北宇治高校ダブルリードパートへようこそ   作:言巫女のつづら

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2021年7月3日追記
あすかが図書室に登場するあたりから退出するまでのやり取りを若干アレンジしました。


第21話 めざせコンサートマスター 中編

 図書室にいる自分のもとに、エゴむき出しの要望に混じって気になる知らせが舞い込んできた。

 

――最近、少し気分が優れないの――

 

 そういう連絡が一人二人で済んでいるうちは、自分もさして気にはしなかった。似たような連絡が無視できない数に上り、さすがにおかしいと中身を精査してみると奇妙な共通点にぶつかった。

 まず症状が共通している。体を動かしたり、何かに意識が集中していたりする時は何ともないが、ぼんやりしている時や、くつろいでいる時に、何かどこか体の調子が微妙によくないと感じるという。体を休めている時の方が具合が悪いというのは、風邪や、急に厳しくなった部活動で溜まった疲労によるもの、という理由では説明がつかない。そして不調を訴える人も、滝先生に反発している層よりも、むしろそういう人達と滝先生の(いさか)いで板挟みになっている大人しい人に多かった。

 

「先輩、心当たりはあるんですか?」

「多分だけど、心身症かノイローゼのどちらかだろう」

 

 一人一台スマホを持っているのが当たり前の昨今、ちょっとした調べものなら手持ちの端末に向き合った方が手間もかからず、精度も高い。ひとたび世に出回った後は内容が更新される事もなく、時を経るごとにインテリアと化していく事典に羽箒(はねぼうき)をかけていた井上の手が止まる。

 

「心身症? 何ですそれ」

「平たく言えばストレスに起因する体調不良。真面目な人や気が弱い人に多いそうだけど、ストレスが限度を超えて蓄積されていけば誰にでも起こりうる病気だよ」

 

 もっともらしく井上に説明してみせるが、これは鳥塚先輩がダウンした時、代わりに受けた問診から保険の先生が推測した受け売りでしかない。とはいえ大人しい人に症状が多いのも、何もしていない時の方が具合が悪いのも、それならば理屈は通る。滝先生にひるまず言い返せる人の方が、それで多少なりとも抱えた鬱屈を発散できるし、手持ち無沙汰でいる時のほうが余計な事を考えてしまうのだろう。

 図書室では飲食禁止だが、だれも見ていないのをいいことに学食で買ってきたクロワッサンにかぶりつく。男の自分は食事でストレスを打ち消すことにさしたる抵抗もないが、体重や体形が気になるお年頃の女子はなかなかそうもいかない。

 

「それって、ノイローゼと何が違うんですか?」

「どちらもストレスが原因だけど、それによって身体に病変ができるのが心身症で、精神に病変ができるのがノイローゼだそうだ。もっとも、本当に身体に病変がなくとも息苦しさとか目まいとか、身体的症状がでてくるノイローゼもあるから、素人が見分けられるようなものじゃないな」

「へぇー。いずれにしても、放っておけませんね」

 

 自分の説明(保険の先生の受け売り)に納得したのか、仕事を再開しながら井上が呟く。ちなみに彼女が真面目にしているのは、罰ゲームだから。嫌がる鎧塚さんを紫外線ビーム顔面ぶっかけに執拗に誘うもんだから、それならトランプで勝ったら好きにしていいぞと助け船を出してみたら、井上は快諾。結果は言うまでもなく、常時ポーカーフェイスを維持した鎧塚さんの圧勝。基本365日同じ顔してるのも妙なところで役に立つ。

 

「心身症かノイローゼかの判断はできなくとも、ストレスが原因なのははっきりしてるんだ。だからストレス因子を消してしまえれば手っ取り早いんだが……」

「滝先生や、声ばかり大きい人を消す訳にもいきませんしねえ」

「現代社会とストレスは双生児だからな。ストレスの根絶なんてできっこないさ。ここは穏便に、対処療法でいこう」

 

 とりあえず小笠原先輩と中世古先輩、そして田中先輩の三幹部にスマホを通して現状を説明し、その処方も提案してみる事にした。

 

 

