれるが。書籍化したばかりの人気単行本は図書館でも予約待ち。買おうにも高くて興味本位で手を出すのは躊躇(ちゅうちょ)する。かといって安価な文庫本が出回るまで待てない。そんな中途半端な本好きにとっては、懐を痛める事なく中身を物色する好機でもあった。そしてその手の本は、いの一番に調達した図書委員が借りていくのだ。余り物は、ついでで適当に購入した本ばかりになる。

 それでも新刊となれば、図書室にやってくる生徒達の目を引くはずなのだが、図書室でずっとベンチを温めたままの様子を見る限り、かの本は一般的なティーンエイジャーのストライクゾーンから外れているようだった。

 

「……リズと、青い鳥」

「鎧塚さんの好みには合いそうだけど、借りてく?」

「……ううん。また今度でいい」

「了解。返却手続きは終わったから、ごゆっくりどうぞ」

 

 そう告げて、書き途中の書類に目を向け直した。が、目の前から人の気配は消えない。というか、むしろ濃くなったような。

 視線を上げると、鎧塚さんがカウンターに身を乗り出してこちらをのぞき込んでいた。近い。ちかい。思わずのけぞる。

 

「……鎧塚さん。いくら綺麗な顔でもね、その無表情を至近距離で見るのは怖いからやめて」

「……蔵守君、何で書類に埋もれてる?」

「書類に埋もれてるのが分かってるのに何でと聞くか。モノ書きしてるからに決まってるだろう」

 

 顔を紙面に戻して、筆先を滑らせながら呟いた。当番といっても、やる事は貸し出し返却の手続きだけ。拘束時間は長いが、手が空いている時はわりと自由が利く。

 

「何、書いてる?」

「滝先生のスパルタ指導への意見書。もう限界に近い人も少なくないから。そろそろ本格的にガス抜きしないとまずい」

「……それって、蔵守君がやらないといけない事?」

「みんなの不平不満が、パーリーを素通りして滝先生に向いてる訳じゃないからね」

 

 ヒラ部員から突き上げを喰らっているパートリーダーは、自分だけにとどまらない。五十人以上も同じ部活に人がいれば、そりの合わない相手の一人や二人は出てくる。それでも平時であれば、愛想という名の厚化粧が緩衝材になって、なんとか一枚岩になりえたはずだった。今現在のように部が荒れてくると、お互い愛想を振りまく余裕もなくなり、仮眠していた負の感情が鎌首をもたげてくる。

 幹部という立場にいる事。それだけでそりの合わない連中からすれば「パーリーでしょ!」とか「パーリーのくせに」とか、突き上げという名の、難癖につける枕詞に不自由しないでいられるのだ。

 そんなわけで面倒くささ半分、あきらめ半分、つまりほっといてもツケは回って来るんだからやるしかない的な心境で雑用に精を出さざるを得ないのであった。

 

「……抗議しても、どうにかなるとも思えないけど」

「これ以外にも、ガス抜きの案は別に用意したから、それであと二日三日は何とかなると思う」

「……どんな?」

「サンフェスでは、みんな衣装を着るだろ? これまでは顧問がどんな衣装にするか決めてたけど、今年は自分達で好きなように選ぶのはどうですかって言ってみたんだ。そしたら小笠原先輩が飛びついて即採用」

 

 自分達で選んだ可愛い衣装を着れるとあれば、いくらかでもモチベーションは上がるだろう。そう思いついての提案自体は好評で受け入れられたのだが。

 

――それいいね! じゃあ手ごろな値段のを調べ上げておいて! その中からどれにするか決めるから――

――え。自分が調べるんですか……?――

 

 女物なのに。

 口は禍の元。また雑用が一つ増えた。ビバ中間管理職。

 

「……滝先生の、許可はあるの?」

「無いよ」

 

 筆を止めずに呟いて、裏工作である事を素直に認めた。

 

「いいの……? 許可が下りてないのに、そんな事して」

 

 鎧塚さんは驚いているのか、抑揚(よくよう)に乏しい普段の口調が珍しく波打つ。

 

