北宇治高校ダブルリードパートへようこそ   作:言巫女のつづら

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第4話 思慮深いチューバ

 六月初め。

 コンクールの出場メンバーが公表され、ダブルリードパートからは岡先輩と鎧塚さんが出場する事に決まった。

 

「それにしても、先輩が漏れたのは意外でした」

 

 静まり返った楽器室。先輩達のファゴットケースを楽器棚に格納しながら、喜多村先輩に内心を吐露した。

 

 途中入部で、鎧塚さんとは練習量に差がついている。

 自分が選外だったのはさして気にもならなかったが、喜多村先輩まで外れたのは腑に落ちない。パート練習で聞く限り、二人の技量にさほどの差はないように思える。

 

「ああ……それはね、去年ファゴットは私だけコンクールに出場したからだよ」

 

 あっさりと先輩は言ってのけた。

 

「オーボエもファゴットも吹奏楽ではオプション扱いだから。ソロの担当役一人ずついれば充分。五十五人の中からダブルリードに枠割くの勿体ないって思ってるんじゃない? 二年生で出れない人も結構いるし。来年は私達も最上級生だから、美貴と二人一緒に出してもらえると思うけど」

「確かに楽器編成のバランス上、自分達の枠が少なくなるのは仕方ないですが……」

「去年もそうだったけど、北宇治って上級生最優先だから。みぞれちゃん以外は一年生出れないんじゃないのかな」

 

 ……それはまた、傘木が腹を立てそうなネタが出てきた。

 

「それじゃ、後はよろしくね。今日は美貴とライブに行くんだ♪ おつかれさま~」

「……お疲れ様です」

 

 先輩もまるで気にしていない様子なので、あえてそれ以上の追及は避けた。

 

 しかし傘木が何と思うだろうか。

 選抜の事情が分かって、真っ先に頭に浮かんだのがそれだった。ただでさえ彼女はやる気のない先輩達に憤懣やるかたない心境でいる。そのうえ出場メンバーの振り分けが、そういう演奏の実力によらない取り決め方では。火に油を注ぐ事になりかねない。

 

 

 

 

「まったくなんなの! あのコンクールメンバー!」

 

 翌日、練習前のミーティング時間の音楽室は喧々諤々(けんけんがくがく)

 ミーティングなんて遅れてなんぼ、と言わんばかりに今日も三年生の姿は見えない。

 これ幸いとばかりに、南中出身と思しき一年生部員の口から放たれるのは選抜された三年メンバーに対する不平不満の嵐。

 一年でコンクールに出場できるのは、結局鎧塚さんだけだった。それとてオーボエ担当の上級生がいないから、おこぼれを頂戴したにすぎない。

 二年生も半数近くの人が選抜漏れで、思うところはあるのだろう。一年から話を持ちかけられる度に相槌を打ってはいる。とはいえ去年も同じ事を経験した身の上。半ば諦めているのかリアクションは薄い。

 

 傘木も険しい顔をして同級生と愚痴りあっているが、自分の顔を確認するやいなや大声を張り上げた。

 

「ちょっとくらむー!!」

 

 他に人がいない時ならいざ知らず、ミーティング前で大勢集まっている時にその名で呼ぶなよ。

そら見ろ。そこかしこで失笑が聞こえてくる。

 

「……なに」

 

 内心の苛立ちを押し隠して、傘木に短く尋ねた。

 

「コンクールメンバーの事! どう思う!?」

「ちょ! 声が大きいよ。三年生に聞かれたら……」

 

 三年生はまだいないといっても、いつ音楽室の扉を開いて姿を現すかわからないのだ。

 

「別に聞かれてもいいじゃない。文句言われて気にするような人達なら、昨日のうちにコンクール出場を辞退してるでしょ」

 

 三年なんか怖くないぞと言わんばかりに、傘木の隣にいた女子がふてぶてしい態度をとる。ベージュ色の長髪の一年生だ。

 