差出人:蔵守啓介

送り先:小笠原晴香、田中あすか、中世古香織

件名:ストレス注意報

本文:心身症ナイシ、ノイローゼ患者多数発生。療養ノタメ相談窓口開設ノ必要アリト認ム

 

 

  以上。

 

 

「いきなりこれだけ言われても伝わりませんよ!?」

「しょうがないだろ、事細かに説明したら文字数制限に引っかかるんだから」

「先輩の携帯はどんだけオンボロなんですか……」

 

 詳しくはwebで、ならぬ詳しくは自分まで。という事で、どういう事なのか井上が詰め寄ってくるので一から十まで説明した。

 と言っても事が精神的な問題に起因しているので、体調を崩した相手の苦悩に耳を傾けるくらいしか対処は思いつかない。ただ今度のような件は、これからも続発する可能性が高い。今後に備えて、苦しい胸の内を打ち明けるに足る、信頼できる人物なら誰でもいいが、そういう相手に相談できる窓口のようなものを作る必要があるだろう。気軽に相談できるよう、匿名で利用できる形にできればなお望ましい。

 

「そういう事でしたら、すでにクレーマー窓口と化している先輩がそのまま担当するのはダメなんですか?」

「俺はダメだな、男だから」

 

 井上の提案に首を振った。たとえ匿名でも、女所帯の部活で男の自分がこの種の仕事に関わるには限界がある。男子が苦手で吹部に入る女子など珍しくもないのだ。そういう人たちにとって、異性に相談するという事自体、ハードルが高かろう。

 

 そんな時、ポケットの中のスマホに着信が入った。早速この件に関する返信か。画面に表示された新着メールを開いてみると、やはり田中先輩からだったので井上に転送する。

 

 

差出人:田中あすか

送り先:蔵守啓介

件名:今日から健康強化週間だ!

本文:十分程たったらそっちに行くよ

 

 

「見ての通り先輩がこっちに来るそうだ。井上、直ちに(ほこり)取りを中断して配置につくように」

「配置ってなんですか。それに今すぐ来るとは書いてないじゃないですか」

「甘いな。メールには10分後に来るとあるが「たのもー!!」……こういう人だから」

 

 いたずらっ子な先輩め、図書室の出入り口近くまで来てからメールしたな? でも自分にはフェイントなんて通用しませんよ? もう貴方と一年も同じ部活にいるんですから。

 

「わっ、もうあすか先輩がやって来ました!」

「こんちはー、先輩」

「わわっ、もうあすか先輩がやって来ました!!」

「なぜ二回言う?」

 

 そうじゃない井上は、ゲーム開始直後にクリボーが画面端から出てきたかと思ったらクッパでした! なんで!? みたいな顔してテンパってるけど。いや、そんな顔自分も知らないけど。要するにそれだけ不意をうたれたってこと。

 

「おんやぁ? 蔵守だけかと思ったら新顔がいるね」

「はわわっ、あすか先輩。ちかい、近いですっ!」

 

 出入口近くにいた井上は、田中先輩に壁ドンされて目を回してる。だから安全距離(ソーシャルディスタンス)を確保しろと言ったのだ。

 

「そーいえば、ナックルんとこにいたっけこんな感じの一年生。ストレートロングで、正統派美少女ぽくて」

「……えっ。や、やだもーあすか先輩ったら! そんな本当のこと言っても何も出ませんよぉ」

 

 ちょっと社交辞令を言われただけでのぼせ上がる、お前もホント簡単な女だな井上よ。鎧塚さんの事をどうこう言えないぞ。

 

「舐めたら美味しそうで」

「ふぇ!?」

 

 こっちはこっちで輪をかけてヤベェ人でした。

 

「つい最近まで純朴な中学生だった井上を変な色に染めないでくださいね先輩」

「私ももう高3なのにヒト科のオスに縁がなくてねえ。一周回って同性でもいいかと思うのよ」

 

 同時刻、学食。

「!」

「ど、どうしたの香織? いきなり立ち上がって」

「う、うん。なぜか、望ましい未来が急に開けたような気がして」

「……は?」

「それより晴香、後で蔵守君にメールの事聞かなきゃね」

「……どうして電報風なんだろね。ろくでもない事なのは伝わってくるけど」

 