「鎧塚さんも頭が固いなあ。市販品から選ぶならともかく、セミオーダーの衣装にしたいなら今の内に決めておかないと。海兵隊にOKが降りてからじゃ間に合わないよ。これはみんなのモチベーションを維持する為の必要悪だから。仕方が無いの」

 

 手段を選んでいる場合でもなかった。このままモチベーションが低下するに任せて辞めると言い出す三年生が出てきたらどうなるか。それがきっかけで雪崩を打つかもしれない。残っている二年生は数が少なく、一年生の半分は吹奏楽のイロハもしらない素人でしかない。そんなのは少数精鋭とも呼べない、ただの少数だ。スパルタに耐えられない弱者など要らぬ、無駄な部分は削ぎ落し、精鋭を以てコンクールに挑めばいい。……などどいう論法が通用するほど、北宇治の吹部の層は厚くない。

 

「……蔵守君、最近滝先生に反抗的になってる」

「そう見える?」

 

 筆を止めて鎧塚さんを見上げると、彼女はこくりと頷いた。

 

「別に好きで逆らってるわけじゃないんだけどなあ……」

 

 頭を掻きながら呟いた。自分が特に教師に反抗的とは思わないが、部活という村社会にいると、本来の意に沿わない仮面をかぶらざるを得ない局面もある。今現在のように、顧問と部員が対立している状況だと尚更だ。パートリーダーという立場もそれに拍車をかける。幹部になっても、それに比例して口が自由になる訳でもない。

 自分よりオーボエが上手い癖に、ヒラ部員という身軽な立場でいる相方が恨めしい。

 

「パーリーになって、いろいろ雑用をこなしていくうちに分かった事が一つある」

 

 視線を書類に戻して、口を開いた。

 

「……なに?」

「周りに出来ることは周りにやらせる。自分に出来る事も、周りにやらせる。そうじゃなきゃ、何かドジ踏んだら責任取らされるのは自分なんだし、馬鹿馬鹿しくてやってられないよ」

「……蔵守君、最近あすか先輩に似てきてる」

「お褒めに預かり恐悦至極」

 

 じとっとした視線を向ける鎧塚さんに、うやうやしく一礼をほどこした。

 

「褒めてない。でも……ふふ」

「? どうしたの」

 

 唐突に、鎧塚さんが安心したように微笑みだした。にわかに鼓動が早まる。

 苦笑いも、愛想笑いも滅多にする事なく。いつも無表情でいる事を己が使命に課しているような彼女も、時として表情筋が反乱を起こして明るさを覗かせる。そのたまにしか見ることができない彼女の笑顔は可愛いから侮れない。

 

「うん。最近は、蔵守君と少し話が続くようになって。それがなんだかおかしくて」

「ああ、そうかもね」

「……私、人と話すのが苦手。だから、この図書室、お気に入り」

「鎧塚さんは、静かなのが好きそうだもんね」

 

 彼女が、こくりと頷く。

 

「でも静けさも、その場の人数による。一人なら気持ちいい静寂。二人だと話が続かなくて気まずい沈黙」

 

 とても詩人ぽい言い回しである。早速読書の効果が出ているのだろうか。

 

「三人なら……」

「三人なら?」

「……」

 

 鎧塚さんが、唐突に黙り込んだ。程なくして、ぼそぼそと口走る。

 

「……私がいなければ、残り二人は私に気を遣う事なく盛り上がれるだろうから、疎外感感じる」

「……そりゃそんな事を常日頃から考えているのかと思うと、相手する方も気が重いだろうな」

 

 誰かこの根暗娘をなんとかしてくれ。

 鎧塚さんは、いつも通りの無表情に戻ってしまった。精一杯好意的な表現をすれば、ぼうっとしてるといったところか。彼女の事をしみじみと見つめた。ほっそりとした体つきをしているし、大きな瞳に長い睫毛。整った目鼻立ち。ほつれ一つない(つや)やかな青髪。温かみのあるブラウンの制服。その胸元に蝶結びされた紺色のスカーフも、物静かな彼女によく似あっている。十人に問えば十人ともまず美少女の域に収まっていると言うだろう。