「……ええと、どちらさんでしたっけ?」

 

 その問いがお気に召さなかったらしい。顔をひきつらせて眼前に詰め寄ってきた。

 

「吉川よ! トランペットの吉川優子(よしかわゆうこ)! この前希美に紹介してもらったでしょ!」

「ああそうだ吉川さんだ。ゴメンゴメン。頭のデカいリボンがないから一瞬誰かと思ったよ」

「アンタの中の私の判断基準はリボンなの!?」

 

 がーと吠える吉川さん。でも仕方ないじゃないか。

 あんな分かりやすいのをトレードマークにしない方がおかしい。

 

「今日はリボンないけど、イメチェン?」

「……寝坊してセットする時間なかっただけ。昨日のメンバー発表の事でイラついて眠れなかったから」

「で、どうなの!?」

「いや。それは……」

 

 本心を言えば、ロクに練習しない癖に最上級生というだけでコンクールに出すのはどうかと思う。

 しかしそれをこの場で公言していいものか……。

 

 返答に窮していると。

 

「遅れてごめーん。早速ミーティング始めるよ。席について」

 

 タイミングいいのか悪いのか、丁度その時部長をはじめ三年生がぞろぞろとやってきた。

 

「傘木、吉川さん。この話はまた今度ね」

『むー……』

 

 不満たらたらといった様子の二人を体よく追い返して、自分も席についた。

 

「連絡した通り次の合奏練習から、コンクール出場メンバーは音楽室。

それ以外のメンバーは第二視聴覚室が練習場所になります。間違えないでね」

『はい』

「パート練習は今まで通り各自が使っている教室で、基礎合奏も音楽室で一緒に練習です。でもコンクール出場メンバーの練習の邪魔にならないよう気をつけてね」

 

 ……邪魔にならないように、か。

 思わず吹き出しそうになった。三年の中では比較的まともな部長が言ってもそうなのだ。ロクに練習してない先輩……例えば傘木のとこのフルートの三年がそんな事いったら、へそで茶を沸かしたかもしれない。

 

 

 

 

 音楽室に長居して、傘木達に捕まって話の続きをさせられてもしょうがない。

 早々に楽器室に退散してパート練習の準備に入ろうとした時、奇妙な事に気付いた。いつも通り部屋の棚にしまった自分のオーボエケースが見当たらない。

 

「先輩、うちのタマ知りませんか?」

 

 折よく居合わせた岡先輩と喜多村先輩に尋ねると、二人とも目を丸くした。

 

「タマ!? アンタ学校にネコ連れてきてるの?」

「いいえ。ほら、自分が使ってるオーボエの事ですよ」

「ああ……、結局その名前にしたんだ」

 

 だって放っておくと例の香水っぽい名前で呼ばれそうだし。

 

「ちゃんと片づけたの?」

「ええ、確かにここに。タマのキーホルダーを目印につけてますから。いつもならすぐ分かるんですけど」

「……キーホルダーのタマはオーボエとネコ、どっち?」

「ネコです」

 

 

 先輩達が手伝ってくれたおかげで、タマ(オーボエ)を入れたケースはほどなく見つかった。

 今は使い手がいないので楽器室の片隅によけておいたコントラバスのケース。その真下に、まるで枕がわりのように置かれていたのだ。取りだす為に、重いコントラバスをどけなければいけないのが地味に面倒くさい。

 

「おかしいな……。昨日ちゃんと片付けておいたはずなのに、何でこんな所に。

キーホルダーもなくなってるし、誰かのイタズラかな」

「……ねえ、美貴」

「……うん」

 

 ケースの中身を確認しながら首をひねっていると、先輩達が何事か呟いている。振り返ると二人とも深刻な顔をしていた。

 

「先輩、どうしたんです?」

「多分それ、三年の先輩達の嫌がらせよ。全く陰湿なんだから」

 