「ほとんど女子の吹部でひたすら部活に励んで、誰ともフラグ立てないルート選択しといて何血迷ったこと言ってんですか」

「あー、いますよねぇ。恋愛ゲームなのに女の子そっちのけで、どーでもいいパラ上げに勤しむ人って。さしずめガチ部活勢のあすか先輩は吹奏楽パラSランクってとこですか」

「やだねー井上ちゃん、私はAランク、Sランクなんてもんじゃないよ」

 

 それでも相応の実力者である事は否定しない、謙遜しない現代っ子なあたりが田中先輩である。いつもの事とはいえ、この人と話していると神経がささくれる。そのうち誰かから刺されるんじゃなかろうか。

 

「Sランクっていうのは、滝先生にダメ出しされまくってる子らを言うのよ」

「ふぇ!? あの人達ってあすか先輩より上なんですか? 真の実力者しかわからない秘めたる才能、未完の大器って奴ですか!?」

 

 思いっきり話に食いつく井上に、ちがうちがうと(なだ)めながら田中先輩がカウンターに置いたままの袋からクロワッサンをほおばる。ちょっと、それ俺のですよ。

 

「いつからSがトップランクと錯覚していた? アルファベット順通りで、てめぇらSはEよりずっと下だぁ!」

「な、なんですとぉ!?」

 

 驚きで目をむく井上を尻目に、田中先輩は「あの子達は下手すぎる」だの、「ばらばらしてる」だの、「ピッチもあってない」だの、Sランク部員のダメダメな点を列挙しだす。そりゃ自分も、へたっぴな上にさぼりーな人達に、もう少し頑張ろうよと思わなくもなかったが、今回ばかりは言ってあげたい。そこまで言う事ないだろと。

 

「意地悪なアヒル(三年生)もいなくなったし、みにくいアヒルの子も白鳥に準ずる存在になるだろうと思ってたけど、期待外れだったよ。所詮アヒルの子はアヒルだねぇ」

 

 とまあ、こんな感じで(さじ)を投げた田中先輩の手でSランク部員は戦力外通告されるか、あるいはSランク部員の方が酷評に逆上して田中先輩を吊るし上げるか、どっちかの展開しか思いつかないレベルで見限られてしまっている。

 

「……ちなみに私はあすか先輩基準でどのくらいのランクなんでしょうか?」

 

 やや腰が引けた井上がそれとなく、話をSランク部員から自らに移そうとする。黒化した先輩の言は、これ以上聞かぬが仏と判断したのだろう。適切な対処と言えた。

 

「そうだねえ、井上ちゃんはDランクってとこかな」

「D……。まだまだってことですね。よぉし蔵守先輩! あすか先輩には敵わないまでも少しでも近づけるよう一緒に頑張りましょう! 私がDなら先輩はせいぜいEってとこですから!」

 

 なんだとお。

 

「……井上、貴様には少しばかり(しつけ)が必要なようだな。あとで校舎裏に来い」

「え。いやぁん先輩ったら。吹部が美少女ぞろいだからって、悶々(もんもん)とした気持ちを夜な夜な一人慰める日々が続くのが辛いからって、私との告白イベント決行するには好感度足りてませんよぉ」

「そうじゃねーよ」

「え? それじゃ吹部の女子をとっかえひっかえしてるヤリチン野郎なんですか? 近寄らないでくださいこの種馬!」

「殴るぞ」

「やだねー井上ちゃん、蔵守は女遊びするようなタマじゃないよ」

 

 田中先輩が俺の尊厳を守ろうとするなんて。何か変なものでも食べたんですかと恩知らずな事を考えてしまったのは、先輩の日頃の言動のせいだ。

 

「そもそもここら辺に女と夜遊びできるスポットなんてないでしょ」

 

 田中先輩が宇治の尊厳を(おとし)めようとしている。いや、健全でいいのか?