 そんな恵まれた容姿も、愛想の無さで台無しだ。

 

「……ひどい。ああ、急いで食べたお昼ごはん、吐きそう」

「おいやめろ」

 

 これが漫画やアニメなら、大浴場のライオンよろしく口から綺麗な滝が流れるだけだが、現実は無修正グロ画像である。急いでカウンターから立ち上がって、うずくまる鎧塚さんの背中をさすった。最近になって分かった事だが、彼女はちょっと気分が悪くなっただけで吐き気を催す。根暗な上にゲロインとか、ほんとこの子ってば全力で容姿の良さを打ち消しにかかってるよ。

 

「……蔵守君は、こんな私を相手にしていて疲れない?」

 

 鎧塚さんが、(すが)るような目つきで見つめてくる。

 

「別に、それほどでも。鎧塚さんが人見知りなのにももう慣れたし。いつも無口なら何考えているか分からないから相手していて疲れるかもしれないけど。でも今みたいに時おりゲロ……じゃなくて本音を吐いてくれるし。それっていくらかは自分の事を信用してくれるようになったって事でしょ。むしろ嬉しいよ。それに何より、同じ楽器やってるからね。オーボエの音色で、その時々の鎧塚さんの気分が最近は(つか)めるようになってきた気がするんだ。何となく、だけどね」

 

 演奏が終わった後なら、いくらでも足りない所を言葉で指摘し合えるが、演奏中はそんな暇はない。テンポが急すぎると思ったら、それとなく演奏をゆるめたり、逆ならば早めたり。お互いの音色で、何を言いたいか、相手に伝える。一年も一緒にいると、そういう言葉によらないコミュニケーションもサマになってくる。

 そう言った瞬間、鎧塚さんの頬に赤みがさした。

 

「……そう、なんだ」

「うん。音楽っていいよね。言葉にしなくても、伝わるものがあるし」

 

 鎧塚さんは、他人との距離を縮めるのが、普通の人より慎重なだけなのだ。

 それは決して悪い事では無いはずだし、自分達は同じ楽器を通してお互いの意思を疎通し合える。さしあたっては、それで十分でなかろうか。

 

 にこっと柔らかい笑みを向けると、鎧塚さんが慌てて視線をそらした。

 

 

 

 

「……なるほどー。先輩ってそんな風に、下げてから上げて女を落とすタイプなんですね」

 

 うず高く積み上げた資料の陰から、もぞもぞと(うごめ)き出した後輩の図書委員が、んーと両手を掲げて胸を反らした。

 

「人聞きの悪い事を言うなよ、眠り姫」

「おはようございます。くももり先輩」

 

 蔵守だっつーの。自分の事をこんな仇名で呼んでくる後輩は、今のところ一人しかいない。

 

「……ええと」

 

 鎧塚さんが困惑した様子でいる。それもそのはず。黄前さん達の事を覚えていなかった彼女がコイツの事を覚えているはずもなく。

 

「鎧塚さんと直に対面するのは楽器振り分け以来になるかな。シンバル井上だよ」

 

 小柄な体躯に、栗色の長髪を片方だけ肩に垂らしたおくゆかしい自己アピール。北宇治の自由な校風に触発されてエキサイティングな……もとい、個性あふれる髪型をしてらっしゃる女子が集う吹部にあって、見た目だけは模範的正統派美少女然しているのが彼女である。

 もっとも気性の方は見上げたもので、図書当番を先輩である自分に丸投げして居眠りを決め込むくらい図太い神経をしている。滝先生のスパルタ指導にも、今日に至るまで音をあげる兆候すら示さなかった。

 

「売れない芸人みたいなあだ名つけるの、やめてくださいよね。まあそれはそれとして」

 

 井上は寝起きの体をストレッチしながら図書室のカウンターから立ち上がって、そそくさと鎧塚さんの傍に寄った。

 