 岡先輩が眉間にしわを寄せて、肩をいからせた。

 

「え? 三年生とはさして面識もないし、恨みを買われる覚えなんて無いんですが」

「そうみたいだけど。コンクールメンバーが決まってから、一年の結構な数が荒れてるでしょ。その中の、みぞれと仲良くしてるフルートの子……傘木って言ったっけ? アンタも最近ミーティングであの子とよく話してるじゃん。取り巻きだと思われたんじゃないの」

「駄目だよ。あんまり目付けられるような事しちゃ」

 

「……傘木と距離を置けって言うんですか?」

 

 理不尽な事を言われている。

 苛立っているのが顔に出たのかもしれない。先輩達がいつになくうろたえた様子で見つめてくる。

 

「そこまでは言わないけどさぁ……」

「あの子、サンフェスの頃から結構あけすけな物言いしてたから、三年生もトサカにきてるみたいなの。この前のパーリー会議でも議題に挙がったんだよ。彼女と仲良いのなら伝えてくれない? 気持ちは分かるけどもうちょっと抑えた方がいいって。一年生は来年も再来年もあるんだから」

「……はい」

 

 何か釈然としない思いはあった。しかし先輩達にまで迷惑がかかりかねない事を考えれば、忠告にただ頷くしかない。

 

「……反抗的な人物と親しくしていたというだけで嫌がらせされるのか。傘木の奴、大丈夫かな」

 

 先輩達が楽器室を出たのを見計らって、誰にも聞こえないように独り言を呟いた。

 

 単にやる気がない部活というだけなら、いくらでも身の振り様はあったのに。自ら泥沼に飛び込むような選択をしてしまったのかもしれない。

 そんな気がしてため息をつかずにはいられなかった。

 

 

 

 

 鎧塚さんのその日の演奏は、どこか精彩を欠いていた。

 コンクール出場が決まって緊張感で固くなっている……とも言えない雑な演奏で、翌日の授業中も上の空。そしてそんな彼女を注意する為に先生達から飛んでくるチョーク。

 

 

「今日は厄日だ」

「……ごめんなさい」

 

 放課後の教室、隣の席でうなだれる鎧塚さんに恨み節をぶつけた。北宇治の先生達は揃いも揃ってノーコンだ。席が隣同士だからって、流れ弾が自分に集中するのは一体どういう事だろう。

 

「何か悩み事でもあるの? よければ話してくれないかな……というか、話せ」

 

 明日もこんな調子ではたまらない。主に自分の顔が。

 汚れを拭ってチョークの粉まみれになったハンカチをたたみながら返答を促すと、鎧塚さんは小さな声で呟いた。

 

「……昨日から考えていたんだけど。コンクールメンバー、代わってほしい」

 

 いきなりそんな事をいうもんだから、目を丸くした。

 

「なんで」

「……希美と一緒じゃなきゃ、出る意味ないから」

「そんな……席替えで仲の良い子と隣になれなかったからって、ふて腐れる小学生みたいな事言われても」

 

 理由はさておき、メンバー交代を受けるのは気が進まない。三年生にとっては、出る事が目的になっているコンクールなのだ。それは別に構わないのだが、サンフェスの時の様に巻き添えを喰らいたくはない。

 

「それに周りは上級生ばかり。何となく居づらい」

 

 女子しかいないコンクールメンバーの中に放り込まれる自分はもっと居づらいんだけど。

 

「それは分からなくもないけど、そんな理由でメンバー代わったら先輩達から何か言われるんじゃないかなあ……」

 

 一年生の身で出場できる恵まれた立場にいるのに我儘だと、反感を買いかねない。

 

「……でも」

「それなら、交代じゃなくて辞退という形をとってみたらどう?」

「辞退?」

「二年生もコンクールに出れない人、結構いるし。一年なのに出るのは心苦しいです、とか角が立たない理由つけてさ。クラリネットかフルートの先輩に代行してもらったら?」

 