 

「あー、先輩? なんか話が脱線しまくっちゃいましたけど。健康強化なんたらの件ですが」

「その質問に答える前に、私の質問に答えてもらわないと。あの不親切すぎるメールは一体何?」

 

 やっぱり説明が足りていなかったようなので、改めて経緯を事細かに報告した。ついでに自分が立ち会った各パート練習の進捗具合も説明した。自分で言ってて何だが、多少の改善傾向は見られるものの全体としてはどうにも悲観的な報告が多い。一部の例外を除いて、滝先生が求めるレベルに達していないのが現状なのだ。

 

「ほぼ分かったよ。要するに状況は絶望的なのね」

「そこまでひどくありませんよ!?」

「そう思いたいんだね?」

「そう確信しています!」

「それ気のせいだよ」

 

 くっそ。自分らの部活の事なのに、他人事みたいに突き放した態度を取りおって。ダメダメだと思うんなら私がなんとかしようとか考えないのか。低音パートだけよければいいのか。これが格差社会か。それとも個人主義か。強者と弱者の格差放置は社会不安の母ですよ?

 

「で、健康強化週間の件だけど」

 

 一通り自分の報告を聞き終えると、田中先輩はメールの返信について語り始めた。要約すると、ストレス溜め込んで体調崩す人が続出してるのなら、これ以上症状が悪化しないよう部活以外で不健康な生活するのを止めよう!と言いたいらしい。

 その為にまずは運動不足の解消。これから毎日部活前に全速力でトラック一周。まあ、それはいい。続いて禁酒、禁煙。取り締まる意味あるんですかねこれ。うちの学校そこまでの不良はいないと思うけど。そして最後に食べ過ぎも良くないという事で、クロワッサンを取り上げられた。勘弁してくださいよぉ。

 

「代わりにこれあげる。別に貴方のために作ったんじゃないんだからね……っ」

「……台詞だけ見れば意中の相手に手作りプレゼント渡そうとするツンデレヒロインなんですが、このペットボトルに入った毒々しい色の液体はいったいなんなのでしょうか」

「栄養ドリンクでカクテル作ってみた、っていう動画を参考に見様見真似で作ってみたの。飲んでみて」

「嫌ですよ!? 絶対混ぜちゃいけないものまで混ぜてるに違いないし! っていうかどうしてボコボコ泡まで吹いてるんですか!?」

「人体に入る前から栄養分がハッスルしてるのよ」

「破裂する前に捨ててくださいそんなもん!」

 

 無理強いする気はないのか、田中先輩はあっさり引き下がる。

 

「残念……、蔵守のリアクションを録画して動画再生数稼いでやろうと思ったのに」

 

 俺は芸人じゃないんだが。

 

「じゃあ飲まないでいい代わりに交換条件。私の方でもこみいった問題にぶつかってね。蔵守の手を借りたいんだけど、一緒に楽器準備室まで来てくれない?」

「うっ……」

 

 なんてこったい。お願いの重ね掛けなんて聞いてない。はじめからそっちが本命だったに違いないが、二度も続けて頼みを断るのはさすがに外聞が悪い。OK出すはずもない依頼に先陣を切らせておいて本命を二の矢で継いでくるなんて、まるきり詐欺師の手口ではないか。

 とはいえ悪賢い田中先輩からの頼み。しかも面倒な問題という。一筋縄で解決できるはずもなく。内心警戒警報出まくりである。無駄な事だと思いつつも、とりあえず抵抗を試みる。

 

「……今からですか?」

「うん」

「昼休み潰れちゃいますよ?」

「私は平気だよ?」

 

 遠まわしに嫌だと言ってるんだけどな。

 仕方ない。手遅れになってから処理を押し付けられるよりはマシと、無理やり好意的に解釈して渋々ながらも協力要請に応じることにした。……のだが。

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいよっ!」

 

 書類を抱えて図書室を後にしようとすると、井上が必死の形相で腕を掴んできた。

 

「先輩がいなくなったら、誰が図書当番するんですか!?」

「お前が。他に誰がいる?」

「私のお昼寝タイムはどうなります!?」

「井上」

 

 井上の肩をぽんと叩いて、真剣な表情で見つめるとなぜか彼女が赤くなる。

 