「鎧塚先輩も気を付けないと駄目ですよ。先輩みたいな文学少女って、さっきみたいなシチュエーションにめっぽう弱いんですから」

「そうなのか?」

「そうですとも! 私が読み漁ってきた少女漫画がそう言ってます」

「少女漫画の読みすぎ……」

「ヨ ワ イ ン デ ス ヨ」

「お、おう……」

 

 お前は黙ってろと言わんばかりに、底冷えする声で威嚇されて小さくなっていると、井上は一人で盛り上がる。

 

「言葉巧みに篭絡(ろうらく)された鎧塚先輩は、一夜の熱に浮かされて蔵守先輩の成すがまま。手を繋いで、キスされて、胸揉まれて。(自主規制)(ピー)されてっ! ……あ、蔵守君。はずかしい……。うぶなフリしちゃって、鎧塚さんのアソコは正直だよ。そうら、オーボエの運指(うんし)で鍛えた俺様の指使いで、楽器みたいに鳴かせてやんよ。……蔵守君、キャラ変わってる。あ、あん……そこは……! そして二人はくんずほぐれつ……なーんちゃってなーんちゃって! ぶっはっ!! 鼻血出ちゃいました……」

 

 こいつが読んだのは、本当に少女漫画か? もしや噂に聞く薄い本ではあるまいな。

 ため息をつきながら、不等号みたいな目をして悶絶(もんぜつ)してるおっさん女子高生の頭にポケットティッシュを放り投げた。

 

「大丈夫か井上、顔悪いぞ」

「血が出ちゃいましたからね。そのぶん顔の血色が……って、誰が不細工ですか!!」

「いやそこまでは言ってない。ただ、エロい妄想してたせいで、顔が酷く歪んでいただけで」

「フォローになってませんよそれ。あーでもこのティッシュ、先輩の、男の人の匂いがするぅ」

「嫌なら使わなくていいぞ」

「そうじゃなくて。先輩の匂いに私の血を融合させたら、このティッシュ妊娠しちゃうかもです」

「そんなわけあるか」

 

 こいつがおかしいのは顔だけじゃなくて頭もか?

 勝手に人生(というか紙生)の岐路に立たされたティッシュで鼻をかむと、井上は胸ポケットのシャーペンをじっと見つめ始めてにんまりした。

 ……また何か良からぬ事を考えてるな。

 

「シャーペンの先っちょから芯出すのって、なんか出産しちゃったみたいな、そんな気分になりません?」

「ならんならん」

 

 シャーペンへの熱い風評被害である。

 

「くっくっくっ。無駄に数打ちす(芯を入れすぎ)るから種無し(芯詰まり)になるのにねえ」

「……無生物にそこまで妄想たくましくできるのは世界広しといえどお前だけだろうな」

「ご謙遜を。軍艦をわざわざ擬人化して欲情できる男ほどではありませんよ」

「……」

「そのうち、文コレ! みたいの出るかもしれませんね」

「そうだね」

 

 気の無い返事をしたものの、実際に出たら男の本能に負けてチェックするんだろうなと思ってしまう自分もかなりどうしようもない。

 

「まあとにかくだ。鎧塚さんとはただの友人同士だから。井上が妄想するような事はまだ何一つないぞ」

 

『まだ!?』

 

 ……あ、墓穴。不用意な発言に、二人の声がハモる。

 

「……そうだよね。……蔵守君も男の子。……やっぱり……そういうこと、したい……?」

「え。いや、それは……」

 

 鎧塚さんは頬を染め、両手を股間に押しつけて、やや内股気味になってうつむく。うつむきながらもチラチラと上目遣い仕掛けてくるの止めてくれませんか。まだ午後の授業も部活もあるし、そういう色っぽい仕草されると。……その、自分とて木石じゃないのでいろいろと処理に困るノデスヨ?