 それで合奏が上手くいけば先輩に貸しを作る事になるし、駄目なら駄目で公衆の面前で恥をかかずに済む。どちらに転んでも損は無い。

 

「コンクールで楽器の代行なんて認められるの……?」

「さあ。それは先生に聞いてみないと。あまり時間ないから、決めるんなら早い方がいいよ」

「うん。考えてみる」

 

 

 鎧塚さんはそう言って机の方に向き直ると、耳にイヤホンをかけ、手に持ったスマートフォンの画面を覗きこみはじめた。

 

「……部活、頑張ってね」

「あれ、今日は行かないの?」

 

 いつも真面目に部活動に取り組んでいる鎧塚さんらしくない。見たとこ体調が悪いわけでもなさそうなのに。

 

「シャルロットの調子が悪くて……。リペア(修繕)に出したの。楽器店から戻ってくるまではお休み」

 

 昨日の調子がおかしかったのは悩み事のせいだけではなかったらしい。

 

「シャル太って高校入学祝いに買ってもらったんだろ? もう機嫌損ねたのか」

 

 まだ六月。使い始めてからいくらもたっていない。

 

「……シャルロット。不良品つかまされたのかも」

「ちゃんとした店で高いお金払ったんでしょ。そんなヤクザな商売してたら店の方が潰れるよ。練習で酷使したせいじゃないの?」

 

 鎧塚さんは毎日メンテを欠かさず行っているし、梅雨時特有の湿気のせいとも考えにくい。デビュー早々の新米楽器にとっては、彼女の練習量の方が堪えたのだろう。

 

「そうかもしれない。……ヤワな子」

「……」

 

 なんとなく、鎧塚さんのサディスティックな側面を垣間見たような気がして腰が引けた。

 

「……それで、何やってんの?」

「リズムゲーム」

 

 放課後とはいえ、校内でゲームで遊びだすあたり、彼女もなかなかの不良だ。

 

「……遊んでる訳じゃない。リズムゲームで演奏のリズム感つかむ練習してるの」

 

 あきれ顔の自分に気付いていたたまれなくなったのか。うつむきながら鎧塚さんが言い張る。

 

「だったら課題曲の着メロでも聞いてた方がいいんじゃ……」

 

 無関係の曲のリズムをつかんでもどうしようもないだろう、と思っていると

 

♪~

 

 軽快なBGMが流れ出した。鎧塚さんは視線をスマホに戻して、指をカチャカチャと動かしている。

 自分もこれ以上突っ込む気が失せたので、机にしまった参考書を鞄に放り込んで部活へ行く支度を始めた。……のだが。

 

"boo!"

"miss!"

 

 ……結構な音量でプレイしているせいか、さっきから選択ミスと思しきサウンドエフェクトが次々と耳に入ってくるんだけど。

 あ、鎧塚さんの表情が険しくなっていく……。

 あれだけオーボエを吹けるんだから、リズム感がないって事はないはずだが。反射神経鈍いんだろうか。

 

"GAME OVER!"

 

 おいおい。最後まで行かなかったぞ。

 がっくりして机にうつ伏せになる鎧塚さん。

 横から身を乗り出して画面を見やると、そこに浮かんでいたのは

 

"RESULT SCORE 39!!"

 

「……赤点か」

「!? 勝手に見ないで」

 

 顔を真っ赤にして鎧塚さんが睨みつけてくる。いっつも無表情な人なので珍しい。

 

「いつもはもっと取ってる。これは……そう、サーバ遅延のせい」

「ネットゲームじゃないだろそれ」

 

 もう少しマシな言い訳は思いつかなかったのか。

 

「……うるさい。早く部活に行って」

「はいはい」

 

 

 

 

 ……ああいうのを下手の横好きって言うんだろうな。

 教室から追い出されて、音楽室への階段を駆け上がりながらそんな事を考えていると、

 

♪~

 