「な、なんですか……。そんな常ならぬ漢らしい顔しちゃって。ギャップ萌えなんかに負けませんよー」

「図書当番として、俺が井上に教えてやれることはもう何もない。それだけお前は成長したって事さ……」

「なに良い話風にまとめようとしてんですかぁぁぁ! 先輩に図書当番の段どりを教わった覚えなんてこれっぽちもありませんし、そもそも貸し出し返却の手続きなんて教わるまでもなく誰でもできる仕事でしょうがぁぁぁ!」

「ほう? 誰でもできるとぬかしたな。それなら井上に任せて何の問題もないわけだ」

「しまった!? 罠だっ!!」

「あと任せたぞー」

(はか)ったなー!? せんぱぁーいっ!!」

 

 かくして、引継ぎが問題なく済んだことを確認して図書室からトンズラこく自分(と田中先輩)。背中に井上の怒声が響き渡るが、そんなのは無視して楽器準備室に急ぐ。

 ちなみに、あまりの騒々しさに指定席からひょっこり顔を出して、うるさくしないでオーラを放っていた鎧塚さんは後日「……やっぱり蔵守君はあすか先輩に似てきてる」と吉川に語ったそうである。

 

 

 

 

 図書室から楽器準備室までは遠い。図書室は南棟西側の一階にあるが、楽器準備室は北棟東側の四階に音楽室と並んで併設されている。世間一般の例に漏れず、防音対策で辺境に左遷された特別教室へ、ほとんど校舎を突っ切らなければならなかった。

 ようやく目的地にたどり着いて扉をくぐると、楽器棚にはちらほら空きが見える。自主練で持ち出した人が少なからずいるのだろう。昼休み中まで気合を入れて練習する人など、これまでは田中先輩をはじめ片手で数えられるほどしかいなかった。

 いい傾向だ、とも言いきれない。滝先生に皮肉を飛ばされるのが嫌で、無理に気力を振り絞っているように見えるところがあるからだ。そして、そういう無理は往々にして長続きせず、どこか別の場所で緩みを生じる。

 

「今日も荒れてますね、楽器準備室は」

 

 少し前までは、楽器ケースはそれなりに整然と、楽器ごとに陳列されていた。それが今では、規則性も何もなく、空きが合ったら放り込めといった感じで雑に格納されている。床に置きっぱなしの楽器ケースも少なくない。

 

(あるじ)を失って、この部屋で眠ったままの楽器も多いのに……」

 

 自然とため息が出てしまう。楽器ごとに所定の場所に格納するのは、そういう誰も使っていない楽器の紛失や盗難が起きても、直ぐ分かるようにする意味合いもあるのだが、これでは何か起きても直ぐには気づけない。

 

「こういうことは、私たちがフォローすればいいんだよ。なんたって、楽器係だもんね」

 

 パーリーとは別に、今年度から楽器係に就任した田中先輩と自分は二日に一度、楽器準備室を綺麗に整頓している。そのせいで、置いておいた場所と違う、勝手に動かすなと理不尽なクレームを受けたりもするのだ。みんな、心にゆとりがなくなっている。

 

「いつも通り、掃除をすればいいんですか?」

「それもあるけど、蔵守を呼んだ本題はこっち」

 

 田中先輩は、小さな卓に置かれた楽器ケースを開いて、自分を招き寄せた。

 

「これを見てもらいたかったんだ」

 

 ケースの中にあるのは、何の変哲もないアルトサックスだった。しいて言うならそこそこ年代物で、ラッカーの禿(はげ)も目立つ。もっとも、その程度の古びた楽器など、この吹部では珍しくも何ともない。

 

「このサックスがどうかしました?」

「どうも湿気にやられたみたいでね」

「湿気?」

 

 田中先輩の言葉は()しかねた。湿気にやられたみたいと言うが、今はまだ四月だ。例年に比べて、ここまで特別雨が多いという事もない。

 

「ほら、タンポが湿ってる」

 