 

「えと……その……。蔵守君の事は嫌いじゃない。……むしろ、……私みたいなつまらない人間に、いろいろよくしてくれて助かってる……。だから好意は無いわけじゃないけれど……。でも、えっと……」

「おやおや? これは脈アリですかね」

 

 いつまでもモニョモニョし続けている鎧塚さんを見て、井上が仲人務めてあげてもいいですよーとか血迷った事を言い出す。いろいろすっ飛ばしすぎじゃないのか。

 

「煽るだけ煽っておいて、なに言ってんだ。鎧塚さんも鎧塚さんだよ。本命は傘木じゃなかったのか?」

「なんと! 三角関係でしたか!? それでそれで、その傘木って誰ですか!?」

「鎧塚さんの親友。同い年。南中から一緒」

「ほうほう」

 

 元吹部という情報は伏せておく。

 

「あと、女」

 

「女!? 三角関係な上に鎧塚先輩は両刀ですか。いよいよ混沌極まってきましたね」

「お前少しは口を慎めよ。先輩に向かって……」

 

 デコピンでも喰らわした方がいいのだろうか。右腕を上げかけた自分に目ざとく気づいた井上が、慌てて後ずさる。

 

「きゃー蔵守先輩の鬼畜! 鎧塚先輩だけじゃ飽き足らず私まで鳴かせるつもりですか!?」

「泣かすの意味が違うわ!!」

 

 なおも詰め寄ると、井上は鎧塚さんの背中に隠れて泣きついた。

 

「みぞれおねーちゃん。おにーちゃんがいじめるー」

「縁もゆかりもない赤の他人だろう」

「実は! 鎧塚先輩と蔵守先輩と私、腹違いの兄妹だったのですよ!」

「つがいも違うのに、腹違いも糞もあるか」

「人類みな兄妹ですよ!」

「やかましい」

 

 喧騒はご禁制であるはずの図書室に、腹式呼吸で鍛えた低音と、かしましい高音がのたうち回る。つまりうるさい。こういうノリに鎧塚さんは当然の事ながらついていけず、押し黙って目を左右に動かしている。いつもの隠れ家が騒がしくなって居づらいのだろう。五月蠅くしてしまった事を反省しつつ、井上にも自制を促した。

 

「どうでもいいけど井上、ここは音楽室じゃないんだから。声のボリューム、もう少し抑えてね」

 

 壁に貼られたテンプレ標語「図書室では静かに」を指さしたが、彼女の反応は鈍い。

 

「固い事言わないでくださいよお。まだ誰もいないからいいじゃないですか」

「あのな……。ここをどこだと思ってる。図書室だぞ? 静けさを愛する本の虫達にとって第二の故郷。人がいようといまいと静かにだな……」

「なるほど。本の虫って陽の当たらない第二の故郷に入りびたってるから、ダニみたいに色白なんですね」

 

 井上は全国の読書愛好家を敵に回すような暴言をのたまう。

 

「こういう天気がいい日は、外に出ないと駄目なんですよ! お布団だって天日で干さないとダニがたかるし、二人の顔も天日干ししちゃいましょう!」

「俺は図書委員の仕事があるからパス。女同士で紫外線を浴びまくってこい」

 

 既に井上の眼中に、図書委員の仕事を真面目にこなすという選択肢は無いらしい。クビに縄つけてやろうかと思わなくもないが、とりあえず図書室が静かになるのならそれはそれでよしとしよう。

 

「……私、肌弱いから。日中はあんまり外に出たくない」

「そんな取ってつけたようなお嬢様設定なんて聞きませんよっ! さあ、透き通るような黒さになるまで、肌、焼きましょう!」

「どんな黒さだよそれ……」

「それはほら、コ〇・コーラ瓶みたいな?」

 

 肌弱い設定のお嬢様、心底びくつく。今時ガングロは流行らないと思うが。

 

「わ、私は蔵守君の、意見書書く手伝いしないといけないの」

 

 そういえばまだ校正の途中だったな。と思い直し、カウンターに戻って腰を落ち着けた。カウンターの向こうでは、腕を引っ張って外に連れ出そうとする井上に対して、鎧塚さんが何時になくきっぱりといやいや言いながら首を振っている。

 鎧塚さんも南中では顧問にしたたか鍛えられたはずで、滝先生のやり方に耐えられないとも思えないのだが。そんなに嫌か。外に出るのが。

 