 早速楽器の音が聞こえてくる。特徴的な重低音。多分チューバだ。

 まだミーティングまで少し時間があるし、サボリ魔の三年生達が時間前から練習しているはずも無し。

 きっと後藤(ごとう)の奴だろう。

 初めて北宇治高校の吹部に顔を出した時に見かけた、二人の同級生男子の片割れ。大きくて重いチューバを吹くのにいかにも適した大柄で堂々たる体躯のおかげで、遠目にも認識できるほどインパクト絶大だった。

 

 ……せっかくだし、様子見てみるか。

 普段自分達ダブルリードパートが練習に使っている三年六組を素通りして、低音パートが使用している三年三組の教室に近づくと予想通り。

 そこには見知った顔が三つ、並んでいた。

 

「ん? くらむーじゃん」

 

 ユーフォニアムを床に置いてくつろいでいるポニーテールの女子……中川さんが自分の姿を確認するやいなや、不快な単語を口にしたので顔をしかめた。

 

「そのあだ名で呼ぶのやめてくれ」

 

 傘木のつまらないあだ名呼びのせいで中川さん達、南中出身の部員にまでくらむー呼びが定着してきている。げに恐ろしきは彼女の影響力。

 

「いいじゃん、希美がそう呼んでたし。私の事も呼び捨てで良いからさ、なんならあだ名でも」

「あだ名ねえ……」

 

 ふと目につくのは中川の頭。ポニーテールのつけ根から、触角のごとく飛び出た2本のアホ毛。

 

「ゴキ……」

「ん?」

「いや、何でもない」

 

 吉川さんのリボンもそうだったけど、中川のセンスもどこかおかしい。

 最近の女子の間ではこういうのが流行りなのかもしれないけど。

 

「それで、何か用? 身一つでこっちにくるなんて珍しいじゃん。今日はファゴットのお姉さま方のお供じゃないの?」

 

 中川がニヤニヤしながら皮肉を浴びせてきた。

 喜多村先輩達がセクション練習で低音パートに出向く際、毎度のように楽器運びを手伝わされている。そのおかげで自分の顔も名前も、低音パートの面子にはすっかり知れ渡ってしまった。

 

「……音がいつもより響いていたから様子見に来ただけだよ。ガラにもなく気合い入れてるのかと思ったけど、なんで廊下で練習してんの?」

 

 そう尋ねると、中川は決まり悪そうに頭をかきながら答えた。

 

「いや……何と言うか、教室から追い出されちゃって」

「は? 追い出されたって、一体何やらかしたんだ?」

「希美や南中の子達がこの前、低音パートに来たんだけどね。その時、先輩達にやる気出して下さいって発破かけたんだけど……」

 

 傘木の奴、金管の方にまで顔出してるのか……。

 合奏練習やミーティング以外では、高音域を担当する木管のフルート組と金管低音組が関わる事はあまりない。飼殺しにされている現状に、よっぽど憤懣やるかたないとみえる。

 

「で、結果は?」

「馬の耳に念仏」

 

 はあ、と中川と一緒にため息をついた。

 しかし傘木達も無茶をする。一年の身で他のパートの先輩にまでちょっかい出すとは。

 目をつけて下さいと言っているようなものだ。

 

「結局希美達は相手にされなかったんだけど、先輩達も塩対応すぎるから私もちょっとカッてなっちゃた訳よ。つい希美達の事を擁護しちゃってね。それがマズかった~」

「先輩達、本当にひどかったからね。私もつい希美ちゃん達の肩を持っちゃったの」

 

 それまで黙って自分と中川のやりとりを聞いていた長瀬(ながせ)さんが、気まずそうに呟いた。

 ふくよかな体つきをした彼女は、どこか場を和ませるところがある。先輩達の楽器運びのついでに二言三言、言葉を交わした程度でしかないが、いつも感じのいい応対をしてくれた。