 そう言って、田中先輩がサックスに穿(うが)たれた穴を開け閉めする機械仕掛けの(ふた)を拭き取る。タンポというのは、この蓋の裏側に取り付けられた、指代わりに穴をふさぐ為の動物の革のことだ。楽器に穿たれた穴を開け閉めすることで音が変化するのは、普通の笛も吹奏楽で使う木管楽器もかわりはない。ただ後者は、より多彩な音色を表現できるように穴を大きくしたり多くしたりした結果、両手の指では塞ぐのが追いつかないので機械の力を借りるわけだ。金属ではないので、当然、湿気に弱い。いかに古い楽器といえど、こうなる前に気づけなかったのか。そう思ったが、口には出さなかった。これも、精神的余裕の無さが為せるわざだろう。

 

「滝先生にバレる前に、修繕(リペア)に出した方がいいですね」

 

 放っておいたら整備不良のかどで、また滝先生にぺしゃんこにされる部員が出てしまう。

 

「だいじょうぶだいじょーぶ。楽器の一つや二つ、ちょっとおかしくなったくらいでガタガタいう人じゃないよ。メタメタにされるかもしれないけど」

「より悪いですよ!?」

 

 ガタガタ言われるよりメタメタにされるのが嫌だからかどうかは分からないが、幸い調子がおかしい楽器は他に見当たらなかった。しかし、これまでは何もなかった楽器がおかしくなりだしている。嫌な感じだった。

 

「サックスパートは、メンテをちゃんとやってたんでしょうか……」

「今まで通り、ちゃんとやってるって、言ってはいたけどね」

 

 その「ちゃんと」とは、世間水準でいう「適当」と違うのだろうか。

 何が起き始めたか、何となく見当がついた。中途半端なご機嫌取りを続けてきたが、とうとう楽器諸兄もストライキに入り始めたということだろう。これまでは重役出勤で定時帰りの楽器たち。だからこそ、だましだましのメンテでもさしたる問題は起きなかった。それがここにきて、いきなりの酷使。単純計算でも、練習時間は三倍に伸びている。心なしか、棚に陳列された楽器から、労働環境の変化が急過ぎるぞという怨念が立ち上っているようにも見えた。

 

「直ぐにでも、楽器のメンテ方法を見直すべきです。それも、念入りに」

「勿論、そうするつもりだよ。だけど、メンテナンスが中途半端な事だけが原因なのかな?」

 

 肩にかかる長髪をいじりながら田中先輩が(つぶや)いた。先輩は、自分とは違う見解を持っているらしい。

 

「というと?」

「練習量は増えているのに、メンテは今までと変わらずおさなり。そのせいで楽器の調子がおかしくなった。一応、筋は通っているかもしれない。だけど、それにしても変化が急過ぎないかな?」

「確かに、ちょっと異常だとは思います」

 

 おざなりといっても、メンテ自体をサボっていたわけではないのだ。大なり小なり不具合の兆候を見逃すはずがない。少なくとも、修繕(リペア)に出さざるを得ないほどに状況が悪化する前に、普通は気づく。

 そう思っていると、田中先輩が自分の横をすり抜けて、準備室の扉をしっかりと締め直してから呟いた。

 

「私は、吹部の誰かが故意に楽器をいじって、調子をおかしくさせてるんじゃないかって思ってる」

 

 それは、冗談としてはタチが悪く、事実であればより深刻なものだった。

 

「楽器をいじるって……何の為にそんな事を!?」

「理由なんてすぐに思い浮かぶよ。滝先生のスパルタで、少なくない数の部員が鬱憤を抱えてる。でも先生には正攻法では太刀打ちできない。だけど過酷すぎるレッスンの影響で楽器も調子がおかしくなったという事になればどうなると思う? 楽器だって調子を崩すんだ。私達だってついていけない。そんな風に、先生への反撃手段を欲している人達に、大義名分を与える事にならないかな?」

「それは日頃のメンテが十全に行われていれば、の話でしょう。不十分なら逆に管理責任を問われて藪蛇になりますよ」

「どうかな。うちの楽器はボロばかりだし、部品のそこここも(もろ)くなってる。メンテがしっかりしてるかしてないか以前の問題かもしれないよ?」

「……だとしても、いじった事がバレたらタダじゃ済みませんよ。だいたい、この通り先輩に感づかれてるじゃないですか」

「バレても、それはそれで構わないと考えてるんじゃない? 去年の傷害事件から、先生達は吹部の扱いにデリケートになってる。滝先生の厳しい指導がこういう事態を引き起こした。生徒をそこまで追い詰めた滝先生にも問題がある。先生達の間でそういう意見になったら、顧問の首くらい飛ぶかもしれない。かなり捨て身だけど、そういう展開になっても悪くないと思ってるかもね」