「意見書って何の話ですか?」

 

 井上が小首をかしげて、(あご)に人差し指をのせる。女の子にしか許されない、かわいいあざといポーズである。

 

「パーカスはさほどでもないみたいだけど、フルートとか、クラとか、ホルンとか。滝先生へのヘイトが高まってるんだよ。それを何とかする為のガス抜きだ」

「ああ、蔵守先輩たら、これまでサボり半分で吹奏楽やってた人達の意向を忖度(そんたく)して面倒事引き受けちゃったんですね。私は今度の事、いい薬だと思ってますから。ほっときゃいいのに」

 

 これまでサボり半分で図書当番やってた奴が、きいた風な口を叩く。

 

「井上は一年で、何も知らないからそんな気軽な事が言えるんだ。近年ロクな実績もない上に傷……、おっと。去年は新入部員も少なかったのにどうして今年の吹部にそれなりのお金が下りたと思ってる? 中世古先輩が生徒会を言いくるめ……もとい、説得したからこそ、何とかなったんだぞ。それで今年も心証を悪くしたら、寛大な措置を裏切った罰も含めて来年はペナルティー待ったなしだ。吹部にいる限り、井上もツケを支払わされる羽目になるんだぞ」

「ツケってなんです?」

「具体的には、学校から吹部への補助金カット。その穴埋めで、部員が月々に支払う部費の大幅アップは堅い」

 

 う゛っ、と井上が(うめ)く。

 

「そうなるのに比べれば、予防接種の一発や二発の手間くらいなんだ」

 

 

「捨て身ですねぇ。なるものじゃありませんね、中間管理職って」

「まあな」

 

 軽く頷き返した時、ポケットが小刻みに震えだした。

 

「……と、またガス抜き依頼がやってきたのかな」

 

 滝先生に抗議するという話は、既に連絡網を通して部内を駆けまわっている。ここぞとばかりに、あそこをこうしてここをああしてという依頼が飛び込み、日頃惰眠(だみん)をむさぼるスマホは有史以来最大級の稼働状態にあった。

 興味津々と言った感じで覗き込んできた井上が、感嘆の声を上げる。

 

「おお……、びっしり先輩達からのメールで画面が埋まってる。これは凄いですね。

先輩達どんな事言ってるのか、覗いちゃってもいいですか?」

「……あ、私も見たい」

「別にいいけど。誰のが見たい?」

 

 とりあえず、導入は無難な線からいきたいという良く分からない井上の理屈で、部長からのメールを覗かれた。

 

――くれぐれも、穏便にね?――

 

「毒にも薬にもならない、テンプレ発言ですねー」

「……そうでもない。面倒事はなあなあで済ませて、本格的な問題解決は後進に任せる。社会常識に則ってる」

「お前ら部長に何か含むところでもあるのか」

 

 次の要求は田中先輩だった。

 

――ついでに低音パートが使ってる教室を防音にするか、他のパートが使ってる教室をまとめて防音にするかしてと言っといて――

 

「清々しいくらい自分達の事しか考えてませんね」

「良くも悪くも、ストイックな人だからな」

 

――滝先生は凄い人だから。馬鹿にしたら許さないから――

 

「誰ですこれ?」

「……わからない。差出人も不明」

「部員の中に、先生の親戚でもいるのかな」

 

 田中先輩や、この出所不明の言動はまだ大人しい方だ。先生の靴に画鋲を仕掛けてやるから手伝えとか、美人局(つつもたせ)()めてやるから手伝えとか。共犯の持ちかけは自分の神経をとことんすり減らした。たとえテンプレであってもまともな返事を寄こしてくれるのがどれだけ有難いか、お分かりいただけよう。

 そしてつい今しがた届いてきたのも、岡先輩からの弔電(ちょうでん)だった。

 

――ほねはひろってやる――

 

「いい先輩と一緒で良かったですねー」

 

 半ば棒読みの井上に、力無く頷く。

 漢字変換も面倒くさいのか、投げやりっぽい先輩からのエールが妙に心にしみたのであった。

 

 


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