 その彼女が眉をひそめるくらいなのだから、現場は相当ひどかったのだろう。

 

「ま、決定的だったのは私の一言だったけどね」

「何て言ったの?」

「先輩達、ホント性格ブスですね。って言ってやったの」

「えええ……」

 

 三年生に含む所があるのは分かるが、一年の身でそんな暴言を吐くのはいかがなものだろう。傘木といい中川といい、どうにも南中出身者は行動がアクティブに過ぎる。動機は聞いているので、気持ちは分からなくもないが……。

 

「それで島流しの刑に処されたと」

 

 言動を省みる気などないのか、どこ吹く風の中川に呆れながら呟いた。

 

「……全く。そういう事は声に出さず心の中で舌を出してればいいんだ」

 

 話に加わる事もなく、チューバを吹いている訳でもなく、黙々と楽譜に書き込みを続けていた後藤が苦りきった顔で口を開いた。

 

「同感だ。ところでさっきから何を書き込んでるんだ?」

「指番号」

 

 ぶっきらぼうな後藤の返事に、耳を疑った。

 

「……何でまた。後藤は中学からチューバやってるんだろ?」

 

 指番号は演奏者の適切な指づかいをさし示すものだが、経験者ならば一々それを確認しながら演奏する必要もなくなる。音符をみれば音がわかるようになるからだ。むしろ、見た目に乱雑になるので演奏の邪魔になりかねない。

 

「これは俺が使うんじゃない。長瀬用に書き記してるんだ。長瀬は初心者だから」

「ああ、そう言う事か」

「後藤君は指番号だけじゃなくて、初心者が演奏で陥りがちなポイントとかも書いてくれてるの。凄く助かってるんだ」

「へえ、どれどれ……」

 

 後藤が書き込みを続ける楽譜を、好奇心で覗き込んだ。

 確かに長瀬さんの言葉通り、譜面のそこかしこに指番号だけでなく注釈がつけられている。

 全て黒一色のペンで書かれた、傍目には味も素っ気もない書き込みだ。

 しかし、演奏の際の邪魔にならないよう要点を絞っているのが、細やかな心遣いを表している。

 

「後藤もなかなか面倒見がいいんだな」

「……経験者としてやるべき事をしてるだけだ。先輩達はあてにならないしな。

よし……出来た。ほら、長瀬」

「ふふ、ありがとう。後藤君にアドバイスしてもらった楽譜、大切にするね」

 

 後藤から手渡された楽譜を、長瀬さんは大切そうに抱え込んではにかんだ。

 ……本当に嬉しそうだな。

 そんな長瀬さんの様子を見て、後藤は顔を赤くしながら呟いた。

 

「……礼はいいから。それよりもちゃんと吹けるようになれよ」

「うん!」

 

 ……なんかいい雰囲気だ。お邪魔虫はそろそろ退散した方がいいかな。

 

「じゃあ練習に戻るから……」

「ちょっと待ってよ」

 

 中川に捕まった。

 

「アンタこの空気の中、私一人でどうしろっていうのよ」

「知るか。こうなったのも半分以上はお前が蒔いた種だろ」

 

 せいぜい恋バナのネタにでもしてろ、と言おうとした時。

 

 

「蔵守」

「うん?」

 

 後藤が、まだ無人の三年三組の教室を……低音パートが練習に使っている教室を振り返りながら、話しかけてきた。

 

「傘木達と同じで、俺も今の部活の状態がいいとは思わない。だけど俺達は一年だ。

今は下手に騒がずに、出来る範囲で頑張るしかない。……俺はそう思う」

 

 後藤も中学時代、上下関係で苦労したのだろうか。

 

「……そうだな。その方がいいだろうな」

 

 傘木達のような強硬手段に打って出る気にはなれないが、三年生に対する不満は確かにある。

 後藤の言うように、彼女達とは別な手段で行動に出る時期に来ているのかもしれなかった。

 

 


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