 

 まさか、そんな大胆かつ手の込んだ裏工作を思いつくような人が、吹部にいるはずが……。

 いや、一人いる。目の前にいる田中先輩だ。この人なら、それくらい思いついてもおかしくない。

 でも、動機が無い。田中先輩は滝先生のやり方に積極的に賛成しているわけではないが、反対している訳でもない。

 となると、容疑者は先生のやり方に反感を持っている人に限られる。が、こんな悪知恵を働かせそうな人などいない。

 脳内の人名録から吹奏楽部員の容姿と名前と、性格と履歴をつぶさに見直しても大胆不敵な知能犯の目星をつけられずにいると、田中先輩が(もう)(ひら)くかのように声をかけてきた。

 

「証拠は無いけど、こんな事思いつきそうなの、一人だけあてがあるよ。その子は、滝先生のやり方に積極的に反対はしてないけど賛成もしていなくて、過去の実績からいっても、なかなか悪知恵が回る子だから」

「いったい、誰です?」

「……蔵守って、思ったより自己評価低いのかな。ここまで言っても分からない? それとも、とぼけているのかな?」

 

 芸の無い返事がお気に召さなかったのか、田中先輩は形のいい眉を崩して苛立ちの表情を見せた。

 

「私だけじゃなく、晴香や香織も、蔵守のことは頼りになる後輩だと思ってるよ。去年も、三年生が部費をお菓子代に流用していた時、蔵守は小細工をして浪費を抑えようとしてくれた。今度も、滝先生の厳しい指導でみんなのモチベーションが下がっていくのを食い止める為に、サンフェスのユニフォームを許可なく調達しようと裏工作してくれている」

 

 裏工作。そこまで言われて、全身の血が引いた。

 

「……もしかしなくても、主犯はお前だろうと疑われてるわけですか」

「おまけに楽器係という立場上、準備室に入り浸っていても何もおかしくないし、部屋はこの通りの散らかりよう。他人の楽器ケースをいじっても、整頓のついでで中身を確認してるんだと言えば誰も不審に思わない。疑わせるような材料が、ばかに多いじゃない」

 

 犯人に目星をつけたにしては、先輩の口調には奇妙なほどに熱意や敵意が欠落していた。

 

「でも蔵守がやったにしては、バレた時の跳ね返りが大きすぎるのよね。滝先生を吹部から追い出すまでは百歩譲っていいとしても、後任の顧問にまともな人が入ってくるとは限らないし。美知恵先生も顧問に上がれない現状じゃあ、尚更、ね」

 

 自分も、苦々しい思いで過去を振り返った。

 去年の傷害事件の後、吹部顧問の人事は難航を極めた。梨香子先生の後任の顧問がなかなか決まらなかったのだ。当時の顧問だった梨香子先生は管理不十分という形でその座を追われた。表向き産休という形を取っているが、顧問として立場上の責任を取ったのか、取らされたのか、いずれかである事は明白だった。その後の教員会議で、そのまま副顧問の松本先生を繰り上げで顧問に据えたらどうかという意見も出たそうだが、何人かの教員の反対で流れたらしい。副顧問など、どこの学校でも名のみの存在でしかなく、実際に部活動に関与している方が珍しい。そういう意味では傷害事件について重い処罰を負わせるほどでも無いという点で見解は一致したそうだが、しかしそれでも在任中の不祥事だ。現職の副顧問を昇格させるのは対外的にいかがなものかという危惧に抗しきれなかったという。

 

「だから動機は滝先生のスパルタにブレーキをかけるとかじゃなくてさ。吹部を良くしようと張り切ってた希美ちゃん達を守れなかった後ろめたさから、今更部内改革なんて成功しても……っていう感じの引きこもった動機かなあとも思ったんだけど」

「……そういう動機なら、自分に限らず今の吹部の上級生全員が対象になるでしょう」

 

 ずっと頭にちらついていた、去年の事は。傘木達の力になれなかったのに、今更全国もないだろうと。ただ、そういうエゴに、何も知らない一年生達まで付き合わせて全国を目指すのを諦めさせていいのかとなると、それはまた別の話だった。

 そしてみんなも口には出さないだけで、傘木達の事は大なり小なり気にしているに違いないのだ。

 

「私はそこまで希美ちゃん達を守れなかったこと、気にしてないけどね」

「……そうですね、田中先輩はそういう人ですよね」

 

 去年の時点で田中先輩と傘木は二年生と一年生。低音パートとフルートパート。学年も違えばパートも違う。同じ吹部だからといって、縦にも横にも繋がりの薄い相手の面倒まで見ていられるか、というのが本音なのだろう。

 ただ、そういう本音を今のように隠しもせず、露悪的に振る舞うところが田中先輩にはあって、自分などはもう少しオブラートに包んだ方がいいのではと思ってしまう。

 

「そうじゃないよ」

 

 田中先輩の目が、すっと細くなった。思わず視線をそらした先にあった先輩の手が、ヒビとあかぎれだらけだった事に気づく。水仕事を多くこなした人間特有の手だ。

 

「部活の外でも吹奏楽を続けられる環境を持てる人なんて、そう多くないんだよ。私はただ、ユーフォを続けたいんだよ。コンクールなんてどうでもいい。だから我が身を危うくしてまで、希美ちゃん達を(かば)おうという気にはなれなかった」

「……? 先輩のユーフォは、自前のものじゃないですか」

 

 田中先輩の言っている意味が良く分からなかった。ほとんどの楽器は、まともなものであれば子供の小遣いで買えるような代物ではない。つまり自前の楽器を持てる時点で、吹奏楽に対する親の理解が存在する。コンクールがどうでもいいというなら、傘木のように家庭で練習を重ねつつ、市民楽団で活動する道を選択しても一向に支障はないはずだ。

 

「どれだけやる気のない人が多かろうが、意地の悪い先輩がいようが、好きな時に好きなだけユーフォを吹ける場所がある。それは私にとって、何ものにも替え難いものだから。私には、希美ちゃん達みたいに、吹部をやめるなんて選択肢、始めから用意されてないから」

 

 そう言って、田中先輩は自分の手首をつかんできた。

 

「ヒロネの件は聞いたよ。私も助けを求めたら、蔵守は助けてくれるのかな?」

「……どんな事でも人並み以上にこなす先輩が、自分なんかに助けを求める事態なんて想像できませんが、その時は微力を尽くして」

「……脈が乱れてるよ」

「……先輩が腕に触れてるせいですよ」

 

 せいぜい落ち着いて返答したが、内心かなりドキマギしている。気恥ずかしさで熱を帯びていく自分の顔色とは対照的に、田中先輩の表情は憎たらしいほど澄ましたままだった。

 

「可愛いところもあるもんだね」

 

 田中先輩の声が和らぎ、自分の腕から先輩の手が離れた。

 

「私は今度の事、蔵守がやったんじゃないと思ってるけど、焦っちゃいけないよ。私は使える人間って好きだから。つまらない事で失いたくないんだ」

 

 焦ってなどいなかった。滝先生のやり方が吉と出るか凶と出るか。今度の合奏でケリがつく。

 去年の三年が引退してから既に半年。たとえ亀の歩みであろうと、吹部が一つになるのを辛抱強く待ち続けた。次の合奏まで、残り時間はあとわずか。これまで待ち続けた時間に比べれば、待つというほどの事もなかった。

 





順菜「やっぱり女の子をとっかえひっかえしてるじゃないですかー! 私ルートも狙ってやがりますねっ!?」
蔵「一期二期合わせても台詞が片手で数えられるようなモブにそんなんあるかっ」
順菜「な、なにおうっ!?」

アニメモブがもっと喋るシーン見たかった……(´・ω・`) 三期に期待

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